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尾山台“手しごと”5月15日 第4回勉強会報告

尾山台“手しごと”5月15日 第4回勉強会報告

これまで、「筒描き」「絞り」「型染め」と続いた染物の話。

今回はその総集編的な位置づけ。

参加された皆さまはどのような感想を持たれたでしょうか。

私は、技法が持つ“技術的制約”から生み出される美しさに関する話。そして、藍染を主とした庶民の布と、紅型や初期友禅といった上流階級が使っていた特別な布とに共通して見出される美しさに関する話。その辺りを大変興味深く聞きました。

(なお、以下の報告は筆者の理解のおよぶ範囲のものであることは言うまでもありません)


まずは、大橋先生の話を出来るだけ正確に文章化。


「唐草と呼ばれている型染めの型紙を彫る(模様を切り抜く)とき、もしも模様を構成するツルがなければ、花が独立してボロッと取れてしまうので、型紙として成り立たない。型紙のツルは型紙を成立させるための便利な道具であった。それが模様を形作り、唐草という一般的な名称がついてきたのだと思う。その他、ツリというものがあって取れないようにしている。その後、紗張りという方法が出てくる。型紙の上に紗という絹の荒い織物を漆などで張り付け、後で、紗を切らないように型紙の一部を切り取る。そのように、ツリの部分だけを取り去れば、白地に花だけが浮いた模様も作れる。長い時間をかけて職人の工夫の中で生み出された技法が模様の特徴を生み、模様のバランスを作り上げてきた。ものの美しさというのはそういうところにある。型紙を成立させるための技術的制約を繰り返し繰り返し何世代にも渡って改良した結果として生み出されてきたデザイン。誰かが一人で発想して一人で作り上げたのではない、何世代にもわたって作り上げてきたデザインが美しさをかたちづくる。有松鳴海あたりの絞り染めも何パターンもあるが、それも何世代もの人たちが次に伝え次に伝え少しずつ改良を加えてゆき、ある技法に対して特別な構成、その技法にとって最も美しい構成が次第に練りあがってきたということが、こうしたものの美しさだろうと思います。」

“技術的制約”があるからこそ、その中で練りあがる美しさがあるということ。様々な事柄に通じる考えだと思いました。このことは伝統の技術を絶え間なく受け継いでいくということの意味を改めて考えるきっかけになりそうです。


まずは「筒描き」

出雲地方で作られてきた鶴亀文様が施された「筒描き」の湯上げ。

幼児を包むための布。

紅花染を施した赤いところで頭などを拭くなどして、元気に育つように願ったもの。染物の中でも、特別な時に、特別に作られたもの。


婚礼のときにも筒描が使われていた。風呂敷や布団皮などにも見られる。模様は、鶴亀、唐獅子、宝尽くしなど。中には茶道具一式など面白いものもある。

次に「絞り」

絞り染めが施された着物を取り上げて、「袖を見れば、これが仕事の時に着たものだということがわかる。船底(袖)になっている「これは浴衣ですね。大きな桔梗の模様を施し、そのあとに有松独特の絞り染めがなされている。浴衣地一反を縦に皺を寄せて絞っていく技法。ここは、袖口が縫い合わされていない。たぶん浴衣だから。


染織初心者の私にとっては、袖の形から用途が分かるということすら知りませんでした。確かに日々使う道具であれば、使い勝手の良い形へと、おのずと落ち着くのでしょう。


「かつて、浴衣は風呂上りに着るものだったから風通しを良くするために(袖を船底に)縫っていなかった。ちなみに、浴衣で外を歩くようになったのは、江戸もだいぶ経った頃。ただし、これは襟もしっかりと仕立てられているので、衣料用として仕立てられたものだと思います。


なるほど。

麻は固くて着にくいというイメージがあるが、必ずしもそうではない。 できるだけ快適に使いこなすための工夫がなされていた。麻の糸を細くしたり、砧でさんざん叩いたりして柔らかくする。すると、木綿に近いくらいフワッとした感触に仕上がる。麻を着ていたというと、一般庶民は耐え難い生活をしていたと思われてしまうが、それなりに工夫した衣料で生活をしていた。もちろん、木綿が普及すれば、木綿の方が様々な面で優れているのでそちらに移行してゆくのだが。


「絞り染めと言っても、同じ江戸にあって、一方ではこうした違う世界があるのですよと言って、取り出されたのは鹿の子絞り。

「先ほどの絞り染めとこちらと、どちらが綺麗ですか。さあどうですか」と迫る大橋先生。

きっちりとした仕事。絹の鹿の子絞り(疋田絞りともいう)。一粒一粒糸で括って染めたもの。同じ時代であっても、様々な方向性があったことが分かる。

次に、薄い絹に施された薄緑色の絞り染。

「綺麗ですか?綺麗ですよね。これは民藝?どうなんだろう。


民衆の物という感じはあまりしない。染料は植物染料。もちろん上流階級が身に着けていたものだろうが、手間のかかったいかにも上流階級の物とは違うシンプルな美しさがある。庶民が着た藍染とも共通する美しさがある。江戸の初期。もしかすると桃山から江戸初期にかけてのもの。確かに自然であり、素直に美しいと思います。

「先ほども筒描きを見せましたが、筒描をもう一つ」
写真では分かりづらいですが、金糸の刺繍が入っています。
「これは友禅です。友禅ですが素材は麻ですから、夏の衣料です。麻であってもここまで細かく染められる。“茶屋辻”という、藍に刺繍をしたものがありました。それはべらぼうな手間がかかるので、当時の上流階級の人たちでもごく限られた人しか着られなかった。それに近い。

「なぜこれを持ってきたか。もちろん庶民の生活とはかけ離れた世界の人たちの物です。筒から糊を絞りだし、輪郭を囲って、その中に色を付ける。先ほどは藍一色でしたが、沖縄の“うちくい”も技法としては全く一緒。線が違うだけ。これは友禅でも後半の物。初期友禅は、後の友禅のような繊細さがある意味で無く、線が生き生きしていてとても綺麗です。そこには何か共通する美しさがあります。これは民藝ではない?しかし、初期友禅は民藝館にいくつもあります。芹沢C介もいくつも持っている。何か造形的にあるのでしょうね。それはどこの世界だとか、いつの時代だとか、誰が使っていたかとか、そういうこととは関係なしに、何かハッとする美しさがあれば集めている。久野さんに見せたら、こんなの捨てろと言われるかもしれないけどね、わかりませんけどね。と大橋先生。しかし、例えば沖縄の紅型にしても庶民の物ではない。そういう意味では、何かしら共通の美しさを見出していたのだろうと。


さて、次回の絣の話に向けた話へ。

これは木綿の縞。「染物と織物の違いは判りますよね。染め織と書いて染織(せんしょく)。染物と織物を合わせて布。織が無ければ布はない。布がなければ染めもない。染物というのは織り上がった布に後から施すもの。


無地の真っ白な織物を着ていれば淋しいから色が欲しくなる。無地であっても藍色が付けば、昔の人にとってはそれでもお洒落だったでしょうが、やはり模様が欲しくなり、絞り染めなど様々な工夫がなされる。「織物を織るときに、経糸も緯糸も同じ色で染めた糸を使えば無地が出来上がるが、経糸を織機にセットするときに、色の違うものを並べ、緯糸を白一色で入れていけば、最もシンプルに模様が付く。緯糸を通すときに、緯糸の色を時々変えながら入れれば格子が出来る。織物では経糸と緯糸は直行するしかないので、それ以上の発展のしようがない。しかし、織物に丸はないかと言えばある。京都あたりで織られている物を見れば綺麗な円に仕上がっている。極めて細い糸を使い、経糸と緯糸の密度を上げて、経糸を上げるときの操作をできるだけ細かくやっていけばよい。


古代中国では、今ではどのように作ったかわからないくらい完璧な円を織り上げたものもあるそうで。そうした意味では織物は昔から発達していた。


それでも何故に染物が広がったのか。

「平安時代の貴族たちが政治の中心にいた時は、貴族は表だった所では染物は着ません。むしろ染物は着たことがないのではないか。染物を着るのは下級の人です。例えば雅楽を踊る人が、舞い踊る衣装の下に着るとか、その程度。上流階級は織物しか着ない。


絞り染めなどの染物が、特に近世日本で急速に発達するのは武士階級の勃興が要因の一つ。鎌倉時代になり、武士の時代が来る。武士は行動しなければいけないし質素を重んじる人たち。しかし、不思議な事に、武士も政権を取ると、上の階級を真似る。正式な時には貴族階級と同じような物を着る。

「織物が複雑な模様の豪華なものになればなるほど、着た時に動きにくい。染物は先ほど見た友禅のようにどんなにカラフルになっても布一枚の厚さには変わりがない。そうした意味でも活動的。そして、多湿な日本の環境に合っているということで、一気に発達していく。


ちなみに、現在、正式な場所で着ていける着物は染物で、織物は着ていけない。染めの着物に織の帯だそうです。


そして絣へ

染物が多用されるようになるのは江戸時代になってからのこと。一つには、武士は染物を好んで着たし、どんな模様でも描けるような染織技法が発達したことも要因。


そのような時代背景はあるのだが、「織物の模様は、染めよりもある意味でシンプルにできる。織った途端に模様が付いたものが出来上がっていく。しかし複雑な機械を使わなければ縞と格子以上にはならない。もっといろいろなものが欲しいということから絣が出てくる。


ということで絣の話へ。

「これは昭和の物。見て分かるように模様があります。格子とは違う、ちょっとだけ複雑な模様がありますが、これは最初に経糸を“括る”といいますが、長い経糸の一部を最初から括って藍に染めて糸を解くとそこは白く残る。そういうものを経糸にセットして緯糸に例えば紺色の糸を通すと、“経絣”(たてがすり)になる。そして緯糸にも最初から色を付けておくと緯糸で模様が出来る“緯絣”(よこがすり。ぬきがすりともいう)。そして一緒にすると、“経緯絣”。そのようにして織物であっても豊かな模様を作りたいという願望から江戸末から明治に爆発的に発達する。


さて、絣の産地は山陰だとか九州などあちこちにあるが、どこも明治に発達を遂げた。今見ている藍染にせよ型染めにせよ絣や縞にせよ、明治になってから人々が大いに手にし始めたもの。


それでも木綿栽培に適さない寒冷地では、古着を買い、裂いて緯糸にして“裂き織”にした。絣や絞りの古着が織り込まれていく。久野さんも佐渡にしばしば運んでいたそうです。

北へ行けばいくほどこうしたものがあるといって、アイヌの着物を羽織る大橋先生。


アイヌの人たちが使っていた木綿は本土のもの。裂き織の材料と一緒に北前船で運ばれたもの(写真は菱垣廻船の模型。神奈川大学所蔵の「近藤和船研究所コレクションより筆者撮す)。

「木綿が普及し、それを身に着ける人たちが増え、大量に生産する産地が形成される。その産地では、人々が求める模様を、より合理的に作る工夫がなされ、今我々が見ているような藍染が一気に塊となって出現する。そこには、上流階級が特別な時間と技法をかけて作ったのではない、爆発的に売れていくものに対して、とにかくガンガン作れるもの、特別に作ったのではなく、とにかくより多くの人の手に渡るように工夫した技術と模様がある。そうやって作られた物が表出する美。柳たちが発見した美しさはそうした発見だったと思う。


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多くの発見とともに、宿題をいただいたようなお話でした。

大橋先生、ありがとうございました。

中村裕史