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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第2回

鈴木繁男さんのこと 第2回

2014年6月25日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

 第2回目ですが久野個人の民藝人生に大きな影響を与えていただいた鈴木先生の製作した品など保管場所が見つからないので、見つかり次第、次々と出していきますのでお許しください。さらに第2回目ですが第5回まで続くでしょう。

 

 今になって思えば、鈴木繁男さんに出会い、物の見方を知ったことが、自分自身の内実を深めることで今の立場で生き方の方向を決めることになったのかなと思う。しかし、当時は夢中にただ言われたことに、民藝の歩んできたこと柳宗悦と同人たちの真実の実態を鈴木さんから聞き学びたいという気持ちが強かった。そんな鈴木さんとの思い出を再び語る前に、鈴木さんがどういう人物だったのが、改めてここで自分なりの感覚で述べておこう。


 鈴木さんは静岡県磐田市に漆の職人の家に生まれた。それで当初は漆芸家を目指していたのかもしれない。しかし、物がよく見えたり、幅広く仕事できることがあって柳宗悦のもとに呼ばれた。そこで柳のやりたいことをすべて体現し、命ずるままに取り組み、自己の工芸家への道をつくりあげていく。ちょうど日本民藝館ができた当時で、展示用の台やケースの漆仕上げなどの塗装をされた。柳のそばで助手であり協力者であり愛弟子として成長していく。柳が文字であらゆることを表していたから、それ以外のことは鈴木さんがおおよそ手配していたのだろう。
戦前、漆研究のため柳から命ぜられ岩手県におもむき、更にその後、盛岡の光原社に頼まれ、漆の職人たちと一緒に仕事をしながら漆の現代化を図るための研究もおこなった。結局、鈴木さんは何者だったのかとひと言で表すならば、柳宗悦の形見がわりで手足となった人物だった。超一級品の才覚を多彩に持ちながら、ずっと柳に仕えていた。柳は彼を大作家にさせたいのではなくて、手を動かせない自分の代わりに彼にそのものを体現させようとしていたのかもしれない。

柳家を守る

 昭和52年(1977年)に濱田庄司が亡くなられ、翌年に柳宗理が館長として日本民藝館に入館された。柳は館長としてはじめて臨んだ日本民藝館展で民藝館賞に選んだのが、熊本小代焼(しょうだいやき)、ふもと窯の井上泰秋(たいしゅう)さんの糠釉の大鉢だった。私の眼では井上さんにしては力のないものだと感じた。
薪の代わりに重油で焚く窯を使い、藁灰を主体とした釉薬を掛けるために焼き物は黄色くなる。そしてぜんたいがもやっとした強さをまとう。これが井上さんの窯の特徴だった。当時の井上さんの仕事は勢いがあったし、魅力的だった。
この窯の近所の福田豊水(とよみずさん)は素人から焼き物を始めて民藝派作家のような存在となったが、井上さんは叩き上げの人だった。福田さんは経済的に恵まれていていたことで登り窯を、昔の小代焼の窯が近くにあったという代々の自分の土地につくった。後から仕事を始めた人が登り窯を設けたということで、井上さんは自分の立場もあって、その翌年に登り窯をつくる。しかし、井上さんは重油を使うため、登り窯との相性からかつての黄色ではなく白がかった焼き物が多く出来るようになってしまった。
それでも、民藝に際立った人たちがいなくなり、その頃から元気があるとか、勢いがあるとかの見方をしない人たちに変わってきていた。つまり、強さがなくても民藝館展で通用する時代になってきていたのである。
私が見ても、力がない白味の深い調子のもだったが、柳宗理館長はとても喜び、館展の講評会のときに「雪が降ったような感じがある。とても清廉だ」と評して館賞に選んだのだった。
この評価に私たちは反感を持った。鈴木繁男さんは後に、この井上さんの焼き物を「雪が降ったなんて表現しては駄目だ。勢いが全然出ていない」と断言。私は鈴木さんらしい感想だなとすがすがしく思った。
しかし、鈴木さんには柳家を守るという使命感があって、講評の場ではその批判を口に出さなかった。柳宗理(むねみち)を「みっちゃん」と親しげに呼んで、とにかく守ると、盛んに言っておられた。鈴木さんは館長と同年齢で、柳家に仕えたことで御曹司として目上の人としての同じ立場であった。

柳宗悦の威光

当時の日本民藝館展では分科会はそうそうたる民藝の先生方による審査が行われ、講評会では各部門別に分かれてそれぞれの権威ある先生が物を評価した。私はカゴ類を選んでずいぶんこの会に出した。「編粗品その他」という部門なのだが、木工関係の物も入ってきていた。この分科会では富山市民藝館の初代館長である安川慶一、松本民藝家具の創始者である池田三四郎、青森で「つがる工藝」という店を営みながら青森県手工藝研究所を立ち上げた相馬貞三、つくり手に対する優しい眼差しを持っていたその当時の「銀座たくみ」の上野洋治、それから熊本人吉の民藝店「魚座」の店主である上村正美が審査をおこなっていた。(全員故人)
私が出品した九州のカゴが不当に低い評価をされていたことに不満を述べると、池田三四郎さんに「(不服を言うのは)10年早いぞ」と言われた。池田さんは民藝館展の権威を守らないといけない立場だったのだろう。
そのとき、偶然、鈴木さんが通りかかった。会に入ってきて「何か面倒くさいことをしゃべっているな」と独特の大きな声で言う。私の不満に対して鈴木さんは即座に理解を示すと、池田さんが民藝論を語り始めた。鈴木さんは「直に物を観て、よいか悪いか判断する場で柳の哲学や宗教論を話ししてもしょうがない。物はよいか悪いかをちゃんと選べるかが肝心なんだよ」と怒鳴りつけた。すると、池田さんもさすがにあせり、「君はいい方のもとにずっと居てよかったね、うらやましい」と言われた。
私が不服とした件は結局、棚上げになってみんな黙ってしまった。民藝の世界はいったいどうなっているのだろうかと思った。権威はないけれど、柳という名前がひと言出たことによって全員黙る。しかもそれで肝心な話しがおろそかになっていくことが強く印象に残った。亡くなったあとでも柳の名前一言ですべてが決まるのかと。

工人の力を引き出す

そのうち鈴木繁男さんに会う機会が少しずつ増えていった。あるとき私の仕事を見たいと、北鎌倉の私の店に鈴木さんが来られた。「君の店はこれからきっと大きくなるだろう。物の選び方はきちんとしている。ここにあるのは現代民藝品の一級品ばかりだ」と言われ、嬉しく思った。このとき、工人の指導の話しになって、自分が各窯場で「こんな仕事をしたらどうか」と工人に話しをしていると言ったら、「それはとても大切なことで、自分も砥部焼でやっていた。しかし、砥部焼は閉塞状態になって今は退いていて、たまにお呼びがかかるくらいだ。前はずっとここに住み込みしていたんだ」と自分がどういう立場で仕事をしていたかという話になって、自分も職人のひとりとして仕事をしてきた。決して人を指導するとか、人に命じてつくるとかではなくて、工人たちの力を引き出すことが大事。よさを汲み取ることが大事なんだと鈴木さんは言われた。

夜通しの会話

当時の私は島根県の出西窯によく足を運んでいた。昭和53年(1978年)後半のことだったと思うが、出西窯の代表、多々納弘光さんから窯を指導する人として鈴木さんにお願い出来ないかと相談された。すでに20年ほど前には出西窯は鈴木先生に依頼したとのことだったが、そのままになっていたとの話である。私は鈴木繁男さん本人に掛け合った。鈴木さんはそれでは話をよく聞きたいと言い、君が僕を連れて行けといわれた。
ちょうど私は九州へ行く途中なので、鈴木さんのお宅によったところ、鈴木さんは私に紹介したい人がいると浜松へ連れて行かされた。当時浜松で「キッド」という工藝ギャラリーを運営している方で、静岡の民藝運動をサポートされていた。特に浜名湖畔に自生する葦の素材を入手する力があり、その素材はラッシュといい松本民芸家具の素材にかかせない素材であった。その方とつながれば私がこれから伸びていくのにいいのではないかとどうやら鈴木さんは考えたようだ。結果的には全く無駄であった。
鈴木さんは車で島根まで行くのはつらいから交通機関で現地に向かうから、出西窯で落ち合おうと言われた。そして鈴木さんとは出西窯でおちあい2日間ほどつきあった。このときから出西窯での鈴木先生の指導が始まる。この2日間、鈴木さんとは床を並べて、一晩中話を聞くという経験をした。このときの話が鮮烈に記憶に残っている。特に柳宗悦先生との関わりについては強烈な話であった。心底から尊敬しつつもその反面反発心も持っていたと言われた。さらに鈴木さん自身のことをはじめ、柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチ、富本憲吉、芹沢C介、それに実は非常に親しかったという棟方志功など名だたる民藝の大先生のプライベートなことを聞いて驚いた。とくに印象に残っているのは、柳に対して自分の一生を捧げるに値する人物という尊敬の念の強さと、その反面、憎しみをも混在してもっていたことだった。弟子と師匠という関係ではなく、自分と同じ血が流れているかごとく思っておられた。感覚的にご長男である柳宗理さんとは全然異なる、親子のような関係を柳宗悦さんとは築いていたのかなと感じた。個人的な感情で柳宗悦を信奉していたのではなくて、体と心をすべて柳に委ねているようで、こういう人間関係があるのかなと思った。それは昔の人の気質なのか、鈴木さん自身の性格なのか。
鈴木さんは学歴はないけれど、きわめてインテリで、非常に頭の切れる方であり、天才肌の芸術家だった。天才でありながら奇人変人のところもあり、複雑な人だった。言動に一貫したものがない場合もあるし、裏腹のことを平気で言ってしまったり、ちょっと弱い部分もあったり、私が尊敬し、とても親しくさせてもらっている小鹿田の陶工、坂本茂木さんとか、倉敷ガラスの小谷真三さんとどこか通じるものがあった。

美を伝える

鈴木繁男さんは物に対して好きとか嫌いとかではなくて美を吸収できた人だった。そういう眼が備わっていた。柳宗悦がやろうとしていたことをきちんと汲み取って、同じ次元で物に対して働いた。柳が物を発見し、その物の善し悪しを説いて、その物の価値を知らしめた人だったけれど、鈴木さんは具体的にそれを展開して幅広く身近な人に伝えるという大きな功績があった。鈴木さんは常に「柳はたった一人の思いつきで物の見方で選んでいたんだ。それに濱田がくっついていったんだ」と口にしていた。濱田にしても芹沢にしてもくっついていくことで柳と同じ次元に立って物の制作に入っていったといえる。
私にとって大きな力を得るような話を聞くことができたこの旅を契機にして、鈴木さんとはより一層親しくなっていった。私が西日本へ出かけたときには帰りがけに寄ったらどうかと誘われ、磐田に寄っては3〜4時間ほど話をしていた。鈴木さんの自宅では家族はまず出て来ない、家族の方とは誰とも会ったことがなかった。玄関に入ってすぐ左側の6畳間が鈴木さんの部屋で、そこで持っていた物を見せていただき、その物のよさを述べていた。鈴木さんは教えるのではなくて、どうしてこれがよいのかを話されて、私が横で聞きながらなるほどと頷いていた。

新作運動を提唱

のちに鈴木さんは大阪民藝館に行くようになった。そもそも、この民藝館には鈴木尚夫(ひさお)という非常に眼が利く展示室長がいた。独特の感性があり、好き嫌いが激しく、信頼感が薄れたのか、その後大阪民藝館から退職されてしまった。大阪民藝館の館長は日本民藝館の館長が兼任する。ただし、大阪民藝館は万博協会が経営していて、この協会には関西の財界人たちが集まり運営されていた。そのなかでいちばん力を持っていたのが日本生命だった。当時の弘世 現(ひろせげん)さんという会長がとても民藝が好きでバックアップしてくれていた。この大阪民藝館の展示を鈴木繁男さんは任されるようになった。
当時、鈴木さんはこれからの民藝についてよく考えられていた。というのも、柳宗理さんのデザイナーとしての動きに本質的な批判をしていたからだ。宗理さんが巻き起こした工業デザインは民藝の本質を変えていくようなところがあって、館長就任してしばらくの間に柳宗悦さんの周辺にいて民藝を深く考えて仕事していた人たちは反発。徹底して批判し、離れていった。それで民藝協会の勢力が一気に落ちて3,000人くらいいた会員が半減した。民藝協会の第一期の没落は柳宗理さんが原因だった。柳宗悦を信奉してきた白樺系の物が好きな人たちが離れてしまった。残ったのは柳宗悦と非常に親しかった人たち、たとえば芹沢C介や外村吉之介といった方々は宗悦のご子息であること、それから顔つきがとても似ているからと宗理さんをかわいがった。鈴木さんは宗理さんを守らないといけないとしていたが、同時に手仕事の存続をものすごく考えていたのだと思う。新作民藝運動をしないといけないのだと言っていた。
新作民藝運動を展開したのは、鳥取の吉田璋也(しょうや)さんや外村吉之介さん。しかし、鈴木さんは外村さんとは一線を画していた。外村さんの独特な民藝の広め方にも本質的でないという気持ちを抱いていた。また、吉田璋也さんについては、立場の相違を明確に持っていたようで、人柄がよい方と思っていたようだが、吉田さんの新作民藝運動に対しては一定の評価を持ちつつも位相の違いを感じていたといっておられた。
私もその後、鳥取民藝美術館に出入りするようになったときによくわかったのは、吉田璋也さんは当時鳥取地方の著名人であり、富裕者であり文化運動の権威でもあった。だからといって取り立てて優れた芸術的センスを持っていたわけではなかった。鈴木さんが私に期待したのは精神的な部分も含めて、柳が願った美の王国への継続とそれを支えるつくり手たちに、新たな現代民藝品づくりの推進役としての新作運動を展開してほしいということ。それは君しかできないと言っていた。自分も大阪民藝館で新作の物を集めて展示していきたいから君の力を借りたい、一緒に歩こうと言われた。
最初に新作民藝を推進するために共に向かったのは大阪に近い丹波の里だった。その後、この鈴木先生の丹波行きは私からすれば余計なことをしてしまったとの反省がある。またそれはいずれ明らかにしなければならないであろう。またその当事者たちが存在しているからだ。

焼き物をつくりたい

自分はどうしても焼き物をやりたかったと、鈴木さんはよく口にしていた。どうしてやりたいかというと、クリエイティブなことをしていきたいから。焼き物は短時間で直裁的な感覚でつくれるのが魅力。鈴木さんは直裁的な人だったから惹かれたのだろう。鈴木さんは昭和14年の民藝協会の沖縄旅行に同行した。ほとんどの民藝同人はそれぞれの分野ので研究や課題があり、とりわけ琉球の焼物、織物など、この日本民藝協会沖縄旅行はこれまで知られなかった琉球文化を日本に知らせることになった大変なものであった。しかし鈴木さんは取り立てて何らかの専門家でなかった。無論漆では自信もそうだが大変な見識はあったが、琉球の漆器に関していえばやや薄く、柳より命じられたことは写真家の土門拳とともに坂本万七の助手を務めたことが主だったそうだ。壺屋では濱田庄司が懸命に仕事をしていたが、濱田の前で壺屋で焼き物に触ろうとした。その瞬間、素人がのこのこと入っては駄目だ、二度と来るなと濱田に怒鳴られたという。これがとてもショックだったらしい。濱田は鈴木さんを警戒していたのかもしれない。このときから鈴木さんは焼き物をつくりたいという想いを強くした。
この協会の渡航は、沖縄の赤絵を描いて販売することで費用を捻出していた。沖縄から蒲田に焼き物が届き、それに芹沢C介が赤絵を描いた。しかし、芹沢一人では描ききれないほどの量だったので、鈴木さんが柳に手伝いに行って来いと言われた。芹沢とともに赤絵を描き始めたのだが、そのときに沖縄から送られてきた焼き物のほとんどが濱田が選んだ物らしくて、当時は若かった金城次郎が挽いた物だったらしい。自分のところに回されてくるのは歪んでいたり傷が付いている物が多かったという。悔しかったが、芹沢が描くのを横で見ながら、よし、負けるものかと赤絵を描き出した。鈴木さんは宋時代の赤絵にとても興味があって沖縄の器物は宋の影響を受けているのを知っているから自分でも書き出したのだそうだ。蒲田で二人が描いた焼き物はデパートに並べられた。そのうち日本民藝館にと柳が選んだのは鈴木さんが描いたものが多かった。
この評価がより一層焼物に向かう気持ちが募ったという。しかし、焼き物をやることはとくに柳から反対されたそうだ。濱田は賛成したそうだが、濱田はこう考えていたのだと思う。鈴木さんがどんなに頑張っても焼き物はつくれないと。四十の手習いではできるわけがないのだ。案の定、鈴木さんがロクロで挽いた物ははっきりいってよくない。湯呑み茶碗など小さな物はじっくり時間をかけてつくるからいいけれど、造形的な物は残念ながらよくなかった。鈴木さんは朝鮮の焼き物を復活させたいという気持ちが強いから、どうしてもそれにこだわる。それで大失敗するのだ。磐田の近くに自分の力で窯をつくって焼き物を始める。そのときに腰の骨を痛めて入院した。それで焼き物は諦めるのだが、そのくだりを聞いていると、とても短時間で漆の仕事の勉強に行ったり、砥部の窯場に行ったり、いろいろなものが交錯している。そのときに焼き物もやろうと思っている。大変わずかな時間にあらゆる知識や能力をぶつけている。大変な集中力だと思う。しかし窯で何回か焼いたものは売らない。それもまたおかしい。もちろん、つくっても売れなかったと思う。だからそういった複雑なものが鈴木さんに全部のしかかっているのだと思った。だからこそつくった焼き物は人にあげてしまう。実際に販売していたかどうかはわからないが公表はしていない。ただ、造形への自身の深い方向を持っていたことは確かだ。これが鈴木さんの生き方を決定的に左右させたのではないかと思う。能力は卓越したものを持っている。字を書かせても、絵を描いても、やることは超一級品だった。