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桃原正男さんイタリー型水注(ピッチャー)

桃原正男さんイタリー型水注(ピッチャー)

2004年6月2日 久野恵一
製作地:奥原硝子製造所(沖縄県那覇市)

 日本の暮らしは陶磁器が主ですが、西洋はガラス製品の占める割合が多い為、伝統的によいものが生まれてきました。しかし、今はこのようなよいピッチャーにはめぐりあうことができず、それでこの度、日本の吹き硝子で再現しようと試みました。

 恐らく、西洋では昔、皮でつくられていたものを基にしたデザインだったのでしょう。ピッチャーのシンプルな本体と注ぎ口がペリカンの口先に似て、わずかに小さめなハンドルがしっかりと取りつけられているのが特徴です。

 沖縄の再生ガラスで吹きますと、オリジナルなものに比べてやや分厚く、淡く軟らかい質感が生まれます。

 つくるには難易度は高く、卓越した宙吹きの技と手早い手作業の技術があって成立します。

 だからこそ、桃原正男さんならでは出来ない仕事で、予想以上に秀れて美しい水注(ピッチャー)が吹きあがったのです。

沖縄ガラスについて

 

再生の美〜沖縄ガラスの現在〜

 

 沖縄の玄関那覇空港ほど近くに那覇市伝統工芸館があります。この館内には現在生産されている沖縄の陶器、漆器、染織品、ガラスが展示・販売され、実演施設では制作工程も見学を出来ます。ここで沖縄ガラスを制作している奥原硝子製造所の現在の経営者桃原正男氏に沖縄ガラスの歴史と現在の状況についてお話をお伺いしました。

 沖縄のガラスは百年余前から生産され、明治時代頃より前田ガラス工場が病院の投薬瓶や、ランプのほやなどを作っていました。しかし、昭和に入り太平洋戦争の大空襲で前田ガラス工場は全焼。戦後に再開しましたが敢え無く倒産。同工場で修行を積んでいたガラス職人の奥原盛栄氏が独立し、昭和27年に合資会社奥原硝子製造所を創設し、これが現在の奥原硝子製造所となりました。 工場再開当初は戦後の物資不足で原料がなかった為、アメリカ兵が捨てる多量のソーダ瓶に着目し、飲料製造会社に集められた廃瓶を細かく砕き、溶かして成形した再生ガラスの製品を生み出しました。廃瓶にはコーラ瓶やビール瓶といった色つきの瓶があり、「無色透明のガラス製品より、色のついた物のほうが売れるのではないか」と思いついたことが廃瓶再生のきっかけとなったそうです。こうしてコップ、水差しなどの日用雑器の他、アメリカ人客の要望に応じたサラダボールや、ワイングラス、造花などが製作され、土産品としても脚光を浴び、需要が増えました。ところが、売れ行きが向上し生産量が増えると、原料の廃ガラスが不足してしまい、結果、廃ガラスを使うよりも、ガラスの原料を購入して製造したほうが安価に生産できるようになってしまいました。とは言え、ジュースやビールが消費されれば廃瓶が出ます。それらを捨てるのはもったいない。今と昔で異なるのは、必要に迫られて、ではなく、敢えて廃ガラスを原料として用いるということを選択しているという点にあります。

 お話を伺った桃原氏は奥原氏とは遠縁で、昭和30年代の集団就職の際にこの製造所に就職し、昭和40年代には「やきものは壷屋、ガラスは奥原」と言われ、作るものが次から次へと飛ぶように売れた民藝ブームの時代を体験し、今では若手職人を指導し、この道一筋に働き続けていらっしゃいます。工房は熔解窯の熱気に満ちており、高温の厳しい作業環境で、数人の職人が実に機敏に、リズミカルに作業を進めていました。ガラスを吹く、水差しの取手を付ける。一人で、時に二人で、その作業に一番相応しいタイミングで手が動き、足が動く。無駄がなく、迷いがなく、美しい仕事ぶり。抜群のチームワークで進む作業にはまるで舞踊のように一つの流れがありました。

 今日、沖縄ガラスへの評価が定着し、ここで二、三年修行した職人たちもガラス工芸作家として独立して、個々の作品を販売するようになりました。そうした作家達は受けた注文が賄いきれなくなると作りが粗雑になり、多様な需要がある場合には同じものを他に注文して作ることがあるそうです。最近の消費者は、彩り鮮やかで、軽く華奢な製品を求める傾向があり、沖縄ガラス本来のドッシリとした形と再生ガラスの独特な色合いを生かした製品よりも、こうした製品のほうがよく売れています。日本には幾つか有名なガラス製造所がありますが、近年ではどこも似たような製品が増え、生産地ならではの個性が消えつつあります。その原因のひとつには、消費者が求める形を製作すると、どれも似たようなものになってしまう状況があげられます。使われなければものは売れない、売れないならば作らない。そうすると、本来の沖縄ガラスがどんなものであったのかすら知らない消費者も生まれます。これが現状なのだと教えて頂きました。

 このお話を通して、現代社会でリサイクルが叫ばれる中、いち早く美しい再生ガラスを生産した沖縄の知恵と文化に教えられたと同時に、消費者が学んでいけば、様々な大切なものをこれ以上失わずにすむのではないかという希望を持ちました。(2000/7 鳥取民藝美術館学芸員 尾崎麻理子)