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手仕事調査:沖縄地方

北窯松田共司のマカイの原形 涌田マカイ作り

北窯松田共司のマカイの原形 涌田マカイ作り

2012年1月27日
訪問地:沖縄

発刊したばかりの「民藝の教科書1 うつわ編」の取材で去る1月27日、北窯を訪れ松田共司君、宮城正享君両名に沖縄のヤチムンらしいうつわをそれぞれつくっていただきました。特に共司君には沖縄マカイの原形、涌田マカイづくりをお願いしました。マカイとは碗の事ですがどこからこの様な名前になったのかは誰も知らぬところです。涌田マカイとは現在の那覇市の沖縄県庁の所在地付近にあった地名でここでつくられたマカイの事を言います。

原形の湧田マカイと松田共司づくりの湧田型マカイ

「沖縄のヤチムン」がいつから始まったかということは正確に伝えられていませんが、読谷の喜名だとされる大甕作りからで、その元となった東南アジアから伝わってきた南蛮甕と共に持ち込まれた東南アジアや中国南方染付けのうつわたちが17世紀中期頃、涌田の地でこのかたちを真似てつくられはじめたと伝わっています。元々は磁器、F器などのいわゆる硬質な陶土でつくられたのが特徴でした。東南アジア、中国南方から入ってきたこの碗は、当時の民衆が米などの穀物を炊いておかゆ的な汁茶碗の使い方からのかたちであったと思われます。大量につくられるために、積み重ねで焼かれますが、今のような輪積みや目積みなどではなく、見込み全体の釉薬を抜いて積み重ねました。ですから釉薬の掛け方もかなりずさんでスピーディーなため、それがまた釉薬の重ね合わせや陶質の成分など、また釉薬に含まれる木灰、石灰の有機化合物の呈色によって面白い焼きの調子もあります。また文様が鉄、いわゆる錆土によって簡素に表裏2箇所に描かれ、その粗野で力強さがまたこの碗の良さを醸し出します。

その当時の古作もたまには骨董店などに現れますが、かつてはかなりの量が骨董屋で売られ、民藝関係者たちが定番のように持っていた時代もありました。私は残念ながら日本民藝館に蔵品された逸品を見ているため、それ以上のものがないと諦め持っていません。しかし、その涌田の形が江戸時代の二百数十年の間に沖縄的なというより、琉球文化の熟成によって形が少しずつ変り、とりわけ鋭角的な形から丸みを帯びた形が発達し今のようなマカイの形となったのです。マカイには様々かたちがありますが、当初の涌田マカイを原形とし時代と共につくりの工夫や琉球国の一つの文化的基盤が確立した中で、つくり手あるいは使い手たちの様々な気質の変化もあって、現在の形に昇華された事と思うのです。

今このような碗を仮につくったとしても何に使うかといわれるかもしれませんが、この形がいつでも作れるということは、この地のつくり手には大切と思い共司君にお願いしてきました。ただこの涌田マカイ、積み重ねの釉薬抜きは素焼の状態が目立つために販売が促進しませんでした。その頃、私がもっとのめり込んで考え、素焼部分をなくし内側に白化粧し上掛けしたり、縁廻りに口紅と呼ばれる線巻を施せば面白かったのかもしれません。

共司さんの制作した涌田マカイ 写真:坂本光司

このたびの「民藝の教科書」のために再び涌田マカイも紹介しようと思い、久しぶりに共司君につくってもらったのです。注文したので数十個もつくってくれたか期待したところ出来上がったのはこの時つくったもののみ、焼けたのは僅か3個。しかも1つは共司君自身でとっており、2つのみがもやい工藝に届いたのでした。共司君の轆轤さばきは上手く私も気に入り、もやい工藝では雑器を珍しくガラスケースに鎮座させたのでしたが、もやい工藝ヤチムン展の初日、手仕事フォーラムメンバーの坂本光司君が2つとも買い上げてしまい、今私の手元にありません。次の窯は5月中旬。「光原社」でのヤチムン展も控えているので、この形を展開した様々な注文をしたところです。

 

手仕事フォーラム 久野恵一