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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第7回

鈴木繁男さんのこと 第7回

2014年11月26日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

風情を覚え、感性を高める

熊本を後にして、鹿児島へ向かう途中、鈴木繁男さんは戦時中、水俣にいたことがあると懐かしんでいた。それでも水俣に寄ることはなく、熊本の日奈久(ひなぐ)温泉に差しかかったとき、私は高校3年の修学旅行でこの風情ある場所に泊まった思い出を話した。
すると、鈴木さんは石畳を馬車が走る音が耳に入ってくるという。今は昔の面影を残していないが、寂れた温泉街で下駄を履き、ドテラを着た温泉客が雑談しながら湯治を楽しんでいく。その姿が目に浮かんでくるという。どんな服装をしていたのか、どんな歩きかたをしていたのか思い起こせるという。そういう風景を目に焼き付けておけば、後にその風景が無くなっても、風情を覚えていて、感性を高めていくことになるのだと鈴木さん。大事なのは聞こえなくても聞こえるという感性を知り、磨いていくことだとまたバーナード・リーチの話と重ねながら説かれたのだった(この連載記事の第105回を参照)。
鈴木さんは臨済宗で修行をしていたことがあり、座禅を組んで無の状態になると、音が出ていなくても音を感じる。目のなかに音がそのまま見えてくるという。物を見ていくための感性を磨いていくと、そういうことになるのだとさかんに鈴木さんは言っていた。

社会性を持たない人

鈴木さんはこれまで製作指導や販売関係の関わりなど商人とのいろいろな関わりがあり、心の中には商業主義や商売に対して懐疑的な部分があった。その部分が私と付き合っていても時々出た。私が民藝運動に対して鈴木先生との関わりを強めることで社会的な展開をしていこうという大義を持っているのにもかかわらず、どうも理解できてないところがあった。そのため、私がこれほどまでに熱心に取り組んでいることも自分の商売のためとみられているのではないかと思っているのではないか、私は社会性をもっていると自負しているが、民藝関係者の多くは社会性まで考える人は少ない。柳宗悦も結果として社会性を帯びたことにはなっているが、ご自身の意識の中には社会性を持つことの意識は無かった。柳はあくまでも当時の上層階級、日本のいわば社会構造上からいえば上からの立場でものや人を見る視点であったし、柳を取り巻く人たちもその影響を受ける層だった。しかし、鳥取の吉田璋也さんのように柳の白樺派を通して保守派になるのではなく、革新派としてなっていく例外の人たちもいた。しかし、多くは懐古趣味に陥りやすかった。そういうところで育って弟子として生きてきた鈴木さんは個別的なものにはとても力を発揮できるけれど、社会性とか自然環境性にはまったく目が向いていなかったし、そのような立場ではなかった。先生は天才だと思うけれど、奇人変人と紙一重な人と言っていいかも知れない。

いよいよ龍門司焼へ

今回の九州行の大きな目的のひとつは鹿児島、龍門司焼の訪問だった。私と親しい陶工の川原史郎は当時30歳代で、窯は共同組合として運営されていた。川原はまだ駆け出しだったが、龍門司焼の伝統をふまえながら良い製品づくりを懸命にしようという意識がとても高かった。私も川原と年齢がさほど変わらないし、古い付き合いがあって、鹿児島に来ると、この窯に泊まっていたこともあって、2人で今後のことや、龍門司焼の現状を憂う話をしていた(龍門司焼と川原史郎との関わりは、この連載記事の第9・10回を参照)。
龍門司焼といえばカラカラという焼酎を飲むための酒器がなんといっても特徴だ。ほかにも独特の焼き物がたくさんある。その独特の物をつくれたのは朝鮮の文化がこの地に入ってきてきたことと関係があるだろう。なかでも、なんといってもカラカラが特異なスタイルだと思う。似たようなかたちの物は朝鮮にも中国にもある。しかし、ひねり、丸みを帯びた注ぎ口のかたちと、そこに三彩の流し掛けが施されているのは日本独自のもの。日本でも南の突出した意識を感じさせ、沖縄とまた違った強いエネルギーが見える。それは過去のカラカラの優品に多く見られるのだ。龍門司焼には江戸時代から陶工として名を馳せた人がいた。その陶工は作家性を腕を競いながら見せたかった。窯のなかで優劣を競うような薩摩の地域性もあったのだと思う。自分をいかに強く見せて存在感を際立たせるかという気質の所でものづくりをすると、やはり上手な人は主張したくなる。製品であっても、焼き物の裏底に自分のマークを入れるのだ。陶工の名前が彫られているから、それを見ると、誰がつくったのかがすぐにわかる。例えば私が持っているカラカラの中に龍門芳林という名前もある。だから、川原史郎にしても、いずれは自分も龍門司の名工になりたいという意識は当然あったはずで、陶工は全員、その意識があったと思う。
ただ当時のカラカラと現在のカラカラはあまりにも差が激しすぎる。かたちも悪いし、釉薬の色具合も悪い。川原自身も良いカラカラをつくりたくてウズウズしていたけれど、当時は義範(よしのり)さんという人が一手にカラカラをつくっていた。
この窯は特殊で、つくるものもそれぞれ制約があって、誰が何をつくるか決まっていて、それだけつくっていればいい。そして、売り上げはすべて企業組合のもので、みんなで分配する。出西窯もそうなのだが、このようなソ連のコルホーズ型に似ている企業組合の形式をとっている窯元は、日本では龍門司焼と出西窯だけだそうだ。集団で同じ所で仕事をしながら利益を均等分配にするという組織形態なのだ。この形態には組織として良い部分もあるが、仕事の優劣があったり、仕事をさぼる人が出てくると問題が出てくる。それでも話し合いにより、この形態を続けていった。昔の寄合(よりあい)を保っている窯だった。

当時の龍門司窯の窯出し風景

カラカラの優品復活を願う

だから、川原がいくらカラカラをつくりたくても、つくれる状況ではなかった。昔はもっと良いのがあったらつくってもらいたいとこちらが願っても、つくり手自身の意識改革をしなければ無理なのだ。しかも、まわりは大先輩や老人ばかり。川原のような若造が主張しても一笑に付されてしまう。それで、鈴木さんがこの窯を訪ねることで、カラカラを少しでも良い物に復活させる道筋をつくってもらいたいと考えたのだった。
当時、私は自分を民藝の運動家や活動家だと意識はしていなかったが、民藝の世界に入っていると、過去の優れた物をもう一度世の中に出す必要があると意識にとらわれるのだ。これはこの仕事に入った人の気持ちだと思う。それが働く志になっている。私は過去の優れた物を民藝館で観るたびに、どうして今できないのか、何とかつくれるようにしたいと考えた。この優れた物を新作に替えて今の生活に合わせるのではなくて、過去にこれだけ良い物ができているのなら、元に戻したいという一念が強かった。鈴木さんにも龍門司焼に行ってカラカラを主題にしながらかつての龍門司焼の良さを年輩の陶工たちに話をしてもらって、どうしたらいいのかアドバイスしてもらいたいとお連れしたのだった。

裏腹のことを言う

窯に着くなり鈴木さんは「ああ、昔の窯のスタイルだね」と口にした。「この工房も絶対に残さないといけないよ。最初に旅した堀越焼の窯はあのおじいさん一代で終わりだろう。いずれ消滅する。だから記録にとっておかないといけない。しかし、龍門司焼の窯は記録に残すのではなくて、そのままの形態を残さないといけない」と強く言った。昭和の戦後間もない掘立小屋の延長線の工房だけど、この形態のなかで美しい物が生まれてきたということは、そのもの自身を残していくことが民藝の良さを知った人間の役割だと。
ちょうど3時の時間だからと、お茶でもどうぞと勧められた。工房には川原史郎の父、光(みつ)さんがいて、川原軍次さん、義範さん、池田さんなど年輩の陶工が6人くらいいた。そのほかに若い川原史郎や川原軍次さんの息子、輝夫さんがいた。彼らと一緒にお茶を飲んだ。そのあと、軍次さんが鈴木さんに仕事を見てくれと言った。それで、土のつくり方、化粧土の採り方などをくまなく鈴木さんは見て、窯焚きの状況も聞いていた。私も横で見聞きしていたので、そうした専門知識をよく知ることができた。
窯焚きはこうしたらいいよと鈴木さんはアドバイスしていた。鈴木さん自身も登り窯をつくり、研究をされていたし、濱田庄司のもとにもずいぶん通い、焼き物づくり、窯づくりについて逐次聞いているから、そういう専門的なことを詳細に尋ねていた。その知識を龍門司焼の陶工、とくに薪の大きさを見て炊き方をこうした方がいいとか、重油で焼くときの注意点などを川原史郎に教えていた。
鈴木さんはこの窯に2時間くらいいただろうか。土づくりから、化粧土の採り方など具体的に助言していた。夕方、鈴木さんは宿に戻ったが、食事は窯で用意するからと川原のはからいで、囲炉裏を囲んで焼酎と鶏肉の鍋料理、麦ご飯がふるまわれた。鈴木さんはほとんど酒を呑まずに陶工たちと会談をしていた。そしてカラカラを手にして義範さんに「これをつくったのは誰かね?」と尋ねた。さぁ、いよいよここでカラカラの改善への助言がなされるのかと思いきや、褒めてしまった。「いい仕事だね。このカラカラを今、ここでつくっていること自体がたいしたものだ。こんな物を今の時代につくれるなんて驚異だ。どれくらいつくっているのか?」と鈴木さん。何10年もやっていると義範さんが答えると「ああ、だからか。たいしたものだね。龍門司焼はこのカラカラをつくっている限り万全だ」などと鈴木さんが言うものだから、私も川原もびっくりしてしまった。
なんてことをこの人は言いだすのかと、裏腹ではないか。私は今のカラカラの仕事を責めたい、しっかりしてくれよと言いたくて訪ねたから、「こうしなさい」と鈴木さんが言ってくれると思っていた。しかし、まったく逆のことを口にするばかりが、「昔とまったく変わらないよ」とまで言う。冗談じゃない! 昔と変わっているから鈴木さんを連れてきたのに、ちょっと腹が立って口をききたくなくなった。
鈴木さんは妙なところがあって、変に持ち上げたりするのだな、許せないと思った。川原もオタオタと動揺していた。それで私に文句を言った。川原は自分でカラカラをつくりたかったのだ。それで鈴木さんにはカラカラを若い者(川原)につくらせてくれと鈴木さんが言ってくれるのを期待していたのだ。ところが、そうじゃない。ずっとこの仕事を続けないと言ってしまったのだ。

崩されていない伝統

不愉快な思いをしながら鈴木さんを宿まで送って、私は「ちょっと話がある」と言った。それで部屋に入って「今日はひどいじゃないですか。龍門司焼の窯が今、非常によくない。お土産品みたいな物をつくる窯になってしまっている。それをどうしたら昔のような、勢いのあるよい窯にしようかと考え、そのために先生を連れてきた。今回の旅は私にとっては先生に現在の窯の状況をつぶさに見てもらって現状を知ってもらうのと、いくつかの窯を再び元の状態に戻すための手段を講じてもらいたかった。先生にはご意見番として来てもらった。しかし、今日は逆じゃないですか、何てことを言うんですか」と言うと、鈴木さんはふっと笑った。
「そんなことはわかっている。君が言いたいことはよくわかる。しかし、龍門司焼は現に良いのだからしょうがない」と。「えっ、どこが良いのですか?」と食って掛かると、「君が言っているのは、カラカラのかたちのことだろう? 焼き上がりのことだろう? 昔のように織部釉の緑釉ではなくて、今はどろっとした青の青地釉になっていて、勢いがないとか。また腰の据わってしまったようなかたちで伸びやかな口じゃないとか、要するにそれを言いたいんだろう?」と。
「そう具体的に言われてもわからないけれど、今の物が良くないから、良い方向に持って行ってもらいたいと言っているんじゃないですか?」と言うと、「どんな物であっても、優れた伝統の窯で伝統的につくられてきた物は長い歴史のなかで使い手とつくり手が言い合ったり、話し合いながら物が完成されてきている。伝統というのはそういうものだ。だから伝統は崩すことができないのだ」と。
「現に、伝統が崩されているじゃないですか?」と反論すると、「崩されていない。君が言っているのは、かたちと釉薬だけの話であって、本質は全然わかっていない。じゃあ、君に聞くけれど、カラカラの命は何かね?」と。
私がわからず首をかしげていると「この前、小鹿田に行ったとき、坂本茂木さんにきちんと挨拶しただろう? 頭を下げただろう? そのときに何と僕が言ったか覚えているか?」と。
「青土瓶のかたちがいっさい変わらないと。とくに口づくり、注ぎ口の変わらなさが小鹿田そのものであると。これが引いて言うと、小鹿田焼の現在が守られていることにつながると感銘を受けておられたですね」と私。

すると鈴木さんは「それと同じじゃないか」と言う。「カラカラの命は何だ?」「注ぎ口です」「そうだ、注ぎ口が昔と今でどう変わっているか?」と問われて私はわからなかった。「それは昔も今も同じようにできていて、当たり前のように君はいつも見ているからだ。当たり前に見ていると、見過ごしてしまうんだ。当然だと思っているから。その当然だと思うことが伝統なんだ。当然と思うことが今できているということは、優れた伝統が息づいていて逃げられないからだ。大切なことは、さっきも窯で酒を呑んだだろう? あのときにつくっている義範さんがこのカラカラで焼酎を呑んでいただろう? まわりに聞いたら、毎日呑んでいるというじゃないか。毎日仕事が終わると5時過ぎると、ここで囲炉裏に当たって焼酎を呑んで帰ると言ったぞ。毎日使っていると言ったぞ、それだよ大切なのは。つくり手が使い手でもあるということ。使い手はその物をどうやって使っているかということを目の前で実際、味わっている。だから逃げられないんだ。持ち手がしっかりしていて、注ぎ口がそこからこぼれないようにつくってある。それは自分が使っていて良さを知っているからだ。それが無意識のうちにできている。それが伝統としてつながっているんだ。それが不変であれば、この物はいつでも活かされるものだ。しかし、生活様式が変わって焼酎を呑まない時代になってカラカラを使わなくなったらおしまいだよ。しかし、鹿児島という地域性は、そこに住んでいる人たちはここから逃げられない酒が焼酎ではないか? 君が言っているのは造形的なものと釉薬のことだろう? そんなものはいつでも変えられるよ。現に良いつくり手が来て、この通りにつくれるようになったら、すぐに元へ戻れるよ。それから釉薬の流れについても、釉薬を少し変えるだけの話だ。今は大量生産をしたいから、速くするために青地釉を使う。昔の緑釉は流れやすいし、下手をすると固まってしまう。そこから考えたのが青地釉だろう? 緑釉を使わなくなったのは、釉薬が流れたり、窯の構造の問題だ。窯で速く焼きたかったから。そうすると当然そうなるよ。そんなものを駄目だと言ってはいけない。今の時代がそれを要求しているのならいいんだよ。だけど、それはいつでも戻れるんだ。戻れないのは、現に物を使う「用」なんだ。その「用」のために長い歴史のなかでできてきた物は壊されてしまったら元に戻らない。かたちや釉薬はいつでも戻れるんだ。それができているから自分は褒めたんだ」。

鈴木さんと私

ものづくりの立場

私はなるほどと、ぐうの音も出なかった。自分の眼の見識が弱かったなと。そうか、そこに物を見ていたんだなと思った。「柳宗悦先生も同じですか?」と問うと、「いや柳の親父はそんなことを考えたこともないよ。柳がここに来て、君と同じように、良い悪いとか言うかもしれない。こんな物は駄目だと言うかもしれないね。柳の親父は物が良いか悪いか、それだけの話だ。自分は立場が違う。自分は柳のように指導者じゃないんだ。物を見て、美しい、美しくないと言って人を育てる立場ではない。自分はものづくりの立場であって、どうやったら良い物ができるかということを感覚的に問い、知らせていく役割なんだ」と言われた。
鈴木さんが自覚しているのは、美の指導者ではない。伝道者であるということなのかなと私は思った。ならば、私は鈴木さんの道を選ぶべきなのかなと考えた。物を耽美すれば、骨董趣味に陥りがちだ。それも悪くはないかもしれないが、あくまでも見るだけの視点であって、社会性がそこには無い。やはり私がやろうとしていることは社会性を目指していくべきなんだと、なんとなくそのときにわかった。そして、これが美の開眼になったかもしれない。坂本茂木さんの仕事の内実と龍門司焼の伝統をつかんだきっかけになった。

川原にこのことを話したが、理解できなかったようだ。相変わらず、せっかく呼んだのにと、愚痴をこぼし続けていた。しかし、これは理解度の問題で、彼はあくまで陶工だから、その地点でいいのではと思った。それは物を見ていく視点の違い。それをどう広めていくかという立場と、つくっていく人間との違い。川原自身も取って変わっていいカラカラづくりをしたいというつくり手としての気持ちが強かったということだったのだろう。