手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

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学習会・イベント報告

ブラッドベリの会 手仕事逸品の会

ブラッドベリの会 手仕事逸品の会

2006年12月2日

 手仕事逸品展は、今つくられている手仕事の中から私がこれならと推薦できる優れたもの、通常店に並べる製品の中から出来上がりの良いものとかを集めました。
 大ざっぱに話をしていきますが、まず基本的には私どもが集めている手仕事の道具や器の意味を把握していただきたい。「かつての暮らしの中で生まれてきた道具や器達です。」
 こういった小品は民芸運動が盛んになってから成立したものが多いんですね。沖縄にはここに並んでいるような小物類の目にとまる焼き物があるのですが、昔は庶民の生活にはこういう彩りのものはほとんどなかったんです。
 龍門司焼きでも、小鹿田焼きの日常品もこのような小品が作られるのは昭和30年代からだったのです。本来は台所用品と呼ばれる大きなカメ壷類を作っていたわけで、茶の間にあがる雑器はあまりなかったんですよね。
江戸時代元禄くらいから土間の生活から板間になって、日用品としての小さな雑器類が必要とされたんです。それまで日本は普段は木器を使ていた木の文化だったのです。ところが交通が発達してきますと、各地でそういうものを使いたがる、木器に比べて焼き物は耐久性にすぐれ見た目にもきれいなので需要が多くなりますね。
幕末期から明治の始めにかけて、磁器の陶土探しが始まります。その北限が宮城物込や会津本郷です。
鉄道網が発達してきますと、量産磁器がでてきます。特に瀬戸地方では大量にものを作る技術が発達し、日常品が安くつくられるようになります。
尾張から東日本にかけては、磁器は瀬戸物と呼ばれ、九州から西日本では唐津物と呼ばれます。大きな台所用品は陶器が多いですね。磁器で大きなものはつくれないですから
陶器づくりの益子とか久慈、秋田の楢岡焼きとかはせいぜい100年前くらい前に出てきた窯ですね。秋田の楢岡焼きはウワグスリと土灰をキソとして使います。土灰とは、かまどの灰などを入れるので土灰というのですが。使われるものも地域によって違い、地域によって広葉樹林帯、針葉樹林帯、九州ですと照葉樹林帯などがあります。灰の中にはあくがあって、さまざまな成分が違います。それが長石と融合することによって、色の変化がでてきます。米の灰は厚手なので防水性に有効ですね。この白濁した釉薬をかけて火の変化によって、流れたり自然な模様が出てくる美しさがあります。東北方面の窯にその傾向があります。
そういうものに昭和の始めに柳宗悦が、美しさを感じていくわけですね。
 岩手に久慈焼きがありますが、片口などの口が長い。この地は凍てつくところだからなので、注ぎ口は持ちやすくということもあって長いのでしょう。形というのは地域の環境や気候によって影響されてくるのです。楢岡焼きは、鉄分の強い土の上に藁灰をかけると白が青くナマコ色になります。
 日本ではかつて七輪や火鉢の生活をしてきましたね。それには木の灰が出ます。その中には自然と土もはいってしまいます。木灰なんだけど、様々な灰や土がはいってしまうので土灰といいます。
九州の土は鉄分が強い土質なので、焼くと黒味や赤味が出ます。昭和25、6年を過ぎるとプラスチック製品が出てきます。今まで台所用品をつくってきた窯が、民芸運動の盛り上がりとともに、日常品の雑器つくりへ移行していくようになります。またその頃から全国に民芸店が多く創設されてきます。
そんなことで各窯では小さなもの・日用雑器類を作るようになるわけです。コーヒー碗、湯飲茶碗、ピッチャーなど窯元では自らが生活では使ったこともない器でも作るようになっていったわけです。
昔は1年分の漬物を入れる大壺などを作っていたので、暮らしの日用品としてのものなどは参考品がないと作れないのです。今も小鹿田焼きの某窯では有田焼の器でお客様を迎えるんですね、自分たちの窯で作ったものではなくて。つい最近まではどこも一般的にはそういうものだったわけです。作った本人たちは使っていなかったわけです。以前は小鹿田で飯わん、湯飲み茶わんで自分で作ったものを使っていたのは坂本茂木さんだけでした。他の人は自分たちが作ったものを自分の暮らし向きとは思っていなかったわけです。今、東京の民芸館に小鹿田のものが飾ってありますが、決して古いものではないんです。小鹿田では雑器を作り始めたのは昭和30年からだったようです。
私ども日本民藝館と対立して出来た日本民芸協団は、その頃からずいぶん地方の窯を助けて、自らスエヒロの店で使うよう注文しました。その時はまだ普通の人たちが日常の中で使うということはさほどなかったわけです。
ぼくは昭和47年からこの活動に入りました。民芸品は最初は野暮ったいなと感じました。その後製作者のところに泊まったりして、彼らの要求するものがわかってきて、作っている本人は作家じゃないから、何を作って良いかわからなくて困っていたのですね。それで私共が作り手にオーダーする場合、新たな提案の注文もするようになりました。
まず地方の伝統的なものを尊重しなくてはならない、それはその地の土、釉薬が適しているものがあるからです。道具立ても、削りカンナやコテなどの道具も地域で作られたもの、鍛冶屋、竹細工などがその地域でなくてはならないわけです。
みな、身近な生活用品としてです。特に編成品はもともと昔から日常の道具として使われていたわけですね。和紙だって、紙をすく道具がなくてはならない、建具屋さん、大工さん、鍛冶屋、竹細工も必要とされる、木を切ることも必要。ひとつの職業に関して、複合的に様々な手仕事が関わってくるわけです。
ところがこの25年の間に急速に変わってきたのは物流です。それによって手仕事の中身が変わってきてしまった。豊かになればなるほど、物が必要になり、現在の生活レベルに合わせていかなくてはならなくなってきます。
昔と今は道具だてなどから、作り手のメンタルな部分の変化が現れてきます。例えば龍門司焼きは5年前まで1年に8回の窯出しがありました。登り窯には6つの袋があって、それぞれ性質があります。だから作り手はこの場所はどの袋に置くか決めているわけです。それがひとつのリズムになっています。ところが経済に追われてくると、窯のシステムと違いが出てきます。今まではゆったりしたペースできたのが、経済的欲求を満たそうとするとガス窯が必要となることがあります。大量注文に応じるためです。様々な個人的な注文をとったりするとガス窯で簡単に焼くようになるんです。登り窯だと窯を焚くのにつらい思いをする、焼き上がりも不安定、気候にも左右される。そうすると、気持ちが簡単な方へいくわけです。焼き上がりも安定していく方へ、そんな理由で、安易な仕事、労働の選別として日本各地から窯が消えていくわけです。
ところが、小鹿田焼きは別なんです。逆にガス窯にすると燃料代が高くなってしまうわけです。薪にする杉は無料でもらえるし、土も自分たちでとってきます。沖縄の北窯だって土は自ら採ります。だいたいほとんどは安くできるからなんですね。それとは逆にこだわってやるのは作家なんですよ。ぼくら関係の小鹿田や沖縄の窯の人たちは、登り窯にした方が経済的なのです。
小鹿田は文化庁から伝統的な工芸品に指定されたので、補助金が下りるわけです。その補助金で視察旅行したりすると、各地の他の窯で高く売っている陶器を見て、自分たちの作る物をもう少し高く売ろうとか思う場合もあるわけです。
小鹿田でも材料を他から入手して使っている窯もあります。小鹿田の土といいながら、他の陶土を少々混入して使っています。それから小鹿田の白土はもう実は無いんですね。模様づくしの焼きものが多くなったため、化粧土を多く使ってしまい地元の土がなくなってしまったのです。採土する土の層をみると断面図に細い筋状として出てくる白い土のわずかな量を陶土を採る時にとっていたわけです。それが足りなくなって、今は天草陶石と言って、磁器になる土を使っているのです。それに蛙目とか木節粘土を入れて、陶質の収縮に合わせるわけです。
それらの土は瀬戸から入れています。小石原の土質は重いので、高台を小さくとるとへたってしまうので小石原は厚くつくらざるを得ないんです。ところが小鹿田の土は軽いんですよ。小鹿田は逆に厚くつくると落っこてしまう。陶土のきめが細かくて鉄分が非常に強いので、焼くと上から締まってくるんですね。だから小鹿田は薄くつくらなくてはいけないんですね。
小鹿田の大きな壺は、なぜ大きな物ができたかと言うと薄く作って、伸ばすことができたからです。小鹿田は日田の上にあり、当時は沢沿いの道をあがっていかなくてはならない。小石原焼きは台地上で陶土が安易に採取できる条件があり、もともと自分たちが販売していたのですが、小鹿田は商人に売ってました。商人は薄くつくれば軽くて多く運べるので、薄いものを欲しがる、そういう背景も影響したわけです。
小鹿田焼きは長男が継ぐという目に見えない約束事・不文律があります。黒木昌伸君のように、親に一言も継げと言わなくても大学も卒業してからでも、小鹿田焼きでがんばっている若者がいます。参考とする少し前に作られたこの小石原の器を見て「これイイものですね、作ってみたい」と言ったのも彼です。
これは、蛇の目の輪積みといって、同じ容量に重ねて焼いて効率を良く、大量にとれる焼きかたですね。こういう方がゆがみがないですね。1枚で焼く方がゆがみがでます。蛇の目重ねは釉薬をあらかじめはぎ取るわけです。
目跡という白いアルミナの粉をだんごに三箇所おいて重ねるちゃつの方が雰囲気がありますが、今ほとんどが載せてやきます。釉を抜く方法は河井寛次郎が考えたのだと思いますが、あらかじめガソリンで溶かした蝋を、ろくろ台にのせて筆でとります。その上に釉薬をかけると蝋が塗られた部分だけ釉薬をはじきます。
小鹿田焼きはきめが細かいので蝋ぬきしないで目剥ぎをします。土のきめが細かいから棕櫚を束ねた道具で剥ぐことで上にまたのせられるのです。小鹿田の素朴さはこういうずさんさが魅力でもあります。
沖縄も蝋ぬきをしません。蛇の目輪積みで蝋ぬきしていないのは、沖縄と小鹿田だけでしょう。
龍門司はこのごろはサヤに入れて焼いてますね。出西の柚子肌はどうやって作るかというと、薬を窯たく直前にくすりをかけて、サヤに収めた時にすぐ蓋をしてしまいます。釉薬がまだ乾いていないので、焼くと水蒸気が発生します。それが上から落ちてくるので柚子肌になります。それは多分私が考えるに河井寛次郎が教えたのでしょう。会場にあるこのポットは益子の土で釉薬が柚子肌になるようにガス窯の温度調節でやっています。 
今300軒くらい窯元が益子にありますが、個人的なものを作っている窯が多いですね。そういう人たちの中から日常的なもの、暮らしに役立つものを作っていただきたいのですが、なかなか難しい。価格を安くするのには数を多く作らなければならない、それには技術がいるわけです。
本当に良い悪いでなく、世間の評価によって変わっていってしまう、それば美術の世界の話なんですね、それが工芸の世界まできてしまったわけです。
手仕事フォーラムが何を目的をするかというと、作り手への励まし、どんなものを作った方が良いかという相談にのる、価格の話、そういったアドバイスができる、使い手が担い手になることがもっともっと広範に広がって、導き手になる必要があるわけです。
そういう方向で手仕事フォーラムを育てていただきたい。これが、かつて柳宗悦が目指した民芸運動の一環です。各地でこういう逸品の会をしているわけはこのような品々を見せて感じてもらうということです。
これは焼き物だけではなくて、ガラスでもそうです。大事な事は職人を支えていく、道具を作る人にまで波及効果がある、何を訴えていくか、物の善し悪しをわかる目の力を養っていただきたい。

以下質疑応答の中で

今日、ここに置いてある物は推薦したいものなのです。このギャラリーの中で違和感を感じることがなければぼくは成功だと思っています。また批判をしなくてはいけない部分があります。 
この出西の土瓶ですが、この窯では今たったひとりしか土瓶を作れる人がいません。土瓶の形にしてもポイントがあります。大事な部分は注き口が一番大事です。これは平行ですね。あんまり平行はよくないです。注ぐとボタボタたれてしまいます。以前良い仕事をしていても、この頃力が衰えてくるのは、窯の中での立場とか年だとか影響されてしまっているんですよね。
これは益子の木村さんという素晴らしい技術を持っている方で、最初に見た時に型で作ったかと思いました。轆轤づくりの極めつけの人ですね。蓋は削って形を作ったり、別にあとから付けたりしますが、この人は削り出さないで、手で作ってしまうんですね。職人のレベルとして大変な人なわけです。これが本来の職人なのです。こういう技術を持っている人が本当に少なくなってきているわけです。
この仕事は薄作りですが、益子の土は薄く作ると、お茶の成分が入ると割れやすいんですよね。小石原と小鹿田は逆に使い続けると強くなるわけです。もっと厚くても良いのですが彼は言われたものを作るという本当の意味でも職人なわけです
まだまだ日本には焼き物だけでなくて、技術を持っている人たちがいるわけです。その人たちの技術を後世に伝えなくてはいけないと思っているのです。そういう人を見つけるためには良いものを常に見て目を養って欲しい。
いろんな物がごちゃまぜになってくると、好き嫌いになってきますが、いつも良いものを見ていると、いやな物をみた時にすぐ反応できるわけです。
小鹿田でも坂本茂木さんは還元をかけるのはいやがりますね。この器もつまらんもん(良いものではないという表現)だといいます。飛びカンナが急いでかけられたのが見えてきますね。でもこれが面白いですよ。
このグレーっぽい色もいいですね。これは還元と酸化が入り乱れた中性です。色があまりきれいにならないんですね。これみると緋色でしょ。これがガス窯と登り窯の違いです。小鹿田でも見ればすぐわかります。ガスと併用してて、登りのような顔をしていても見ればすぐわかります。
問題は作り手の心意気なんですよ。当然、登り窯を焚くというのは、体力を消耗するし、精神的にもなんとか全製品が無事焚けるようにと寝ずに頑張りながら集中力も必要なんですね。絶えず薪をくべたりする労力もあって、心意気が薪窯の時にはかならず出てきます。器を長く使ったり、長くおつき合いをしているとわかります。
例えばぐいのみは登り窯のあらゆる所、小さいので隙間に入れるので、それぞれ焼き上がりが全然変わってきて、またこれも面白いんですよね。それから灰ぐすりの話ですが、小鹿田焼きのこの茶碗がこんな焼き上がりなのは台風の時焼いていたからなのです。釉薬が全部、火にまかれて消えてしまったのですね。
登り窯の室袋内の耐火」煉瓦がきれいな色になっているのは知っていますね。それは釉薬が揮発するからです。稲の穂を釉薬にするとモミガラ灰・粕釉といって火に強いくすりになりますし、藁灰とか、透明感がないものを失透釉と言って、登り窯ではどういう焼き上がりになるかわからないのです。
物を選ぶということはできるだけ、数と物を見て欲しい。好き嫌いを越して善し悪しを判断して欲しいですね。良いものとは何でしょうか?自分にとって都合の良いものを、良いものといいますね。それは自分の好みなんですよ。だから好みを超えて良いものを見いだせなくてはいけないんです。
これは相川町の裂織ですが、印花布とか比較的に新しい布を使っていますね。気になるのは白の部分です。これだったらもっとざっくばらんにあまり考えずにもっとやっていったらと思っています。ぼくとしてはこれはB入選ですね。ちょっと鼻につきます。これは館展ではA入選です。仕上がりの縁廻りもちょっとまだです。
壁にかかっている丸い円形の籠は戸隠の茶碗籠なんです。上が茶褐色で下のふちの茶色が本体の材料と違いますね。茶わん籠の下は水がたまりますね。そうするとそこは切れやすくなりますね。だから茶褐色のアメ色の部分は煤をかけているわけです。炙って煤にして、炭化させることによって、竹の質を粘り強くして水をはじくことができます。根曲がり竹は炙ることによって、粘性がより増すんですね。
これは富山メイビーさんさんで購入したチュニジアの鉢ですが、これもふちと高台底を銀でまいてますね。日本の焼き物のように高温で焼くわけではなく、低温で焼くので、どうしても800〜900度になります。使っていくと欠けやすいのでこうやって巻いているわけです。これはデザインからきたものではなく、機能上の問題からきたわけです。しかし、それが良いデザインというか形を決めて私共の心を捉えてくれます。
それから民芸のものは何でそんなに重たいの?という人がいますが、それは使うということを考えいるので、もともと欠けやすい底や縁を強化するわけです。これがやはり民芸の実用的工芸品の良いところですね。
民芸運動にとって社会における功績は何だったかというと、日本の各地の作り手に光を当てたということ、籠を担ぐわらじを編む人=底辺の人に光をあてて、そのわらじを作り続けることができた、食べられなかった人を食べられるようにして、その人の生活を保障してさらに文化として残していった。
今まで光が当たらなかった職人に光をあてたこと、ただ逆に職人の光が当たりすぎて、美術の世界のような価値観を工芸の世界でやるような輩が出てきたという弊害もありますが。
あそこに小さなザルがありますね。これはその土地ではバラと呼びます。口の部分は征割り当て縁といいます。十文字を切っているのは薩摩を意識しています。十文字を切った事でこれが使いやすいということではないのですが。尺から2寸刻みで大きくなって4尺まで入れ子になるんですよ。これと箕との習慣の違いがあるので。薩摩は南方文化と内地の影響が混ざりあって面白いですね。今はもう蔓がないので針金だとかビニールで巻くところが多いですが、私はイヤなのでつるで作ってもらっています。
これは私のアイディアで作った買い物カゴです。これは創作ですよ。編み方の底づくりにはいかだ底があったり、菊底があったりいろいろあります。各地方、いろんな材料、真竹、孟宗竹、篠竹などの材料の質で作り方がまた違ってきます。
これは長野県戸隠の根曲がり竹です。信仰の山なので、材料の採取は9月3日から1ヶ月間しか入れません。男性が竹をとって、男性でしか編んでいません。これは岩木山の根曲がり竹で女性が作ったものです。こういうのを志賀高原に行くと山竹と言います。
それからこれは桜の皮を篠竹で編み込んだもので、キワのまとめかたを見ていただいたいのですが、箕を作る技術で作ったものです。肥料振り籠です。これを編む人は大和町の七つ森という所で信仰の山なんです。そこで箕を作っている人達がいて、鈴木里子さんという女性が作って、ご主人が巻いていたのですが、ご主人が脳梗塞で倒れてやめられてしまいました。そうしたら近所にリタイアした人で上手な人がいて、それで両方がやれるからということでこの度お願いしてできてきました。佐藤さんという人で、まだ70代そこそこで、竹の作り手では若い人ですね。
これはマタタビで作った白山麓のソウケというもので、これは米沢のマタタビで作ったものです。日本のカゴはもともとマタタビで作っていたのではないかと最近はわかってきました。
遺跡などの研究資料をみると、日本の暮らしにとってはまず生活用具が基本となるようです。それには生活する領域の近辺・身近に自生する植物・樹木を素材として、用具を工夫して創りだします。竹や蔓などですが、どれも始まりはマタタビだと考えられてきました。今はマタタビで細工するのは限られています。次回は素材から生まれる用具。道具から工芸品としての道へたどる話をする予定として今回は終わりたいと思います。