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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第5回

鈴木繁男さんのこと 第5回

2014年10月1日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

鈴木繁男さんと九州に入り、本当はすぐに小鹿田に向かいたかった。しかし、今と違って福岡から高速道路がつながっていなかったので、まず鈴木さんがいちばん気になっているという佐賀の大日窯を目指した。
鈴木さんは砥部の梅野製陶所で白磁の制作に関わっていたが、同じ時期で、民藝という立場で仕事をしている白磁の窯元は作家系を除いて大日窯しかなかった。当時の私は大日窯と深い関わりがあったが、梅野製陶所とはまったく縁がなかった。そのことも鈴木さんは重々承知されていた。大日窯の物について前から気になっていることがあったので、どうしても観たかったということだった。

つかみジョウケ

大日窯を目指す途中、竹細工の産地もいくつか回った。そのひとつが川久保という地域だった。ここにはとても質のよい真竹で編み、手が付いたザルがあり、ザルのことを現地では「ショウケ」と呼んでいた。そして、持ち手が付いたザルをこの地域では「つかみジョウケ」というおもしろい言い方をしていた。いかにも九州らしい直截的な表現である。このザルは上質な青竹の皮を持ち手の部分に巻く。通常、巻く竹の皮はささくれて途中で切れやすいのだが、ここの青竹はきれいに巻かれていた。
そのころだったか、秋岡芳夫さんが日本民藝館展の審査を2年ほどしたことがあった。秋岡さんはクラフトの人。私たちからみると方向が違う場違いな人だが、柳宗理館長が外の空気を入れるべきと考え、審査を頼んだのだった。
この人選に当初、疑問を感じていた。しかし、荒物の審査に居合わせたときのことだ。秋岡さんがこのつかみジョウケをぱっと観て「このカゴはどなたがつくったのか?」と聞かれたので、私が運んできたと答えた。すると、秋岡さんは言った。「このカゴはすごいね。こんなに質のよい竹で編んだ物を観たことがない」と。秋岡さんはきちんと物が観ることができる人のようで、物の美しさはともかく、材料を見抜いている。この人を審査員にしてよかったと一瞬、思えた。鈴木さんはこのカゴを観て、「素材のことまでは見極められないけれど、この力強いかたちは、柳宗悦が生きていたら選んだ物かもしれないね」と言ってくれた。

大外山の唐津焼

佐賀の武雄周辺には当時、竹細工のつくり手が30人ほどいた。佐賀の武雄に入り、長崎嬉野温泉方面に向かう山中を通るのだが、ここには弓野(ゆみの)、小田志(こたじ)、庭木(にわき)という3つの地域がある。この3ヵ所は西川登(にしかわのぼる)という竹細工がとても盛んな地区だった(北部九州の竹細工産地については、この連載記事の第78回を参照)。当時つくり手も30人ほどいた。
今はまったくつくる人がいなくなったのだが、佐世保の野田さんはこの地区の出身だ(野田さんについては、この連載記事の第49回を参照)。
唐津では鈴木さんが焼き物の二彩唐津について言及した。松の絵や山水の絵を描いた大鉢や、手水鉢(ちょうずはち)という入れ子状の、松の絵を描いた鉢が有名だ。
これらの焼き物は日本民藝館にも数多く所蔵されている。民藝関係者が好む物なので、その物の産地に立てて感無量だった。この地域では民藝同人で鈴木さんと宗理館長と同年代で仲間の岡村吉右衛門(おかむら きちえもん)さんが古唐津の調査を熱心にされていた。その際、岡村さんはこの地域を「大外山(おおそとやま)」と呼称した。古伊万里の有田焼のふるさとである有田の伊万里が山に囲まれた地域だから「内山」として、この地域は内山の外側にある山が大外山なのだと。2つの地域は直線距離にして10kmも離れていない。その短い距離のなかに民衆陶器の大きなもの、しかも日本民藝館、民藝関係の人たちが皆、欲しがるような物がどんどん出てきた。これは大変な地域だと岡村は考えた。とくに大外山には民衆陶器の優れた物ができ、これが小鹿田や小石原を含めた現在の九州民窯の原点となったと強調して伝えたかったのだろう。鈴木さんも「岡村が言いたかったことはよくわかるなぁ。ここであの素晴らしい鉢が生まれたのか」と感動していた。

かけがないのない風景と話

車でさらに移動し、庭木のバス停前に竹次増喜(たけつぐますき)さんという竹細工のつくり手がおられる。竹次さんは雑貨屋を営みながら竹細工を制作していた。竹次さんによれば、このバス停の近くに小川があり、その向こう側に焼き物の窯があったらしい。そこをずいぶん発掘したり、骨董屋がうろうろとしていて、転がっている物を持って行ったり、「何か無いか?」と自分の家に寄って来たという。自分の家にも焼き物があったので売ってしまったが、このあたりの集落の人は皆、持っていて売ったという話だった。
その焼き物が北陸方面、とくに石川、富山、新潟、山形あたりの骨董屋に出回っていることから、日本海ルートで運ばれたことは知られている。北前船の話から北前船に発展し積んだ船箪笥の話になり、船箪笥の良し悪し、たとえば鉄金具の重さ、強さ、技術の問題、日本民藝館にある船箪笥はどうやって選ばれたか、他と比較したときにどんな違いがあるかについても詳しく教えてくれた。こうして鈴木さんが話すあらゆることが勉強になった。
鈴木さんは自然の景色を観ていても、山並みのかたち、山の木々のかたちにすぐ眼が行った。その上で「あの山の形はいいな」とか、「山林の形態や山々から垣間みられる草花についても言及した。そうした鈴木さんの眼の向けようから、物が生まれるまわりの景色、環境も観ながら、自分の眼のなかに物の見方を植えついてきたんだなと思った。
「里山や平野部の風景はかけがいのないものだ。自然を本当によく活かして物をつくってきたのが日本人の特質で、しかもそれが封建時代から出てきたというのはすごいな」と鈴木さん。思い返せば、宮本常一先生も「封建時代なんて言うな」とよく口にしていた。「この時代こそ今よりもっと自由性があって、民衆はもっと自由に物をつくりだしたし、生み出してきた。さらに、みんなが思うほど制約された空間ではなかったんだ。あるひとつの規則性はあったけれど、その約束のなかで人間は上手に工夫しながら生きていたんだ」と言っていた。鈴木さんもまったく同じような視点でそういう話をされた。

民藝とクラフトの違い

そうこうしているうちに長崎県波佐見に入った。この町には白山陶器がある。その大工場の横を通っていたとき、鈴木さんはここには有能なデザイナーがいると言った。森正洋さんのことだ。「彼らがやっているデザイン化されたクラフトと、われわれの進むべき道の違いは、手仕事と機械の仕事の違い。手仕事のつくり手のなかには、ろくでもない奴らがごまんといるだろう。しかし、仕事をするときには、そいつ自身の気持ちが吹っ飛び、物をつくることに誠心している。そのとき人間自身の心が手に反映されて、物を生み出す大きな原動力となる。そのことをよく考えれば、手と機械の違いはおのずとわかるだろう」と、さらにこう話した。「民藝は現代の用に合わせてつくっていくことも必要だ。時代によって物のかたちが変わるのは当然だ。たとえば、丹波の古い窯は、今に至るまで時代に合わせて、人間社会のなかで共生しながら立派な物をつくってきた。しかし、近代は「きょうせい」でも言葉が違う。強く押さえる、強いてつくる「強制」になってしまった。昔は共につくっていく「共生」。これが民藝とクラフトの違いだよと。ここで、そのころはまだ理解していない柳宗理さんの話になった。「みっちゃん(宗理さん)もいずれは民藝界の方に入り込んでしまうだろう。そんなものだよ。人間の意識を変えるほど民藝の力は強い。これが凄いところだよ」と言われているうちに、次の目的地、有田に着いた。

分業で生まれる美しさ

有田の大日窯に着く直前に鈴木さんはこう漏らした。
「久野君、実は私はここに来るとき、非常に強い気持ちがあったのと同時に、どうしたらいいかなと悩んだんだ。大日窯のつくっている物を観たときに、どこまで彼らに言ってしまっていいのかと。砥部焼の梅野製陶所と今も関わっている立場の自分は、大日窯に対して自分の気持ちを伝えてしまうと、梅野でしていることと同じになる。梅野からお金をいただいて生きてきた僕にはそれができない。ただ、君が言ったことに対して僕はひとつひとつ対応する。そうやって今の当主に話を進めてくれ」。間違っても、鈴木先生、これはどうしたらいいか?とは言わないでくれ、それには答えられないのだということだった。
ところが、窯に入り、緊張した面持ちの当主、久保さんに会うなり、鈴木さんは着いて開口一番、つい口に出してしまう。
「久保さん、ここに並んでいる物は一人の力でつくっている。伊万里の良さは一人の力ではないよ。伊万里という地域の力でできたんだよ。君は自分の力でつくろうとしているな。これが誤りだ。決してここからは佳い物は生まれないよ」と。
伊万里では、一人の人間がつくるのではなくて、ある商人が受けた注文を何人もの人が分業
で、流れ作業で絵付けしている。人間によるオートメーションが個性を興して優れたものをつくり出すんだ。一人の人間が絵付けをしようすると、どうしても、その通りの筆の運びになって、結局は力のないものになってしまう。どんなに優れた絵も長く観ていれば飽きてしまうものだが、古伊万里はいつまでも飽きないだろう? いつ観ても美しく感じるだろう? これは一人の人間の力じゃない。分業によってつくられたもので、それらが商売のなかで商人と密接とつながったことから生まれる美しさなんだ。命じる商人もデザイナーじゃない。日本国中を回って民衆がどんなものを要求しているかを体できちんと会得して制作する側に伝える。伊万里ではこんなふうに商いとつくることが一致していたんだ。だからこそ佳い物が生まれたんだ。しかも、それを大量に販売していく。大量に注文を取る。繰り返し同じ物をつくる。だからこそ、そこに物の良さが生まれるんだ」と鈴木さんは補足して説いた。

線描きがいい

しかし、久保さんは佐賀弁で「うちはですね、できとんとですよ。うちの家内と二人でやってるからですね」とくどくどと言い出した。鈴木さんは怒らず、黙って聞き「よくわかった。だからこそ、絵付けは売れればいいけれど、そんなに売れるものじゃない。一人の力によって描いた絵は魅力がないものだ。だから、君の窯は線描きがいい。線のものになるべくまとめるようにしなさい。久野君がそういう注文をするだろう。それなりのセンスを持っている久野君から注文を受けて、自分で判断していいと思ったらやりなさい。それで、出来た物は久野君を通して見せてくれ。どういう線にしたらいいかは、久野君にきちんと伝えるから。それで佳い物をつくってもらえたらいいな」と言った。

土のこと

「実は型でつくっていまして・・・」と久保さんが言うと「当たり前だよ。こんな物をロクロで挽いていたらこの値段になるわけがない。伊万里でも鋳込みの型づくりの物が多くあったし、明治以降はほとんど鋳込みだよ。それに関してはどうということはない。磁器の場合は絵付けが大事なんだ。もし君がいちばん好きな白磁の物だったら、それは手挽きでつくるべきだ。しかし、ここで使っている土(天草の陶土)の雰囲気ではとても佳い物はできないよ」と鈴木さん。
そこで、私は久保さんに地元、泉山の土はもう採れないのかと聞くと、採っても不純物が多すぎると久保さんは答えた。その不純物を使ってもいいじゃないかと言うと、「土に粘りを出すのと、白さを出すのに天草の陶土を使わないといけない」と言うので、「ならば、混ぜてもいいのではないか。あくまでも泉山の陶土を基本にして、天草の白、さらに粘りが出る土を混ぜることで独特のものになるのでは?」と助言した。
すると今度は「鉄粉が出てくる」と久保さん。「出てもいいじゃないか」と言うと、「鉄粉が出ると、つら物といって、B品になって売れないんですよ」と久保さん。民藝店に売れないのか?と聞くと、「いや、ここは有田の商人がほとんど持って行く。民藝店の取引はほんのわずかで、大量に持って行ってくれるのは久野さんの店(もやい工藝)と三宅忠一さんの民藝協団くらいだ。昔からの民藝店もほんの少ししか持って行かないし、全部こちらにおまかせで、佳いも悪いも言ってこない。久野さんだけが来て、話をして何をつくろうかとなる。しかし、普通はそんなことをどこもやらない」と久保さん。
鈴木さんは「そうか、しかし、そこが大切なところなんだ。君は久野君の言うことをきちんと聞いて、これからずっと二人で付き合ってやっていきなさい。僕は支援をするよ。ただ、改めて言うけれど、梅野製陶所の絵付け職人であり、指導をしてきた人間だから、その義理を壊すわけにはいかない。だから、あなたの指導はできない」と言いつつも、大切な助言をした。「これからはなるべく絵付けの物は避けて線でまとめるものをもってきなさい。それから赤絵をやり始めたら、これはちょっと困難なことになるよ。それだけは肝に銘じて赤絵は勤めて線描きだけにして、赤絵で絵付けして何か新しいものを考えようとはしないように」と。
久保さんはそんなことはできない。父親のつくってきた定番製品をそのまま実直につくっていく人なんですと私が言うと、「ああ、それが職人としていちばんだよ。肩を張って上のことを考えることはない。頑張ってください、大変だよ、この仕事は」と言って鈴木さんは窯から出て行った。

マーク

帰りがけに鈴木さんは大日窯のマークを考えた方がいいと言った。「今は大日というマークを付けているが、あれは嫌なものだよ。どうだ、俺は大日だと言っているようなもの。昔の伊万里の裏側には必ず小さな印があるだろう? あれは何だかわかるか? あれは窯印だ。●●窯とか大きく描いてあるわけでもない。小さなマークを付ければいい。小さなマークを考えようよ。ぱっと何か浮かんでできないか?」と言ったと、とっさに思いついたようだ。「あっ、これだよ。『日』のなかにポンと打てば大日だろう? 『日』を楕円形にして、卵形に描いて、中にポンと打ってみろ。これなら型で押さなくても、裏をひっくり返して、ささっと描けるんだから、それをやらせなさい」と鈴木さん。それで、もやい工藝オリジナルの物は全部、このマークが入ることになった。しばらく、久保さんの所に通って、何度もやらせて今のマークになった。

白磁の蕎麦猪口

久保さんはロクロができないが、非常に器用な人だった。それで、少しロクロをやってみないかと言ってみた。すると「けっこう前はやっていたことがある」と答えた。ならば少しづつでもやって、手挽きの白磁を日本民藝館展に出してみたらと勧めた。それから久保さんは手挽きの物を始めた。それは館展に出すために、というか、大日窯の存在を知らせることが大事だから、落選してもいいから、とにかく出品しようと。
まず見本は絵付け無しの白磁の古伊万里猪口を渡した。その見本をもとに手挽きの白磁をつくることにしたのだった。しかし、猪口を手挽きでつくるのはなかなか難しい。あの切立のかたちを出すことは、彼にとって厄介なものだった。有田は古来から削り出しで成形してきた。厚く挽いておいて削る。だから、手挽きでは1個つくるのにとても時間を要するのだ。それでも取り組みながら、伊万里の輸出陶器の中で白磁だけの物も探したりした。そして、輸出用スープ皿などを見つけては、久保さんの所へ持って行って手挽きでつくらせたこともあった。こうして大日窯との付き合いがまた違うかたちで始まり、新作にどんどん取り組むようになった。
久保さんが館展に出す手挽きの物のほとんどはB入選で、A入選にはならなかった。ところが猪口は鈴木さんがきちんと観てくれていて何年か後にはA入選するようになった。そのうち鈴木さんが審査員を辞めてしまったら、型の物も出品すると、型の物もA入選するようになった。手挽きの物がB入選だというのに。なんだ、型の物の方がよいのかと思った。型の物を出していくと「なかなかいいロクロの仕事をしている」と審査員の何人かが平気で言う。焼き物をやっていても眼が見えない審査員はたくさんいた。今はもっと最悪で、型であろうが、挽いたものなのか、わからない連中が審査している。ロクロが下手な連中が作家になって審査をやっている状況だ。だから、どうやってつくられているかに興味がないのだ。ちょっと個性的な物ならば選んでやるみたいな。そういった誤った民藝のとらえ方をしている連中が審査の審査だから困る。

用と美を超えたカゴの造形

大日窯を出て、有明海沿いをずっと走っていたときにも「久野君、この景色がいいね」と口にした鈴木さんが、八女、筑後市の石橋謙吾(けんご)さんという竹細工のおじいさんの所に寄ったときに感心していた。
「自分と同じくらいの年齢だろうに、あんなに細かい仕事を黙々と何事もなくやってしまう。それであんなに立派な造形物をつくってしまう」と。石橋さんは米の籾殻やお茶の葉などを入れる大きな丸メゴというカゴもつくっていた(この連載記事の第36回を参照)。
石橋さんの師匠は101歳にしてまだ現役で、自分より上手だという。それで「日本はすごい国だね」と鈴木さんは驚かれていた。「やっぱり、こういう人が出てくるんだ。この人が凄いのは、つくるだけではなくて、物を販売しているところだ」と。石橋さんは石橋竹細工店という店を構え、自分だけでなくて地域でつくられているものを集めて販売していた。
石橋さんは、星野村という山奥から出てきて竹細工の修行をしていたころ、竹細工製品を隣の黒木町という山間の町まで運んで、軽便鉄道で羽犬塚駅へ輸送し、ここから博多経由で大阪方面へ国鉄に貨車に乗せたという。この地域は竹製品をたくさんつくっていて、大きなカゴの中に小さなカゴが入り、さらに孫のカゴを入れて送るほどの産地だったそうだ。その地域が筑後川沿いにあることもあって、川魚用のカゴもつくるし、平野の農作物用のカゴ、さらにはお茶の葉用の物、また、山奥は林業が盛んなので林業用のもの、有明海があるから漁業用のものといったように、要するにあらゆる第一次産業をまかなうだけの竹細工のつくり手がいて、それに応じる技術を持つ人がたくさんいたのだという。その竹細工製品も昭和30年代にかなり減少したが、石橋さんは頑なに自分で仕事をしながら商売にして生きる道をつくった。自分のつくった物だけでは食べられないから九州各地の卸しの竹業者が来て、他の地域の竹細工と物々交換をした。竹業者が鹿児島の日置の箕を持ってくることもあったのには驚いた。八女でもこの頃は日置の箕の方が使いやすいと使っているとのこと。平野部が大きいから箕も大きい方がいいのだという。だから日置の箕の中には筑後平野向きの箕と薩摩の地元向きの箕と2種類あると聞いた。八女の農家は日置に特注した大きな箕を使うようになり、それまで八女でつくられていた箕は駆逐されて、その箕をつくっていた人は他の物をつくり始めたそうだ。
鈴木さんはその話を聞きながら、腰テゴというカゴを観て感心していた。「こんな造形が、用から出てくるなんて凄いことだ。用と美とか言うけれども、そんな問題を超した物だ。民藝の本質はここにあるな。おそらく柳宗悦が観たら、これを絶対に選ぶ」と言った。「竹細工の物で柳が選ぶ物は少ない。身の回りでふんだんに竹製品を使っていたから、あまりに実用的すぎて、存在が当たり前過ぎて、それが美しいかどうかなんて気づかないよ。ところが、こういう所に来ると、その物自身の造形を観ることができる。これは工藝だよ。あくまで工藝品として観る価値がある。しかし、こういう産地にまで柳は回れなかった。自分自身は歩いたと言っても、行く先々で用意されていた物から選べた。自分の足で山奥まで入ったことはなかった」と言葉を続けた。

丸メゴをつくる石橋さん

腰テゴをつくる石橋さん

自然と日本人の感性

八女からは車で高速道路に乗った。すでに夕方になっていたが、次なる目的地、小代焼に行かなくてはいけなかった。まずは、井上 泰秋(たいしゅう)さんのふもと窯 に向かったが、その途中で南関(なんかん)という大きな竹山がある地域を通った。今は高速道路は遮音のために高い塀が出来ているが、当時はなかったので、竹山がよく見えた。それを眺めて鈴木さんが唸っていた。「久野君、音が聞こえないか?」と。「いや、エンジン音で聞こえません」と答えると、「いや、僕は音が聞こえるんだ。聞こえるようになったのは、バーナード・リーチさんのおかげだ」と鈴木さん。石川県の九谷にリーチさんの手伝いで戦後間もなく行った際、たまたまリーチさんとタクシーに乗っていたときに、リーチさんが言ったそうだ。「鈴木、日本人っていいな。あの竹の音が聞こえないか?」と。「聞こえない」と答えると「いずれ聞こえるようになるよ」とリーチさんは言ったという。「あの竹山がさらさらさらさらとわずかな風のなかでも揺らいで擦れている音。ああいう音への音感が日本人には常に入っている。その音感が造形的な感覚の視点を肥やしている。自然の空気がとても大事で、それが日本人の感性をつくりあげているんだ」とリーチさんが言ったそうだ。「それから自分は気になってねぇ。竹の山を観ると音が聞こえるか、いつも思うんだよ。しかし、今は車のなかからも竹の音が聞こえるんだよと。これは感性の問題で、君もいずれも竹の音が聞こえるようになるよ」と鈴木さん。これは積み重ねで物をどうやって観ていくか、どうやって感得するかということにつながる話だ。リーチさんが日本の文化をこよなく愛したのはそこだ。ラフカディオ・ハーンが木の橋の上を渡るときに鳴るカランコロン、カランコロンという下駄の音に日本人の美しさを感じたように、外国人だからこそ日本人の優れた感覚や感性がどこから生まれたのかがわかるのだろう。

スリップウエアの怖さ

井上泰秋さんは窯に立派な建物を建てていて、小代焼のコレクションを所蔵していた。「焼き物屋って儲かるんだね。僕は全然儲からなかった」と鈴木さんはささやいた。そして、コレクションを観ながら言った。「この男は相当鍛えられているな。あらゆる人間の悲しみや苦しみを知って生きてきた人だ。相当に細かい男だよ。なるほど、小代焼とはこんなものか。今までいくつか民藝館の蔵品などあちこちで観てはきたけれども、これだけ多くの新旧の小代焼を観たのは初めてだ」と。
井上泰秋さんは弟子を集めて、鈴木さんの話に耳を傾けた。鈴木さんは開口一番「君ね、小代焼は日曜陶芸教室でもできるんだよ」と言って、みんなをおーっと驚かせた。「井上君、君は何年だ?」と鈴木さんが問うと、「京都時代を含めると三十年余です」と井上さんは答えた。「つくってまだ1年、2年の奴がこの登り窯でつくったら、君よりはるかにいい物ができるかもしれないぞ」と鈴木さんは畳みかけた。井上さんはうろたえ、弟子たちも動揺し始めた。鈴木さんは「小代焼はそんなものだ。だから、恐ろしいんだよ!」と声を荒げた。「要するに、小代焼はワラ釉をドボッと漬ける。その上に濃い籾殻の灰を入れる。籾殻の灰は溶けにくいから白が残る。それを無造作にぶつける。その無造作が凄いんだ。誰でもできる。だからこそ怖い。そこに民窯の職人の凄さ、怖さがあるんだ」と、すぱっと言った。
私は鈴木さんの言葉になんとなく納得できた。以前、井上さんの窯に行ったとき、こんなことがあった。私が「釉薬の流し掛けはしないんですか?」と井上さんに聞くと、「僕は濱田庄司先生の流し掛けを真似してみたかったんだ」。「濱田さんは60年の訓練があってあの一瞬の流し掛けができた。だから自分も60年したら、やるつもりなんだ」と。そんなにぐずぐず言うんだったら、私がやってみようと、濱田さんの流し掛けを真似してやってみた。それを焼いたら、真っ先に売れたという(笑)。その後、数回井上窯を訪れると釉薬掛けのタイミングにぶつかるとやらせてもらえた。無意識の世界がその美しさを出すということが如実にわかったのだった。
その話を鈴木さんにしたら、「濱田はスリップウエアをつくらなかっただろう? しかし、濱田はスリップウエアをちゃんとやっている。あの流し掛けだよ。そしてスリップウエアの基本は小代焼だよ。小代焼の流し掛けとスリップウエアをうまく採り入れたのが濱田だよ。濱田がイギリスから帰って来て影響を受けて、益子でつくった最初の頃の作品にスリップウエアを利用したものがあるんだ」と言う。
それで私は思い出した。濱田のつくったもので一番好きな物が大阪民藝館にあることを。それはスリップ文様が描かれる楕円深皿の型で、赤い柿釉薬になみなみと黒い釉薬が蛇のように巻いてある。「これが大好きなんです」と言うと「あれだよ」と鈴木さん。「あれが濱田がイギリスで会得したスリップウエアだ」と。
私が濱田に初めて会いに行った時、「青年がこんな所に来てこんな物を観るなんて珍しい。上がりなさい」と濱田は言ってくれた。これから益子参考館をつくる前の建物にたくさん展示する物が置いてあって、その中からいろいろな物を見せてくれた。その物のなかにスリップウエアがあった。初めてスリップウエアを眼にした私に濱田はこう言った。「これを真似しようとしたらできないよ。河井(寛次郎)もやるけど、河井は自分のものにしているよ。だけど、スリップウエアというのは終点がない仕事だ」と言われた。私には何のことかわからなかっと、鈴木さんに言うと「そう言ったかね? それなんだよ。山手線と同じなんだ。どこが出発点でどこが終わりかわからない。それがわからないのならスリップウエアをやってはいけない」と言う。「濱田の弟子でいっぱいやっている人がいるじゃないですか?」と聞くと、「それはその人たちが濱田から教わったというだけで、濱田がそのスリップウエアを認めたかどうかはわからない」と鈴木さん。「でも、褒めていたらどうしますか?」と聞くと、「そりゃあ、褒めることもあるだろう。濱田の親父は自分の弟子がかわいければ、褒めるだろう。誰でも同じだよ」と鈴木さん。それで私はスリップウエアを今やったらナンセンスだと思った。
その視点で河井寛次郎、船木道忠のスリップウエアを観ると、彼らは会得している。河井はスリップウエアをスリップ模様として自分の器物に入れている。スリップウエアをやったんじゃなくて、スリップウエアの良さを組み込んでいる。船木さんは日本でスリップウエアをやった人だ。まさに彼の仕事はスリップウエアの良さをそのまま採り入れている。類い希なセンスの持ち主なのだろう。船木研児さんは船木道忠さんの息子だから父親の良さを十分に汲み取って近い物をつくられている。実際、イギリスに行って学んできている。だから、その良さを肌で感じている人だ。
ところが、今、スリップウエアを始めた連中は自分のものとして特徴あるものとしてやろうとする。自意識過剰なのだ。自分の技法を世の中に出して有名になろうという魂胆の仕事なのだ。しかし、それが割と簡単にできてしまうように勘違いしている。皮肉にも、井上泰秋の息子が始めたことで誰でも彼でもスリップウエアをやる。わけのわからないギャラリーのオーナーたちがスリップウエアが流行だと思えば、どんどん売るだろう。しかし、こんな物は長くは続かない。誰でもできるからだ。肝心なのはスリップウエアの以前に、器物が骨格ある仕事なのかどうかということ。きちんとしたロクロ仕事ができて、きちんとした型成形ができた上ではじめてスリップウエアができる。しかし、その仕事ができない、工人としては失格な連中が山のように出てきてスリップウエアをやっている。だから、つくっている物に力が無い。そして、そんな人がスリップウエアはこうだと講釈を垂れる。それは机の上の話であって、本質的な話ではない。つくったものが力が無く、魅力が無い。結果が悪ければ認められないのである。

摸倣への戒め

スリップウエアに関連して、鈴木さんは流し掛けの話をされた。柳宗理が館長になって初めての民藝館展で井上泰秋さんに「真っ白な雪をかぶったような美しさ」と言って館長賞をあげてしまった。鈴木さんはそこでゲラゲラと笑ってしまった。柳館長は小代焼がどうだというのではなくて、デザイン的な視点で観ていた。その視点はやがて変わっていくのだが、当時の館長は発色などに囚われていた。小代焼はまず骨格のある仕事であり、井上泰秋さんに対して「君は骨格ある仕事をできる人だ。だからこそ、誰でもできるようなことをちゃんとやらないと簡単に追い越されちゃうよ」と鈴木さんは言った。
つくる物が濱田に引っ掛かっているとも言っていた。鈴木さんは言葉をこう補った。「濱田の湯呑みとか急須を全部採り入れているな。よいものを前向きに採り入れているのはいい。こういう地方の民窯で現代的な物をつくろうとしても、何をつくればいいのかわからないから、当然摸倣しないといけない。摸倣する物の原点が何かというのが大切だ。ただ、あまりにも無節操に採り入れてはいけない。伝統的なかたちがあるのだから、そのかたちを活かして今の物に転用していく。そういう冴えた能力がなければいけない。そのためにも久野君のような人たちがアドバイスして、こういう物をつくった方がいいと言った方がいい。しかし、この窯は外村さんに引っ張られ過ぎているな。それはちょっと危ういよ。ただし、井上さんは社会の波にきちんと対応していこうとする強さがあるし、本当に優れた商魂もある。今の社会で生きていこうとしている。陶工でありながら優れた商人でもある」と。

美即用の物を探せ

井上さんの窯を後にして、さらに同じく小代焼の福田豊水さんの窯に行った。福田さんは焼き物だけでなく、骨董収集においても井上泰秋はライバルだった。福田さんの所では鈴木さんは骨董品ばかり観ていて、福田さんのつくる物は観ていなかった。そのとき、福田さんの所にいる弟子が2人いて、一般的な職人というよりも、自分で仕事をしようとする意識のある人だった。小石原で学んできた人だった。彼らが「用即美」とやたら口にしたいたのだが、用即美とは何かわかっているのか?と鈴木さんが怒った。「まず美しさというものがあって、それが使える物であること。これが用即美なのだ。「美即用」という物を探せ。しかも探しながら、選ぶこともしなくてはいけない」と鈴木さん。弟子たちは戸惑っていた。「うちの師匠(福田豊水さん)がやたら用即美の物をつくれと言うけれど、使える物の美しさがわからない」と。「それはそうだよ。美しさがわからなければ言葉で言えない。福田さんは骨董品が好きだから、骨董品に近づけるような物をつくれと言っているだけのことだろう。しかし、この窯は技術が甘い。それから土味がよくない。小代焼の土はかちんと焼くことに良さがあるのであって、このような粗土ではいけない。登り窯で焚けば、還元がかかり、焼き上がりの調子が青みがかる。それは確かに素人受けするかもしれないけれど、仕事に限界がある。この窯からは汲み取れるものはない。ただ、福田さんは骨董が好きで、奥さんは絣が好きだ。これはいいことだ。そういう物を集めて見識を高めて、むしろ工藝店の人としてやっていった方が向いている。焼き物屋には向いていないし、土そのものも向いていない」と鈴木さんはきっぱりと言った。そして、私には「ここは君が一生懸命働きかけなくても、福田さん自身がやっていこうとしている人だから、きっと君と意見を戦わせることになる。君はおそらく離れてしまうだろう」と言って、状況を見抜かれていた。