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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第9回

鈴木繁男さんのこと 第9回

2015年1月28日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

鈴木さん(左)と私

薩摩半島の竹細工

苗代川から伊集院という町へ下っていく道すがら、鈴木さんに苗代川の地域は「美山(みやま)」という地域だと説明すると「なるほど、かつては住宅が無く、小高い山があって、そこに朝鮮の人たちが移り住んでいたのか。そういう雰囲気は今も感じるよな」と言った。
鹿児島県薩摩半島は、南薩と北薩に分かれる。桜島を真ん中にして、両側に薩摩半島と大隅半島がある。大隅半島にはあまり手仕事は無かった。ほぼ樹林帯におおわれ、平野部がすくなかったためだ。
一方、薩摩半島には東シナ海側に平野部があり、狭い範囲ながら農業が発達した。そのため、農業用と東シナ海での漁業用の道具が必要とされた。半島先端の枕崎は良質な港として昔から知られていた。そのため、薩摩半島に手仕事が集中している。
この半島では手仕事のことを「テゼク」と呼ぶ。薩摩半島の中間にそびえる金峰山(きんぽうざん)は資源が豊富だった。また、錦江湾入り口には、「薩摩富士」と呼ばれる優美な開聞岳(かいもんだけ)がある。海から薩摩に入るとき、この山は大きな目印となる。
さらには錦江湾からは噴煙を上げる桜島が目に入る。
逆に東側の東シナ海から鹿児島に入ると、金峰山の方が見えやすい。漁業関係の人は東シナ海を朝鮮半島や中国方面、琉球に行く航路として発達させた。金峰山はこの航行の目安となった。なかなか美しい山で、修験の場でもあり、これに連なる峰々も信仰の山だった。それで、この地域には昔から山岳信仰が発達していたことがよくわかる。
その山麓には竹細工をする人が大勢いたらしい。つくられた竹細工のほとんどは大隈半島や鹿児島市内、宮崎県日向などに供給された。膨大な数のつくり手がいて、加世田(かせだ)という町に集まり、そこに商人が何人もいて、この町から出荷していた。
私がこの仕事に入った40数年前、加世田に高倉商店という店が一軒だけ残っていた。奥さんは美容室を営んでいた。街道沿いにあり、とても目立ち、大きな倉庫を持っていた。ご主人は代々、この付近の農具を集めて出荷していた。また、鹿児島では農具市が毎日のようにある。とくに冬から春にかけては、それぞれの町で市がたつ。その市には高倉商店から出荷された物のほか、何人もの業者が竹細工を出していた。薩摩半島は竹細工の地域だったといっても過言ではない。

上手な人

私がこの仕事に入ったころ、聞いた限りでは600人近い竹細工のつくり手が薩摩半島にはいたが、鈴木さんと一緒に回った10数年後には二桁の人数へと一気に減った。昭和46〜47年(1971〜1972年)からオイルショックを経て、第二次の手仕事が消滅。鈴木さんと昭和50年代に回ったときにはすでに先が見えている状況だった。私も店を始めたばかりだし、経済的にあまり余裕が無かった。物を仕入れるだけでも大変な状況だった。そのため、全部のつくり手を回ってすべてを仕入れることはとてもできないし、特定の上手な人の所に行かざるを得ない。しかし、たどっていくと、上手な人がだんだんわかってきた。
九州では「ショウケ」、薩摩では「ジョケ」と呼ぶザルを専門につくる人、九州で「メゴ」、鹿児島で「テゴ」と呼ぶカゴだけをつくる人がいて、分業でつくっていた。ザル、あるいはカゴを専門とする人が多かったのだ。彼らは大量につくるため、素材を吟味しているわけではない。素材を吟味して、なおかつ言われた通りの物をつくってみようという人はそういるわけではない。そういうなかでも上手な人は限られている。

人柄のよい人

鹿児島の伊集院には竹細工を上手につくる小吹有蔵(こぶきゆうぞう)さんがいた。私がこの仕事に入ったときに知り合った制作者だ。温厚でなおかつ薩摩の人らしい気骨があり、接しやすい。人の話もよく聞いてくれた。あらかじめ手紙を出しておくと、わざわざ足を運んでくれたからと優先的につくってくれた。
こういう手仕事をする人は、その日につくった物が売れないと生活できない人が多かった。そのため、つくり終えた物を貯めておいてもらうのは非常に酷なことだった。しかし、小吹さんは私の注文を受けると、他の人が来て、それを欲しいと言っても絶対に渡さなかった。そんな彼のもとへはいつも手土産を持って行っては、しばらく話をした。龍門司焼の川原史郎がまだ若い職人だったときは、よく小吹さんのもとへ連れて行った。互いに好きな釣りの話をしたり、お茶をいただいたり、奥さんもまたとてもよい方だった。そうして小吹さんとは人間的な付き合いをずっと続けてきた。
鈴木さんを小吹さんのところへまずお連れした。しかし、鈴木さんはこういう仕事やその物のどこが良いか何も言わない。とにかく「いいねえ、いいねえ」と口にするだけ。つくり手に対してとても謙虚に接していて、こうした方がいいとかはいっさい言わなかった。「こういう人柄のよい人と接していて羨ましいよ。普通、こういう制作をする人は癖があるし、ふだん抱えている気分があって、なかなか心を開かない人もいる。しかし、君が付き合っている人はどういうわけか、みんな君とうまく話をする。君の性格がいいのかもしれないけれど、とてもよい関係を築いていて羨ましいよ。僕はこうはいかないからな」と鈴木さん。「こういう人たちをとにかく大事にすること」と言っていた。

小吹有蔵さん

宇宙船

小吹さんにはどのような物をつくってもらっているか鈴木さんに説明した。たとえば、醤油をつくるときモロミを漬けるための空洞の筒型のカゴに底を付けて塵カゴにしてもらいましたと言うと「そうそう、みっちゃん(柳宗理)のところにいつもそれが置いてあるよな」と鈴木さん。実は宗理さんから頼まれてつくった物ですと答えると、「へぇ、みっちゃんはこんな竹細工が好きなのか。そういえば、みっちゃんの家に行くと、竹のヒゴを全部抜いて障子紙を貼り付けてランプ・シェイドにした物があるよな。その延長上に例の『宇宙船』があるんだな」と笑った。
それは宇宙船のようなフォルムをした、宗理さんデザインのランプ・シェイドなのだが、私があのかたちが嫌いだとお茶を飲みながら話すと「俺だって好きなわけがないだろう。あれは構造上間違っている」と鈴木さん。熱がこもってしまって障子紙が長持ちしない。値段ばかり高いと私が言うと「そうだな。宗理さんはデザイン料を取るというのが大きな問題なんだな」と鈴木さんは苦笑した。小吹さんは薩摩半島の入り口の伊集院に住んでいたが、その理由を尋ねると、結婚して移って来たのだという。もともとは竹細工が最も盛んな加世田の宮崎という東シナ海に面した地域の出身だった。この地域で竹細工の修行をしていたが、戦争に徴用されて満州に行き、シベリアに送られたという。
戦時中の小吹さんは軍でコックをしていた。料理の腕もいいのだろう。彼がつくるものはおいしいということで、コックとしてロシア兵に気に入られ、モスクワに行ったとのこと。モスクワの兵舎でコックをさせられて、それで日本に帰ることができたのだという。身についていたものがたまたま役に立ったと言っていた。だから、かなり辛い想いはしたけれど、悲惨な目には遭わなかったようだ。
日本に戻って来たのは昭和27〜28年(1952〜1953年)だったが、仕事が無かったので、昔取った杵柄で竹細工の仕事をして、結婚後は伊集院に住むようになったのだと。奥さんも仕事を手伝いながら、二人で細々ながら町の竹細工屋さんのようにして生計を立てた。農具として購入した人が壊すために、修理をすることがずいぶん多かったそうだ。

小吹さんと初めて会ったとき、高校の制服を着た可愛い女の子が工房に入ってきた。学校を卒業で明日から勤めに出ると親と話していた。大阪の方へ集団就職すると話してくれた。
「小吹さんがつくっている限りは付き合いが続いていくだろうから、これだけの仕事をする人を大事にしなさい」と鈴木さんは言って車に乗った。

伊作の永倉義夫さん

次に薩摩半島を南にくだり、次に向かったのは金峰山に近い吹上(ふきあげ)という小さな町だった。町の中心の伊作という地域で、今も付き合っている永倉義夫さん(この連載記事の第27回を参照)と会った。小吹さんと同じような仕事をしている人だが、腕は少し劣った。当時は、小吹さんから仕入れられた物が少なかったとき、補助的な意味合いで永倉さんのところへ行っていた。永倉さんの工房には、いつも物が釣り下がっていた。

永倉さんの工房でも鈴木さんは何も言わずに傍観していた。オオツヅラフジの蔓(九州では「つづら」と呼ぶ)をたくさん取ってあるのを見て「何に使うの?」と聞いた。針金が使いやすくて蔓を取りに行く必要はないかもしれないけれど、蔓の方が竹を壊さないのだという。針金で巻くと、修理はできるけれど、食い込みが強いのと、錆が竹に移るので、食料品の粉を挽くようなカゴには良くない。やはり蔓の方がいいと永倉さんが答えると「なるほど、それでこれだけ膨大な蔓があるのか」と鈴木さんは感心していた。
工房の軒先に小さなカゴがいくつか吊るされていた。そのカゴは孟宗竹で編まれていた。薩摩半島の竹細工師は皆、真竹を用い、孟宗竹を使わない。しかし、そこにあったのは孟宗竹を素材にした小さなカゴだった。
そのカゴはこれから向かう同じ吹上町の入来(いりき)という地域の仕事だったが、永倉さんは町のなかの竹細工屋だから仕入れていた。通りすがりの人が竹細工を買っていくときに農具ではなくて、ちょっとしたカゴを欲しがる人がいたからだ。
鈴木さんはこのカゴも目について「かわいらしいカゴだ」と。「実はこれをつくっているところにこれから行くんですよ」と言うと「ところで久野君、ここは伊作と書いてあるけれど何なのだ?」と鈴木さん。「芹沢先生の例の伊作紙漉きという作品があるじゃないですか? あの題材となった場所が伊作です」と答えると「ああ、あれか。芹沢が描いている紙漉き場とはここのことか」。小カゴがつくられているのは、昔あった紙漉き場の近くだった。芹沢が紙漉き場を見たのは相当昔のことで、その隣が伊作という地域だった。

伊作の蓋付きカゴ

独特の集落

東シナ海に面した吹上浜という海岸がある。非常に美しい砂浜が続く長い海岸だ。この地域には入来(いりき)集落があり、現地では「西原(にしはら)」と呼んでいた。ここはとにかく風が強いため、防風のために植えた「屋敷林」が見られる。広葉樹林帯ではないので、笹竹でびっしりと編まれた竹垣で覆っていた。ひとつひとつの家でなくて集落全体が囲まれ、そのなかで20戸ほどの家が寄り添っていた。
初めて入来を訪ねたときは、まだ古い木造の家ばかりだったが、だんだん改築されて貧相な文化住宅も増えていった。それは嫌な建物だったが、まだ昔ながらの木造住宅も残っていた。古い家は高床式で床がかなり高い。それだけ通風を考えているのだろう。貧しいが、独特の建て方だ。薩摩の建物なのだが、薩摩的でない部分もある。ちょっと変わった集落なのだ。私は雑誌「民藝」で「南薩の手仕事」という記事を5回に渡って連載したのだが、その集落を調べて詳しく紹介した。

孟宗竹の小カゴ

この集落に初めて入ったときには独特の「伊作テゴ」、「丸テゴ」、「卵テゴ」といったカゴが孟宗竹で編まれていた。いずれもあまり大きくなく、孟宗竹で蓋付きの独特のカゴがつくられていた。また小さな貝を採るための貝採りカゴもあった。
私は、この小さなカゴの存在に吹上浜の小さな漁港で気づいた。このあたりでは潮干狩りができ、潮干狩り用の物を販売する店があって、そこで小さなカゴが売られていたのだ。店のおばちゃんに聞くと「貝採りカゴ」だという。私はその可愛らしいカゴを喜んで買った。このカゴに子供が潮干狩りをしながら貝を確かに入れていた。
「これをつくっている所は?」とおばちゃんに聞くと「すぐそこだ」と指差した。そこが入来という集落だった。その集落に入ったとき、ちょっとここは今まで訪ねた集落とは違うなと感じた。そう直感が走るのは、宮本常一先生の下で学んだ影響があってのことなのかはわからないが、差異に気がつきやすいよう訓練されていた。
この集落ではほとんどの人が竹細工をしていて、しかも孟宗竹を使った蓋付きのカゴをつくっていた。その値段がとても安く、数100円単位だった。実は私の結婚式に、引き出物としてご飯を入れるための蓋付きカゴのミニチュア版をこの集落でつくってもらった。そのなかに鎌倉山のチーズケーキを入れて配ったのだ。全部で60〜70個つくったが、1日数個しかつくれない物が数100円単位なのだ。本当に申し訳ないが、お金をあげすぎてしまうのもよくないのだそうだ。この地域には昔の何かを背負っている人が多いなと思った。それに、根掘り葉掘り聞こうとすると嫌がられるところもある。なかなか入り込めない地域なのだが、そのなかの一軒だけ、安楽元芳(あんらくもとよし)さんが心を開いてくれた。

流木オブジェ

このおじいさんは、崖を少し下ったところに独特の家を構え、顔立ちもすきっとしていた。とても温厚で話しやすかった。室内には怪物をペンキで塗ったような変な物がたくさん飾っていた。それらは砂浜で流木を拾ってきては色を塗った物だった。鈴木さんをこの家にお連れした。ゲラゲラ笑うのかと思っていたが、ものすごく真剣な眼差しを向けていた。ドッジボールのボールをピンクで塗ってみたり、流木のかたちを利用して龍をつくってみたり、それが家中に飾ってあった。しかし、つくっている竹細工は素直な物。そのギャップが激しかった。鈴木さんは黙って凝視していた。実はそれまでに何人か連れていったら、民藝館のある職員は「気持ち悪い。あんな程度のところに連れて行かれた」とまわりに漏らしていた。

安楽さんの家に飾られた流木などのオブジェ

造形意欲の爆発

私と鈴木さんは、石原地区近くの吹上砂丘荘という国民宿舎に泊まった。レストランでご飯を食べ、お茶を飲んでいたとき突然、鈴木さんが口を開いた。「久野君、今日、君が連れていってくれた所に唐変木がたくさんあっただろう? あの色を塗りたくった物。それを見て自分はショックを受けたよ」と。鈴木さんは朝鮮半島を訪ねたときの思い出を語ってくれた。ある片田舎を歩いていた時、小さな川に架かる木の簡素な橋の下に流木などいろいろな物が集まっていたという。それらのなかに色を塗ったりして、明らかに流木を細工した物がいっぱいあったそうだ。それは、あえてつくったというのではなくて、自然につくった物で、売り物ではない。誰かがつくって、そこに捨てていた。それを目にしたときと同じ衝撃を安楽さんの家で受けたという。「一般の人たちのなかに、仕事と関係ないところで芸術的な、心から湧き上がってくるようなセンスを持つ人間がいる。そういう人たちは何かをつくりたいという衝動にかられる。そのとき爆発するところがないと、何らかの造形物を細工してやろうという気が出てくる。しかもあのおじいさんの端正な顔立ちと鋭い眼差し、それでいて柔らかさもあり、何ともないような普通の人。しかし、あの家にあの物がいっぱいあるのにはびっくりした。あれを普通の人は嫌なものだと思うだろう。久野君もそうか?」と鈴木さん。
「嫌なものというより、変なものだと思いながらも、何となくすごい人だと思いました。安楽さんの家に来てすごく楽しみなのが、30〜40分は過ごすのだが、話をしていると、心が伝わってくるような部分があり、温かさが伝わってくるんですよ。安楽さんと話していると、自分自身が来て良かったな。心が洗われる想いがします」と答えると「では、君はあの刈り込みを見たか?」と鈴木さんは問いを重ねた。
「きれいになってますね」と答えると「いや、あれはきれいになっているんじゃない。あれも造形だ。安楽さんの家はまわりに武家屋敷で知られる知覧町と同じようなイヌマキを植えていたが、この地域の家のほとんどはまわりが竹藪だった。安楽さんはおそらく竹藪だけでは満足せずに、自分で植えたのに違いない。そのイヌマキを自分で刈ったときの造形への憧れとか、造形の対応、それを自分のなかで消化していく方向は何かを感じるものがある。あの人は大変な人だ。もし、あの人が違う場所で生まれていたら優れた芸術家になっただろう。そういう顔つきをしている」と鈴木さんはスパッと言った。
「つくっているカゴを粗末な物だとみんなが言うかもしれないが、そんなことはない。たまたま生計を立てるためにやっているけれど、もしあの人が自由性を持った仕事をしたら大変な方になった。そんな人は世の中におそらく何人もいたはずだ。ただ、そういう人たちは自分自身のことを気づかないし、生活する立場とか環境があったために出てこなかっただけだ。たまたま、そんななかからうまくいった人は人間国宝だとかに持ち上げられる。しかし、世の中にはそういう人はいっぱいいたはずだったんだ。そういう人を見出すのは大切なことなんだ。君がそういう人と付き合えたのはたいしたもんだとびっくりしたよ」と鈴木さんは言っていた。

隠れた天才

そのあと、鈴木さんは着てきた背広の上着が見つからず、どこに置いたか全然わからないと困っていた。その上着は安楽さんの家のイヌマキに引っかかっていた。安楽さんが手紙で知らせてくれたのだ。それで鈴木さんに電話すると「ああ、あそこで立ち小便した」と言う。上着を掛けて忘れてしまうくらいショックを受けていたのだろう。
鈴木さんのような天才的な人は感覚的なものが見える力があったのだろう。それができる人は限られている。鈴木さんは棟方志功や芹沢などと共通するひとりだったのだろう。ただ、棟方や芹沢は天才性を自分のものとして仕事をしていた。鈴木さんはそういうことをしなかった。鈴木さんへの評価は雑誌「民藝」などが伝聞でしているが、この人が果たした役割はもっと大きいし、感化された人もきっとたくさんいると思う。しかし、それは表面に出てこないし、それだけの才覚があってもやらなかった。
それから民藝はある意味、特殊な世界で、高学歴だとか、育ちの問題など、富裕層の人たちが民衆の生活の物を見出してきた。逆に言えば、上からの目線で見ていて日本の文化を語っていたといえるだろう。
後から宗教的なことなどをくっつけ、理論的な展開を皆さんはしている。それに引っかかったのが、今の若い民藝の連中だ。民藝の本質を知らず、柳を神格化しているが、人間はもっともっと毒々しいものだ。それをサポートした人のなかに鈴木さんがいた。

転機

私にとってはこの旅が大きな転機となった。南薩の民藝を書かなくてはと思ったのは、安楽さんを通して集落の生い立ちにものすごく興味を持ったからだ。そして、なぜこの地域だけが真竹ではなく孟宗竹を使うのか、その歴史をたどりたかった。それから、この集落の人はすべて「安」という漢字を苗字に使っている。安藤さんとか安田さんとか安心さんという人もいた。それは何を意味するのか。また、建物が独特だ。薩摩の非常に貧しい一般庶民の居宅だが南方的な感じがする。朝鮮文化とは違う、中国的な匂いがあるのだ。
手仕事をしていく背景には、さまざまな理由があって、古代史も関わっている。私がそう思うようになったきっかけは、このときの南薩の旅だったかもしれない。今、考えると、鈴木さんとの2週間くらいの旅は自分の人生にとって転換期だった。物の見方、それから物のなかに命があるということ。それからつくられてきた地域の歴史には使う人間とつくる人間との切磋琢磨があり、それを伝えていく人がいるということ。そこからその地域独自の造形が生まれてきたということ。そういう日本の強い伝統文化が大きな役割を果たしていることが民藝によって表されてきた。民藝のひとつの大事な方向性はあくまで民衆の使うもの、昔からつくられる暮らしに寄り添うものを継続させることだが、さらに民藝は学問としても成立する素晴らしいものと気づけたのは、この旅がきっかけだった。
よい物をつくる人を見出し、その物がどうやってできてきたか、文化などを明らかにしていける。ただ、このことに気づく人と気づかない人がいる。私はたまたま鈴木繁男という人と一緒に行動したことによって早めに気づいた。だから、私が手仕事フォーラムを運営しながら皆さんに伝えたいのは、物を見る力をまずつくらないといけないということ。美しさとは何なのか、これが第一だ。同時に美しさが生まれていく背景は何なのかということ。さらにはつくっている人たち、販売している人たちから日本の優れたものが成立していく過程も知らなくてはいけないと思う。

民藝の役割

安楽さんの家を訪ねた翌日に帰ることになり、私が鹿児島空港まで鈴木さんを送った。その車中で反省点として鈴木さんが私に言ったのは、「結局、民藝運動は柳宗悦個人の運動であることは事実だけれども、それによって果たした役割は社会的にはそんなにあるわけじゃない。だから将来どうなるかはわからないが、民藝館の館長は唯一、柳宗悦だと。あとの館長は形式的な館長で、日本民藝館の館長は彼一人だけだ」と。鈴木さんはさらに言葉を続けた「初めて竹細工とか、いちばん身近な実用的な物をつくる人たちとじかに接した。それにより美しさを拾い上げていくことを理解できた。それまで無かった経験だった」と。
「とどのつまり、柳の大きな功績とは、無くなっていく仕事を残すことができたということ。結局、カゴに乗る人がいて、それを担ぐ人がいる。しかし、今回、カゴを担ぐ人たちのワラジを編む人たちの所に君が一生懸命連れて行ってくれた。民藝の果たしたいちばんの社会的功績はワラジを編む人に光が当たったということ。そのものづくりで現実に生計を立てている人がいる。同時に、それが文化として日本の伝統産業とか、伝統の仕事とか言われるようになったのは、民藝が果たした役割が大きかった。柳の功績はそれに尽きるよな」と鈴木さんは言った。

※この頃の写真は日本民藝協会機関紙「民藝」に私が寄稿文を掲載した際、膨大な写真を撮っているのですが、しまったままになり眠っている状態です。いずれ見つけ次第付け加えます。