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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第8回

鈴木繁男さんのこと 第8回

2014年12月31日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

龍門司焼の川原史郎は鈴木繁男さんの話に納得はしなかった。本質的な意味は理解できていなかったと思うが、自分がきちんとした物をつくっていかないといけないという考えは植えつけられたようだ。その後も内紛が起こる窯のなかで川原は自分の道を突き進み、私も彼を支えた。そういう意味では、鈴木さんの訪問により、龍門司焼再生の位置づけができたといえる。今の龍門司焼への流れは、このときにできたと思っているし、川原の仕事がよくなったのは確かだ。その後、彼は成り行きで現在の位置になり、いつの間にか老陶工たちも去り、同僚である川原輝夫氏も川原史郎の人間関係から離反し、目と鼻の先に次郎太窯をつくる。それが、そのまま現在の窯の状況になっている。

苗代川焼の窯へ

龍門司焼を後にした翌日、鹿児島の苗代川焼へ鈴木さんをお連れした。当時の街並みは一本の道路が中心を貫き、車2台がようやくすれ違えるくらいの素朴な雰囲気があった。その町をぐるりと車で回り、鈴木さんに見せた家があった。日本的ではなく、朝鮮文化の異国情緒をどこか感じる家だった。
「ここは住人の意気を感じる。ノスタルジックというか、朝鮮から移住してきた人たちが、こんな家をつくりたい、つくらなくてはいけないという気持ちをずっと持ち続けている。そんな雰囲気があるところだよなぁ」と鈴木さん。
まず寄ったのは沈壽官窯(ちんじゅかんがま)だった。初代・沈 当吉さんは慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の朝鮮出征で連行された多くの朝鮮人技術者のひとりだ。
鈴木さんはこの窯のことを知らなかった。それで、司馬遼太郎の沈壽官窯との出会いや朝鮮陶工たちの悲哀について説明した。

もの凄い量のなかのいい物

それから鮫島佐太郎窯を訪ねた。鮫島さんはすでに病弱で、あまり仕事をされていなかった。私がこの仕事に入ったころは、まだ元気で、黒釉を用いたいわゆる黒物(くろもん)の雑器類を登り窯で焼いていた。私は何回か登り窯の窯出しにも足を運んだこともあったが、そのうちにガス窯が中心となった。登り窯は窯焚きや焼成の問題でコストがかかるし、効率が悪いとか鮫島さんが言い始め、しかも、当時の隆盛だった民藝店はガス窯であろうが、登り窯で焼かれようが、関係なく持って行った。それでガスでもいいではないかと思ってしまったという。つらい思いをする必要はなくなったし、自分も歳だからと。お子さんがいなくて、弟子を後継者にするという話をそのときはしていた。
鮫島さんの仕事場の横には昔、周辺でつくられた物を集めて展示する「民陶館」があった。鍵がかかっていないし、誰もいなくても入れるような小屋だった。鮫島さんは不在だったが、よく知っている仲だからと、鈴木さんと一緒にこの小屋の中に入った。そこには何10年か前の苗代川の生活に密着した雑器がたくさんあった。そのなかに、「山茶家(ヤマジャカ)」というご飯を炊くための黒くどっしりとした焼き物があった。それを鈴木さんが見て「やっぱり、さすがいいなぁ」と声を漏らした。
眼についたものの一つに、縁の釉薬を掛けずに縁どうしを重ね焼きした鉢があった。はまぐり合わせともいう。これは日本民藝館にもよく展示されていて、素朴でなかなかいいなぁと思っていたが、その物の由来は知らなかった。鈴木さんは「鉢」を見るなり「酢甕(すがめ)の蓋が置いてあるな」とつぶやいた。確かに大隅半島口部の福山町に行くと、大きな酢甕が膨大に並んでいて、この蓋がかぶせてあった。
「これは濱田の親父(濱田庄司)が見つけて、素晴らしいと絶賛したんだ。民藝館にあるのは、数多くのなかの凄い物だよ。こういうふうに日常生活のために当たり前につくられ、破損したら捨てられてしまうから、もの凄い量をつくった。必要とされるから大変な量があるんだ。そういう凄い量のなかからひとつでもいいから物を選んだらどうか。選べたら、これは大変なことだよ」と鈴木さんは言い、さらに言葉をつなげた。
「だから君もたくさんあるから、ああ、これは雑器類だなと見過ごすのではなくて、伝統のなかから息づいてきて、日常の物と密接につながり、地域に根付いた物、その数多く当たり前にある物のなかにある優れた物を自分で探してみなさい」と。

縁どうしを合わせて焼く苗代川焼。そのために縁がしっかりできている

たくさんの物を見る

小屋にはほかにも、口が付いたカラカラや「丸茶家(マルジャカ)」という独特の土瓶があった。真っ黒のなかに錆が入った物、窯変した物、「蕎麦釉」といってややグリーンがかった黒釉が掛かった物がたくさん目に入った。また、朝鮮からそのまま来たような大甕に指で草花を描いた物もあった。「甘酒半胴(アマザケハンヅ)」という真っ黒な甕に牡丹や竜、梅など日本人的な感覚ではない独特の文様を貼り付けした物も並んでいた。超一級品は何も無かったが、今見ても欲しいと思う物があった。
当時、私がお付き合いしていたのは鮫島さんの窯一軒だけだったが、ちょっと前に亡くなられた老陶工に田中政幸(まさゆき)さんという優れた陶工がおられた。苗代川にいることを聞いていた濱田庄司が注目したおじいさんで、土瓶や角鉢など何かその地域から生まれ上がってきたかのような物をつくっていた。仕事がとても上手だし、日常雑器の粗陶器であっても光り輝く物をつくれる人だった。日本民藝館が所蔵する、ちょっと古い苗代川焼は田中さんの物らしい。
鈴木さんは田中さんの名は知っているが、会ったことはないという。しかし、優れた伝統のなかから生まれた名工は必ずいるものだと言っていた。
鮫島さんの仕事場では、さまざまな物を見ながら、1点1点話をされた。「久野君いいか、このなかでいかにも苗代川焼という物がいくつかある。しかし、これがこのまま続けていくことが可能かどうかの判断を後で聞くからな」と鈴木さん。
そこへ鮫島さんが帰って来て鈴木さんを紹介したら「ああ、私は濱田先生を知っている」とか「河井(寛次郎)先生も来たことがある」と、その写真を見せようかと言う鮫島さん。鈴木さんは「その写真は見たくもない」と返事したが、鮫島さんは先生方が来て褒めてくれたとか、お買い上げしてくれたという話に終始して、日本全国の民藝店から注文がひっきりなしに来ていたが、このごろは自分の仕事量が落ちてきて取引量が少なくなってきていると言っていた。
「ならば、今つくっている物はどこにあるんだい?」と鈴木さんが聞くと「この隣にあります」と鮫島さん。展示小屋の埃をかぶったコーナーに今、つくっている物が置かれていた。鈴木さんはそれを見ながら何も言わずに「ああそうか、まぁとにかくあなたも歳だから生きている間は頑張ってやりなさいよ」と言い、後継者のことには一言も触れなかった。
小屋を出るなり、鈴木さんは振り向き「久野君、鮫島窯のある所の風景はいい。いずれここは壊れちゃうけれど、このままの状態で保存してもらったらいいよな」と言った。この地域には玉山神社という朝鮮から連れて来られた陶工たちが拝みにきた神社がある。この神社からは東シナ海の方角、北に向かって自分の故郷に向かって拝んでいた。そこに行きませんか?と鈴木さんに聞くと、「いや足が悪いからそこまで上がりきれないからいい」と苗代川を後にした。

丸茶家(マルジャカ)。 尖った脚が特徴。
木の枝に陶土を巻き付け、しごいてアールを出し取り付けた注ぎ口は苗代川焼の命。
注ぎやすいかたちをしている

カラカラ

消えていく運命の窯

苗代川での鈴木さんは、龍門司焼での積極的な話とはまったく違うし、小鹿田で坂本茂木さんの物を懸命に選ぼうとした姿勢が皆無だった。それで、つまらない窯にお連れしてしまったのかなと思った。苗代川ではもうひとり児玉健二さんという陶工のもとにもお連れした。児玉さんは昔、共同窯があった所に住んでいる人で、この人と知り合ったのは私がこの仕事に入って数年してからのこと。鮫島さんの窯に行っても、あまり欲しい物はないし、登り窯で焚かない。それで、登り窯で焚ける人はいるかなと聞いたら、最近、登り窯をつくったおじさんがいるという。その人が児玉さんだった。児玉さんは沈壽官窯の窯焚き職人だったということもあるという。この地域の物はみんなつくっているところを横で見ているから、朝鮮から入ってきた技法「叩き」もできるし、何でもつくれるんだと言っていた。
駄賃稼ぎで若いときにつくったり、手伝ったりすることもあったけれど、安定した職業に就けなかったものだから、工場に勤めたらしい。それで定年退職して戻ってきて、まだ元気だし、やることがないから沈壽官窯の窯焚きに行ったことがあるのだと。しかし、自分のやり方で焚きたくなったし、窯のつくり方も知っていたので、知り合いの人たちを呼んで素朴な登り窯をつくったという。
児玉さんがつくった物を見ると、なかなか骨格のある仕事をしている。黒い釉薬も活き活きとしている。ただし、土味が昔の苗代川と違ってやや粗くて赤っぽい。それは、酸化炎でゆっくり焼くからだという。私は児玉さんの物をちょくちょく仕入れていたりした。鮫島さんの窯に行って、たまたま良質な物に出合えれば仕入れるが、児玉さんの物の方が多かった。
鈴木さんは児玉さんの仕事を見て、「昔の生活を知っている。それを忘れないでつくっているところがいい」と言われた。そして「鮫島さんはもう気力がない、駄目だ」とはっきり言った。
「あの人に期待しても駄目だよ。苗代川はもう時代の波のなかで消えていく運命にある窯だ」とはっきり言った。

陶土も釉薬も駄目になった

そして、児玉さんの仕事を見ながら「あなたもほとんど遊びでつくっているのだろう? 生活のためにつくっているのではないんだよな?」と尋ねた。
「そうですよ。偉い先生だからよくわかりますね」と児玉さん。よく私が昔ながらの物をつくれと言うし、自分もつくってみたいからやっているんだと。
それから「朝鮮伝来の叩きの仕事を見せてくれないか?」と鈴木さんは言って、児玉さんの仕事を見ていた。「手慣れていないからロクロも充分上手ではないし、仕事のレベルとしては取り上げるものではない。ただし、日本民藝館に新作として持ってきてくれれば、他の物を圧する力をまだ苗代川は持っているから、この黒い釉薬の勢いというものは大事だよな」と話された。
それから「苗代川らしい陶土ではないよな」と言われた。私はよく気がついているんだなと思った。今の苗代川の陶土はほとんど福岡県小石原の方から持ってきている。ただ、沈壽官窯のような白い焼き物は昔ながらの土なのだが、黒物をつくっている窯は市街に住宅地ができて土が掘って採れなくなった。また、釉薬のなかにある「バン」という錆鉄が重要なのだが、その重要な錆鉄が草牟田(そうむた)という住宅街の下から採れなくなったので圧倒的に物が駄目になったのだった。
結局、苗代川は陶土も釉薬もかつての黒物に関しては駄目だということである。

朝鮮から来た陶工

かつて島津義弘が戦国大名として朝鮮出兵したときに、朝鮮の陶工たちを強制的に連行した。その人たちのなかには最初から薩摩藩の御用窯として活躍したグループがあり、お茶人でもある島津義弘が茶器をつくらせた。彼の跡を継いだ代々の殿様たちも苗代川で御用窯として物をつくらせ、真っ白な土の上に赤絵を施し、さらに金を施して江戸幕府に献上したり、輸出して儲けていた。
焼き物は朝鮮から来たかたちをなぞりながらつくっている。当然、伊万里などの影響も受けて、様式的なものも採り入れている。ある意味で朝鮮式のバタ臭い焼き物が苗代で生まれた。ところが、それだけでは苗代川の陶工は食べていけないので、庶民生活に必要な焼き物をつくりだした。
鹿児島は広葉樹がまず採れなかったので、木の仕事がほとんどない。それから焼き物もなかった。それまでは徳之島にあったカムィ焼とか、他から入ってきた物を使っていたので、容器がほとんどなかった。そのため、苗代川の陶工が容器づくりをできるということはその後の民衆暮らしの道具の用い方に大きな変更をさせることになる。
それから戦国大名は鉄が武器だから、鉄は庶民にはあまり行き渡らなかった。それで鉄の鍋のかわりに焼き物で鍋をつくらせた。あらゆる日用品が苗代川でつくられたのだ。

異国の雰囲気をまとう甕

白物と黒物

苗代川はそういう上手物(じょうてもの)の白土を使った物を白物(しろもん)と呼んで、粗末な土でつくる物は黒釉を掛けるから黒物(くろもん)と呼んだ。この黒物のおもしろさは、まず陶土を叩いてこねていくという技法にある。それは朝鮮のつくり方そのものなのだ。さらに釉薬も錆鉄といって、その地域で採れる土に灰を混ぜるだけなのだ。それから、用いている陶土の鉄分が強いので、水に漬けて上澄みを取る。これは釉薬にはならないのだが、赤化粧となる。それから焼くときも、重ね焼きというよりも伏せ合わせで焼いていく。これは朝鮮の焼き方である。そのため縁をしっかり取るのだ。縁どうしを合わせて焼くため、合わせ焼きとなる。これをハマグリ合わせという。縁が強くなければ重ねられないからつくりがしっかりしている。

過酷な生き方がよい仕事を生む

その基本形を朝鮮から来た陶工がずっとやり続けた。彼らは日本人に帰化したり、日本人と結婚したりしてだんだん混血になり、いつの間にか日本人的な焼き物となった。というわけで苗代川はある意味では異国の文化を伝えた地域だったといえる。
薩摩藩は差別がひどく、たとえば浄土真宗を徹底的に差別した。もちろんキリシタン弾圧もした。なぜかというと、薩摩は23%もの人が武士だったからだ。一般には江戸期の士農工商、武士は8%だったという。薩摩に武士の比率が高いということはいつかは江戸幕府を転覆させるか、軍事的に強くなければやっていけない背景があったのだろう。日本の最南端であり、海外も見据えていく上では、武士が多いと言うことは百姓が少なくなるから農業がとても弱い。飯を食うためには貿易で稼がないといけない。それで、琉球や奄美群島を利用した。そこで生産された物と物々交換しながら蓄えていって武士を養成し、武力を堅持していった。また、海に向かっているから密貿易でも蓄えを増やしていたのだろう。この蓄えが明治維新を起こした大きな力になったのだと思う。
朝鮮の人たちは苗代川で過酷な生き方をさせられたらしい。その環境下で生きていくためには生半可な焼き物では相手にされないから、丈夫できちんとした長持ちする物をつくった。薩摩の社会風土に対抗して生きていくための条件として、ちゃんとした物をつくるという気構えがあったと思う。これが黒物の健全性を護っていった。かたや白物をつくらなければ首をはねられた。いわば生死を賭けて黒物と白物がつくられてきた。これが苗代川の焼き物のよさなのだ。ところが、そういう社会情勢がなくなると、精神的な部分が弱くなり、物そのものに反映されていく。しっかりした物をつくらなくても済む。あるいは、生活に合わせる必要が無いことになれば不要な物となる。やる必要が無いとなると、自然と仕事の力が落ちていくのだ。これが今の苗代川の現実である。
そういうなかで、児玉さんは今の時代のことを知らない、仕事をしていたときから空白が35年くらいある。過去のことしか知らないから、過去の体制で物をつくっている。だから、わりと昔のことを知った仕事を最近までできた。しかし、それもわずかな時間のことで、今はもう仕事をしていない。児玉さんの仕事も寄る年波で終わってしまった。
帰りがけに児玉さんの工房に寄って「元気でやってくださいよ」と別れ、そのまま関係は数年続いたが、仕事を続ける余裕がなくなり、当然、登り窯も焚けないので、仕事が終わった。

物の命を失う

そのあと、鈴木さんはこう言った。「久野君、苗代川はもう関わっても無駄だよ。君がどんなに頑張って黒物の復活をしようとしても、つくり手が時代とかけ離れたところにいる。だからできない。もちろん陶土や釉薬の問題もあるけれど、それ以上に、つくっている人間に気力が無い。鮫島さんからも物をつくっていくという気力が感じられない。歴史を背負っているようなことを言っているが全然背負っていない。すでに終わったと思った方がいいだろう。ここに関わっていくことは無駄なことになるから手を引いた方がいいかもしれないよ。いずれは退くことになるよ。ただ、残念なのは朝鮮の人たちの悲哀を継続しているこの地域がそのまま黒物に反映されていない状況、これがすごく悲しいものだなぁ。それをどうするかは、これからの役割だと思うけれど、現実には無理だ。その理由のひとつに苗代川の物が体現している命はどこにあるかわかるかね? きのうカラカラのことで、君とずいぶんケンカしたよな。その視点からすると、苗代川の命は何だね?」と。
「口づくりですね」と答えると「いや口づくり以上に問題なのは脚だよ。あそこにある丸茶家とか山茶家には脚が付いている。その脚が非常に鋭利になっているだろう。この尖っている脚は今の板の間や座卓の上に置いたらどうだろう。こんな物は傷つけて使えないだろう? それに今は火を焚けるわけではない。すくっと立つ脚が使えなくなるから団子になってしまうだろ? 団子になったら、これはもう命を失うことと同じだ。苗代川を代表する丸茶家とか山茶家はあくまでも生活から滲み上がってきた物だから、その命を失えば、もうこの窯は駄目だ」と言われた。
薩摩の一般庶民は貧しいから土間の生活を強いられていた。土間にムシロを敷いたりして生活が多かった。そのため、土間にそのまま置かないといけないから丸い団子では駄目。すくっと立った、刺すぐらいの脚が求められる。そこにその物の命がある。

脚が団子状になってしまった丸茶家

脚が無くなった土瓶

龍門司焼と苗代川焼の思い出は、私のその後の民藝人生においてものすごく大きな役割を持っていたことが今になってわかった。このときに教わったことが、今、私の仕事上において、何を見ていったらいいか、何を視点にしたらいいかということの、いわば起点になったと思う。