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住まいと暮らし

北前船で栄えた三国

北前船で栄えた三国

2015年4月1日
語り手:吉田芳人(手仕事フォーラム会員)

 

日本海に面し、九頭竜川と竹田川が合流する河口に三国があります。近世から港町として開かれ、海上輸送が最盛期を迎えた江戸時代に北前船の寄港地として繁栄しました。

手前に九頭竜川、その先が日本海です。

 当時、天下の台所、大阪が流通の拠点として国内からの舟荷を取扱い、輸送路として瀬戸内海を通り、大阪・江戸に向かう西回り航路と津軽海峡を通って江戸に向かう東回り航路がありましたが、海流の向きと海難事故のリスクから当時の船で西廻り航路が経済的なことから西廻り航路が盛んになり、航路を走る舟を北前船と呼ぶようになりました。北前船は大阪に北陸の米を運び、次に大阪や瀬戸内各地の塩や紙、砂糖、木綿など商売のための荷物を積み日本海各地で商売をしながら、北海道の函館や江差、松前などに行き、商品を売って、その土地の海産物を仕入れて内地で売りながら帰途に就く一年一航海が主でした。一航海で千両の大金を稼ぐことで千両船とも呼ばれました。北前船の往来は、焼物・漆器・紙などの日常品を生産地から各地に流通することになり、手仕事の品も広く日常の中で使われるようになりました。船が各地方の原料を運び技術を他地方に伝えることで、食文化や手仕事の技が伝搬し、地域独自の文化と融合し地域性が育まれたと考えられます。

 三国では中世以来港の発展を支えてきたのが、北前船による廻船業を生業とした豪商たちで、中でも大きな役割を果たした商家が森田家です。森田家は1619(元和元年)加賀藩の藩米輸送に当たり特権を得、繁栄の基礎を築き、幕末から明治にかけて大廻船問屋に発展しました。家は平入木造2階建てで、1階・2階に木製格子を持ち、下屋はむくりのついた銅板葺きです。裏には川からの荷物を運び入れる為の福井産の笏谷石が敷きこまれた通路や笏谷石の棟押えを使い、三国を代表する町屋です。

三国の伝統的造りの森田家

 

笏谷石の石畳みと土蔵

 

笏谷石を使った棟押えが連なる屋根

 

むくりのついた下屋の破風飾り彫刻が凝っています

 明治時代になると国内の鉄道敷設、電信・郵便の普及による水運から陸運への交通体系の変化により三国港の衰退が進み、多くの廻船業が没落する中で森田家は廻船業以外に酒・醤油醸造も営みながら、陸上での倉庫業や金融業に業種転換を図りました。1894年(明治27年)に森田銀行を創業し、信用力のある銀行として発展し、1920年(大正9年)に新本店が竣工しました。横浜市開港記念館を手掛けた山田七五郎が設計し、大工は地元の四折豊により外観を西洋古典主義的なデザイン、内部は豪華な漆喰模様や木象嵌、大理石模様の柱を左官で仕上げるなど、細部のデザインは当時の職人の技のすごさを感じさせます。この建物は福井県に現存する鉄筋コンクリート造で最も古いものです。その後、福井銀行と合併し、近年まで福井銀行三国支店として営業していました。1994年(平成6年)三国町の財産となり復元保存工事を行い、国の登録有形文化財として1997年(平成9年)に登録されました。

旧森田銀行外観

 

近世ルネサンス様式の玄関庇

 

1階営業室の吹抜け

 

窓上部の象嵌細工の飾り板

 

マーブル模様の左官仕上げの柱と漆喰彫刻の柱頭

 街歩きをするときの建築の見方ですが、歴史的建築や町並みが残されているためにはいくつかの条件が必要です。第一の条件は、かつて町が繁栄したことが必要です。町を構成する個々の建築は経済的に豊かになれば、職人の技を活かした良い建築が建てられます。質の良い建築が出来るから、自分の家を誇りにして住み続け、維持管理され良い町並みが残ります。第二に大火や戦禍に遭わなかったこと。町並みにとって最大の敵は火災です。木造で隣り合って軒を接して建つ町屋の家並みは大火に弱く、防火への対応が重要です。逆に、大火の復興を期に良い町並みが形成される場合もあります。第三に家々の造り方が様式化され使う材料も地域の素材で造られていると、自ずと統一感があり美しい景観が残る町並みと感じることが出来ます。この視点で建物を見ると街歩きが楽しくなります。