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Kuno×Kunoの手仕事良品

及川隆二さんを偲んで

及川隆二さんを偲んで

2015年3月25日
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

さる2月8日、私がもっとも信頼する同業者であり、40年にわたって友情を温めてきた盛岡光原社の及川隆二社長がお亡くなりになった(及川さんとの出会いと交流については、この連載記事の第99回でも紹介)。

光原社さんにはもやい工藝の発展に大きな影響を受けた。あの広い店の一角で、毎年のように展示会を20数年間続けさせていただいたことは、私自身の仕事にものすごくプラスだった。

また、倉敷ガラスの小谷真三さんという不世出の大変なつくり手と出合えたのは光原社においてだったし、いろいろな所へ仕入れに行ったときにも好意的に引き取ってくれて、ずいぶん援助していただいた。若い時にはその援助にどれだけ助けてもらったことだろうか。

光原社に対しては、ほかに出荷するもの以上に、気を遣ってきたし、光原社という店が一流の民藝店としてずっと機能してもらいたかった。その存在そのものが私の生きがいのひとつだった。

私は及川さんのことをよく知っているので、若くして亡くなったことが、彼にとって残念な気持ちだったと思う。心からお悔やみを申し上げたいし、知らせを耳にしたとき、思わず涙して、しばらく動けなかった。互いに自分の人生とは180度対極にある性格だと認識していながら、同志であり同人であるととらえ、本当によく語り合った関係だから、動揺せざるを得なかった。

奥さんからの弔文のなかで、私との長い付き合いで互いに助け合いながら刺激を受け合いながら、民藝の道を少なからず登ることができたと書いてあった。

私は今、68歳で、及川さんは74歳で6つくらいの歳の差だが、よき先輩というよりも同人として付き合ってこられた。それだけに私自身も落ち込みが激しく、つらい気持ちだ。

今回は彼の生き方、性格、光原社の方針などを話すことで、送る言葉にしたいと思う。

偉大な創業者

及川隆二さんは店の三代目だが、初代が及川四郎さんという大変な社会派の経営者だった。昔気質の商人で、卓越した能力を持った方。それによって光原社はとても大きくなった。四郎さんは後輩の宮沢賢治との付き合いで、本を出版してあげた。無名でお金も無い宮沢賢治の才能を早くから感じて助けたりした。

商人でありながらも社会的な眼も持つ類まれな人は何人もいるのだろうが、四郎さんはそのひとりだった。それで、いちはやく民藝との関わりも持った。また、自分のところで漆器工房を持っていたし、南部鉄器も多く生産し、販売もしていた。いわゆる南部地域との関わりを強くして商いを伸ばしてきたのだ。四郎さんは白樺の文章を通して柳宗悦を知ってすぐに白樺とつながりながら、白樺の考え方のなかで柳宗悦の工藝運動に共鳴した。この運動が将来的に大きな役割を果たすと先見の眼をもっていたのだった。

そんな四郎さんは盛岡で民藝運動をしていく大きな役割を果たしてくれた。芹沢C介をはじめとする著名な民藝の先生たちが光原社に来られて展示会をしたり、作品を紹介したりしているうちに、だんだん民藝にのめりこんでいった。

先見の明

四郎さんの大きな功績はもうひとつある。戦前に漆器の将来を継いでいく必要性を感じて、鈴木繁男さんを呼んだのだ。

鈴木さんが光原社の工房で昔気質の職人さんたちとともに仕事をすることで、それまでの個性ある仕事の方向から不変的な仕事へいかなければならないと悟った。それが鈴木さんのその後の作風、方向性に大きな影響を与えた。このように大変な役割を持った人たちを常に支えたのだった。

小谷真三さんがガラスを吹き始めて間もなく、経済的に苦しんでいたときには、かなり手助けをしている。そして、手助けに対するひとつのお礼返しとして、よかったら盛岡で工房を持って吹いてくれないかと依頼した。これは光原社にとっては、盛岡周辺だけでなく、全国から注目を浴びる大きな流れをつくりあげた。四郎さんは大変な先見の明がある方だった。

2014年7月の小谷真三展の際、可否館にて及川さん、私、大橋さん、スタッフの皆さん
写真:大橋正芳

女性4人に囲まれて

そういう人を祖父に持ちながら、及川隆二さんは家庭の事情により、女性4人に囲まれていた。長女である母親をはじめとする四姉妹のなかで彼は生きてきた。女性にはさまれての抑圧というか、目に見えない圧力、それに祖父の凄さ、さらには兄のかわりに盛岡の本店を継いだということ。本来ならば兄が継ぐはずなのに、兄には四郎さんは仙台に店を出させた。弟である隆二さんには分家させないで本店の方に居させた。その四郎さんのものの見方が凄い。将来の光原社の生きる道をきちんと見据えていたのだろう。

しかし、受けた方からしたら大変なプレッシャーだ。そこまでは四郎さんは考えていなかったと思う。隆二さんに本店を継がせたのは、光原社としては大成功だったのだが、その凄さを肌で感じている人間にとっては大変な圧力なのだろう。今の若い人たちなら逃げたり、抵抗するかもしれない。 隆二さんは女性4人と祖父に育てられたことで、柔らかさと厳しさが同居する複雑な生き方をしてきた。そういう意味では隆二さんは非常につらい思いをしたのだと思う。

プレッシャー

私は会社を引き継いで間もない隆二さんと知り合うことができた。その当時、光原社という老舗を経営している、若く溌剌としている彼の生き方を身近に感じた。光原社は規模が大きな店だから従業員も多いし、そのためには売り上げを伸ばす使命がある。そのためには泥をかぶらないといけない部分もある。そのかぶる泥の多さや人間関係が彼のメンタルの部分にずいぶん圧力をかけたと思う。複合的に、彼の生き方のなかには、さまざまな圧力が入ってきたのだろう。それをクリアしないといけないと戦いながらきたのだと思う。

また、倭香さんという類まれな奥さんを伴侶にされたということ。これも彼には大きなことだった。彼女の出来が良すぎるだけに、気の毒な面もあった。倭香さんに頼らなければやっていけない部分もあるからだ。かといって経営者としての強さも持たなければいけないから、決定力は隆二さんが持っていた。

そういう部分を絶えず持ちながらきていたのが、彼が早死にしなくてはならなかった大きな理由になったのかもしれない。ただ、祖父がつくりあげたものを守りきったことに関しては大変な功績があったことだし、当時の光原社はまだ盛岡という地域の店だったが、全国でも知られる店に仕立て上げたということ。同時に、光原社のなかでヒット製品をいくつも生んできたということ。これもとても賞賛すべきことだ。

抑圧されて心理的にとてもつらい思いをしながらも、彼はなんとかそれをクリアしながら、生きてきたのだ。

付き合いはずっと続く

今後も光原社も、彼が亡くなったからといって店を辞めるわけでもない。倭香さんがしばらくは店を守りながら、さらに発展に力を注ぐと思う。今までとは違った意味の人間関係や社会関係をつくりあげていくだろう。光原社という存在そのものは消えないし、前社長が不在であろうと、しばらくやっていけるだけの強い力がある。

ただ、思い切った改革とか方向に向かうのは難しくなるかもしれない。これからは私たちが何とか協力して、いいことをもっとやってもらう働きかけをしなければいけない。そういう意味でも、今後もお役にたちたいと思う。対等関係ではなくて、今までの付き合いに対する義理を果たさないといけない。経営者が誰であろうと、盛岡の光原社に関してはずっと関係が続くと思う。同時にもやい工藝もあるときに同じことになるだろう。仮にそういうことになったとしても、光原社との付き合いはずっと継続していくのだ。

2014年5月、尾山台「手しごと」開所式に
駆けつけてくださった及川さんとの記念撮影
写真:堀田純子

同志の思い出

及川隆二さんとの思い出は楽しいことばかりだ。手仕事フォーラムを立ち上げたときも、いちはやく手を差し伸べてくれた。手仕事フォーラムの会員としても通常の会費よりもよけいにいただいていたし、絶えず協力してくれていた。

手仕事フォーラム・オリジナルの卓上カレンダーにしても、毎年かなりの個数を取ってくれていた。

手仕事フォーラムが、第6回目の盛岡・岩井沢家にてフォーラムを催したときには、光原社の自宅と広い庭園を開放してくれた。メンバーはそこで昼を食べたり、自由に見学しながら休ませてもらった。大変な協力をしていただいて、感謝している。

今後の民藝のあるべき方向についても私とまったく同じ考え方だった。今の民藝協会には将来が無いと考え、何としても手仕事フォーラムに活躍してもらいたいと常に言っていた。日本民藝館展のあり方も含めて、常に共同歩調してきたのだった。

一時期、彼の工藝店は販売を促進しないといけないので、著名な作家の展覧会も多く開催してきた。しかし、やはり無名な人たちを育てないといけない、いろいろな人たちの仕事を紹介しないといけないのだと、民藝の原点に戻ろうという試みをこの頃はずっとされていた。

展示会を開いたとしても、それほど著名でなかったり、真面目に取り組んでいる人のものを扱っていた。

隆二さんは染色工芸作家、柚木沙弥郎さんとの付き合いもあって、彼の人柄に惚れて、ずいぶんサポートしてきた。ひいては、芹沢C介さんとの関わりが祖父の代からあった。芹沢さんにはいじめられてつらい思いもしたようだ。しかし、結果的には、つらい思いをしても、それが活きているので、結果論的にはよかったのかなと思う。

隆二さんの店は呉服関係に古くからつながりが強かった。私の店は純粋に民藝を扱うが、光原社は若い人やご婦人が喜ぶようなものを集めていこうという違いがある。それは購買層を広げたり、大きな店の経営維持には必要なことだった。あれだけの大規模の店を維持していくのはすごいことだ。税金もかかるだろうし、冬は暖房費がかさむ。生半可な売り上げではやっていけない。冬の3カ月はほとんどお客さんがこない状態だというのに。

それから特徴的なことで立派だと思うのは、「可否館」を始めたこと。また「モーリオ」という健全なお土産品をそこで販売して、くるみクッキーなど大ヒット商品も生み出したのも特筆すべきことだ。

これからも現状の路線で進み、新たなことはしにくいかもしれないが、そこは私たちが提案しながらサポートしないといけない。

72歳

隆二さんは自分とさほど年齢が違わない。だから、私もいつ倒れるかわからいなとひしひしと感じる。そのときに、どうしないといけないかと、このところずっと考えていた。早いうちに後継者を育てないといけない。ただ、幸いなことに、ここ何年かで後継者の資質がある人たちが少しずつ増えてきている。

それから及川さんが亡くなった72歳はひとつのエポックなのだ。柳宗悦さんも72歳で亡くなった。宮本常一さんも同じ歳で亡くなった。伊能忠敬も72歳だ。大変な偉人は72歳で亡くなっている。何かそういうような区切りがあるのかなと思う。私もその歳になったら何かあるかもしれない。