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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第6回

鈴木繁男さんのこと 第6回

2014年10月29日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

手結い

小代焼窯元でもある大牟田の福田豊水さんの所では絣(かすり)を見せてもらった。奥さんは絣のコレクターだった。福田さんはビアガーデンのオーナー。5月から10月はじめで1年分の売り上げがあり、残り半年は自由なため、骨董好きで、骨董店回りをしているうちに酒の飲み過ぎで肝臓を壊して入院した。その病室でたまたま隣にいたのが小鹿田焼の坂本茂木さんの友人で、勝木(かつき)さん。九州ブックセンターという本の通販会社を営んでいた人だった。勝木さんは茂木さんが小鹿田から九州文学館に逃げ込んだときに一緒にいたことがあり、当時のリベラル的な人たちとの交流していた。福田さんは勝木さんから小鹿田を紹介してもらい、茂木さんの仕事を見ているうちに「わしもやってみようかな」と焼き物を始めたという。
小鹿田には毎年日本民藝館展の頃に日本民藝館から派遣された田中洋子(現在は擁子)さんが通っていた。福田さんは小鹿田の陶工や田中さんと交流しているうちに民藝の人たちともつながりができた。熊本に倉敷から外村吉之介さんがたまに来られると、集まりを聞きに行ったりしていた。そうして民藝とのつながりが強くなり、民藝として絣を見るようになったと言われた。
奥さんも物好きな人で、久留米絣が自分の家の近くにいくらでもあることを知って、コレクションを始めた。そして廃品業者を回っては膨大な数の絣をどんどん集めていった。私が久留米絣に出合ったのも福田さんの家だった。福田さんが絣を収集していると知った外村さんは、福田さんのもとに通って絣を入手。私も珍しい絣が2枚あれば、そのうちの1枚をいただくような関係を福田さんとは築いていた。
鈴木さんにもこの絣を見せたかったのでお連れした。しかし、鈴木さんはあまり反応しなかった。鈴木さんは糸を手で紡いだ風合いのあるものに美の焦点が合うのだ。日本民藝館にも久留米絣の物があるけれど、それは大胆な幾何学模様の具体化した、城や水天宮模様などの具体的な模様の絣だった。紺の藍に薄い藍が入る通称「浅黄(あさぎ)」は久留米絣独特のものなのだが、これは久留米市の田主丸(たぬしまる)という所でほぼ織られたものらしい。この地域におもしろい絣があるのだが、日本民藝館には収蔵されていない。久留米絣は明治から紡績糸が早くから入り、機械で織られていたためだろう。日本民藝館にある絣の多くは山陰系の手織のものが多い。鳥取県弓浜絣などは紡績糸が入るのが久留米よりだいぶ後だったのだ。備後絣も機械のものが多かった。しかし、鈴木さんは機械織りとか手織りだからとは言わないが、選ぶもの、好きなもののほとんどは手結いのもので、機械生産の絣には反応しなかった。また、模様を見ても一律的なものばかりで、模様としてはおもしろいけれど、心に訴えるものではないというような表現していた。手結いで織ったものは、やわらかさがあるととらえ、どんなに上手でおもしろい模様でも機械で織った均一なものとの差をどこかで受け止めていたようだ。
そう考えると、眼が利く方はたいてい大きな格子模様の絣を持っていたが、それ以外は持っていない。そのことから、そういう人たちのものの見方は共通していて、久留米だからよいとか悪いとか、出雲だからいいとかではない。美の視点はまさにそういうところにあると感じる。今、久留米絣で優れたものをつくっている人が仮にいたとしても、手結いのものは少ないから魅力はやはりないのかなと思う。私の店でも絣を扱っているが、それは幾何学模様の嫌味のないものだ。本来の民藝の視点で選べるものは少ないということを鈴木さんのものの見方を通して理解した。

カゴへの無反応

熊本県の山鹿には洗濯カゴというカゴがある。籠目(カゴメ)編みで菱を詰めて編んだ昔ながらのスタイル。これに洗濯物を入れて温泉の洗い場に持っていく人たちのためのカゴだ。これが鼓(つづみ)の変形したかたちをしていて造形的におもしろい。当時、このカゴをつくっていた人は商売にも熱心で、ある程度の数を注文しないとつくらないと言われた。それで、お金のない私に代わって裕福な福田さんに支払ってもらった。このつくり手は大規模な農業もやっていた。自分で竹細工もするけれど、周辺にいる竹細工職人に注文を出して見本を見せてつくらせてもいた。このつくり手のもとにも鈴木さんをお連れしたのだが、あまり反応されなかった。かたちのよさはわかる。しかし、民藝の視点からするといまひとつだと。
その視点の延長上には柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎という方々がおられるのだが、造形的なものではなくて、つくっていくそのもののなかの質的なもの、縁の巻き方だとか、あるいはその縁の巻き方が模様になって見えるとか、形と模様が混在したところに強さがあるかどうか。洗濯カゴにはその強さがなく、実用的な美しさはあっても、民藝の本質的な美しさを備えていなかった。
山鹿を訪ねる前日、福岡県筑後市の長浜(ながはま)という所にも足を運んでいた。ここには石橋謙吾(けんご)さんという当時85歳ほどの高齢なのにとても元気のいい方がいた。石橋さんは竹細工をしながら、周辺の八女地方の竹細工をする人たちから物を集めて店で販売していた。八女地方には久留米絣の産地でもある広川という場所があり、その周辺は竹細工をする人が多かった。そのつくり手のほとんどは卸し商売をする人に販売を託していた。
筑後地方は平野が広がっていて、米作りだけでなく八女茶の産地だった。また、近くには鉱山もあり、そういうものを持ち運ぶための用具もある。さらには林業が盛んな黒木町には林業関係用の竹細工がある。筑後川が流れ漁具がある。それらも竹細工。そこからわずか数キロで有明海だから、海の魚を獲るための漁具がある。トータルで、当時の生活用品のほとんどのものを竹細工でまかなえるだけのつくる地域だった。というわけで、別府の業者が来てはずいぶん多くの竹細工の注文をして別府産という形でも持って行った。
それから花テボといって、子供たちがお祭のときに持ち運ぶための赤や紫に着色した小さなカゴがある。このカゴを専門でつくる人がいた。大変な量をつくる人がいた。それを何人かの業者があちこちに販売したり、自ら製造しながら活躍されていた。
石橋さんはそんなつくり手の最後の生き残りだった。大変上手な人で、私が感動したのは腰テゴという竹細工。非常に素晴らしいかたちの魚籠(びく)だった。つくるのに大変な時間がかかるし、当時で1万円以上もしたから価格も高い。このカゴも造形的には立派だということで鈴木さんにも見せに連れて行ったが、何の反応もしないのだ。後日、日本民藝館展に出品したときも、鈴木さんは何も言わなかった。悪い物だとは思っていないのだが、反応しないのだ。それが私はとても不思議でしかたがなかった。
それから魚カガリという受けテボという独特のかたちをしたカゴがあった。このカゴは青い竹を磨いて縁もきっちりと巻いていて、見所があると思うのだが、鈴木さんは反応しない。これだけ多種多様にあって、造形的にもおもしろいものをいくら見せても反応しない。これは私にはわからなかった。いまだにわからないところもある。
ただ、この年齢になって、だんだんわかってきたのは、物の美しさを感じるという民藝の本質的な物の見方を得た人たちにとっては、反応しない理由は単なる造形面とか、編み組みだけではないのだ。その物が持つエネルギーなのだ。美しさはそこに備わっている。その美しさの原点を見出せるか、見出せないかが大きなことなのだ。
これは竹細工に対するひとつの偏見かなと思ったことがあった。しかし、ひとつは柳宗悦が生きた時代は、竹製品が身近にありすぎたのだ。生活のなかで常に見ている。現実に竹細工製品は手仕事の展覧会を広島や愛媛県で催すと、せっかくよい竹細工を並べても売れないのだ。
「こんなの、うちの納屋に行けばまだあるわ」とか、「こんなのが今は珍しくなったのか」といった反応なのだ。冗談じゃない、これは福岡県や熊本県の物だよとこちらは言うけれど、使っている人たちにはどっちでもいい。みんな同じ物に見えるのだ。案外、そういった偏見があるのかなとも思った。ただ、直に物を見たときに反応する鈴木さんが反応しないということは、ものすごくショックだった。

柳の美の原点

カゴ、ザルに対しては、本質的なよさが出てくるものにしか焦点が当たらない。ある意味で、そういうものの見方から、柳宗悦の美の原点を見出すことができる。それを「柳好み」といってもいいし、「柳様式」といってもいい。そういうものをその後、少しずつ、自分なりに解明できたと思う。だから、竹細工の物を今でも私は集めるけれど、決して民藝の優れた物としてではない。日本民族がつくりあげてきた、生活から生まれてきた、実用的な物の美しさを兼ね備えた優れた造形物として捉え、しかもそれが用というものを満たしているということ。そのためにつくられたから、てらいのなさや素朴さがあり、自然素材を利用したきちんとした日本的な様式美がある。そういった物を私は集めている。そうじゃない物はそれに近づけるような工夫をしてきた。しかし、鈴木さんが反応するような物は少ない。唯一反応したのが丸メゴという大きなカゴだった。籾殻を入れたり、茶葉を入れてかつぐための物。ゴザ編みという普通の編み方なのだが、よく見ると、非常に緻密に本体が編まれている。しかもヒゴが厚くてしっかりしている。
それから力竹といって、かつぐ際に本体を壊さないように縦骨が外に出ている。その造形を上から見ると美しい。これに鈴木さんは反応した。ということは、そこにひとつの物の見方の分け目があるということ。民藝の物の見方がきちんとできる人の分け目がそこにあるのではないか。
このようにきちんと見ることができる人は少ないと思う。池田三四郎さんクラスではわからなかったのではないか。見ることができたのは、私の知る限り、柳宗悦、鈴木繁男、濱田庄司、河井寛次郎。バーナード・リーチはまた別格だし、芹沢C介は別の次元で見ていた。ほかには大阪民藝館の主事だった鈴木尚夫(ひさお)さんとか、ものすごい数の染織品を集めることができた藤本均(ひとし)さんとか、その当時の日本民藝館の職員たちは物が見えた人だろうが、古作ばかりの美に眼がいきすぎている。感得できるか否かは別の次元なのだろう。しかし私もまたはまだまだ到達できていないと自分では思う。目利きの優れた吉田桂介(よしだ けいすけ)さんは断片的には到達できたと思う。ただ、故人となった池田三四郎さん、吉田桂介さんからは随分と教わることはあった。私はまったくその次元にもいっていないのかもしれない。あと何年かかるだろうか。今後の生き方しだいにかかっている。

奇人変人

鈴木さんがすごいのは柳宗悦とともに生きてきたということと同時に、彼の持っている独特の感性とたぐいまれな眼識力だ。柳とは表裏一体となったような次元ではないかと思う。ただ、柳と違うのは、非常に強い口調で話すわりには骨がないのだ。だから、反対のことに対しても割とYESと言ってしまう裏腹の部分がある。
それは申し訳ないけれど、鈴木さんが書生として柳家にご奉公していたということが第一。卑屈になっていた部分もあるので、自分に好意的だったり、持ち上げてくれる人に対して弱かった。言うことを聞いてしまうのだ。その性格は生い立ちや生活背景が起因していると思う。これは鈴木さんへの批判ではなくて、当たり前にあるものだと思っている。人間はやはり生活環境にとても影響されるから、それによって生き方がどれほど優れていても、ある部分でははずれる部分がある。だから、その後、鈴木さんと付き合っていてもがっかりすることがあった。とんでもない人を持ち上げてみたり、裏腹のことを言ってしまったり、自分を持ち上げる人の物はよいと言ってみたり。歳を取ると、みんなそうなるのかもしれないが、鈴木さんもある時から急に変わったのだ。とくに大阪民藝館の展示のときの手伝いの人たちや周辺にいる人たちに対する鈴木さんの関わり方は異常だった。それから鈴木さんを慕ってくるつくり手たちにも、私たちから見ると、どうしてこんな作家目的の人を平気に受け入れて可愛がってしまう。寄ってくるのは暗い人が多い。作品も暗いし、骨董趣味なのだ。そういう意味では、鈴木さんは奇人変人なのだろう。ただ大変な能力を持った人だった。
ひとつの物を通して人間とか、生き様だとかが瞬間的に見えることがある。これはおもしろいことだ。私たちが物を扱ったりして、物の良し悪しや出所の話をするが、それを通して関わっている、つくっている人たちの人間性が見える場合もある。鈴木さんにしても池田さんにしても非常に個性が強くて独特の感性を持った人だったけれど、彼らと一緒にいて付き合ったために、その人の悪いところも見えたし、なぜ彼らがよく言われなかったというのもわかる。こうしたことを旅のなかで強く感じた。

日本人の感性

山鹿から九州自動車道を南下すると、道路の左側に竹山が連なって見えてくる。自動車の窓は閉めているのに、鈴木さんは窓越しに竹笹のサラサラサラという音が聞こえるという。そのとき鈴木さんはバーナード・リーチさんの話をした。リーチさんが日本人を羨ましがった理由のなかに、竹の山が日本各地にあると。その竹の擦れる音、そよぐときの風の音、これが日本人の耳の奥底に入っていて、日本人独特の感性をつくりあげていったんじゃないか。リーチさんは日本人が羨ましいと言ったという。リーチさんはラフカディオ・ハーンにずいぶん影響を受けて日本に来ていた。ラフカディオ・ハーンの文章のなかには、カランコロンという石橋を下駄で歩くときの音、この耳触りの心地いい音が日本人の感性だという記述がある。「耳なし芳一」は、感性で物自身を聞き取るという。こういう感性は日本独特のものだろうという話をリーチさんはずいぶんされていたらしい。それで仮に音が聞こえなくても、その場にいれば音が聞こえるのだと鈴木さん。こういう感性は我々が持っているものなのだから失ってはいけないと盛んに言われていた。
私も鈴木さんにそう言われてから、音というものは大切だと努めて考えるようになった。手仕事をする地域に行けば、それぞれ独特の音を醸し出す場合がある。しかし、この頃は工房に行けば、機械導入がされていて大きな音がし嫌だけれども、小鹿田のような唐臼の音が谷間に響く音とか、山ブドウのツルをつくるときに擦れる音、ブドウの皮を懸命に磨くときのシューッシューッという音、それから織り機のパタンパタンという音、あるいはねまり機を腰のバランスを取りながら織るときの音とか、そういった微妙な音、自然な音の感性が我々の生活感のなかに残っていると、美の結晶というか、感性を磨いていくことになる。グローバル化が進んでいる状況では危機感を覚えるが、近代化、量産化するのではなくて、あくまでも手というものを根本的に据えて、仕事をしていく支援体制をつくるべきであると思う。

最高の工藝品

熊本、九州に入って刃物の産地に鈴木さんを案内しようとすると、「刃物は見なくていい」と言った。「君は日本民藝館の収集品に刃物を見たことがあるかね? 柳の選んだものに刃物は無いよ」。「しかし、日本でもっとも優れた工藝品は日本刀だよ。日本刀こそ工藝の粋だ。あれだけ人間の手を加えて鉄というまったく違う素材を鏡のようにピカピカに仕上げて、しかも切れ味がいい。あのようなごく自然な反り。西洋はみんな直線だろう? 日本の場合はカーブしている。これは獣を切るときに出てきた形だ。西洋の場合は人を殺めたりするために刃物が直線で分厚い。力任せに相手を叩き切る。日本の刃物に反りがあるのは人を切るためではなくて、獣を切ったり、樹皮をはがしたりするためで、鎌のかたちと同じだろう?」。最近私が読んだ宮本常一先生の著実した中にも書かれていた。柳は基本的に刃物が嫌いだったが、日本刀は美の極致だと鈴木さん。その美の極致を見ることができる所が日本に一カ所だけあるよと言われた。「それはどこですか?」と尋ねると、「自分で探せ」と。
それから数カ月後、NHKテレビで瀬戸内海芸予厳島大三島にある大山祇神社宝物館が映し出され、刀や義経、源頼朝の鎧などの国宝を多く展示していることを知った。私はすぐに見に行きたくなり家族旅行しながら足を運んだ。その後、4回くらいは見に行っているが、その度に展示品が退色していて、もっときちんとした管理をしないと駄目だなと思った。
鈴木さんは鎧にも言及していた。「鎧は美術工藝品であるだけではなく、戦争に使う物。そんな武具にあれだけ糸を駆使して模様を出して美しさを出している。銅張りがあって漆が施されてもいる。こんなすごい仕事を職人にさせたのは、権力の象徴かもしれないが、世界中探しても日本しかないだろう。いかに日本が優れたものを持っているかということ。鎌倉時代にそれだけ精緻な仕事をつくり上げたことが、やがて日本の民藝、民衆工藝の仕事につながっていったのだ」と。これは柳に言われたことではなく、鈴木さん自身が感じたことだと思う。