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手仕事調査:東北地方

小高箕(おだかみ)

小高箕(おだかみ)

2016年6月24日
訪問地:福島県白河市、ほか福島県内各地、宮城県南部、山形県南部

■はじめに
311の東日本大震災の原発事故の影響により途絶え、現在は作られなくなった小高箕について調べました。震災直前にはただ唯一の最後のつくり手がお一人いらして、健全な仕事をされていたのですが、材料採取地(福島県相馬郡飯館村)の汚染により作られなくなってしまいました。

今年のゴールデンウィーク直前に、手仕事フォーラム代表の久野民樹さんが福島市の私のお店に寄って下さり、その夜お酒を飲む機会がありました。そのなかで、民樹さんの「新たな優れたつくり手を探さなければならない」との思いに共鳴し、「私なりにも、まずは地元である福島県から新たなつくり手を探してみよう」と思いました。やきもののつくり手は出尽くしている感があったので、竹細工を中心に調査を始めました。私はフォーラムの会員になり5年程ですが、その間、久野恵一さんが福島県内のどの地域を中心にまわっていらしたのかをある程度は把握していたので、久野恵一さんがあまりまわっていなかったであろう地域を中心に調査を始めました。

 

■箕(み)とは
調査は福島市近郊からはじまり、福島県内、南東北、北東北、北関東、信越と結果的に広範囲におよびました。釣鐘型というのか馬蹄型というのか、ちり取りの形をした農作業用の道具である箕ですが、2200〜2300年前の弥生時代の遺跡からも出土するそうですから、遥か太古の昔から現在までほぼ形が変わらずに使われてきた道具です。箕は鹿児島県薩摩半島から青森県弘前の岩木山麓まで日本各地に箕をつくる場所が点在しています。

 

皆さまご存知のように、箕の本来の用途は、穀物の実と殻を振り分けることにあります。稲、麦、ソバ、ヒエ、アワ、豆類などに使われてきました。箕(み)の語源は、み(実)だとする説があるゆえんだそうです。箕は目を詰めて編み込んでいなければ、小さな穀物は目のあいだからこぼれ落ちたり、あいだに挟まったりしてしまいます。そのため「水がすくえるような箕」、そんな箕が農具として用をみたす上等な箕であり、よき職人が目指した箕であったそうです。箕は、穀物を振り分ける使い方の他に、運搬具、容器、受け皿、乾燥用具、ちり取りなど、さまざまな使い方があるそうですが、それらはすべて副次的な用途だそうです。漁村ではジャコを干したりもしたそうです。箕はまた、祭具、呪具( じゅぐ)としての役割ももっていたそうで、神様にお供えをする米を選び取る道具として、信仰の対象になる神聖な道具でもあるともいわれているそうです。

 

■調査の過程 「箕は特殊だから」
その地域で竹がとれるような人口数千人の小さな集落にある竹細工店や竹細工のつくり手などに情報収集のために伺って聞いたり、電話をすると、おそらく店主でありつくり手だろうと思いますが、みな口を揃えて「いや〜、やってないね。つくれない。あれ(箕)は特殊だから。いま需要もないし。。」と決まり文句のように返答が返ってきます。箕を作れる職人は竹を扱うの職人のなかでも全く別の仕事であり、本当に一握りの特殊な職能をもつつくり手なのだと実感するまでには、時間を要しませんでした。他の編組品では、たとえば竹細工であれば使う材料は竹だけ、蔓(つる)細工であれば蔓だけ、ほかもおおむね同様ですが、箕については数種類の材料を使いこなさなくてはなりません。数種類の材料の採集からはじまり、それを使える状態にする仕込みの加工、そして最終的に箕を編み込み組み上げてゆきます。その完成までの工程をすべて一人でこなしてしまうのです。調査を続けるにつけ、良し悪しは別にして竹細工のつくり手は少なからずいるものの、箕の新たな現役のつくり手は本当に皆無に近い。2000年以上続いてきた伝統は、いままさに風前の灯火なのだと実感しているのです。しかしながら、「つくり手がいない」となると、「いや、探してやる、見つけたい」と私の心に火がつき、どんどんとのめり込んでいったのです。

 

そうして出会ったのが、この南相馬市小高地区の小高箕です。

 

■震災のわずか6年前 「まさに発見されたつくり手」
小高箕については、ほとんど情報がなく、実際の小高箕を見せていただきお話を伺ったのは福島県文化財センター・白河館(まほろん)の専門学芸員・國井さん(男性・50歳)です。画像の小高箕は、約10年前に最後のつくり手さんが製作されたものです。福島県文化財センター・白河館は、県内の遺跡調査と発掘されたものの保存、民俗技術の調査などをする機関です。 國井さんは、小高箕の造形美や製作工程・製作技術などに民俗学的な側面から興味をおもちで研究をされているそうです。 國井さんは、小高箕の製作に必要な材料の採取(國井さんは白河やいわき近郊から採取)から、材料の加工、製作に使う道具の復元(刃物の鍛冶などは國井さんの自費で復元)、編み込む作業などを実際につくり手から学び、民具として小高箕を復元できる状態にあります。國井さんによれば、小高箕の最後のつくり手の方は70代後半の男性おひとりだけだそうです。現在もお元気にされておりますが、様々な理由からその詳細の公表は控えてほしいとのことでした。南相馬市は福島県の太平洋岸北部にある市で、2006年に原町市、相馬郡小高町、鹿島町が合併し「南相馬市」になりました。小高区はその南相馬市の南部を占めています。小高区には相馬野馬追でも知られ、相馬氏の鎮守である相馬小高神社があります。南相馬市への合併に際し、「小高町史」の編さん事業がすすむなか、小高町内に現役の箕づくり職人が複数(当時)いることが分ったのは、今からわずか11年前の2005年のことだそうです。1975年刊行の「小高町史」にも箕づくりに関する記述はないそうで、2005年当時の調査関係者にとっては非常に驚きをともなうものであったそうです。

 

・編さん、編纂(へんさん)=いろいろの材料を集め、整理・加筆などして書物にまとめること。編修。

■1960〜70年代の小高箕の状況
農家の必需品であった箕は5,6枚程度持つのは普通で、多い農家であれば10枚もの箕があったそうです。1970年代ころまでは、箕づくり職人が農家まで売りにきたり、傷んだ箕を修理したりしたそうですが、それ以降は農業の機械化により箕を使う機会も少なくなっていきました。小高区の町なかには1960年代まで、多いときで20軒ほどの箕づくり職人さんたちがおられたそうです。

 

■小高箕の商圏
小高の箕づくり職人さんの商圏は、北は宮城県亘理郡(わたりぐん)、伊具郡(いぐぐん)、南は田村郡常葉町や平(いわき市)あたりまでであったそうです。阿武隈高地を越えることはなかったという。資料によれば、箕を10枚ほど持って路線バスに乗り、半月間も農家に泊まりがけで得意先をまわることも少なくなかったそうです。1960年ころになるとバイクに箕をつけてまわったそうです。どこの農家でも箕を使っていたので、4,5年おきに得意先をまわると喜ばれたそうです。1970年あたりまでは、新しい箕が一日に10枚も売れたそうです。私は箕のつくり手を探しはじめてからよく言われたことは、「会津なら、まだ作り手がいるかも」ということでしたが、調べてみると、会津地方の箕は藤箕系(竹と藤)ではなく、「皮箕」といって、みごろをケヤキやサワグルミの樹皮、枠には根曲り竹を材料としてつくったものがほとんどだと分りました。もし藤箕系の箕があったとしても、特殊なケースを省き、その多くは外部から入ってきたものではないかということでした。皮箕の産地は背後に落葉樹の原生林をかかえた地域に多いようです。私が出会った過去に県内で箕をつくっていたご老人の方などのお話しを総合すると、中通りでつくられた箕が会津へ、それから南会津を越えた新潟側でつくられた箕も会津へ出されていたことが分ってきました。藤箕や竹箕は、ふつうの農民が自製することはなかった(できなかった)そうですが、皮箕は木の扱いに慣れていれば見よう見まねで自製した山村住民もいたようです。

 

■小高箕の材料の採取時期
材料は、山に入ることを禁じた「八専」の期間をはぶき、秋の彼岸過ぎから春彼岸までの冬季間に。これ以外の時期に採取をしても製品に虫がつきやすかったり、傷みが早くなり長持ちしないのだそうです。桜皮は6月の梅雨時期に。

 

■小高箕の材料の採取地
小高箕は、篠竹(しのだけ)、矢竹(やだけ)、ヨツヅミ(またはガマヅミ:ヨツヅミは当地の呼称)、藤の皮、桜の皮の5種類の材料でつくられています。材料は土地の所有者に断りを入れ、山野に自生するものを用います。最後のつくり手さんの場合は、篠竹、藤は相馬郡飯館村(現在、汚染ひどく帰宅困難地域)の里山から、矢竹は海岸部の屋敷林から、ヨツヅミと桜は近辺の里山から採取していたそうです。良質の材料がそろった特定の山野から採り、飯館村などの奥深い山にはとくに良質の素材があったそうです。質のよい製品をつくるためには、それぞれの素材を吟味することが必要であり、それを見分ける目は長年の経験と勘に基づく。ありあわせの素材を使うと質が低下するばかりか、製作過程での無駄がでやすいそうです。素材を吟味する目は地形や土壌、日照などを見ながら状態を判断する知識なども含まれるので、その幅は広い。國井さんのお話によれば、良い箕をつくるには材料の採取と加工が箕づくり全体の6,7割をしめるのではないか、ということでした。それくらい重要なことなのだそうです。また、久野恵一さんのお話によれば、「篠竹系の矢竹は、弓矢の矢にした竹であり、非常に強い竹。弓矢の矢になることから、城があった所には必ず矢竹が生えている。」との記述(kuno×kuno vol.14)があり、それを裏付けるように小高町には戦国時代まで相馬氏の本拠地だった小高城があった。

■採取する量
一つの箕をつくるのに、親指ほどの太さの篠竹を約50本使う。材料はつくるべき製品の数を考慮しながら採取する。

 

■篠竹、矢竹の採取について
篠竹も矢竹も一年ものは使わない。篠竹は、虎斑(とらふ)というシミのような模様があるものがよいそうです。矢竹は、フシとフシの間隔が長いものがよいそうです。矢竹はフシが低く、そのため箕の先側(みさき側)に使います。そうすることにより、編み込まれた箕の表面がボコボコせず平になり、実と殻の分離の作業がスムーズにできるのだそうです。(下画像:小高箕を裏返すと色が分れているので分りやすい)

■道具と小刀の伝統性
箕づくり職人が使う道具は少なく、持ち運びが容易なほどである。その多くは職人自身でつくり、刃物類は鍛冶屋に依頼して打ってもらったそうです。最後のつくり手さんがお持ちの小刀もそうですが、箕づくり職人が使う小刀は、刃と柄を固定する目釘がないそうです。かつて御上から許可を受けたときに目釘がない刃物は刃剣ではなく、道具とみなされたからだそうです。箕づくり職人はそれを掟として固く守り通してきた。その大切な道具の小刀が箕づくり職人としての伝統性、正統性を物語っている。

 

■箕を編む
藤箕の箕の作り方は、機(はた)で布を織る方法によく似ているそうですが、とても複雑であり、私自身も残念ながら製作工程を見たことがありませんので、ここで記することは控えさせていただきます。箕の各部の名称は地方ごとにさまざまあるようですが、ミゴロ、ソデ、ウデ、カタなど、衣服の用語と共通した言葉が使われています。真相は不明ですが、これは藤箕の起源が弥生時代からある藤衣(ふじごろも)や藤織りの応用であったこと暗示しているとの話もあるようです。また、20ページある「おだかの箕づくり」の資料になかで、最後のつくり手さんが箕のミゴロを竹と藤皮で編む「あや拾い」という作業に際し、「うっとり見入ってしまった」「作業の速さは圧巻である」「目にも止まらぬ速さであり」との記述が3箇所もあり、この最後のつくり手さんがどれほど優れたつくり手かを物語っているように感じました。「おだかの箕づくり」の資料のなかで、最後のつくり手さんは、「多いときに1日に5枚の箕を仕上げることができる。2006年1月10日の箕づくりの際には1枚の箕を編み上げるまでに1時間45分、組み立てて仕上げるまでに37分の合計の2時間22分かかっている。」との記述があります。

 

・藤衣=藤つるの皮の繊維で織った簡素な衣服

 

・藤織り=山に自生する藤つるの皮をはいで糸をつくり、これで織った織物。古くは弥生時代の遺跡から、この藤の織物に類する出土例があるようです。この藤織りは、北海道と沖縄をはぶき全国各地で織られていたそうで、その点でも藤箕がつくられていた範囲と共通しています。

■桜皮の化粧
小高箕では、篠竹と藤皮のあいだに桜の皮を挟み込むことを「化粧」というそうです。製品の見栄えが良くなるのは勿論ですが、さらには桜の皮は藤よりも固く丈夫であるため箕の強度を高めるそうです。そして作る工程でこの化粧があることで目印となり作業がスムーズになるのだそうです。化粧はつくり手により微妙な違いもあるそうですが、箕のみさきの化粧をV字に仕上げているところに、この最後のつくり手さんの遊び心やセンスのようなものを感じます。

 

■V字ラインの推測、なぜVなのか?
「化粧は単純に真一文字でもよいのに、なぜV字にしたのだろうか?」。「それはつくり手のセンス」と言ってしまえば、それで終わってしまう話ではありますが、私はこの小高箕を初めて見たときから、この化粧のV字には何か意味や背景があるのではないかと感じました。
やきものでも優れたつくり手は、他の産地のものを見て良い部分は自身の製作するものに生かしてゆくということはありますが、箕づくりにもそれはあるのだろうか?。仙台市郊外の北東部にある宮城県黒川郡大和町(たいわちょう)には、現在も箕づくりの確かな仕事が残っています。この大和町の箕は珍しいことに、みさきの先がとがっています。久野恵一さんの話によれば、これは漁業用に小魚などをすくい上げるために三陸海岸からの注文を受けて定番になったかたちだそうです。調べると、この大和町の箕は気仙沼などの三陸から、南は宮城県名取あたりまでの沿岸部で使われていたそうです。その名取のすぐ南には阿武隈川をはさみ、小高の箕づくり職人さんたちの商圏であった宮城県亘理郡と伊具郡があります。私はこの大和町の箕の先のV字のラインを見て、小高箕の最後のつくり手さんの桜皮の化粧のV字と重なるような印象をうけました。これは素人の私の勝手な推測にしかすぎませんが、小高箕の最後のつくり手さんが仕事をするなかで、大和町の先のとがった珍しい箕を目する機会があり、それを自身の製作する箕の化粧のV字のラインとして転換していった可能性があるのではないかと思ったのです。そんなものづくりの伝播が、この2つの箕にはあったのではないかと素人ながらに思っているところであります。

■おわりに
本当に残念ながら、小高箕は今は作られておりません。しかし、國井さんにより小高箕を制作できる技術が残ったということは本当に貴重なことだと思います。國井さんは今のお仕事を定年された後にじっくりと小高箕の製作をしてゆきたいと考えておられ、それはもしかすると15年,20年後にまた小高箕が復活できるかもしれないという可能性を秘めています。私はそれを期待してやみません。箕は需要が厳しく販売してゆくのが難しいものだということは十分に承知しておりますが、しかしながら、2000年以上続いてきたこの伝統が今まさに、自分が生きるこの時代に終わりをむかえるかもしれないという現実を知ったとき、どうにかできないのだろうかと私なりに考えをめぐらせています。そして、小高箕の最後のつくり手さんが5年前に人知れずその製作をやめざるを得なくなったという事実を知ったとき、「こんなに力強い小高箕と、そして優れたつくり手がいたんだ」という事をここに記したいと強く思いました。久野恵一さんが生前お話になった「知られざる優れた手仕事のつくり手は、まだ日本のどこかにいるのではないか。しかし、知られざるというよりも、見つけられなかった私共の側に責任があるのではないか」という言葉がよみがえってきます。

 

今回の竹細工や箕の調査に際し、私にきっかけを与えてくださった手仕事フォーラム代表の久野民樹さんや、お忙しい中わざわざ時間をさいてくださった福島県文化財センター・白河館(まほろん)の國井さんには感謝申し上げます。ありがとうございました。以下は、國井さんが製作復元された小高箕(3度製作されたうちの3度目の小高箕)の画像と、福島県文化財センター・白河館(まほろん)の前に立つ國井さんです。

【参考資料】
・おだかの歴史 資料集1 おだかの箕づくり 南相馬市教育委員会 2007
・民藝の教科書4 かごとざる 久野恵一監修 萩原健太郎著 グラフィック社
・手仕事フォーラム Kuno×Kunoの手仕事良品 Vol.14 氷見の箕
・手仕事フォーラム Kuno×Kunoの手仕事良品 Vol.59 日置の箕
・手仕事フォーラム ブログ 「九州の仕事、東北の仕事」 久野康宏さんの記事よ
り (画像をお借りしました)
・もやい工藝ブログ 「大和町 箕」 (画像をお借りしました)

 

手仕事フォーラム 渡辺大介