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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第4回

鈴木繁男さんのこと 第4回

2014年8月27日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

新作運動

前回(鈴木繁男さんのこと 第2回)で述べたように、出西窯を介して、私と鈴木繁男さんの関わりはいっそう強まっていった。日本民藝館では、鈴木さんの展示手法を間近に観ながら助言をいただけた。そのうち展示の手伝いも、なんとなく館の雰囲気から出入りしにくくなり、遠ざかるようになった。
そんなとき、大阪民藝館の展示のアドバイザーとして鈴木さんが呼ばれた。それまで柳宗悦の集めたものを日本民藝館から借りて展示していたが、新たな方向性として、大阪民藝館は新作運動に向かいつつあった。今つくられている新たな民藝品を積極的に支援したり、選んでこれこそが現代の民藝品なのだと示していく必要があると当時の運営委員がいいはじめたのだった。

B入選がスタンダード

常々、鈴木さんはこう言われていた。日本民藝館展には入選、準入選、選外があるが、いちばん基本なのは準入選(俗にいうB入選)であると。準入選に選ばれた物が普遍的な民藝品としての広がりがある、普及の原点がある。この準入選の物がしっかりしていればいいのだと。入選は準入選のなかから特別優れたもの、たまたま出来上がった、たとえば釉薬や焼き上がりがよかったとか、織物でいえばそのときの調子の仕上がりがよかったとか、そういう物が選ばれる。準入選の物が一般の民藝店で広まることこそ、現代民藝の方向であり、準入選になるようにつくり手に奨励していくようにと言っていた。

昭和53年頃の日本民藝館展

私の立場

私自身も鈴木さんとずっと同じ考えだったから、日本民藝館展に出品するさいには、準入選になる物を選んでいこうと考えていた。現代の民藝運動はそういった視点で進むものと思っていた。
私は骨董品も好きだし、古作の物が欲しいし、美しい物はなんでも欲しい。現代の物よりも古作の方に美しい物があれば、そちらの方に目がいくのは当然である。しかし、今は古作を拾い集めることの無意味さも感じる。なぜなら、日本民藝館には最高水準の古作の物があるのだから。その収蔵品から自分は学べばよいのだ。自身のためにではなく、各制作者の人たちに参考になる古い、いい物を集めていくのが私の立場なのだろう。(しかし、実際はそういうわけにはいかないのが心情であり美しさをわかれば本音は本音であるが)
その話を鈴木さんにすると、それはそうだが、日本民藝館は柳宗悦が選んだ物が中心だ。柳が選んだ物のみを飾るのであり、新作運動こそが現代民藝の生きる道だと鈴木さん。だからこそ、大阪民藝館では現代につくられている優品を集めたり、展示することにより、今の民藝のいわば指標を示していきたいと話していた。そのためには君がもっとも必要なのだと。
鈴木さんにそう言われて嬉しくなり、では、これからどうやっていったらいいでしょうかと尋ねた。鈴木さんは大阪民藝館に手配するから、一緒に日本国中を回って、今つくられている、よき物を君と私で観よう。君が選んだ物を私が観て、それを大阪民藝館に展示し、また販売してもらおうじゃないかと言われた。

現代のよき物を探す旅

まず最初に訪ねたのは、丹波立杭の窯だった。当時、私がとても親しかったのは、生田和孝さんだったので、生田さんの跡を継いだ若いつくり手の人たちの窯に行くことになった。しかし、これは大失敗に終わった。つくり手たちは個人的な方向ばかりに目がいってしまっていた。鈴木さんも現在の丹波にはかつての強い丹波の流れがなくなり、伝統的な丹波は失せてしまったと言われた。今でこそ清水俊彦さんが海老徳利やロウソク徳利などを含めた丹波の代表的な日用雑器、江戸末期から明治にかけての物の復元をきちんとできる人になった。しかし、当時は清水さんですら窯を独立したばかりの上、作品関連の物を多くつくっていたことで鈴木さんには紹介できない状況だった。
しばらくして、陶磁器は九州の物をやはり観ないといけないし、私が得意にしている九州全般を一緒に回ろうということになった。
鈴木さんとどこで待ち合わせようかということになり、山口県徳山に親しい宮崎さんが営む「周防工藝店」があったので、そこを起点にすることにした。鈴木さんには徳山まで新幹線で来ていただいて待ち合わせして、そのまま私の車に乗せて九州を回ることにした。一週間ほどの旅を私が計画した。

芹沢C介さんとの確執

徳山駅に降り立つなり、鈴木さんはすごい形相で開口一番、非常に不愉快なことがあったと話し始めた。実は静岡に今度できる芹沢C介美術館の展示を芹沢C介から直々に依頼されたという。芹沢との関係は同じ静岡の人間であることと同時に、互いに柳の門下生である。芹沢さんを尊敬していたが、あるところから確執ができてしまった。それでも展示をしろということは、芹沢は自分の展示手法に期待していたことがわかった。それで依頼を受けて一生懸命に取り組んだそうだ。
ところが建物の内部を見たとき、ここではまともな展示は絶対にできないとわかってしまったという。ここでは誰がやってもよい展示ができない。これは自分が恥をかかされるようなものと思ったという。ここでは、今までの展示の集大成をしたかったけれど、とてもこの室内では展示できないし、展示しても、いかに下手な展示しかできなかったということになってしまう。自分がつくりあげてきた展示への自信をなくしてしまうかもしれない。そこまで自分が追い込まれるようなことになりかねない。しかし、頼まれて引き受けると言った以上、よし、戦ってみようと決めたという。
それで、展示用の長い竹の竿を用意してもらって、それに紐を付けて室内に配置するよう思案していた。ところが、ある時、美術館を管理する役所から鈴木さんに展示の担当を降りてほしいという。展示の姿勢だけでなく、他の問題もあったのだろう。そんな気分悪い状態でいたところ昨晩には芹沢から直接「鈴木君、すまなかった」という連絡がきた。個人的な理由が背景にあったのだろうが、「ただ、申し訳なかった」と芹沢は謝ったそうだ。[しかし自分は芹沢との確執の中でいくらでも思い当たることがある」と、全てといっていいほど私に話して聞かせた。しかしここではプライベートや人格に及ぶ話も入るので明らかには出来ない。

柳宗悦の視点

気落ちしている鈴木さんを車に乗せてまず向かったのは、山口県防府の堀越焼の窯だった。海辺の美しい地域にこの窯がある。薪の代わりに石炭で窯を焚いて昔ながらの大物をつくる。鉄のような色合いの黒い釉薬を掛ける焼き物。輪状に陶土を積み、叩いて引き伸ばしながらつくっていく手法は独特だ。
その叩き目が表面に残るところに立体感があり、しかも素朴。浄土真宗の宗教心にたとえれば「ありのままでいい」という姿、かたちに民藝の同人たちは惹かれた。
しかし、どういうわけか、柳宗悦が収集した堀越焼は濃い土色をした飴釉の地にワラ白の釉薬が大胆に、粗野に打ち掛けられた物である。そのワラ白が部分的に溶けきらず泡を吹いているのが、景色となっている。私は柳が選んだ堀越焼を観たときに、どうしてこれがよいのだろう?と思った。しかし、それは柳の物の見方なのだ。柳が選んだ堀越焼のなかには黒釉の物がひとつもなかった。
その後、外村吉之介さんが堀越焼を認めて、世間に広めた。それからは民藝の同人の人たちはこぞって堀越焼を著書で紹介するようになった。
外村さんらが惹かれたのは、柳が選んだ堀越焼とは異なる。たとえば大きく素朴なかたちをしたコンニャクすり鉢、小鳥の餌のためのすり鉢、お墓の前の土中に突き刺して花立てに使う大砲の弾みたいな「野花立て」、大きな物では、田んぼのなかに埋め込んで人糞を溜めておいて肥やしにするための肥甕(こえがめ)があった。
また、4斗の大きな水甕といった素朴な物だった(これらの焼き物については、この連載記事の第35回を参照)。いわば、実用一点張りの物である。その素朴さを外村さんや民藝の同人は好み、私の工芸活動の商いの始まりは堀越焼のすり鉢を取りに行くところから始まった。

大きな存在

徳山から堀越焼の窯へ鈴木さんを案内するまでの40分の間、芹沢と自分との確執について鈴木さんはずっと話されていた。芹沢の仕事の話、模様や染織のことなどをつぶさに聞くことができた。短時間で10年分くらいの工藝のあり方みたいなものを教わった気がする。
鈴木さんにとってそれだけ芹沢の存在が大きかったし、柳宗悦にとっても芹沢がいたから現実にさまざまなものを展開できたこともわかった。手仕事フォーラムが芹沢の弟子である小田中君の型染めを起点にして展開を広げていったのと同じように、柳も芹沢という類い希な工藝家、染織家、図案家がいたからこそ、あらゆる展開ができたのだと鈴木さんの話からわかったし、鈴木さんもそのことを認めていた。
また、鈴木さんという極めて優れた人がそばにいたことが柳の運動を促進させたともいえるだろう。もちろん、濱田庄司や河井寛次郎の力も大きい。しかし、彼らは柳の言ったことを体現したのではなく、柳と共に歩きながら民藝の本質をつかんで自分の仕事へもっていった。芹沢と鈴木さんは柳を精神的ではなく、実質的な意味でサポートしたのだ。だからこそ、芹沢と鈴木さんは世間では大きく離れているようにみえるが、本人たちは互いに身近に感じていたのだと思う。芹沢にとってのライバルは鈴木繁男だったのだろう。鈴木さんは自分に対しての芹沢の執拗さ、過酷さへの批判をしていた。鈴木さんはあくまで芹沢ではなく、柳宗悦のたったひとりの直弟子だという自負心が強いのだ。

最後の民窯

鈴木さんは窯への訪問前に、もちろん堀越焼の焼き物を観ていた。私が民藝館展によく出品していたからだ。そして窯に着くと、野積みにされた甕類を目にして、またそこから見える海の景色の美しさに鈴木さんは感動して腕を組んだまましばらく動かなかった。
「久野君、この空と海と青さ、この黒光りする焼き物群。これは本当に日本のたいせつなものだ。これが消えてしまったら日本は本当に駄目な国になっちゃうよな。久野君、この風景は目に焼き付けておいてくれ。目に焼き付けておくことがこれから君に大きな役に立つんだ」と言われた。
私は堀越焼までのわずか40分間で鈴木さんとの関係がよりいっそう深くなったと強く感じていたものだから、余計その言葉が今でも心に残っている。
それから鈴木さんはひとつひとつ、この窯の優れたものを丁寧に観ながら言った。
「いやぁ、なんのてらいもなくて、実用一点張りなんだよなぁ」と。
そこにこの窯を夫婦で営む陶工の賀谷初一さんが現れた。鈴木さんより少し年上の、かくしゃくとした老人だった。私は鈴木さんを紹介したが、賀谷にとっては柳宗悦も全然関係ない存在だし、鈴木さんにも興味を示さなかった。
賀谷さんに叩きの技法をちょっと見せてくれないかと頼むと、ああいいよと、1斗5升の小さめの水甕、傘立てになるような甕を制作実演してもらった。その叩いていく音の心地よさは耳に残るほど素晴らしいものだと鈴木さんは言われた。
制作が終わったあと、さらにこう言葉を続けた。
「久野君、この工房はおそらく日本の民窯の最後の工房だと思った方がいいかもしれない。これが本来の民窯の仕事場のあり方だ。この古いかたち、様式が観られるのはこの場所がおそらく最後だろう。これをなんとかして記録に残さないといけないよ。なにかいいことを考えなさい」と。

記録に残す

鈴木さんの投げかけが頭のなかにこびりついていたこともあって、堀越焼の仕事場をものの見事に記録に残すことができた。
この窯の訪問前後に、松本民藝家具の池田三四郎さんから連絡があった。東海テレビの「ふるさと紀行」という番組に関する相談だった。この番組はふるさとの仕事場や生活形態を含めてさまざまな地域性を紹介していた。番組のプロデューサーが池田さんと懇意にしていていたために、池田さんに相談した結果、まずは民藝をとっかかりにしたのが、この番組のそもそものはじまりだったらしい。
それで、番組がスタートして10年経って、もう一度原点に戻ろうと週1回放映のこの番組の半年分26回で、再び民藝を取り上げることになった。
池田さんは浅間温泉の菊の湯に泊まり、私は隣の美ヶ原温泉の宿に泊めさせられた。池田さんが迎えに来て「今日は東海テレビのプロデューサーがいるので菊の湯までちょっと来い」と。プロデューサーに会うと、私に意見を求めてきた。民藝で構成する26回分のテーマを選んでほしいという。当時は親しかった日本民藝館の尾久と相談して考えていくことになった。
プロデューサーからは「あなたがプロデューサー的な立場となってディレクターやカメラマンを連れて行ってどういう構成にするのが基本なのか言ってください」と頼まれた。池田さんはプロデューサーに向かって「お前らみたいな何もわからない連中が民藝を番組にしようとしたって、ろくなものができない」と凄んでいた(笑)。
「こいつは若造かもしれないけれど、なかなか物が見えている。こいつと一緒に行って、こいつの指導を仰ぎながら取材しろ。よく勉強して、立派な番組をつくらないと駄目だぞ」と釘を刺していた。
プロデューサーはいきなり「久野先生、よろしくお願いします」と(笑)。それで26回分のテーマを推奨したのだが、そのうちスポンサーの名鉄関連の場所でないといけないということに。それで、26回のうち半分は名鉄向きの内容になった。この26回のなかに堀越焼を入れた。鈴木さんからの言葉を覚えていたからだ。これはいい記録になると思った。

柳宗悦の物の見方

しかし、鈴木さんに言われなかったら、堀越焼は選ばなかったかもしれない。物の凄さは感じるけれど、いわゆる私たちのいう美しさとはちょっと違う感じがした。そして、今考えると、柳が堀越焼のそういった物を選ばなかったのは、そこに理由があるのではないか。実用品で素朴さが素晴らしいということは言えても、どこに美しさがあるのかということ。柳が選んだのは、濃い飴釉にワラ白の釉薬を掛けた物。ワラ灰を打ち掛けたところが泡を吹いて模様になっている。柳の物の見方の原点はまさにそこにあるのだなと今、話していてわかった。
鈴木さんは、こういう物からは「禅というもののなかに備わっている物に対しての心がけみたいなものを感じる」と言っていた。それが外村さんを魅了した理由なのではないかと思う。
鈴木さんは堀越焼を美しいとはひと言も口にしなかった。ここにある焼き物は大事な物だし、心に通じる物という言い方をしていた。この仕事場は残さないといけないが、日本からもうすぐ消えてしまう最後の仕事場だとも。しかし、この小高い山にある窯から見た瀬戸内海の景色と窯場の風景は絶対忘れてはいけない。青い海とコントラストの強い空のなかに黒が光っている光景は頭のなかに残しておけと。鈴木さんのこれらの言葉は私の意識に強く刻まれた。

好きではない理由

堀越焼を後にすると、山陽道をひたすら走って九州を目指した。福岡に着くと、福岡駅前のビジネスホテルに泊まった。先生は車の移動に疲れていたのか、酒を呑まないこともあり、すぐに眠られた。
翌日は、博多西新地区の高取焼を訪ねた。当時は原豊(はらゆたか)さんという老人がつくられていて、息子の原史郎君が跡を継いでいた。史郎君は私と年齢が同じくらいで佐賀大学の美術部を卒業した人だった。大学での陶工はほとんどいなかった時代だったから、それなりに自信をもって仕事をしていた。どちらかというと現代的な物をつくる人だった。
原豊さんはずっと昔ながらの仕事をやっていた。巨大な登り窯のまわりに広大な土地を所有し、その土地を提供してアパートを持っていた。この登り窯の2袋だけ使って角型の傘立てや、手が付いてどっしりとした博多らしくない豪快な物を緑釉で焼いていた。緑釉といっても、酸化銅をワラ釉のなかに混ぜるため、白濁したような青色をしていた。鮮やかなブルーではないが、非常に力強い色だった。
日本民藝館が収蔵しているのは、こうした傘立てなどではなくて、切り徳利といって一升瓶くらいの大酒を入れる大きな酒器だ。これには口が付いていて俗に言う「口付き徳利」である。
高取焼は黒田藩の御用窯だったのだが、そのなかから民窯の窯が出てきた、東の皿山、西の皿山、あるいは高取の東、高取の西と呼ばれ、御用窯と民窯の二手に分かれた。私たちが訪ねたのは、民窯をやっていた最後の窯だ。
原豊さんは気立てがやさしくて細い体の人。気骨のある博多っ子だった。鈴木さんは「この切り徳利を君はどう思うか?」と尋ねてきた。なんとなく訴えるようなかたちだが、焼きの調子が僕は好きではないと答えた。その物の焼きが甘かったのかもしれないが、地肌がやや肌色っぽかったのだ。その上に緑釉がかぶさって、白が濁って融合した部分が少しあって、そのあたりが好きじゃないんですよ、と言ったら、「わかる、わかる」と鈴木さん。しかし、どうして柳がこの物を選んだかはいずれわかるだろうと。そうしたら君は一級品になるぞと。今は柳が選んだ理由がわかる。しかし、そのときはなぜ、こんな物がいいのか疑問を抱いた。
帰りがけに鈴木さんはこう言った。息子はまったく物にも興味がないし、民藝的なものに興味がないから、この窯は父親の代で終わりだろうと。

いい友達

その後、いよいよ小石原の太田哲ちゃんこと哲三さんの窯(この連載記事の第21回を参照)に行った。鈴木さんは哲ちゃんに会ったとたんに好きになったようだ。あの明るさと気立てのよさ、それでいて力強さもある人柄に惹かれたのだろう。
彼の仕事を観て、蹴りロクロでこのくらいの仕事ができたら、彼は日本一だろうなぁと鈴木さんは言った。
哲三さんは有田の工業高校を出て、ずっと電動ロクロで仕事をしてきた。小石原焼の三男として職人としてずっと仕事をさせられてきた。父親の熊雄さんが横にならんで電動ロクロは好かん、蹴りロクロで仕事できたら、どんなにいいだろうなと言った。しかし、訓練されていないから、それは無理な話なのだ。今、哲三さんは蹴りロクロでも仕事しているが、当時はまだしていなかったのだ。
ただ、仕事の速さと均一に物をつくれる力を鈴木さんは観て「うん、できる男だ」と言っていた。「彼と君は一生の付き合いになるんじゃないかな。君と気が合うだろう?」と聞かれたので「合います」と答えると、「いい男だよ。こういう男を大事にしなさい。君のことだから、いろいろ言うだろうけれど、きっと彼もそれに対して答えるかもれないな。しかし、いい友達がいて羨ましいよ」と鈴木さんが言った。このときはまだ物の評価はしていなかった。
それから太田熊雄さんの窯に行った。鈴木さんは熊雄さんと柳の話をひと言、ふた言交わしてお茶を濁した。熊雄さんが苦手だったようだ。はっきり言いたいけれど、大先輩でもあるし、職人的な立場の人に対して鈴木さんは尊敬というか、敬慕の念を持っていたのだと思う。長く苦労してきてやっと独立されて、やっと飯が食えるようになって成金になっちゃったけれど、それは結果であって、それまでの苦労は想像出来ないほどのものだと時々言っていた。
そういう人がつくる物に対して、これはいいとか悪いとか言わなかった。ただ、「息子も親父のつくった物をもっと見習うべきだろうけれど、まぁ、どこでも親子関係はよくないものだから」とひと言。その時点で親子の関係を見破っているのかと思った。

坂本茂木さんに感謝

その翌日、小鹿田に向かった。共同窯の窯出しに合わせて行った。鈴木さんに共同窯を見せたかったのだ。前日の夕方に着いて、明日は共同窯の窯出しだからと鈴木さんに言うと「ウキウキするね」と嬉しそう。
集落に向かって山を下りて行ったとき、「小鹿田というのは相変わらずだな。いつ来ても」と鈴木さん。まず坂本茂木さんの家に上がって、お茶を出してもらった(茂木さんについては、この連載記事の第52回と53回で詳しく記述)。茂木さんのつくる土瓶でお茶を注いでもらっていたとき、いきなり鈴木さんが茂木さんに頭を下げた。
「坂本さん、本当にありがとう」と。私も茂木さんも驚いた。
「なんか、ありよったかねぇ!」と茂木さんは小首をかしげた。
「坂本さん、あなたが日本民藝館を守ってきたんだ」と鈴木さんが言うと、茂木さんはおどおどしてしまった。
「このあなたがつくった青土瓶のこのかたちは昔と今もひとつも変わっていない。あなたはずっと一貫して民藝館展にこの物を出してきた。これをつくって久野君が出さざるを得ないような物をつくってきた。この青土瓶があるからこそ日本民藝館はまだ健全でいられるんだ。民藝というのは柳が捉えたことで、柳が集めた物でできている。しかし、それが今まだあるということは柳の民藝が死んでいないからだ。死んでいない証拠はまさに坂本さん、あなたが今つくっている、この青土瓶だよ。この青土瓶が今も昔も変わらず出来ていて、しかもこれが毎年繰り返しつながってきているということ。小鹿田の存在そのものが続いているということであり、民藝館から小鹿田を取ってしまったら、何も残らない。民藝館の存在とはそういうものなんだ。本当に小さなものなんだよ。あなたの存在が真摯に民藝館と向き合ってくれて活動を支えてくれていたんだ」と鈴木さんは言われた。
この場では、なんとなく鈴木さんの言われたことを納得した。今考えるとまさにその通りとわかるが、当時はとても驚かされた話だった。

30年程前の小鹿田・坂本茂木窯窯出し

物を選ぶ

翌朝、柳瀬朝夫さんの窯は5時くらいから開けているのを私は知っていたので窯出しに向かった。鈴木さんは疲れて寝ているだろうからとそのまま放っておいた。7時半くらいには朝飯を食べているのがわかったから、先生そろそろ窯出しが始まっていますよと伝えた。「えっ、もう始まっているのか、こんな食べている場合ではない」と、慌ててかきこんで、駆け出てきた。
「どこだ、どこだ? まだ開いていないじゃないか」と鈴木さん。しかし集落の上の方ではもう開いていて、私は店用の物を選びだしていた。並んだ物を観て、鈴木さんはここにある物全部を持って行ってもいいくらいだと言い始めた。気づいたら、私が選ぼうとしている物を横から持って行ってしまう。そうして鈴木さんのもとにけっこう溜まっていくのだ。
私も負けじと懸命に物を選んだ。鈴木さんとは奪い合いのようなかたちになった。私は当時、日本民藝館の売店と大阪民藝館の売店、盛岡と仙台の光原社などや自身の展示会、さらに日本民藝館展用にあらかじめ選んだのを、いっぱい集めて縦に並べて区分けしていった。
鈴木さんはというと、選んだ物を円形に並べていた。それがけっこうな量なのだ。
「先生、これをどうするんですか?」と聞くと、「わからない。ただ、選びたかったんだ、選んだらこうなったんだ」と。選んだ物をどうしたらいいかわからないというから、仕方がない、これはみんな大阪民藝館の売店に追加で出すことにしましょうと私は言った。そのときに鈴木さんが選んだ物を私はさりげなく観ていった。物の選び方、速さには驚いたが、私も負けまいと選んだ。それも訓練になったのだと思う。
鈴木さんは、今私が選ぶものと同じ視点で物を選ばれていた。焼きの調子もさることながら物のかたち、そこに表出している模様に目がいく。
たとえば飛び鉋模様で選んでいるのは、模様のなかに元気なエネルギーを感じるもの。そういった物をきちんと選ばれていた。私もそういった物を選ばなくてはと感じた。物を選ぶ競い合いみたいなことをこの窯出しでは覚えた。
そして、瞬時に選ぶにはどうやって観ればいいのか、鈴木さんの物との距離感も見えた。これはその後の窯出しの競い合いのときに活かされた。それまではがむしゃらにやって、相手を蹴落とし、たたきのめすようにして自分のいいようにもってきたけれど、そうではない。距離を持ちながら、速く物を選ぶ視点をそこで覚えたのだった。窯出しの物を選んだあと、鈴木さんはすごく興奮し、はあはあと息を切らしていた。久しぶりに民藝のなかにいる悦びを感じたという。
やはり、我々に共通するのは、物を選ぶときの方向性。それが大きな原動力なのだと思った。それらすべては日用雑器で、ごくありふれたもので、これが鈴木さんのいう準入選の物だとわかった。販売する物であろうと、誰の手に渡ろうと、自分がそこで物を選ぶということの大事さをはじめて教えていただいた。