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手仕事調査:関東地方

藍染工房 日下田紺屋(ひげたこうや)

藍染工房 日下田紺屋(ひげたこうや)

2012年4月20日
訪問地:栃木県益子

 益子町城内坂一番地。この地番が示すように、いわば町のヘソとも言えるところに日下田紺屋はあり、その立地と見事な植栽に囲まれた茅葺き屋根の邸の景観が、益子町でのこの紺屋さんの存在感の大きさを物語っている。
藍は木綿との相性がいいので、日本で綿が栽培されるようになると、次々と紺屋が生まれてくるようになった。日下田紺屋も200年ほど前の江戸寛政年間に創業され、その歴史は益子焼よりも古い。

 日下田邸の茅葺き屋根の下には藍染場があり、その土間には創業以来の藍甕が72基埋まっていて、今も大切に守り続けられている。これらの甕は常滑のものだそうで、東京湾から舟で利根川を遡り、真岡まで運ばれて日下田さんのところへ来たそうだ。 2011年3月11日の大震災では、藍甕から溢れた液が土間に溜まるほどこの地方の揺れは大きかったそうだが、どの甕も壊れることはなかった。 その大切な藍染場にフォーラムメンバーを迎えて「藍染」のこと「益子木綿」のことを話してくださったのは9代目の日下田正さんである。

 お訪ねした日(4月20日)は異例の寒さで、藍染場には燻されたような匂いが漂っていた。聞くと、藍が自然醗酵をするには気温が低すぎるため、火床で大鋸屑を焚いているとのこと。藍甕は4基を一単位として「一つぼ」と呼ぶのだそうだが、その真ん中に蓋の付いた火床があり、うっすらと煙があがっている。じんわりと温められて具合がいいのか、甕のなかではこんもりとした藍の花が咲いていた。このような状態に藍が建つまでには3カ月もの時間がかかるそうだ。日下田紺屋では常に10基は稼働していて、「火を入れていることもあり、夜中に必ず一度は起きて、甕の様子を見回ります」とおっしゃっていた。

益子をやきものの町にした濱田庄司氏の存在を日下田さんは、「一人の男がこの町を変えました」と表現されたが、民藝運動の理念は正さんの父である先代の日下田博氏にも大きな影響を与え、その姿勢は正さんにも受け継がれている。
日下田正さんは、若い頃、柳悦孝(やなぎ よしたか)氏のもとで4年間内弟子修業をされていて、藍染の他にさまざまな草木染めにも取り組まれている。畑で和綿や茶綿を栽培し、糸をつむぎ、織り、染めるところまで一貫した手仕事を行われている。この一貫した仕事から生まれたものが日下田紺屋の益子木綿なのだ。

この日は型染の型をつける板場を見せてくださり、蒐集されている大切な伊勢型紙を私たちの手に取らせて、「ジャパンブルー」と世界に賞賛される「藍染」がどのような手仕事で生まれるかということを教えてくださった。

お話の中に何度も「日本は藍の国」という言葉が出てきた。そして若い人たちとともに、和綿の復活にも取り組んでおられる。
日下田さんのこの熱心さは、「藍染」の担い手としての社会的使命感の表れでもあるだろう。しかし何よりもご自身が「藍」をそして「染織」の仕事を愛しておられるのだ。庭の片隅には蓼藍が栽培されていた。こんなところにも日下田さんの骨身を惜しまぬ努力と静かな情熱が表れているように思う。

 

手仕事フォーラム会員 後藤薫