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学習会・イベント報告

土曜の夕べ・月例学習会「木漆工、お椀の話」

土曜の夕べ・月例学習会「木漆工、お椀の話」

2007年4月28日
語り手:久野恵一

〈学習会の趣旨〉

 手仕事フォーラムの集まりでは今まで、改まった勉強会のようなものはしていなかった。最近各地で私たちの活動が知られてきていることを感じ、この機会に多くのみなさんに具体的な私共の活動を知らせていきたいということで始めます。ものの根本的な選び方、経緯などを知ってもらいたいのと、追々私たちが選ぶ実物を見ながら、また現場の現状にも興味をもってもらいたいという希望からです。
 先日石川県輪島で地震の被害が大きかったが、みなさんご承知の通り輪島は漆の産地ということで知られているので、今日は木漆工、お椀の話などをしていきたいと思う。つい一週間ほど前、信州の上田から飛騨の高山へ友人と旅行に行き、訪れた古道具屋などで木工品に出会うことが多くあったので、その時私が買ったものをここで見せながら話をしていきたいと思う。

〈木製品の始まり〉

 このお椀は、形が丸いまりのような形をしていることから、まり椀と言います。
 木工製品のことを最初から話していくと、かつて一般的に日本人の食生活にとってお椀というのは必要な日用品になっていた。ご飯はもとより、汁物の器として使われる。現在我々は飯椀として焼き物を主に使うが、昔は日本国中で当たり前のように、木器を中心に使われていた。焼き物が主に使われるようになったのは明治以降、とくに昭和に入ってからで、それはなぜかというと流通経路、交通が発達したから。焼き物は限られたところでしか作られないので、これを使うとなると運搬手段の発達が必要となる。九州で作られたものを唐津物というし、瀬戸から入ってきたものを瀬戸物といった。

 古くは平安時代から、ろくろ挽き専門の木地師という人達がいた。山の中で生活しながら定住せず、食料を得る為に木工品を作りその土地に住む人達と食料や生活必需品などを物々交換して生活してきた。俗に言う山の民の一群でもある。この人達を木地屋という。木製品はのこぎりなどの鋭利な刃物を用いるため、扱う技術がなければ作れない。ろくろを挽く人達は鉄を扱う特殊な技術を持っている。はじまりは平安時代800年代後半、惟喬親王(これたかしんのう)という皇位継承で破れた皇子が近江の国の山奥で木地屋を育てたことからであった。この人は天皇を継ぐ人だったのに、藤原氏の力で隠棲させられた。天皇家に由縁の人物が鉄のことを教えられる訳は無く、技術を持った人を連れて行ったのだろう。これは歴史には出てこない事だけれども、反乱を企てるために鉄、刀の技術を持った人達を連れていったが、結果反乱は不能であったがためその人達を食べさせる為にそうなった。当時としても資源である木を伐採するため、どこで切ってもいいというわけにはいかないので、本来天皇家を継ぐような力を持った人だったから、全国どこでも歩けるように彼のお墨付きの札を持たせ全国に行かせた。

〈漆が塗られている理由〉

 元々木器には漆を塗っていたわけではなく、何も塗らずそのまま使っていた。 当然木器をつくる人達の専業集団が出来ていたから、その中でも木工品をつくる人達がいて近世にかけて産地化していくケースもあった。その中で輪島というのが出てくる。歴史的には京都との関係は当然ではある。輪島の郊外の柳田村に合鹿(ごうろく)というところがある。この地帯は米が主だが、農民達は食べられず領主に供出する。浄土真宗と関係があるが、一年に数度の「御講」の時は、領主から農民が腹一杯米を食べて良いという許可が出る。その時腹一杯食べるために大きいお椀を作った。この形のものを地名に由来して合鹿椀(ごうろくわん)という。
 日本は湿気が強いから、使っているうちにカビが生えたり、腐蝕したりで木が痛んでくるが、欅は強く、割れ難いので椀木地に用いられるようだ。水により強いのは栗だが、栗の木は歪みやすいので、欅が一番良いとされる。その欅でさえも、長く使っていくと腐食したりするので漆を塗るようになった。最近の習慣ではなく、漆は中国から入ってきたものだが近世まで神仏系、上流階層の美術的工芸品に塗られていた。一般庶民には無縁であったようだが、江戸時代には一般的になっていく。木地師が漆を塗るため、粗く塗るので使っていくうちには剥げてくる。そのため塗り直し、それが使えば使うほど繰り返しのうちに漆が厚くなっていく。漆をラフに荒っぽく使っているので、しかしそれが味になって今では骨董品としての価値が高く珍重される。むろん、その堂々とした形、用の美あってこそである。
 合鹿椀は高台が高く広く、しっかりしていて持ちやすい。また最初からいい形をつくるというのではなくて、用途、機能性を追求していくうちに良い形になっていく。自意識ではなくて、使うということを中心としていくので、木の性質を前提とし、使う為のものであるから黙っていてもいい形になっていく。しかし今の木工漆芸家はこういうのを参考にしたり真似て作っている。昔のものは使い手からの要求で作られているので、逃げ場が無い。すっきりとしたいい形になっている。ここから発生して様々な形が作られていくようになる。

〈各地のお椀〉

 これはアイヌ椀と呼ばれるものである。アイヌの人達が作ったのではなく、岩手の浄法寺などの漆器の産地に商人が注文し作らせ、アイヌの人達に持って行って、毛皮や特産物などと物々交換していた。これは特殊なもので北方文化を表すような椀でもある。輪島の合鹿だけでなく、北陸や飛騨地方の山奥にも大振りのお椀が沢山見られる。浄土真宗の「御講」の影響があるからだろう。だからこの地方の各地で木地師の仕事が発達する。

 漆の中に墨を混ぜて簡単に塗ったお椀である。入っているマークは恐らくその道場の印かあるいは、持ち主の屋号であろう。浄土真宗系の道場と呼ばれる地域の小さなお寺でお椀をお櫃に入れといて、集まりのときに出して使ったのだという。

〈奥田達朗さんのお椀〉

 先日信州上田の骨董屋さんにいった時に購入したもので、麻の布が口の縁と高台の縁に巻いてある。値段が高いのに、使ううちに剥げてはいけないので、欠けやすい部分に布をかぶせるので布着せという、近代に入ってからの技法であろう。絵が描いてなくてシンプルだが、塗師が木地屋さんに相当細かく注意させて作ったものだということが解る。作品でもなく、それなのに細心な仕事をする人は只一人、奥田達朗さんという人が作ったものだ。伝説上の素晴らしい塗師で、とてもいい仕事をしていた職人だった。作家にはならず、一生工人として生きていくとした人生を送った人だった。残念ながら亡くなった方だが、3、40年前には民藝館展で名を連ねていたほどの人である。 

 しかし私たちから見ると一つ難点がある。高台の形だ。水が溜まると汚くなるから、高台裏の内側が円みを持たせて流れるように作られているが、そうすると高台の縁が薄くなってしまい、欠け易くなってしまう。木工品をつくるには板目どりと征目どりがあり、征目は年輪が見える木どりをいう。バームクーヘンを切るみたいに切って、それを横に切って、大きさに応じて成形されていく。木は縦が強く、横が弱い。木というのは素性に沿って強さがある。お椀もそうで、縦の征目に取らないといけない。問題は縦に取ったはいいけど、そこが薄いと割れやすい。だけれども用途を考えると水切りをしないといけない。だから今度お椀を選ぶ時には、高台裏を見てもらうといいい。やはり見た感じの安定感が欲しい。

〈生塗を透明に塗る拭漆という手法と赤朱黒漆〉

 漆が重ね塗られ木目が見えているのを目弾(めはじき)という。塗り潰した方が、どちらかというと逃げ場がある。用材が何の木か解らないからで、目弾だと何の木かすぐ解る。お椀は欅の椀がいい。丈夫なのが栗だが、乾いたときに形が狂ってしまうので扱いにくいゆえ、建築の柱などは非常に難しい。東北の地方の民家など土台に栗を使っているのは、寒さ、水に強いからで、それが栗のいいところである。乾燥すると欅が最上なのは固くて丈夫という点だが、しかし固いということは刃物を寄せ付けないので、昔のような時代では刃物の技術、鉄の技術をきちんと持っている人でなければ扱えないということである。

〈温泉と手仕事〉

 東北地方に「こけし」の産地が沢山ある。今から20年位前までは玩具としてプレミアが付くほどブームがあった。絵付けの顔の可愛さ、面白さ、柔らかいとか系統が様々にあって、それがだいたい温泉地にある。
 ずっと以前玩具関係の「こけし」旅行に同行したことがある。3日間温泉に泊まるという内容で、泊まった温泉場に「こけし」があった。鳴子という温泉場に行ったとき、こういう事だと思った。
 これは推論になるが、農業が近代化される前、温泉地は農繁期が終わった後、農民などの湯治として利用されていた。そして山で生活していた木地師達が温泉地に行き、椀などの日用品を売りに出かけた時、偶然に子供の玩具として作った「こけし」が目に付いてやがてもてはやされたのではないだろうか。江戸時代とはいえど口承が早く伝播していったので、それが伝わって湯治場に行けば自分達の作った木製品が売れるし、「こけし」を作ればおみやげとして売れるのでしだいに定着していったのではないだろうか。
 西日本にいくと竹細工が盛んで、その地域の人達が狭い温泉場でも2、3人で作っている。産地化されていくのは別府からで、平安時代から温泉が豊富で湯治に来る人たちが多かった。とくに瀬戸内から山陽側の人達が別府にいく。おみやげ代わりとして日用農具として竹製品を買って帰る。その当時の農具の大半は竹細工で作られていた。九州の産地化された竹細工は多くは温泉地にある。九州と同じ事が東北にもあり、そこからみやげとしての玩具「こけし」が各地で定着して作られていったのではないだろうか。
 なぜそのような推論のような事を言い出したかというと、四国、岡山、広島、山口の海沿いは手仕事の日用道具が見かけられない。本当だったらその地域の手仕事があって当たり前なのだが、瀬戸内海の方を見ても地産の農具は殆どない。焼き物はあっても、民具、農具としての竹、草、蔓製品が全く見かけられない。流通で買ったとばっかり思っていたが、しかしどうもそればかりでなく、中には別府に行ったときに買っていたケースも多かったようだ。元々、生産関係の人達が道具を買うときには農閑期に集まるそういう所、「市」などを利用していた。元来「市」というのは農具を売っていて、春先など種植えなど農作業の準備をする頃開かれていた。産地化、個人化されていくということは後になってからであろう。
 木漆工品の話に戻すと、秋田県には川連(かわづら)があり、ここも温泉地が近い。あと鳴子も漆器の産地だったりと、殆ど漆器の産地は温泉場に近い。「こけし」の生産地もまさにそこにあり、同じことが言える。「こけし」の顔によって場所系統が変わっていき、独特のものができていくのはそこに理由が有るのではないだろうか。しかし中には会津のように桃山期に近江の木地師達を連れて移封された蒲生氏郷(がもううじさと)によって産地化された地もある。

〈ものの見方〉

 私たちがものを選ぶ時に値段もあるが、まず形に惹かれる。その造形物を視ながら、時としてなんでこの形になったのか疑問が残るものもある。例えば焼き物の形でつくられた木製のお椀があるが、作った人は焼き物のご飯茶碗の形を置き換えて作ったのだろうと考えられる。元々木椀の形は汁碗の形として骨格が作られていたからだ。 一般に椀が売られている中にはプラスチックやポリウレタンに漆が塗られているものもある。JAS規格ではどんな木地にでも1回漆を掛ければ漆製品ということになってしまう。木椀に堅牢な漆をかけると価格が高くなってしまうからであるが、美しさ、よさを知ったからには健全な本物志向を目指そうではないか。 いいものを見分けるにはしょっちゅういろんなものを見て目を養わないといけない。見る目を養うと、もっともっと面白くなり、さらによいものを選べるようになっていく。眼識力を磨いて、人からの風評でなく自分の目を磨くことが大事になる。

〈漆器の現状〉

 木器と漆器の話をしているが、元々私達は漆の塗られてない木器の日用品を使っていた。今の漆器は絵や模様が描かれているものが多い。よく考えてみると、こういうものは生活レベルの高い人達、為政者や位の高い人達が使っている物だった。あるところから一般民衆も木器の上に漆を塗る事が当たり前になってきた。それと同時に塗師屋が塗ったものが高く売られるようになるが、木器を作る木地屋は相変わらず下積み生活だった。輪島だと蒔絵、彫ったものは沈金というが、庶民が京都の文化、雅なものを使うことが明治以降一般的になって、いつのまにか一般の使う人達の使うものも華美になっていく。人間国宝は塗師ばかりで、下地の木器も塗師がつくっているように錯覚されているが、寸法、スケッチを木地師に注文して納められた木地に漆を塗り、それに精巧な絵を描いて値段を付ける。販売している店に行くと、その作家名はほとんど塗師で、木地を作る人達の名前はまず出てこない。お椀は高いものだと思われたのは、工芸が美術と結びついたところにある。結び付いた結果、漆器の世界が先に進んでいって、作った人の名前が全面に出てしまい、作家のものになってしまった。最近では下木地を作っている人達も塗りを勉強して、一貫して自分でやるという人達も出てきた。そうしないといつまでたっても恵まれないままになってしまう。できれば私たちは漆工品をもっとざっくばらんに、お椀などの日用木工製品を昔のように当たり前に使えるように戻したい。

〈漆器のこれから〉

 漆を塗る人と木地を作る人と二通りいる。現在いろんな工芸のものがあるが、漆器における工芸は異常な世界で、値段が高く作家が多すぎる。華飾すぎる、ということは使うというより、飾るということになってしまう。せいぜい上客が来たときに使うくらいしかない。私達としては出来るだけ簡素な漆程度で、みんなが普段に使える木製品というのを心がけていきたい。漆の堅牢度を競うようになってきてしまって、それによって特別のもののように思うが、漆を塗っている職人に聞いてみたが、本人も何回塗ったか解らないこともあると聞く。雅的な美術工芸的なものもあってもよいとは思うが、しかし一般的に私たちの生活から離れていって、日用品の漆器が中国製などの何百円のものが沢山入ってくるようになり、国内の堅実な仕事をしている人達が厳しい状況になってしまった。これでは日本の各生産地から木地師が消えていく危機であると言えよう。
 つい最近までこの近くでも小田原にもいい木地屋さんが多くいたけれども、いま果たしてどれほどの木地屋がいるか調べていないので解らない。中国産の木漆工品が入ってきたことによってその当時でも今後は危ないという話だった。日本で作ると5、6千円、中国だと一桁の何百円。そのことによって漆製品が売れず廃れてしまう。
 ここ4、5年の間に手仕事フォーラムでアプローチした人に、富山県庄川の渡辺木工がいる。彼は木地づくりのみでなく漆を塗っていかないと将来食べていけないので、自身で勉強し、漆を手がけてきたことで今も仕事が継続できている。その当時、その地域で仕事をしていた木地屋さんは3、40件だが、今はもう5、6件しかなくなっている。そういう木地屋さんは輪島塗、山中塗りの下請けをやってきて、輪島塗が売れなくなってくると当然しわ寄せがやってくる。いい技術を持った人がきっとその中にもいたと思うが、こういう技術が絶えてしまったら、何のためにこうやって続いてきたのか解らなくなってしまう。もう一度考え直して、何らかの手だて、切り口を考えていきたい。私たちにやれることは、華飾にこだわらず、白木に簡素な塗りでもいいという提案をしていく考えも手段ではないだろうか。

〈愛着を持つ〉

 例えば、ここ「もやい工藝店」で毎日使っているお盆は、お茶の茶渋のタンニンなど吸いこみ、使い込みながらよく磨いていることもあっていい色になっている。各地の骨董屋さんにいくと、たまにいい飴色をしたお盆を見かけることがある。最初は下手物だと思っていたが、ある時、山村の知人宅におじゃました時、いい色をして使い込んだお盆がたくさんある。どうしてこんなものがあるのかと聞くと、今から50年前に木地師が来て物々交換で作ってもらった。使い込むうちに漆を塗っていないのにとてもいい飴色になっている。やや生木で作っていたので狂っているからと思うけれど、私はそれを見て、愛着を持って使っていれば、いいものになるのではと思った。木工品というのは値段が高くて使えないものじゃなくて、安心して当たり前に使えるものと推奨していきたい。安心して普段に使えるのにはそれなりの理由がある。  また、この盆のよさであるが、使うときに人はどこを触るかというと、盆の縁の指のあたるところで、面がとられてきれいにちゃんと作られている。この時代サンドペーパはなく、きっと麻の布などできれいに丁寧にやすられている。形だけ見るのではなく、当たるところがどうやって作られているかを見ると、その作った職人さんのものに対する気持ちが解る。ものっていうのは、作り手自身がそういう心持ちでやっていることが大事。ところが今はそういう作り手がいなくなってきている。なぜかというと時間に追われてしまうから。しかしそういう中でもまだ昔ながらの職人さんでいい仕事をしている人がいる。そういう人の仕事を見分けていくということをこの先やっていくといいと思う。

(聞き取り:手仕事フォーラム会員 後藤薫)