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瀬戸の飯茶碗

瀬戸の飯茶碗

2004年8月25日 久野恵一
製作地:瀬戸本業一里塚窯(愛知県瀬戸市)

 骨董趣味の人達が必ずといってよいほど共通して唱える言葉がある。「昔のものは佳いが、今のものは魅力が乏しく欲しいものがない」。

 骨董趣味ばかりでなくとも、秀れて美しく感ずる器物を見出し、出会った時の感激は誰もが心の奥底から素直に悦べるものである。確かに、骨董=古作品の中には、今出来のものと比較して、遥かに佳いものが多い。私自身も、いい古作品を見つけ選ぶことに無常の悦びを感ずる一人である。

 岐阜県高山市は骨董品の集積地みたいな古い街でもある。数十軒もある骨董店を覗くと、何かしら手にとりたくなるものを見つけることになる。

 数年前、ある古民芸店(骨董店)で、一目で昔の瀬戸本業窯出来のものと判る飯茶碗を入手することが出来た。飯茶碗が一般に普及していく時代を考えると、明治中期以降のものだと想像がつく。ごくありふれた飯茶碗とも言えるが、円錐形の小ぶりなもので、素朴で高台が低めに切ってあり、持つと手どりが軽く、とくに女性には使い易いと思われる。見込みは広く平面にとってあり、まるで火口湖を思い浮かべる。均一な厚みでロクロ引きされ、縁づくりは器の内側へわずかに締めてあり、破損しやすい部分をあたり前に強化してある。また、手廻しロクロの回転の変化が器の形の立ち上がりに微妙な歪みを生じさせ、飯碗というより一個の茶碗であるかのような印象を持たざるを得ない。そして使い込まれた味わいも深く、静かながら、存在感が如実に伝わる感激を覚えたのだった。

 昔につくられたものが全てこのような秀れた日常品ばかりであったとはいえないと思う。数物ゆえ、つくり手の職人も厖大な人達がいたであろう。その中の卓越したつくり手によって、日常品を越えた容易ならざる逸品が、知らずして、しかし当たり前につくられていたのだろう。

瀬戸本業一里塚窯 水野雅之の再興した瀬戸飯碗

 

 瀬戸本業窯本来の伝統を守った水野半次郎氏の甥、水野雅之君は昭和35年生まれの40歳。父親が分家した瀬戸本業の一里塚窯の窯元だったことで半次郎氏の下で修行し、父の死後、一里塚窯を受け継いだ。

 私は5年ほど前から彼の制作上の助言はもとより、本業窯伝来の製品作りへの指導にとりくみ、流通に乗れるよう協力してきた。

 高山の骨董品店で入手した昔の飯碗を自分のコレクションとしたままでいれば、いわゆる骨董趣味で終わってしまう。しかし、この飯碗が私達のめざす優品の再興にまさに適ったものと確信して、進んで水野君に提供することにしたのだった。

 まず、彼は一目でそれが優れた器物であること、上手なつくり手によって作られたものであることに感動を表してくれた。

 さっそく、これをそのまま手本にした製作がはじまった。普段、さほど数多くの器づくりに励んでいるようには見えず、やや怠慢な職人の気質を感じさせる彼だったが、血筋なのか陶土の扱い、ロクロ捌きには目を見張るものがある。職人として当たり前に、つくりのポイントを無意識ながら、手が一人手に知っているかのようだった。器の重要な決め手となる縁づくりに対する親指と中指の当て具合を見ていると、彼の腕前がよく訓練されているのか、あるいは門前の小僧の如く目が覚えているのか、とにかく感心してしまうほど当たり前に仕上げてしまうのである。当たり前に決められる腕、これが職人・工人の優れた技のよしあしなのだ。個性重視が根深い現代の工芸では、世間的には有名な工人や、作家として名は馳せていても、この決まり手とは無縁な技術力の持ち主が多いことも、ここでは述べておきたいのである。

 水野君はこの円錐形をした飯碗の最も大事な、そして見所でもある見込みの狭い平面をこともなく指で押さえながらこなし、碗全体を立ち上げていく。そして縁を軽くつまみ、更に布皮で押さえると、古作品に相似したかのような飯碗が出来あがったのだった。

 瀬戸の陶土は焼成すると約15%縮む。一般に各地の陶土と比較して、収縮率は低い。ロクロ引きした形がそのまま縮んで焼きあがので、出来上がりの形は想像しやすい。半月ほどして私の手許に送られてきた飯碗は、思ったとおり、古作品に遜色がない出来映えだった。

 古作品が味わい深く、あたかも一個の作品であるかのように見えるのも、また俗にいう「おもしろさ」を見せているのも、当時のロクロが手廻しであったことによる。ロクロが、その回転の変化によって形を微妙に揺らす。この点に古作品の深さがあるのだろう。更に、使い込まれたことによる味が、より古格をもったものに仕上げる。

 瀬戸の陶土は焼きあがると、純白な胎土にやや朽葉色を呈した透明な釉薬が被って美しい。釉薬も、木灰と地元で産出する長石を主体としたもので、焼成法の変化によっては深い透明感のある緑色も生じる。焼きあがった瀬戸には、技法や紋様、釉の相違による色調の変化などが無かったとしても、静かな美しさ、「無事」であることの良さが表出している。使うほどに貫入が進み、いわゆる茶人趣みの味を醸し出す。そこには、古作品にも劣らないものになる可能性が秘められている。

 瀬戸の飯碗を再現する作業を通じて、私は過去に作られた器であっても今の時代に適用できる用途のものなら積極的に再現していく必要性を確信した。また、かっての暮らしの日用品として大量に作られてきたものは、そうであるからこそ、かつての人々が当たり前に無難に使ってきたものであるということも改めて確信した。更に、今、新たにそのものの良さを訴え、需要を求めて、無事で美しい実用品を普及させていくことが、伝来の良品、伝統の手仕事を継続させることの一端になるはずだ・・・という確信も。

 

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