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Kuno×Kunoの手仕事良品

鈴木繁男さんのこと 第10回

鈴木繁男さんのこと 第10回

2015年2月25日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

旅で得たもの

昭和57年(1982年)の春、一週間にわたる鈴木繁男さんとの九州の旅により、私は物の見方や捉え方の根本的な部分を学んだ。よいとか悪いとかということだけではなく、その背景にあるものを感じさせる大きな旅だったと思う。
この学びを通じて、物をつくる人との対話で、どういったところを説明すれば、相手が納得するかがわかるようになったし、個人的な感情や趣向で物を見ずに相手に伝えるにはどうしたらいいのか、よく理解できるようになった。
物を見ていくときに、これはよいな、美しいなというのは第一義的なことなのだが、同時にそれがどうして美しいのか、美しく感じるのか、その美しく感じたものを、どうやったら人に伝えることができるのか。さらに、伝えて、それをつくっている人たちに対して、これからもそういったものをつくり続けていくことのひとつの方向を極めて具体的に進めていくことができるようになった。

会話のキャッチボール

この旅以来、九州方面へ足をのばせば、帰路はたいてい、山陰、出西窯の多々納弘光さんのところを経由して、静岡県磐田の鈴木繁男さんのところに寄った。報告がてら、あちこちで見てきたこと、感じたことをぶつけたり、今つくっている新作をどうしたらいいか細かく聞いたりしていた。鈴木さんの家を訪ねると、ご自身でお茶を煎れていただきながら、使っている物のいきさつや、家にある蔵品についての話に耳を傾けた。この体験が私の今の物の見方に非常に大きな影響を与えたのである。
また、いろいろな骨董屋や美術館で物を見たときに、これはどこの物だとか、これはいつごろにつくられたのか端的にわかるようになったのは、鈴木さんと会話のキャッチボールをしていたからだと思う。鈴木さんが柳宗悦さんの居宅で毎朝のように物を見る訓練をされたのと同じように、私も鈴木さんを訪ねるたびに、家のなかの物を見ながら2時間半ほど意見を交わしたのだった。

池田三四郎さんに呼ばれる

当時の私は池田三四郎さんと懇意にさせてもらっていたので、「ちょっと来てくれないか?」とか、「どこか行く途中にとにかく寄りなさい」とか、よく池田さんから電話がかかってきた。それで西方向に行くのに松本まわりにすることがあった。中央高速の諏訪で降り、下の道を走った。今のように松本まで高速がつながっていなかったため、道路が空いている朝の4時半くらいに出ていた。ある時は美ヶ原高原を経由して松本に通った。

李朝家具の本をつくる

池田さんにはすでに計画があったのだろうが、三木さんという東方書房の温厚な経営者のもと、李朝木工の本がそろそろ完成に近づいていた頃だった。
池田さんは松本民芸家具の創始者であると同時に、家具のコレクターでもあった。家具の収集を通じて、自分のところで家具のリプロダクションをしていた。李朝のものもたくさん持っていたし、収集の集大成として李朝木工の本を書くとのことだった。
そのときに、本の装丁の話を三木さんを交えてしていたら、李朝の本を出すからには、李朝風の装丁することになり、そのカバーに使う図案は柚木君(柚木沙弥郎)に頼んでいるんだと言った。

鈴木繁男さんの字しかない

やっぱり、なんといったって、雑誌「工藝」の半分以上を装丁した鈴木繁男の字は素晴らしいし、あの字は朝鮮の字と変わらないほどのいい字と思っていたようだ。
「お前はどう思うか?」と聞いてきたので、そりゃあ、鈴木さん以外に右に出る者はいないだろうし、朝鮮風のものをつくるとしたら、デザイン力、意匠力は芹沢さんを除けば、鈴木さん以外にいないんじゃないですか、と答えた。池田さんは、「お前もそう思うか」と言いつつ、「しかし、俺は苦手だ」と言い始めた。
「柳先生(柳宗悦)のところにいたからって、いい気になりやがって。人を指導しやがるし、俺のことを馬鹿にしやがる。何をぬかすかといつも思っていたんだ」と池田さん。
それでも、装丁をできるのは鈴木繁男しかいないと池田さんは考えていた。
「じゃあ、鈴木に連絡するしかない。お前は確か、鈴木と仲良かったんじゃないか? ちょっと、お前から連絡して頼んでみてくれねぇか」といわれた。それはちょっと無理だと断った。もし自分がそれをやったら、鈴木さんは断りますと答えた。
「なんで断るんだ。こんないい仕事はねえじゃないか?」と池田さんが言うので、「自分を使って鈴木さんを口説くってやり方をすると、鈴木さんは反発します。鈴木さんはすごい反発心の強い方ですから柳先生以外は認めません。そんな人に若造がいくら仲がいいからといって、池田さんから頼まれたからやってくださいと言ってもやるわけがないでしょう」と言うと、池田さんは「そんなもんかなぁ?」と言った。それで、自分自身で頼むことになったようだ。

おもしろい発想

本にどんな紙を使うかについても、池田さんはおもしろい発想をされた。ものづくりにおける、池田さんの発想のおもしろさは今の私につながっている。
「紙をちょっと違ったものにしようじゃねぇか」と池田さん。「おい、オンドル紙っていうのがあるよな。朝鮮のオンドルの部屋で使っているのは紙で、なんか強ぇ紙でさぁ、その下に暖気が通っている。あの紙は崩れないのは、いったいどういうわけだ? だったらオンドル紙でどうにか本ができねぇか」って話になった。
池田さんは、その紙について八尾和紙、桂樹舎の吉田桂介さんからレクチャーを受けたようだが、オンドル紙は桂樹舎の工房では漉けないので装丁の紙には使えないと言われた。「だったら、その雰囲気で本ができねぇか?」。それでも吉田さんは「ちょっと無理だ」と答えたらしい。
それでそのときから、鈴木さんに頼むことが、池田さんの頭のなかにあったのだろう。
「装丁はオンドル紙の雰囲気で、字は鈴木以外はいねぇ」と言っていた。雑誌「工藝」の字はすげえ字だ。李朝を字で表せるのは鈴木以外にいないと。

犬猿の仲

それで、字を鈴木さんに頼むことにした。鈴木さんはOKすると私は思っていた。鈴木さんは意匠家だから、相手が嫌いだろうが、なんだろうが、やっぱり仕事をやりたいのだ。おそらく、そういう仕事を与えられたら鈴木さんは何がなんでもやりたい。鈴木さんは仕事をしたいのだ。それで池田さんのもとに鈴木さんが来ることになった。いつ来るか、私はすっかり忘れていた。そうしたら、それからすぐにまた池田さんから連絡があり「ちょっと来ないか?」と言う。「どうせ暇だろうから、来て俺の仕事を手伝ってくれねぇか」と。それで行ったら、「悪いけれど、鈴木繁男を迎えに行ってくれねぇか」と言う。
「今日ここに鈴木が来る。駅に着くから、お前が迎えに行ってくれ」と池田さん。冗談じゃない、鈴木さんは嫌がるに決まっているので困ったなと思った。そのとき、鈴木さんが駅に着いたと電話がかかってきた。
「ほら電話が来た。ちょっと行ってこい」と池田さん。仕方がないと私は駅に向かった。鈴木さんは驚いていた。「なぜ君がここにいるんだ? 君は池田と親しかったのか?」と。いや、前から付き合いがあったと答えると「それは商売上のことか、それとも池田を尊敬しているのか?」と鈴木さんは問う。
池田さんのところに着くと、「鈴木君よく来たね」と池田さん。「池田さん、久しぶりですね」と鈴木さん。「久しぶりじゃねぇじゃないか。このあいだ館展(日本民藝館展)で会ったばかりじゃねぇか」と池田さんは横でぶつぶつと言っていた。
それから鈴木さんはこう言った。「池田さん、私はこの仕事をする前に、ちょっとあなたの集めているものを見せてもらいたい。それから私が何をしようか決める」と言われた。
「それじゃぁ、生活館(松本民芸生活館。富山の山奥から民家を移築し、クラフトマンの学習寮として改築されたもの。日本のほか、韓国、アメリカ、イギリス、スペインなど世界各国の民芸家具や古い伝統を持つ様々の工芸品が集められている)に行こう。それから今度の本で出すものを全部見てくれ」。そうして、鈴木さんを家具を収蔵している生活館へと案内した。

これはまずい

本に掲載する李朝家具を見て、そのとき鈴木さんは感想をまったく言わなかった。ところが池田さんが来ると、「池田さん、これはなかなかいいものじゃないか。こんないいものを見たことがない」と言う。そう褒めたのはヨーロッパの家具に対してだった。
ただヨーロッパの家具には驚かれていた。「やっぱりヨーロッパ人はすげぇ文化を持った人たちだな。イギリス人はすごいじゃないか。スペイン人は優れた伝統があるんだな」。生活館には珍しい家具もずいぶんあるのだが、美しさということとは別個に木工の根本的な部分で、日本人の生活とまったく違う空間のなかで生きてきた民族の造形にはこんなにもバラエティがあるのだと、とても感心されていた。

仕事をしたい

車中で鈴木さんに「先生、今回の仕事は喜んで引き受けられたんでしょ?」と聞くと、「そりゃあ当たり前だ。こんな仕事はなかなかしたくてもできないよ。自分の世界ではなかったことだ」と非常に喜んでいた。

柚木さんの幾何学模様と鈴木さんの字を配した、李朝木工の本

スケッチに驚く

鈴木さんは、車での移動中、「この前、一緒に小鹿田に行ったときに選んだ、自分が欲しいものをどうしたかね?」と聞いてきた。「先生の選んだものは、そのままうち(もやい工藝)に来ていますよ」と答えると、「それは売らなかったのかね?」と鈴木さん。「いや、売りません。先生が選び集めたものだから、ちゃんと取ってあります」と答えた。
「そうか、じゃあ僕があれを今度、大阪民藝館で販売したいと思うので、選んだものは君が好きなようにしていいけれど、それと同じようなものをつくってもらうよう註文書を書いて君に後で渡すから」と言われ、池田さんのところで軽く挨拶して帰られた。
それからものの2日か3日もしないうちにスケッチが描かれた注文書が茶封筒で届いた。おそらくこれは松本からの帰路の電車のなかでノートに書いたのだろう。私は、こんな程度の量で商売ができるわけはないと感じたが、鈴木さんは商売をしていない人だ。だから、こんなくらいとしか思っていなかったのだろう。しかし、このスケッチには驚かされた。もののかたちがきちんと取れている。たとえば、この急須のラインがぴったり合っている。肩の張りがどういうものか見えてくる。それから縁の反りがよく書けている。きちんと要点を見ているのは、さすがだなと思った。

小鹿田に注文を出そうと、欲しいものを描かれた鈴木さんのスケッチ

李の字がちょっと・・・

やがて、李朝木工の本ができて、池田さんに呼ばれ「とうとうできたぞ」と著書をいただいた。「実は人には言えないのだが、こっそりと高い本もつくった。まぁ、それはおめえにはあげられないな」と言っていた特装本もあった。この本はのちにいただくことになった。67とナンバーリングがされている。
本はやはり鈴木繁男さんの字がよい。オンドル紙とのバランスはさすがだ。鈴木さんはただ「自分の思うほどのものはできなかった」と私にはさかんに言っていた。私はその意味がよくわからなかった。李朝の「李」という字があまり朝鮮の字に似すぎていると、鈴木さんは言われていた。ただ、「木工」の字はよかったよ、その「工」は雑誌「工藝」の「工」と共通している。うまくいったと思うが、李朝の「李」とのバランスがちょっと・・・と言われていた。

李朝木工の特装本。ごく限られた人に配られたもの

ミュージアム・ショップ

当時の私は日本民藝館展に仕事の関わりを核にしていたから、鈴木さんの薫陶を受けて、館展の入選、準入選、選外のうち、少なくとも選外に場違いなものが入らないようにと頑張っていた。これは民藝館の威厳を保つためにたいせつだと鈴木さんは言われていた。
それから、入選、準入選と差別したとき、準入選というものがどこの民藝店で売られてもいいものであるべきで、準入選を目指しなさいと言われた。
入選は準入選のなかで「これは」というもの、たとえば焼き物でいえば、たまたまその窯の調子がよかったとか、織物にしても選んだ材料がたまたま色の調子がよかったとか、民藝館に並んでも遜色がないもの、そういったものが一般の通常品のなかから出てくる。それを選んだのが入選なのだと。入賞はさらにそのなかから選び抜かれたものなんだと鈴木さんは強調し、そのために君は準入選以上に該当するものを集めてくれと言われた。
当時は民藝館には物販をするミュージアム・ショップがなかった。それで柳宗理さんからミュージアム・ショップを充実させるべきではないかと相談を受けた。柳宗理さんは外国に行っていたから、民藝館は今と違って入館者も少なかったので、ミュージアム・ショップで少しでも利益を出したいというのがあった。それでいろいろな話があったのだが、結局、宗理さんと鈴木さんとの話で、私が民藝館の売店を任されることになった。ただし、柳宗理さんは自分のデザインしたものもショップに置きたいというのが問題だった。それには反対した。鈴木さんも本音は反対だろう。ところが、柳家を守るという立場だったので、受けざるを得なかったようだ。
それから大阪の民藝館も鈴木さんが担当することになって、東京の民藝館が古作ならば、大阪の民藝館は新作だと。新作のミュージアム・ショップを立ち上げるから協力してくれと言われた。その一環で、鈴木さんは九州を回ったのだろう。今つくられているものの実態を鈴木さん自身が把握したかったのだと思う。それが鈴木さんにとっての九州旅行の大きな目的だったようだ。
私はミュージアム・ショップを任され、小鹿田に関しては自信を持って関わるようになった。このショップがあることは、もやい工藝が小さかった当時はとても助かった。それで、日本民藝館展に出品するレベルのものをなんとかショップに置こうと心がけていた。