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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第1回

鈴木繁男さんのこと 第1回

2014年5月21日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

 この連載記事も100回を数えることになった。100回目は前から考えていたのだが、私がこの仕事をしていく上で大変な役割を果たしていただいた鈴木繁男先生の思い出を語っていきたいと思う。なぜ思い出を語るのかというと、思い出自体が私の民藝人生において眼識力、見識力につながってくるからである。鈴木繁男さんは私のみならず、各仕事場や民藝の活動に関わっている人たちにも多大な影響を与えてきた。民藝の理論的な支柱はもちろん柳宗悦だが、実質的に柳の活動をきちんと伝えてきたのは鈴木繁男さん以外にはいないのではないかと思う。民藝運動家といわれた方々はおられたけれど、民藝の働き手を育て、その人たちに大きな影響を与えたのは鈴木繁男さんであると思う。民藝運動が抱えていた大きな難問と、これから民藝がどう進むべきなのか、また、柳宗悦から教わったことを鈴木繁男さんは明快に語られていた。その言葉と意思を伝えたい。

名前

 私が鈴木繁男さんの名前をはじめて聞いたのは、この仕事に入った昭和47年(1972年)のころだった。当時、民藝といえば、濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、棟方志功、芹沢C介といった巨匠の名を覚える。柳宗悦のことを知るようになり、昭和50〜51年(1975〜1976年)ごろには日本民藝館に出入りするようになった。民藝館には同人室があり、そこには民藝派作家の物がいつも並べられていた。その物を観ながら、つくり手の方々が民藝の人たちであることを認識した。そうしてさまざまな情報を得ながら、吸収していった。鈴木繁男の名前はそのころから耳にしていた。鈴木という姓は日本中にあるが、鈴木繁男というのは収まりのいい名前で、はじめから格の違いのようなものを感じていた。しかし、この名前は頭のなかに入っているだけで、当初はそれほど大きなインパクトはなかった。民藝館に何度か通っていたときも展示室に鈴木繁男さんの制作した物があっても、私自身の眼の弱さからあまり印象には残らなかった。この仕事に入って間もなく、つながりがあった小石原焼の太田熊雄さん(この連載記事のvol.56を参照)が年に一度の日本民藝館館展の審査に加わることになり、民藝館に来られた太田熊雄さんから館展についてのお話しを聞き、民藝館展に興味を覚えた。そして、私はいっそう民藝館に足を運ぶようになった。

出会い

 そうして民藝館の展示を眺めていた当時、民藝館専務理事である田中豊太郎翁が腰に手を当てて館内を巡廻していた。ちょくちょく私が観に行くものだから、「おい若造、何しに来たんだ?」と田中さんに声を掛けられた。当時の民藝館へ見学に来る人は1日10人くらいと少なく、とくに若者の来場は珍しかったのだろう。「そんなに民藝に興味があるのなら、この館の展示を手伝いなさい」と田中さんからいわれ、もちろん喜んで手伝いに行くことになった。
 そして、民藝館の職員、田中洋子(現・擁子)さんとも知り合った。彼女は九州の出身で、実家に年に何度か帰省するさい、小鹿田焼を含めた九州の各窯場を回ってきていた。とくに小鹿田は大事だからと民藝館から担当者として派遣されていた。そんな田中さんから小石原や小鹿田の話を聞いているうちに、私は急速に彼女との距離が縮まっていった。彼女の後押しもあって、民藝館に手伝いで出入りするようになった矢先に、濱田庄司さんが亡くなられた。濱田さんを偲んで、急遽、民藝館の展示が濱田さんを特集するものになった。その展示の手伝いに行くと、藍の作務衣がよく似合う、仙人のような風貌の老人が館内を動き回っていた。その人が鈴木繁男さんだった。姿勢がとにかくよくて、透き通るような声で明快に話されていたことに強い印象を受けた。自信に満ちあふれるスタイルになんとも惹かれた。

自宅

 その直後、親しくなったばかりの盛岡光原社の及川隆二氏と仙台光原社の及川紀一氏ご兄弟が北鎌倉で開店したもやい工藝を観に来た。そのあと、一緒に出雲に行くことになり、浜松駅で待ち合わせをした。浜松では光原社と関わりのある芹沢C介さんの展示会を美術館でおこなっていて、それを観に行くために待ち合わせしたのだった。及川さんは美術館に行く前に、磐田(いわた)で挨拶に行きたい人がいるという。磐田には鈴木繁男さんがおられるとのこと。私も話してみたいと思い、喜んで二人を浜松駅から自分の車に乗せて鈴木さんの家を訪れた。及川さんは私を紹介してくれた。民藝の先生は素晴らしい家に暮らしているのかと予想していたが、磐田市立図書館の裏側、神社脇のいくつかある簡素な住宅のうちの一軒だった。この家を訪ねたとき、誰も出てこなくて鈴木さんがはじめに現れた。ここは鈴木さんが一人で住まわれているのかなと思った。鈴木さんは玄関を入ってすぐ左の6畳間ほどの小さな応接間へ通してくれた。その部屋には所狭しと物が並べられていた。民藝館で眼にする展示と同じように、きれいに、ただし民藝館より数多く並べられていた。私がそれをうろうろと眺めていると、「君は若いけれど、こういうものに興味あるのかね?」というのが、鈴木繁男さんがはじめて私に掛けられた言葉だった。部屋には民藝館にあるような物がずいぶんとあって心打たれましたと答えると、「なかなか物が好きなんだね」と言われた。そして「君は今、何をしているんだ?」と尋ねてきたので及川さんが北鎌倉で店を開いたことを説明してくれた。すると「北鎌倉はよく行ったんだよなぁ」と思い出話となった。鈴木大拙さんが東慶寺におられたので、柳先生の指令で届け物を持って行ったり、柳先生に渡す物を受け取りに行ったのだという。そのときに鎌倉山に住む棟方志功のところも回って帰っていたとのこと。鈴木繁男さんの口からはさまざまな人の名が出てきて、そのたびにそれら民藝の先駆者が身近になってくるように感じられた。

仕える

 その会話の流れのなかで、濱田庄司さん亡き後、次の日本民藝館の館長に柳宗理(むねみち)さんになった話題がもちあがった。柳宗理さんはスクーターなどをデザインする工業デザイナーなのに民藝館と何か関係があるんですかね、と私が生意気にも言うと、鈴木繁男さんはゲラゲラと笑った。そして「本当は弱ったもんだな。ただ、館長に収まるのは彼しかいない」と言った。いろいろな人たちの意見もあっただろうし、ふさわしい人が実はいたんだ。しかし、その人は人柄に欠けるという。いっそのこと鈴木繁男さんが館長になったら? 冗談ではなくて、先生しか適任者はいないのでは?と及川隆二さんが何気なく言うと、鈴木繁男さんは「何てことを言うんだ」怒った。私は生涯、柳宗悦のもとで生きていく。柳が亡くなったこれからも、柳のもとで生きていく人間だ。柳と同じような立場に立てる人間ではない。柳の親父こそ民藝館の館長であり、終生永遠に柳宗悦が民藝館の唯一の館長なのだと言った。柳宗悦は死んでしまったではないかと、こちらは思うのだが、そういう問題ではないと。誰が館長になろうと、この民藝館は柳宗悦ひとりがつくったのであって、柳宗悦以外に民藝館の館長はいないと鈴木さんは断言した。自分が館長になろうなどと考えたことはないが、柳家の人間が継ぐのならばぼくは生きている限り、それを守らないといけない立場なのだ。柳あっての民藝館なのだと。他の誰もが館長になってはいけないのだと。濱田の親父(濱田庄司)も実はそうだったんだとはっきりと言われた。自分はずっと柳に仕えてきて、これからも仕えていくんだと鈴木繁男さんは明言された。

鋭い男

 その話のなかで、ついこのあいだショッキングなことがあったと言われた。NHKのテレビ番組に「評伝 柳宗悦」というドキュメンタリー番組の制作にあたり、そのプロデューサーがなかなか鋭い人で、柳先生の思い出を語ろうとしたときに、いきなりマイクを突き出されて「柳宗悦は民藝といっていたけれど、先生自身にとって民藝は何なのか? それから貧の美というけれど、柳宗悦は貧しくなかったではないか。なぜ貧の美がわかったのだろうか?」と聞いてきたそうだ。それから雪国の話をしたときには「東北の貧しさといいながら、貧しさを柳は知っていたのか?」と言われたという。今まで一般の人からこれほど鋭い問いかけをされたことはなかった。NHKにはそんな人がいるんだと鈴木さんは感心した。このプロデューサーは阿満利麿(あまとしまろ)さんで、NHKを辞め、後に宗教学者になった方だった。物について感動する心ははさほどもっていなかったかもしれないが、近江出身でもともと浄土真宗の寺を継がれる立場だったことから、柳には精神論的にアプローチしてきたのだろうと。その後、私は阿満先生と親しくなる。

訓練

 書生として門を叩いて柳のもとへ入った鈴木さんは、そのさい、本が好きだったからリュックに本を詰めて行ったという。すると柳にその場で中身を開けろと言われたので、見せると、1冊1冊をチェックされ、喜ばれるのかと思っていたら、全部取り上げられてしまった。「これから君はすべて自分の言うことを聞いて生きてくれ」と柳に言われたのだという。要するに100%自分を信じてついてこいという意味なのだろう。しかし、鈴木さんは非常に不満に思ったとか。翌朝、朝食をみんなで一緒に食べることになったとき、柳がいきなり茶碗を差し出してきたが、鈴木さんは黙っていたという。すると「君、反応が遅いよ!」と柳に怒鳴られた。「眼の前に出てきた物を、必ず佳いか悪いか答えなさい。これから毎日、君を訓練する」と柳にいわれたそうだ。

期待

 鈴木繁男さんの話を聞いていた、何かこの人は生きていく上での力がある人だなと感じ、惹かれた。明快でぶれない。透き通る声ではっきりと言う。それから姿勢がよい。さらには言っていることに間違いがないと思わせる。こういう人が民藝の先生に呼ばれるのかと思い、とても驚いた。濱田庄司さんが亡くなる1年半ほど前に、たまたま益子へ行ったときに濱田さんの家に寄ったら、おられて、これから益子参考館をつくるからと、収蔵品をいろいろと見せてもらったことがあった。それらの物のなかで一番印象に残ったのはスリップウエアだった。私が今、堂々とスリップウエアの批判をしているのは、このときに濱田さんからスリップウエアの意味合いを教わり、バーナード・リーチさんから聞いたことを伝えてくれたからだ。この濱田さんから聞いたことを何年か後に鈴木繁男さんに話した。実はこのとき、鈴木さんからはバーナード・リーチのスリップウエアの真骨頂的話を聞いていたのだが、同じ内容の話を濱田さんから聞きましたよと言ったら、「そうか、君は濱田からそんな話を聞いたのか」と、私はこの話を聞いて眼からウロコどころではなくて、理解はできなかった。ただ、濱田さんの優しさをとても感じましたと話すと、「久野君、それは優しさではなくて、期待なのだ。若い人に少しでもそのことを認識してつないでいってもらいたいと、きっと濱田の眼には君がそれをできる人だと映ったのではないか」と鈴木さんに言われた。このことは昨日のことのように私は覚えている。

凝視

 濱田さんの家に伺って、わずか2週間後のことだったと思う。日本民藝館展の講評会初日を私は観に行った。当時は審査会から講評会までの期間が長く、その講評会に大牟田の民藝店店主、福田豊水さん(この連載記事のvol.30に登場)に誘われて初めて足を運んだのだった。そのとき、濱田さんに会ったが、私の顔をじっと観ていた。それでそばに行き「このあいだはありがとうございました」と言っても、私と会ったことはまったく覚えていない。では、なぜ私の顔を凝視するのか、何かまずいことをしたのかと思った。その話を鈴木さんにすると、「濱田はすごい感性の持ち主で、君はきっと民藝のなかで役に立つ人間になると、何かを感じたのだろう。実は私も君に会ったときにそう思った。普通の若い人だとは思わなかった」と言われた。それで私はこの道に生きていくのかなと、想いを強くした。

絶賛

 濱田庄司さんを偲ぶ展示会では、その展示の大部分を鈴木繁男さんが担当されていた。そんなときに講談社から「現代の陶芸」が出版され、シリーズの一巻に鈴木繁男さんのことが書かれていた。生い立ちから、民藝に入ってくる過程、民藝のなかでどういう役割を果たしてきたか、水尾先生によって書かれた文章を私はむさぼるように読んだ。この本により、雑誌「工藝」という大変な本の装丁を鈴木さんが途中からひとりでやられたこともわかった。しかも、毎号1000部近い部数をこなし、漆の絵で描かれたことは凄いことだなと思った。それで鈴木さんへの認識が強まった。
 民藝館の展示を手伝いに行くようになると、鈴木さんがいつも来られていて、1階の床に大谷石が敷かれた、とても美しい空間の大広間(民藝館の改築後は2階にある)で藍の作務衣で、颯爽と展示する姿が目に焼きついている。展示のときの休憩時間にお茶を飲んでいると、鈴木さんが、柳宗悦はどういう人だったのかひとりでしゃべりまくった。柳との思い出をみんなに語ることが鈴木さんの原動力になっていたのだと思う。自身の生き方や展示に対する想い、強い方向性を言葉にして出していたのだろう。そんなある時、今でいう主任学芸員の立場である佐々木潤一さん(この連載記事のvol.81に登場)から世田谷区桜新町のお住まいに、「久野ちゃん、うちに遊びに来ないか?」と誘ってきた。「今日は鈴木繁男さんが民藝館展の展示作業で来ていて、泊まる宿がないから、うちに泊まることになった。一緒にどうですか?」と誘われ、それで鈴木さんと一緒に車に乗っておじゃました。私がそのとき、民藝館展に出品したなかに、佐渡島の裂き織(この連載記事のvol.12で紹介)の紺一色の敷物があった。6畳ものとても大きな物だった。このサイズだから、織り手のおばあさんも懸命に織ったと思うし、藍の材料も膨大な量を私が九州の久留米絣の産地の廃品回収業者の中から集めてきた。それを出品したらB入選(準入選)にしか選ばれなかった。そのときの審査担当の柳悦孝さんいわく「藍の布を裂いてただ織っただけだから裂織はここでは織物ではない」と酷評したそうだ。ただし、藍の布をこれだけ集めた努力を認めて準入選させてあげようという講評会での話だったらしい。私はそれを聞いてショックだったが、鈴木繁男さんとは佐々木さんの家に向かう車中でこう話した。「今日は大変な買い物をしてしまったんだ。今年は欲しい物は無かったのだが、ひとつだけ欲しい物があった。それは、藍だけで染めた無地の敷物だった。これには眼を奪われたね。こんなことをする人がまだ世の中にはいるんだな。材料自体を集めることも大変だ。それを裂き織にすることも大変だ。織った物に嫌味がない。まったくいばっていない。この無地の静かな美しさを理解できないのは物が見えてないのだ。このごろの民藝館展は女子美の卒業展みたいなもので、自己主張を表そうとする布ばかりが目立つ。しかし、一緒に並べられる編組品や小鹿田焼などの地方民窯の活き活きした物を観ると凄いよな。あんな凄い物のなかに女子美の卒業展のような物が掛かっていて、しかも自分の名前を出して作家などと謳うなんてとんでもない。そこへ紺の無地の物がバーンと並んでいたら、それは君、こんないい物はないよ。ほかにもいい物があるのに、それがB入選になっている。B入選になることも優れて大切なことなのだが、Bのなかでも一級品だよ。こんな物を選べないなんて駄目だよ」と。私は嬉しかった。実はその藍の材料は自分が集めたと言っても、はなからそう思われていなかったから、「ああ、そうかね」と一笑に付された。おそらく私が努力して集めたとは考えられなかったのだろう。ただ、鈴木さんに明快にそのものについて、思い切り褒められたのは嬉しかった。

「現代の陶芸」(講談社)
雑誌「工藝」の表紙(写真は「現代の陶芸」より)
佐渡島の藍の裂き織

湯呑み

 その晩、食事を佐々木さんの家で共にしながら、鈴木さんは柳宗悦の思い出を話された。その話から鈴木さんがいかに柳を愛して尊敬していたかと同時に、いかに恐れていたかということも言葉として表れてきた。柳宗悦に教わりながらも、そのことが自分の人生を左右したことなのだと話されていた。それから、鈴木さんとのつながりがいよいよ始まっていき、民藝館の展示を必ず手伝いに行くようになった。鈴木さんは展示責任者だったが、新たな館長に柳宗理さんが入ってこられたので、その意向を聞いて展示するようにしていた。柳家を大事にするのが自分の大きな役割なのだと、鈴木さんははっきり言っていた。
 同人室では鈴木さんの制作した物も飾られている。私はその頃、小鹿田焼、坂本茂木さんの湯呑みと並んで、最も好きな湯呑みがそこには展示されていた。その湯呑みへの想いを鈴木さんに話すと「久野君、これは白磁ではないんだ。磁土は使ってはいるけれど、最も安い磁器の土を使っている。碍子に使う、鉄分を含み、粘りもあまりない最悪の土を使ったんだ。その土に絵付けをしてつくりあげるということが自分の挑戦でもある。いい土を使えば誰にでもできるけれど、こういう捨てられるような土を活かすのが自分の役割じゃないかな」と言われた。鈴木さんはなぜこの磁器づくりに関わったかも言及された。「君は古伊万里の猪口が好きだろう? くらわんか(江戸時代、京都と大阪の間、淀川を行き来する船の中でご飯を食べたり、おかずを入れたり、酒を飲むための雑器類のこと。「メシをこれで食らわんか」という表現から由来した名称。この連載記事のvol.10で解説)はどうだ? 民藝館にも展示してあるが、この磁土は波佐見でほとんどつくられたもので、そこの土は良質でない土だ。その土を使ったから、くらわんかは一般民衆の器になった。粗い土があれだけの物を生み出した。自分もそれに挑戦したい」と言っていた。

民藝館の同人室でこの皿を観たときショックを受けた。
コバルトがどうしてこんなにも激しい文様になるのか。
非常に収まりがよくて、磁器だとか、陶器だとかを超した勢いのあるものを感じる。
鈴木さんの自信に満ちた口調が具体的にこの皿に表れている。
濱田の大胆で無心の如く描かれる流し掛けに対して、自分の本質をぶつけたいとの思いから、
貴重なゴスを筆に含ませて皿の平面に打ち当てつける。
同じものは二度と出来ない、それでいて作為を感じさせない。
ここに鈴木先生の民藝に対する神髄がある。
(写真は「現代の陶芸」より)
私はこれまでいろいろな湯呑みを観てきたけれど、いちばん好きなのがこの湯呑み。
これに勝るものはないと思えるくらい(3つの湯呑みの写真は「現代の陶芸」より)

展示の極意

 鈴木繁男さんは大広間と古陶磁の部屋の展示をされていた。鈴木さんは展示にあたって、いつもテーマを決めていた。展示室におられる鈴木さんに私が密着していると「君、倉庫のこのへんにこういう物が置いてあるから持ってきなさい」と指示された。それだけなのである。倉庫に行っても、どこにあるのかわからない。それで聞いたら自分が駄目な男になると、必死になって探した。何とか持っていくと「これじゃないよ!」といきなり怒られた。この隣にあるだろうと。ということは鈴木さんの頭のなかには、倉庫のどこに何があるかきれいに入っているのだろう。記憶力がいいのではなく、物で覚えている。眼で覚えているということがわかった。物を観るときに頭で覚える人はよくいるけれど、鈴木さんは眼で覚えていた。それに頭のいい方だから両方で覚えられたのだろう。
 鈴木さんの指示のもと物を並べるときには「右へ行け、左で行け、寄せろ」とか指示を出された。腕を組んで「はい、こっち、はい、こっち、はい、真ん中、はい、もうちょっと前、はい、ちょっと後ろ、ずらせ、右、左」と細かく、細かく言う。そうやって並べてから「久野君、ちょっと来なさい」と鈴木さん。「部屋にどうやって人は入ってくるかね?」と聞くので、「はい、ここから入ってきます」と入口を示すと、「そこから観たときに、視野というのは120度だ。眼の視点からいうと、その範囲でしか見えていない。だから60度の範囲内で物がきれいに見えているか、まず確認しなさい。そして120度の範囲全体がいいなと思えるようにしなさい。それから、ここから入ってきたときに、どうやったら物が見えるか、そこに立ったときに何が見えるか、全部物が見えるならいい。そう見えるようまず考えなさい」と言われた。
 さらにこう続けた。「それからこのなかの物でどれが中心か? 物というのはセンターを決めて、センターから広がっていくのだ。センターをとって、そこから左右均一になるように物を観ていき、しかも対角線を観なさい。対角に物がある。すべてに対角に物を並べるようにすると眼はきちんと収まるのだ」と。
 畳1枚のショーケースがあっても、そのなかで眼に入る範囲は120度しかないのだから遠くから全体を観たときに並べられた状況が見えていれば、そのまま接近していっても120度の範囲で物が見えるように配置しなさい。それが全て対極にするよう配置しなさい。対極に収まりがあり、どれが際立ってよく見えるのではなくて、全体が均一に見えるようにしなさい。自分の好きな物をそこに置いては駄目なんだと。この物のなかでどれがいちばん大事なのかをまず見極めて、それをセンターに持っていき、観てみる。それでセンターをずらさなければいけないときはずらし、それに対向する物をもってくる。こっちが強ければ、その強さを消すためにいくつか弱いものを2つ3つ並べることで調整し強さを消せ、平均に物を観ないといけなんだということを教わった。
 そうレクチャーされたあと「はい、やりなさい」と鈴木さん。君が並べなさいと。いきなりそう言われても並べられるわけがない。しかし鈴木さんは「この3段の棚を君が展示しなさい」と。緊張して物をぶつけたり、手を抜きたくなると、後ろに鈴木さんが腕を組んで立っていた。慣れてくると「自分で自分が進んでいく」というのはこういうことなんだなと思った。河井寛次郎は「仕事が仕事をする」と言っていたが、本当にその通りで、仕事をしていると思うと、その仕事がどんどん進んでいくのだ。早めに仕事が居終わる。すると鈴木さんに全部変えられる。鈴木さんの指示のもと私が変えていく。そうやって部屋の展示が完成されていくのだった。

役割

 濱田庄司さんが亡くなって、柳宗理さんが館長になった後、昭和53年(1978年)の日本民藝館展の講評会で鈴木さんはこう言われた。「これからはたった一人の強い眼をもった人間が選ぶのではなくて、その強い眼をもった人に影響を受けたと同時に柳という人間の物の見方を正統に受け継いでいく人間が集まり、これからは集団で物を選んでいかないといけない時代になるんだ。これからの時代はあっという間に変わるだろう。物の見方も変わる。しかし、まだ自分たちが生きている間はこの流れを変えずにいく。ただし、一人の強い意見によって左右される時代ではない。それだけは認識してくれ。新しい館長が来て、新しい館長の眼によって選ばれる。民藝館の使命はたったひとつ。正しい物を正しくを選ぶ役割を果たすのだ。それができないのなら民藝館の館長の資格はない」と。