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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第2回

鈴木繁男さんのこと 第3回

2014年7月23日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

誤解の背景

 戦後の民藝運動は、昭和30年(1955年)前頃から柳宗悦が亡くなるまでの13〜14年間に一般社会にかなり広まった。しかし、その後は日本の手仕事の発掘がなんとなく遠ざけられた感じだった。その一方で、柳の後を追いかけてきたさまざまな人たちによって新作運動が展開され、昭和45年頃まで続く。
柳宗悦が物の収集を自身でおこなっていたかについて、戦後具体的な展開の話が出てこなかったことにより大きな誤解が生じた。すでに柳が見いだしたき民藝品は戦前で終わっていて、戦後になってからは、その役割が無くなったのだと。宗教論こそが柳の民藝の基軸であるのだという考えが、最近は持ち上がってきている。
手仕事の良品を見極められる人、あるいは手仕事の感覚を観て取れる人が少なくなってきたことが、その状況の底流にある、物が好きな人や、物を尊く思って関わる人が減少してきたということで、民藝、手仕事の未来に暗い影を落としている。
私たち手仕事フォーラムの活動もあって、手仕事の民藝品を身近に手にできるようにはなった。しかし、手仕事が継続してきた意味合いをきちんととらえないといけない。

具体的に言わない

先日、このような話を、出西窯の多々納弘光さんとしたとき、結局、柳宗悦の具体的な意見を全国各地のつくり手たちに広げていったのは、鈴木繁男さん以外にはいないと同意見になった。濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチは民藝の巨匠。存在として大きな力を果たしてきた。しかし、具体的にどこがいいとか、こうしたらいいとか、こうやって物を観なさいとか、つくり手や職人たちにきちんと伝えてはいなかった。
日本民藝館展での濱田庄司の審査も「これはおもしろいよ」とか「これはなかなかいね」とか抽象的なのだ。それは民藝的な物の見方での発言なのだが、どうしてこのようにできたのかとか、どうしたらこうなるかとは、ほとんど言われていない。職人的なつくり手たちにとっては、それゆえ理解が難しいからである。それがある意味で一方の民藝が滞ってしまった要因だったと思う。その間に職人ではなくて作家性を帯びた人の存在に多くの民藝同人が偏り、その方向を目指すつくり手が必然的にむかっていくのを増やしてしまった。

物のよさを具体的に伝える

昭和30年(1955年)くらいから15〜16年間、日本民藝館展はよい手仕事品の発掘・発見をしたり、よいつくり手を育てようというよりも、作家が育つような雰囲気になってしまった。それが現代の民藝の沈滞につながってしまった理由のひとつであろうと、多々納さんと話し合った。もちろん、私たち2人も自己反省しないといけないところもある。民藝の創世記から携わってきた人たちと共に歩んできた多々納さんは出西窯を確固たる地位に築き上げたけれど、この窯の当初の目的や健全な道を歩んできたかどうかは、また別の話なのだ。
やはり自分たちの経済、仕事場を育成したり、強化したり、保護するための力を注いだがために、それ以外の方向性にはなかなか手が下せなかった。そういう意味で、民藝運動に関わり、さまざまに提案してきたのは、ごく限られたものになってしまった。たとえば青森の相馬貞三さんはカゴ類などの編組品を中心とした東北の手仕事を紹介し、今に続くアケビ類や山ぶどうの手提げカゴの開発に大きな功績を残した。
茶人でもあった近藤京嗣さんは東北から北関東方面のさまざまな手仕事を発掘。さらに丹波や瀬戸にも行き、つくり手の人たちに今の物に通じる仕事の提案をして、それが定番製品となった。この方も大きな功績があったと思う。
それから鳥取の吉田璋也さん。白樺派の優れた富裕層であり、地域性のなかから育まれた物を発掘して新たな物をつくりだし、それらを販売するための日本で最初の民藝店「たくみ工芸店」を創設した。同時に美術館をも開設し、使うということから食事どころ「割烹たくみ」をつくり三位一体の新たな民藝新作運動を展開したのである。
ほかにも外村吉之介さんや安川慶一さん、池田三四郎さんなど多くの方々がそれぞれの分野で多大な活動をされた。
ただ、一般の人が使いやすい陶磁器や漆製品の造形、絵付け、つくり、あるいは釉薬や陶土の採掘から、その物のよさを具体的にきちんと表してつくり手の人たちに伝えたのは鈴木繁男さんであると思う。多々納さんも同意見だった。
今の時代、自他共に鈴木繁男さんの跡継ぎは私しかいないと思っているけれども、その大きな理由は鈴木さんからさまざまな情報やこれまでの民藝運動に関する経過を聞いてきたからだ。これは私にとって大きな力となった。たとえば柳宗悦が様々な状況の中で本音として何を考えていたか、濱田、河井がどういう経緯で柳と共に歩んできたのか、具体的な事実として話を聞いた。そして、その延長線上で鈴木さんの生き方と果たした役割も聞けたことは、私のこれからの生きる道をつくりあげてくれた。

職人的立場で教える

ご存じのように出西窯は戦後間もなく共同で立ち上げた窯である。その創設メンバーのひとり、多々納弘光さんは極めて優れた能力のあるリーダーであるという立場とともにメンバーの頂点である存在を世間にはあまり公表せず、この窯を継続させて今の出西窯の礎をつくった。今までに名だたる先生方を呼び寄せて、職人に技術を習得させながら窯を維持させてきた。民藝運動として大変な役割を果たしてきたのだけれど、彼も結局は具体的に教えを請うたのは鈴木繁男さんだった。
濱田庄司や河井寛次郎も出西窯に迎えたことももちろんあるが、たとえば陶器のハンドルの付けかただとか、ロクロの技術だとかを口にはしたけれど、彼らは職人ではなく大作家の陶芸家だから具体的な説明にはならない。ところが鈴木さんは自分自身で苦労して焼き物のつくり手になったから職人的な立場でものを言えた。
同時に柳と同じ次元で物を観ることができた。鈴木さんが柳と同じ位置に立って物を観て、感動して、感受してどう展開していくか考えられるのは柳とともに生きたからこそできたことだ。

物を客観的に観る

それから日本民藝館の展示の仕方を大阪民藝館のほか、各地の民藝館に普及させたこと、要するに物を観て、物を並べて、人に見せることを鈴木さんは実践訓練させた。そうして鈴木さんから訓練を受けた人が展示をすればすぐにわかる。それはクセではない。並行的に物が観ることができるということである。そういう意味で鈴木さんは展示というものを力強めた人であって、柳とともに生きたことによって、物を客観的に観ることができた。角度の問題、自分の背丈の問題、眼の位置の問題といった視点で柳の方向性を一般の人たちが自然に観られるような展示手法を伝えてくれた。
日本民藝館の展示の方法は、そんな鈴木さんの薫陶がまだ現在も引き継がれている。そういう意味ではまだ無事なのだ。そこに骨董趣味の人が入ってきたり、作家趣味の人、あるいは近代的な物に眼がいく人が入ってきて展示をすると明らかに違う。
私は誰よりも素早くそしてそれなりの美しい展示が出来るのは、鈴木先生をはじめ柳時代の美への強い意識を感覚的に捉えていた同人たちのおかげであるからだ。
鈴木さんは、柳宗悦の思っていたことをそのまま体現できたし、柳の方向を自分で受けとめて職人に具体的に話していった。

民藝の健全な道を継ぐ

多々納さんは出西窯がさまざまな危機を迎えたとき、鈴木さんが来たことによって内部固めを確立し、今の状況をつくりだすことができたと言っていた。その恩を伝えないといけないし、鈴木繁男の果たした役割を伝えていこうと話し合った。私は鈴木さんの偉業を述べることで新たな次の人を育てるための糧としたい。
出西窯に鈴木さんが行き、何を教えたか、多々納さんはきちんと記録し、資料として残している。その資料をまとめたものを出西窯の若いつくり手たちに対して、これから勉強会を始めるとのこと。民藝の本道が鈴木さんによってなんとか保つことができた。それに続く私がこれをきちんと守って、さらにこれからの若い人たちに継いで、続けてもらう。これが民藝の本質的な健全な道を続けさせることになる。柳宗悦が歩んだ道をそのまま続けていく大きな流れにするしかない。
いろいろと様々な立場の人たちがこれから入りこんできたり、さまざまな物を通していろいろ関わったりすると思うけれど、やはり本質をきちんと伝えていくというのが、私や多々納さんの筋道だと思っている。

出西窯との関わり

出西窯と鈴木さんの関わりは前回も話したが、もともとはだいぶ前に、おそらく柳宗悦か濱田庄司の時代に出西窯で誰かを修行させたかったというのがあったらしい。なぜかというと、出西窯が唯一、新作民藝運動を展開した窯だったからだ。柳宗悦が生きていた時代からそうだった。当時は柳が言ったことをきちんと守って、その王道を開いていく仕事場がなかった。
そこへ出西窯が現れ、民藝を展開していくひとつの道を多々納さんが説いたことで、柳たちはそこに光を見たのだと思う。その光を守っていくためには、まだまだ仕事ぶりが遅いからと、たぶん鈴木さんを派遣したのかもしれない。
出西窯としてももちろん受け入れたかった。ただ、現在と違って経済的に人を支えるだけの力がなかったため、結果的には受け入れについてはうやむやになった。それは昭和35年(1960年)くらいの話だったそうだ。
それで結局、諦めていたところ、私がこの仕事に入った40年ほど前くらいから鈴木さんと非常に親しくなり、そのことを盛んに多々納さんに話していた。その頃になると、出西窯は経済的にとても隆盛になっていた。その一方で、共同体ゆえに内的な矛盾も抱えていた。その内的な矛盾を解決しようとするならば、強力なリーダーシップをもった人が来て教えないとまとまらないという危機感があったのだろう。それで多々納さんは日本民藝館から誰か指導に来てもらえないだろうかという提案があった。
多々納さんは鈴木さんに昔、迷惑をかけたことがあったので、鈴木さんにお願いしたいと私に言った。ならば、私が鈴木さんに話しましょうということになった。
鈴木さんに話すと、最初は躊躇していた。ただ「君が言うからには・・・」と聞きいれてくれた。
「実際、今私は砥部焼から離れているので、出西窯に行ってみたいという気持ちはある。ただし、話を聞いてから判断したいから、君と行こう」と鈴木さんは云われ、それで前回の話につながっていく。
昭和54年(1979年)10月に初めて出西窯に行き、そこから先生はこの窯との関わりが始まった。
出西窯は当時、7人のつくり手がいて、創業時の5人と河井先生の紹介で入ってきた地元の2人の計7名のつくり手がいた。遅れて入所した2人、陰山善市と本多孝市が鈴木さんをとても信奉して懸命に学んだ。ほかの5人も大先生が教えてくれるということで毎日のように学習会を開いた。その指導の様子を私はつぶさに見た。今私がつくり手にああしろ、こうしろと示唆したり、具体的な手を差し伸べるのは、この時の経験がとても参考になっているのだ。鈴木さんはやがて高齢で体調を崩され、指導は辞めた。

鈴木さんの跡を継ぎたい

その後、私、当時の出西窯の登り窯の、年8回ほどあった窯出しのうち、半分くらいは招かれて行っては、窯出しの日に皆さんと評価の勉強会をした。出てきた物をどう評価するか、これをこんな色にした方がいいのではないかとか、物のかたちをもっとこうしたほうがよいではないかと大先輩である7人の皆さんと相談しあった。
その時は非常におもしろかったし、鈴木さんのやっていたことを自分が継がなくてはという気持ちで、一生懸命だった。勉強会の後は必ずお酒を飲んだ。そして、その宴の席上で民藝論となり、だいたいは私と多々納さんは口論になった。
出西窯のある時期、昭和55年(1980年)くらいから平成3年(1991年)くらいの間、約10年間、出西窯に通ったことで、まだ30歳台だった私は相当に勉強になった。私は小鹿田、沖縄との関わりが強いけれど、同時進行で新作活動をしていた出西窯とのつながりがずいぶん私を高めてくれたのだなと今、振り返ると思う。

私のこれからの役割

鈴木さんは出西窯での指導で長期間宿泊されていた。たまに私が行くと、嬉しくて仕方がないのか、必ず同じ部屋に泊めさせられた。すると朝方まで話させられて往生した。柳宗悦のプライベートなことはかなり聞いた。それから濱田庄司のこと、なぜ河井寛次郎とは縁が薄かったのか、棟方志功との人間関係、芹沢C介との確執、そうしたものをつぶさに聞いた。そのため、私はこうした巨匠と呼ばれる人たちの考え方は全部、鈴木さんから学ぶことができた。
同時に逆の立場の人からの意見も聞いている。たとえば、池田三四郎さんや方向性の相違、柳先生との関わりの濃さ薄さの方々と鈴木繁男さんとの関係はさまざまな問題があったのだが、当時執筆された『李朝木工』の装丁や題字の意匠を鈴木さんに依頼するため池田さん宅に鈴木さんを招いて私と3人で物を観た時の興味のある内容などお伝えしたいところだが、まだ明らかには出来ない。また、お二人の関係から民藝協会と民藝協団との袂を分かつ本質的な内容や鈴木さんが協団のシンボルマークをつくるはめになった時のことなど、ふつうでは絶対明らかに出来ない話など聞かされ、またその事実についての誤解なども各方面から知らされている。
そして、まだ明らかにはできないけれど、柳宗悦以降に生きていた第2世代の民藝の先生方との付き合いが非常に強かったので、これらの人から第一世代の人たちがいったいどういう人間か、どういう想いで民藝につながっていったか、それぞれがどういう関係を持ちながら社会の中での役割を果たしてきたのか。そして、その後に続く先生方、たとえば第2世代の先生方、焼き物でいえば、武内晴二郎、生田和孝、島岡達三、染めの世界では四本貴資さん、柚木沙弥郎さんとそしてつい先日亡くなられた吉田桂介さんといった方々の仕事の内容も含めて、つぶさに聞いた。私は生き字引として、鈴木さんから耳にした、民藝の過去において大事なことを伝えていきたいと思う。

※今回は断片的に、鈴木さんが出西窯でつくられた物を紹介している。いずれは出西窯にある物を撮影して見せるようにしたい。鈴木さんのつくられた物はとても大事だからどこかに仕舞い込んでしまっている。また、2人で並んだ写真とか、鈴木さんが制作している写真とかたくさんあるのだが、それらをどこに保管しているのかわからなくなっている。それは探し出していずれは披露したい。