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学習会・イベント報告

寿岳文章『紙漉村旅日記』より

寿岳文章『紙漉村旅日記』より

2015.08.21は尾山台「手しごと」で月例勉強会。

詳細は、既に大橋先生によるご報告がUPさていますので、

http://blog.teshigoto.jp/?eid=866352

ここでは、勉強会で少しだけ話に出た寿岳文章の著作『紙漉村旅日記』からほんの一部をご紹介します。


・『紙漉村旅日記』寿岳文章, 寿岳静子著

(装幀・挿繪・地図 芹澤C介)

※『紙漉村旅日記』の刊本としては、向日庵私版本(1943年、実物標本134葉貼付、本文和紙判278頁、限定150部)、明治書房版(1944)、沖積舎復刻版(2003)、その他、入手可能なものとして講談社文芸文庫がある。

『紙漉村旅日記』は寿岳文章・静子夫妻による、現地調査の成果です。
旅日記と題されているだけに、学問的な整理は加えられていませんが(著者がそう書いています)、しかしそれ故にこそ、現在その多くが失われてしまった紙漉村の風景や人々の日常が活き活きと描かれており、貴重な記録となっています。


それにしても、よくぞここまで歩き尽したものだと驚嘆させられます。

しかも、転げるように戦争へと向かう時代。

序文から適宜抜粋します(現代仮名に改めました)。

「私たちの紙漉村行脚は、ちょうど支那事変の年の秋から始められた(中略)しかし、幸いにも、漉かれる紙そのものにはまださほどの変貌は現はれていず、私どもは、思いのままに、その土地土地の紙を集めることができた。しかるに、大東亜戦争の勃発とともの事情は一変し、和紙の規格は著しく狭められ、凡ては国家総力戦の動向によって支配されるに至った。さなきだに衰退の一路を辿っていた手漉紙業ゆえ、この旅日記に出てくる村で、もう紙漉などやめなければならくなった処も、少なくはあるまいと思われる」


旅日記などというと、趣味人の道楽と思われるむきもあるかもしれませんが、当時の時代状況を鑑みるに、相当な危機感と使命感がなければ成し得ない仕事です。そう考えると、大橋先生のご報告にもあるように、『工藝』が13号から本紙に和紙を使用するということも、贅沢が敵視された国家総力戦の時代にあって、相当な覚悟があってのことだと思えてきます。雑誌『工藝』を手に取るときには、その装幀の美しさだけでなく、そのような時代背景に思いを致すことも大切かもしれません。


さて、話が横にそれました。

『紙漉村旅日記』は文庫で手に入りますので、興味のある方はお読みいただければと思います。また、寿岳文章の記録も興味深いですが、芹澤C介の挿繪も大変に魅力的です。和紙の製作工程が描かれた挿繪をご紹介します。明治書房版(1944)からです。

1.楮を苅りとる

2.楮をむす

3.楮の皮を剥く 

4.皮なで

5.楮煮

6.川晒

7.楮さらし

8.楮打

9.とろ叩き

10.紙すき

11.かんだ壓し

12.板はる

13.紙干し

さて、今回の学習会は10月の「富山・八尾手仕事フォーラム」の予習という位置づけですので、『紙漉村旅日記』に記された、八尾町(富山県越中国婦負郡)へ向かうくだりを引用します(引用や抜粋ばかりですが)。

富山・八尾手仕事フォーラムへ参加される方は、在りし日の八尾を思い浮かべながら、現代の旅路を楽しまれても良いかもしれません。少し長いですが、富山の廣貫堂が薬の袋紙用に和紙を買う話や、楮皮の雪晒、坐り漉のことなど、周辺の描写とともに面白い内容です。

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十二月二十七日。晴。

四時過ぎに眼がさめる。二時頃から夢うつつに聞いていた雨の音が気になって屋外を見ると、幸いに晴れだ。七時四十九分富山発の汽車で八尾町に向かうので、大急ぎで朝食を済まし、宿を飛び出す。

富山館は客に追従せぬいい宿であった。女中も無愛想なようで実意があり、ここならば安心して泊れると思った。駅には同行する安川氏と見送りの老人とが待っている。老田兄は鳶の袖の下から鮎の粕漬を取り出し、持って行けと言う。車中から見る立山は今日も美しい。安川氏と工藝談をしているうち、すぐ八尾へ着いた。汽車を下りると中年寄りの物売り女が、一尺角、厚さ一寸もあるかと思はれる黄塗の蒲鉾や、赤い大きな蒲鉾や、昆布巻きの蒲鉾を籠に入れて売っている。安川氏に聞けば富山で出来て、大きなのは紀州の田邊同様くづしと呼ぶそうな。柳さんや富本憲吉氏も好物で、送ってあげたこともあると安川氏が言うので、早速買いにかかったが註文の品だと言って婆さんは売ってくれない。その問答に暇どり、駅を出れは八尾町行きのバスがもう出てしまった後だ。越中巻紙をやっている谷井秀峰氏のところから自転車で迎へに来てくれた人に荷を托し、安川氏と歩いて八尾町(富山県越中国婦負郡)に入る。行程約三十分。町はかなり急勾配の坂の両側に長く続き、溝を激流が走っている。幾度か火事にあい、古い家は殆ど無いが店頭の賑やかな荒物屋を片端から見て歩く。家なみに暖簾の絣が美しいので、そんなのを残していようかと古着屋を探したが、無い。古い時計を商う店一軒あり、安川氏は暫く去りがてに覗いていた。谷井氏の仕事場へ行って、色々紙の話を聞く。この野積谷に紙会所があった頃の文献を一冊、同氏から借り受ける。谷井氏はこの谷奥の出身、若い時京都や東京の表具屋に住み込んで美術修業をしたが、遂に故郷の紙漉に帰ったと言う。信州の若林氏などと共通の行き方を、その作った紙の上にも見る。草木染などは、勉強次第でどんなに立派なものでもこの谷なら出来ると言う。谷井氏のところでは目下加工擬皮紙に主力を注いでいるようである。自動車で野積谷の東川倉まで案内して貰う。室牧川にかかった橋の右手に、家造りの美しい村がある。そこが本高熊の出る高熊村だ。まだ雪が来ぬので紙は漉いていない。高熊から奥は立派な家の連続で初

めてここへ来た安川氏は、富山県でも屈指の美しい部落だと大いに興奮する。谷井氏の説明によると、昔、京都御所へ紙を出して、このように屋根の両端の高い合掌造りの家を建てることを許されたのだそうな。野積村字油で車を停め、米俵の紫色の巻紙を作る共同作業所を見、更に奥へ進み、田池まで来ると、美しい家の横で、耳の遠い爺さんが赤相竹の裏を板につけている。家の中では婆さんがその表を漉いている。この裏と表とを貼り合せるから、紅柄紙を一名裏表(うらおもて)と言う。一枚漉の上等の赤相竹(昨日求めた「中宇はここからずっと奥の漉屋のよし)と共に、みな富山の廣貫堂が袋紙用に買ってゆく。全村がいづれもこの仕事に従っているのだから、さすがに売薬王国だけのことはあると思う。岐阜流に天井から竹で簀を制約している以外、漉き方も貼り方も頗る原始的である。私の見たのはみな立って漉いていたが、坐り漉もあるそうだ。楮は溝や河で晒し、ちりよりを行い、曹達灰で煮、石の台にのせ、朴製の槌でトントントントンと婆さんが叩く。石は御影石を俎板型に切ったのとは全く異なり、川から拾ひ上げた形のよい自然石で、円く不規則に盛りあがっている。この辺の人

は、かような石を巧く川から引き上げてくると言う。叩いた楮を船に入れて立て、紅がらをさし、黄蜀葵を袋ごと入れ、横に三枚取の簀で相竹判を漉く。その漉き方を見るに、よほど溜め漉が加味されている。水切りは大抵石を三つか四つのせて重しとする原始的な遣り方。松の干し板に、手作りのスベの刷毛でどんどん貼りつけてゆく。「雪が降ってきたぞ。」と子供が知らせにくる。南を望むと、一里半ばかり奥に聳える姐父岳を中心に、どの山もどの屋根もまっ白だ。例年ならここらの村も今頃は二三尺の雪なのに、今年はいつになくまだ雪が来ないとみな言っているが、それでも日蔭ではところどころ一尺近く積もっている。雪が深いので楮皮を埋めておくと天然に晒され、人工だけでは到底得られぬ美しい紙が出来る。雪がこの村の紙を美しくするとも言える。まだ富山の製薬が三百年も前から発達してきたとすれば、この辺の抄紙の歴史も相当に永かろう。人情頗る篤実、途上で逢う誰もから丁寧な挨拶を受けた。東川倉から八尾へ引き返し、料亭五十嵐で谷井氏の饗應を受け、駅まで車で送られ、安川、谷井の両氏と別かれ、少し遅れて着いた岐阜行きの汽車で高山に向かう。帰還兵がこの列車に乗っていて、どの駅でも大変な歓迎だ。南では野積、大長谷、利賀の谷々に、東では日本

アルプス連峰に雪を望見しながら、汽車は段々狭まる渓谷をのぼってゆく。雪が深くなる。ダムのところでは黒々と水が湛へられ、その側まで雪が来ているたそがれの景色は、何か不思議な寂寥を持つ。幾つもトンネを抜け、午後六時半過ぎ高山に着く。十五分間ほど町を歩き、長瀬富春館に投宿。この宿の表構へは悪くない。大戸を下ろし、潜りだけになっていたのが特にそう思はせたものか。かなり疲れたので、安川君から訪ねてみよと言はれた精進料屋の角正へも行かず、九時過ぎ就床。

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柳宗悦も『日本の手仕事』の中で、富山の薬売りが背負っている小型の柳行李と薬を包む和紙(薬袋紙)の二つを、心惹くものとして紹介しています。合せて読んでも興味深いと思います。

中村裕史