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学習会・イベント報告

土曜の夕べ・月例学習会「東北の手仕事ー馬飾りの筒描」

土曜の夕べ・月例学習会「東北の手仕事ー馬飾りの筒描」

2008年8月2日
語り手:大橋正芳

〈馬飾り〉

東北は馬の産地であり、馬を大事にします。「チャグチャグウマッコ」という馬のお祭りのときには、これ以上飾ることはできないんじゃないかというくらい馬を飾りたてます。それは馬にとってはかえって迷惑なんじゃないかと思うくらい極端なものですが(笑)、それ以外のお祭りや、明治過ぎても花嫁が馬に乗ってやってきましたから、そういうときの馬にも特別な飾りをしていました。
布はおもに筒描という方法で模様が染められ、馬飾りは特別な形をしています。文様がさかさまになっていたりするので、ずっと不思議に思っていたんですが、取材をしてどのように使うかがわかり、ようやく納得できました。
一ノ関から大湊線で東へ1時間ほど行ったところ、気仙沼との中間に「千厩(せんまや)」というところがあります。千の馬屋があったという意味をもつ地名らしく、義経の「鵯越(ひよどりごえ)の逆さ落し」の馬はここの産だったという伝説があるくらい有名な馬の産地です。ここに、昔は自分でも馬を引いていたという老人がいて、その人が自分で集めた馬の資料を見せてもらい、話を聞いて、はじめてどのように馬に着せるのかがわかりました。

〈千厩の馬飾り〉

千厩の資料館にあった婚礼用の馬飾り復元展示を見てみます。
自分の馬だとわかるための目印にしたり、あるいは馬を守るために「腹掛け」をしていました。
「腹掛け」の一種で、婚礼など特別のときのものを「結い上げ」と呼んでいます。折り目がお腹の真ん中を通って、上へ巻きあげたものを背中で結びつけ、結び付けてもまだ余裕のある部分をたらして、紋が見えるようにしています。
そしてもう一本「首よろい」という長いものを、結び目をつくって首から両側にさげています。首よろいにと結い上げを並べると「下川辺」という、たぶん屋号が読めるようになっています。
馬の腰の部分に「尻がい」をかけました。後ろからも家紋が見えて、どこの馬かがわかるようになっています。北の方のものなので、腰を冷やさないようにという役目もあり、また馬は痩せてくると腰の骨が出てくるので、それを隠すという意味で、「痩せ隠し」とも呼ばれているそうです。

〈信州の「中馬」〉

このイラストは「中馬」の馬の装束です。信州の博物館の学芸員が描いたものですが、かわいいでしょ。信州は馬の交通が発達したところで、運送業としての「中馬」は、こういう形で荷物を積んでいました。「腹掛け」や「尻がい」をしていますし、麻の紐で編んだ網の下に繭玉のようなものがいっぱいさがっていますが、これは「虻よけ」です。「腹掛け」も場合によっては「虻よけ」の役目をします。小さい布は鞍にぶらさげる「泥避け」で、人の足の泥をよけるものです。馬はちゃんと草鞋(わらじ)を履いていますし、口には籠をつけられて道草を喰わないようにしています。

*久野さん
「中馬」の説明をしておきます。
江戸時代、参勤交代で街道が整備されると、歩く人と同時に荷物の流通も必要になる。馬を江戸から京都まで持っていくわけにはいかないので、宿場宿場に中継点をおいて、そこから次の馬に乗り換えていった。それを「中馬」という。追分(おいわけ)というのは馬の中継点のこと。現在の時代劇に出てくる馬は西洋の馬で、昔の日本の馬は足が短く、もっと小さくてロバに近い。さきほどの馬の装束も西洋の馬だったらさまにならない。また馬は垂れ流しなので、街道はものすごく汚れて、日本は臭いところだった。そのため虫は飛んでくるし、虻に刺されると馬が暴れるので、「虻よけ」も必要であった。

〈筒描〉

このような馬飾りは、島根県の「孫ごしらえ」という筒描の染物と同じように特別注文ですから、その都度その都度、地元の職人が臨機応変に筒で描いて、それぞれの屋号や家紋を入れていた。筒描は職人が布に直接模様を描きますので、線の引き方や唐草の文様の構成も含めて、すべて職人の頭の中に入っています。和紙を柿渋でかためた「筒皮(つつがわ)」に糊をつめて上をふさぎ、先に真鍮(しんちゅう)でできた口金をつけ、竹の伸子(しんし)で布を張って、そこにいっきに描くわけですから、描き手の技量がそのまま出ます。
造形的には「線の勢い」が問題になりますが、もう一つ大切なのは「間のとり方」。空間のとり方がうまい人のものはきれいです。例えば、小石原フォーラムのポスターの原画をつくった小田中さんは、空間の取り方が非常にうまい。だからどんなものでものびのびときれいに見える。線の巧拙に目がいきがちですが、間というものも造形の大きな要素だと思います。
山ほどある馬飾りの中で選ばれて残るものは、やはり造形力をそなえた作り手による、好みを超えたいいものである、ということでしょう。
例えば、「鯉の滝登り」の文様が入ったこの飾りは、明治の頃のものです。明治になると人工的な色が増えてきてだんだんいやらしくなってきますが、これは全体的に天然に近い顔料を使っていて落ち着いたものになっています。線もたどたどしいところはあるけど悪くはないし、いい作り手のものだと思います。ただたっぷりとした余裕が感じられません。
こちらは尻にかけるものですが、麻でできていて、藍の色からおそらく江戸時代のもの。唐草の線などもいい感じがしています。筒描というものは、型染め以上に職人の技やセンスが直接あらわれます。これはかなりいいものだと思いますが、柳宗悦がいう「民藝」の美しさや造形力をそなえたものかどうかはわからない。ただ芹沢C介が選んだ筒描のものなどと比べると、やはりその差は歴然としています。

〈筒描の婚礼夜具〉

東北からは離れますが、筒描では、夜具の中に特別なものがあります。これは婚礼のときに特別につくるもので、ここに3枚ありますが、全部「茶道具」がモチーフになっています。どうして婚礼に茶道具の文様なのか、その謎は解けてないのですが。
(ここで3枚の筒描の夜具を見て、いいと思うものを投票。線ののびやかさや間合いの取り方などの視点を学ぶ)
ここでちょっと2枚の絵を見てください。どちらも藤田嗣治の描いた絵です。メキシコ風のアトリエと和風のアトリエで、どちらの絵の中にも、今見せたものと同じような茶道具の文様の布団皮がかかっています。メキシコ風アトリエをつくったのは1934年。メキシコやアメリカを回って帰朝した後、新宿の淀橋区のお姉さんの家に居候しているときに建てた。1936年か37年には麹町に和風のアトリエを建てています。引っ越すたびに持って行って飾っているんですから、よほどこの布が気に入ったんでしょう。

〈同時代を生きた藤田嗣治と柳宗悦〉

藤田嗣治は明治19年生まれ。柳宗悦は明治22年生まれ。3歳違いで同世代に生きています。藤田が筒描のある自画像を描いた1936年は、日本民藝館が創立した年です。片やほとんどパリ暮らしで、アメリカを回って帰ったオカッパ頭の油絵描き。片や日本からほとんど出ずにヨーロッパの美術をさんざん勉強したあげく、日本の中から新たな美の基準を見つけ出した人。そういう二人が同時代を生きている。藤田はどういう経緯でこの布を手に入れたんでしょう? 柳はこの頃いろんな展覧会をしていますので、きっとどこかで目にして、藤田の琴線にふれるものがあったんでしょう。僕もこの絵を見て「藤田君もやるじゃん」と思いました(笑)。まったく違う視点から、絵を描いていた人と日本の「民藝」という言葉や考え方をつくり哲学を勉強していた人が、日本の庶民が使っていた伝統的なもので接点をもったというのが、非常に興味深いものだと思います。
柳宗悦のお父さんは柳楢悦といって、海軍少将になった人で、日本で初めて水路の測量を行ったり、和算が得意な人だったそうです。お母さんは嘉納治五郎のお姉さんですから、エリート中のエリートです。
一方、藤田嗣治のお父さんも、陸軍軍医総監にもなっている人ですから、やっぱりすごいエリートですよね。二人のこの共通性には驚いたし、そういう環境でないと絵や哲学なんかをできなかったのかも知れません。藤田嗣治はご存知のように戦争画を描いて、戦後日本の画壇から一人血祭りに上げられ、パリへ行ってしまった。同じように軍のトップクラスのお父さんをもち、同じように美に対してとても繊細な感覚をもった二人が、一方は積極的に戦争画を描き、他方は一切それに加担せずに通した。この違いは何なのか、その答えは僕には出せませんが、それはともかく、藤田嗣治は「描いていなければ生きてゆけない」人だと思うのですが、筒描などをつくる人も毎日毎日つくらざるを得ない、職業とはいえ時間がくると手が動いてしまう人たちだと思います。藤田嗣治の絵や筒描の染物が、時代を超えて人々に感動を与えるのは、そこに共通する何かがある。まったくちがう領域ではあっても、つくって、つくって、つくり続けた結果として生まれたものに共通する何かがあると思っています。

*チャグチャグウマッコ
馬の労をねぎらう祭り。滝沢村の鬼越蒼前神社から盛岡八幡宮までの道を、色とりどりに着飾った馬が練り歩く。国の無形民族文化財でもあり、毎年6月の第二土曜日に行われる

 

(聞き取り:手仕事フォーラム会員 後藤薫)