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学習会・イベント報告

土曜の夕べ・月例学習会「沖縄の陶器について」

土曜の夕べ・月例学習会「沖縄の陶器について」

2007年3月24日
語り手:久野恵一

 2月の手仕事フォーラムの「沖縄の旅」を終了して、反省会と勉強会を兼ねて沖縄の陶器について、今回はもやい工藝の展示品や私蔵の古作などを参考にしながら話していきたい。

〈金城次郎さんの湯のみ茶碗から〉

 この世界に入った当時、沖縄の焼き物についてまだ知らないといってよかった。昭和49年(1974年)春、小代焼(熊本)の福田豊水さんのお宅に泊まったときに出された湯のみ茶碗を見て、とてもいいものだなーっと思った。それは金城次郎さんが作ったものだった。民藝の世界で金城次郎さんのことを知らない人はいない。「これが金城次郎さんのものですか?」と尋ねたら、「その程度ですか」と言われた。初めて金城次郎さんのモノを手に取って、とても感動したのだ。そしてこの湯のみひとつからいろんな疑問が生じてきた。
 まず作り方でびっくりしたのは、高台が竹の節になっているところで、これが当時の一つの流行、民藝の陶器のスタイルだったのだと教えてもらう。金城次郎さんも釉が掛けやすいから竹の節高台にしたのではないだろうかとも聞かされたが、沖縄のものがこうなっている訳ではなく、これは多分元々は河井寛次郎独特の方法で、それが各地の作り手達に広まったのだろう。使う場合でもこの形はとても持ちやすいので、今ではどこの窯場にいってもこの形が多く作られている。
 彼の湯のみ茶碗は削り方が面白くて、成形して乾いた湯のみに釉薬をズブ掛けしてから釉ごと高台を削っている。湯のみを指でつかんで、胎土の上に白い土を化粧掛けするので、持ったときの指の跡が付いている。また、湯のみのふち・口まわりは、胎土の上に白い土をきれいにかけても互いの土の収縮率が違うので、焼き上がると鉄分が強い土は鉄が抜けて縮まるが、白い土は鉄分が少ないから残ってしまい、土と土の間に隙間ができてしまう。使ってくうちにはボロボロと剥がれやすいので、はじめからふちの口を切っといて、地肌に潟(ガタ)釉(泥状の土で釉薬に近い性質をもった土)をかけて剥離を防ぐ。この口の部分に鉄の輪をかけることを口輪(クチワ)/口紅(クチベニ)といい、これは河井寛次郎の影響からだと思う。
 湯のみ茶碗が一般家庭で使われるようになったのは、昭和に入って庶民の生活が土間・板の間から畳の上にあがり、卓袱台に移り変わった頃からで、それまでは湯のみはなく蕎猪口などで代用していた。湯のみ茶碗の形を確立したのは濱田庄司で、様々な形、あらゆる万能な形を創り出した。濱田庄司は轆轤で引けるものは全てと言っていいくらい作ったと言われる。だからこそ河井寛次郎は轆轤引きより型で作ることがクリエイティブだといって型にこだわって作った。

〈焼き物の始まり〉

 現代の磁器製飯茶碗は概ね型で成形するので、簡潔で味気のない形になる。磁器の仕事も元々は轆轤で作られていたが、むしろ型で作った方がキチッとした形で量産化がはかれるので、型で作られるようになったようだ。轆轤だと歪んで分厚くなってしまう場合がある。江戸時代から型のものは多く見られるようになり、明治大正に入ると京風が流行って、薄く軽い、薄造りがもてはやされ、有田焼などの形の影響を受けたような形となり、多くの工場で一般的に作るようになった。しかし沖縄は違い、ふっくらとした形を作った。沖縄の茶碗の原型は、タイのスコタイの窯場の形、スキっとした形をしている。これがだんだんこなれていくと中国南方系染付という、東南アジア一帯のご飯茶碗としてものすごく多様化され、これが基本の形になってベトナムでもどこでも作られるようになる。この形が沖縄の古い焼き物のマカイの原型で、最初に入ってきたのを真似するようになり、17世紀初めから中頃に沖縄で生産が始まった。作っているうちに優れた陶工たちの何人かが、おそらく強制的に薩摩に勉強に行かされ流儀を学ばせられた。そして沖縄に持ち帰ってきて作風を発展させた。
 しかし沖縄では鉄が採れないため鉄の文化がなく、道具を作り難かった。全く無いわけではないが、一般的には行き渡らなかったようだ。木製品も同様で、鉄器が発達しないことで木工の道具を作れないので発展しなかった。しかしこの道具立ての少なさが工夫の積み重ねとなり、結果それを利用している風にも見えてくる。そこが沖縄の面白さになった。
 その典型に土瓶がある。上流の人達用の茶器などに使うのでもち手には真鍮の金具を用いる。これはチューカーという。また更に沖縄らしさのものに、按瓶(アンビン)と呼ばれるものがある。按という字から按司という役職についていた身分の高い人達が、集まりなどで茶や水を入れるための器で、酒をふるまうときにも使われるものである。日本各地で土瓶の耳の作り方にその地方の独自性が見られ、通常なら蔓を通すところ、沖縄では深い森林地帯がなく蔓が採れないので陶土で作った。しかしそれだと焼き上がった時に収縮率の違いで持ち手が取れやすいから、釉薬を掛けた後もう一回付け根に釉薬を掛ける。沖縄の陶器の本体はとりつけた注器のものは割れやすさを防ぐため必ず付け根に釉薬を流す。
 大事なのは土瓶は注ぎ口の細さ・薄さで、薄めだと注ぎやすい。本体の注ぎ口を左に見て、持ち手が平行ではなく右がちょっと上に上がっていると使いやすい。もう一つ大事なのは沖縄の土瓶の足があまり尖ってないところ。これは、沖縄は水、湿気が強いから土間より板の間の生活が多いのでそうなった。薩摩の土瓶と比べると、薩摩は土間の生活が多かったので足がとがっている。

〈付け高台〉

 対瓶(ツイビン)と呼ばれる信仰上霊前に供える徳利型花瓶に袴のようなものが付いているのを、付け高台という。二つ別に作ったのを後で付けて中を穿って作られる。高台が無い状態で見ると、徳利にもなるし榊徳利にもなる。沖縄は祖霊信仰だから、墓に供える際、強い風に倒されないように高台が大きく広がった。 
 私がこの仕事に入って間もないころ、九州のある家に入ると、4つ、5つと仏壇があって線香の煙が立ちこめていた。なぜかというとその当時(1960〜70年後半)、業者達に沖縄の古い亀甲墓の裏にある捨て場(暗い洞穴)に、このような初期伊万里の瓶が散らばっていたのを集めに行かせていた。17世紀初頭まで沖縄には製陶技術が進んでいないからで、沖縄で技術が進んでくると、台風などで倒れるのを防ぐために高台が大きくなっていき、伊万里のおみき徳利の形をそのまま取り入れているのだろう。沖縄の絵柄は多分、伊万里の磁器の染付絵模様を模倣して描かれている。友禅の絵型を取り入れて紅型を作っているのと同じで、たとえば梅文様のものあるが沖縄には梅は無い。絵付けに中国とは違い日本的な柔らかさがある。

〈今と昔〉

 次郎さんは創造性と野人的なものとを持っていて面白い。次郎さんを起点にして沖縄を見ると沖縄の現在はつまらないということになってしまうが、次郎さんが特異な人で、濱田という人に見いだされたこともあってこれだけ有名になったのである。次郎さん自身はそんなことは思っていなかったと思うけれど、結果として次郎さんは沖縄の民藝をかなり広めてくれた。
 今の作り手の話になっていくが、北窯を含めて沖縄の窯の作り手達はみんな次郎さん的なものを追求して行っている。魅力があるからこそ作りたいと思っているのはよく分かるが、しかし今の時代では土などの材料も制約されているから難しい。次郎さんのものを見てみると、同じ白でも何となく深みがある。科学分析すれば成分はほぼ同じかもしれないけど、目で見るとそれとは違う。自分をどうにか表現しようと思うと、肩に力が入ってしまって駄目になってしまう。作り手というものはそういうもので、日本全国の多くの陶工、作家達はそうなっていると思う。その点、ここで紹介してきた照屋佳信さんは肩に力が入っていない。また知花さんは琉球の古典的なものを目指そうとしているのが珍しいし、それこそ個性的であるといえる。
 沖縄の陶器には上焼(ジョウヤチ)、荒焼(アラヤチー)とがあり、上焼は当初一部の階層の人達が使っていて、荒焼は庶民の使うものであった。白いものは身分が高い人たちが使っていたが、明治以降になるとだんだん融合していった。
 シーサーは権力者など身分の高い人たちの内桂などに魔よけとして鎮座していた。その当時までは庶民の家は殆ど葺きの屋根だった。ペリーが日本の情報を探るために沖縄に来た時驚いたのは、海から沖縄を見たらりっぱな城(墓)がたくさんあり、葺き屋根が沢山あったことだったという。その当時沖縄の民衆の生活はその程度だった。明治の中頃から琉球石灰岩を使った瓦屋根が庶民にも使われるようになり、庶民もシーサーを屋根にそえるようになった。沖縄の屋根葺き職人の手によるものだからこそ、信仰心から生じた魔物よけを作っていたから良かった。今はシーサーを作ることが目的になってしまっているから面白くなくなってしまった。昔の人にかなわないというのではなく生活環境が違うからしょうがない。