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Kuno×Kunoの手仕事良品

楢岡焼の再興

楢岡焼の再興

2009年8月25日
秋田県大仙市
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

楢岡窯の外観(撮影/久野恵一)

東北の民窯

 江戸時代末期くらいから、秋田県に現在「楢岡陶苑」という正式名をもつ窯、楢岡焼がある。東北には各県に民窯(みんよう)と称される窯があるのだが、民窯といいつつも、農業用の容器を主に焼く窯だ。楢岡のある大仙(だいせん)市、数年前まで南外村(なんがいむら)と呼ばれていた、この秋田仙北(せんぼく)地方周辺の農業用の物をつくってきた窯だ。その中に日本民藝館にも収蔵されている巨大な片口がある。筒型の半胴甕(がめ)に口が付いていて、焼き上がりが素晴らしく、海鼠釉(なまこぐすり)という大胆な青い釉薬に驚かされる。しかし、収蔵品をよく見ると、セメントで補修していた破損品だった。ということは野原に転がっていた物か、農家の片隅に転がっていた物を見つけて修繕していたのだろう。つまり、完成品はあまり無かったのだ。
 今のように室内に暖房が無かった時代。東北の冬は雪が積もり、土が凍り、焼き物が焼けなかった。つまり冬場、陶工は窯の仕事ができないのである。 東北の陶土は九州のように粘性に富んでいないため、小物製品をつくるのにはとても難儀する。そのため大きな貯蔵用の水甕(カメ)、味噌甕や漬け物甕が中心となっていくのだ。それらの陶器にはフタが無い。素焼きをしないため、フタを載せると、その重さで本体が壊れてしまうからだ。
 他の東北5県のうち青森県は大きな窯は無かったのだが、弘前郊外には幕末から続く悪土(あくど)焼があった。これは陶土の質が悪いために付いた名称かもしれない。中クラスや小物の焼き物をつくっていた窯だ。ここには陶技が九州から入って来たと思われる技法がずいぶんとあって、非常におもしろい焼き物だ。とくに「いっちん」という筒書きに興味深い物がある。
 隣の岩手県では青森県との県境に近い海岸沿いの久慈に小久慈(こくじ)焼がある。ここは片口が有名。口が長細いのが特徴で、日本民藝館をはじめ各地の民藝館にも収蔵されている。口が長いのは、手が寒い冬でも口が長い方が持ちやすいとの配慮からだろう。他に小久慈焼には小さなフタ物もあるが、主には中クラスの大きさばかりで、飴釉という鉄分の多い釉薬やワラの釉薬を単純に掛けただけの焼き物をつくる窯元だ。
 宮城県には仙台郊外に堤(つつみ)焼という窯元があって、真っ黒い釉薬に白いワラ釉をたっぷりと掛けた非常に素晴らしい焼き物がある。ここも大物が中心で、昭和40年頃まで焼かれていたのだが、今は廃絶した。
 山形県では新庄(しんじょう)に土鍋や行平鍋をつくる粗陶器の窯がある。山形市には茶陶系の平清水焼、また米沢には成島(なるしま)焼という小さめの焼き物を主につくり、大物も手がけた窯があった。同じく県内の庄内地方には大宝寺(たいほうじ)焼という焼き物もあった。
 福島県の会津には、今でも健在だが、会津本郷焼がある。また江戸時代から脈々と続いてきた宗像(むなかた)窯がある。現在は第15代になる。福島県内には他にも相馬(そうま)焼もある。 これら東北6県の窯元に共通して言えるのは、陶土の鉄分と可塑性(かそせい=形の作りやすさ))が強いため貯蔵用などつくられる物がわりと大きな物が中心であった。伝統的な小物類は会津本郷に行かないと見られないのだ。ワラの釉薬が基本となる点も同じ。東北では米をつくっているためにワラ灰を使いやすかったためである。

ワラ灰と泥を使う

 焼き物は基礎釉(並釉)として長石(ちょうせき)と木灰を掛け合わせることでガラス質になる。長石は1600?以上にならないと溶けないように木灰を入れ融点を下げる。その木灰の中にあるさまざまな鉄分によって灰の色が変わって、しかも土の中にある化学的な物質と融合して味わい深い色調が生じる。そこにおもしろさがあるのだ。
 ところが東北全般的に基礎釉用の長石自体があまり採れなかった。そのために東北全般の窯は鉄分の多い土にワラ灰を掛ける。ワラ灰(束ねたワラをある程度黒くなるまで焼いて、それを釉薬にする)にはケイ酸分といってガラス質になる成分が含まれている。このワラ灰をたっぷりと掛けることで防水性を持たせ、木灰釉薬と同じような効果を生んでいるのだ。
 ただしワラ灰だけでは大変な量が必要になるし、ワラ灰の重さで焼き物が壊れてしまうので、薄く釉薬を掛けないといけない。ところが釉薬が無いために、その替わりとなる「ガタ釉」という鉄分を多く含んだ泥しょうを用いるのだ。たとえば不純物が多い沼地の泥には木や草が腐って沈殿している。それらケイ酸を含む泥土からからつくった陶土に施釉して焼くと、釉薬ほどではないが、若干の防水性をもたせられる。その上にワラ灰をさっと掛けることによってワラと鉄分が融合しておもしろい釉薬となるのだ。

海鼠釉

 さて今回紹介する楢岡窯の特徴はこのガタ釉とワラ灰が陶土の中の鉄分と融合して変化して釉薬になった海鼠(なまこ)釉を用いていること。この青々とした美しい釉薬だけをシンプルにたっぷりと掛けているのだ。
 楢岡は仙北地方に位置するが、同じ地方の角館郊外に白岩(しらいわ)焼という窯がある。ここも楢岡焼とほぼ似たような焼き物だ。鉄分にワラ釉を掛ける。ただし、こちらは土味がとてもざっくりとしていて、掛ける鉄分が若干異なることで、ワラ灰がやや白濁した感じになっている。楢岡焼の方がより青っぽく、白岩焼きはやや白っぽい。しかし、両者の違いはプロでないと、なかなか見分けがつかないかもしれない。この2つの窯が秋田県内のすぐそばにあり、いずれも江戸時代後期から始まっているのだ。
 米づくりが盛んになる江戸幕末期から明治にかけては、米づくりの農作業の需要を満たす陶器を制作するようになった。東北は木の文化が盛んなため、それまで農家は桶を使っていた。ところが焼き物の登場により、陶器を容器として大量に使うようになるのだ。 とはいえ先に述べたように冬場は仕事ができないため、春先から秋口まで7〜8ヶ月間、焼き物を農家の注文によりつくっていた。それらは容器のため、物の善し悪しは関係ない。傷物であろうとなかろうと、安価に販売されてきた。
 そして柳宗悦をはじめ、濱田庄司、河井寛次郎といった人たちが東北地方の窯を巡って、この楢岡窯にも足を運んだ。そこには日用雑器の品ばかり、とりわけ焼き上がりの強い、たくましく目に映る海鼠釉の物ばかりを選んでいった。

小物づくりへの転化

 彼らが東北の秋田にこれだけ素晴らしい、堂々とした、粗野な焼き物があると紹介すると、昭和30年代から各地に出現した民藝店、とりわけ東京の民藝店で中心となって販売されていく。幕末期から継いだ楢岡焼の伝統は大物づくり。素朴でてらいの無く、天の恵みと釉薬と炎の力だけでいい物ができた。だが、大物はなかなか都会の人には売れない。現代の暮らしにも合う小物を制作する必要が出てきた。そうしなければ生計が立てられなくなったのだ。日本中の民藝店が急激に活発化する昭和40年代はじめのことである。
 大きな焼き物をつくる人は、いきなり小さな焼き物はつくれない。技術が無いのだ。そのために各地から職人を招いたりしながら、あるいは窯元がどこかに勉強に行ったりしながら、なんとなく小物もつくり上げていったのだろう。ご飯茶碗をつくってみたり、鉢、皿をつくってみたり、大きな片口のミニチュア版をつくって民藝店で販売していた。

柳宗理さんが一目惚れ

 楢岡焼の小松哲郎君は私と同じ歳。昭和22年に代々の窯元で生まれた。先代の父親が苦労して、現代への転換を計って新しい物をつくり始めたのだが、都会的なセンスには欠けているし、都会の暮らしぶりも知らない。地方の暮らししか知らないため、地方的な雑器をつくっていた。それでも東京の民藝店に納めると多少は売れてはいたのだろう。昭和40年以降は全国の各県で地方の特産物展から注文も入ってきた。しかし、その注文に対応できる力が無かった。そのため出来上がってくる物が非常に弱々しい物が多かった。
 私が楢岡焼の窯に初めて出合ったのは昭和55年のこと。初めて一人で訪ねた時、はっきり言って見るべき物は何も無かった。窯元には小松君の父親がいて、少し話しをしたくらいだ。まあ、この窯とは縁が無いだろうと思った。ところがちょうどその頃、たまたま小松君が日本民藝館展に片口を出品。その片口は日本民藝館にある古い楢岡焼の蔵品に少し手を加えたかたちをしていて、出来上がりがとても良かった。それを見た、館長になって間もない頃の柳宗理は一目惚れした。鮮やかで強烈なインパクトを与える海鼠釉のような物が好きな人だから日本民藝館展賞に選んだのだ。 傍目から見れば、ロクロ技術は下手で、なぜこれがいいのかと感じたが、焼きの調子、勢いが目を惹き、日本民藝館展賞を受賞したのだ。しかし、他に出品したのはみじめな物ばかりであった。
 日本民藝館展には講評会があって、館展に出品した制作者が全国各地から集まって来た。小松君も出席していたが、その時には私は彼と言葉を交わすことはなかった。私の周辺には山陰や九州の制作者がいっぱいいて、講評会が終わると、その仲間たちと一杯呑みに街へ繰り出した。しかし小松君はその仲間に入っていなかったのだ。

出来の悪い雑器

 私が東北の窯と何か関わってみたいという気持ちを持つようになるのは平成元年以降のことだ。日本民藝協会が手仕事調査をおこなった際にもう一度、楢岡焼をはじめ、秋田を代表するような物を見に行って、何か新作をつくる手伝いができたらと考えた。そして私と盛岡「光原社」の及川隆二さん、盛岡のホームスパン「蟻川工房」の故・蟻川紘直さんの3人で秋田を旅した。そうして「男鹿半島の温泉旅館に泊まって陽が沈むのを見たいな」くらいの心構えで旅行のついでに楢岡窯へ寄ったのだ。
 窯を訪ねた時にも焼き物をつくっていたが、私たちの知る九州、山陰の民窯とは比較にならないくらい低レベルの雑器類しか制作していなかった。だが、それはやむをえないことなのだ。小松君は瀬戸の訓練学校を卒業して父親と一緒に仕事をしていたのだが、その後、父親は病気で倒れて、小松君一人で注文をこなしていた。世代的にも頑張り屋なので制作意欲とつくる量は並大抵ではない。しかし、いずれも出来の悪い物ばかり。
 そこで私が注釈すると、「このやろう!」とばかりに反発してきた。どうも最初から私たちのことが気に入らなかったようなのだ。「日本民藝館展でお前らは徒党を組んで仲良くどこかに行ってしまって、俺らはいつも置いてきぼりだ。つまらない思いをして2〜3人で暗い気持ちで東京から帰ったものだ」と。落選した挙げ句に、私たちから馬鹿にされて批判された。だからお前らを見るとムカムカするのだと。私は謝りつつも、これは何か改善しないといけないのではないかと提言すると、「そりゃあ、俺は改善したい」と半分以上何を言っているのかわからない、秋田弁丸出しでまくしたてた。
 口が達者だったので、私は即座に彼は頭のいい男だなとわかった。「じゃあ、俺にだまされたと思って、俺の言うことを聞くか?」と聞くと、「ようし、やってやろうじゃないか」と小松君。「じゃあ、俺がここに来て、何か新しい物に取り組んでみるか?」と言うと、「やってくれ」と。
 その時、工房には30歳台なかばくらいの主婦の伊藤洋子さんと、やはり同い歳くらいの三浦まもるさんが職人として窯に入っていた。一般募集して職安から紹介されてきた人だという。三浦さんは農家の人だったが現金収入が必要でこの窯で働いていた。そして焼き物がおもしろくてしょうがないと懸命につくっていた。二人とも目がキラキラして頑張っていたので、この3人を一挙に面倒みてやるということで始まったのが平成元年のことだった。

昔の「平片口(ひらかたくち)」を再現してもらった物。
尺2寸。海鼠釉が今風で、昔のように強い海鼠ではない
昭和初めくらいの楢岡焼の古作品。
尺2寸くらいあるため、水鉢にしたのだろうか。
縁が分厚いのが特徴。
土が粗いため釉薬を変化させていくおもしろみもある

指導と評価の日々

 私はまず、伊藤洋子さんには湯呑みとご飯茶碗をつくるように指導した。それまで窯には教える先生がいなかったため仕事の体制がまずなっていなかった。何をつくればいいのかわからないのだ。三浦まもるさんは小皿や中皿の皿類が得意だった。皿をひく技術を備えていた。そして大物をつくれる小松君。この3人を相手に、それぞれの物をつくるよう注文していた。 それからは窯に足を運ぶたびに4〜5種類の物、3〜4日泊めさせてもらっては毎日指導した。当時はガス窯でほとんど制作していたため、4日ほど経過すると焼き上がる。出来上がった物の評価も短期間中に出来てしまうのだ。評価しては指導して、またつくるという流れで、だいたい2ヶ月に一度の割合で通ううちに、製品の方向性が固まってきた。 私たちはとにかく海鼠釉を嫌み無く使えるような物を目指した。海鼠釉は割と関東から以北の見慣れた人にはいいのだが、西日本では嫌がられる。ちょっと気味が悪いと言う人が多い。そのため、どうやって嫌みなく、このたっぷりとした青い釉薬を見せるかと苦労しながら、さまざまな焼き物が出来ていった。 皿の場合は、沖縄の皿を見本にして厚手でひきやすくしてやってみなさいとかいろいろ注釈しながら160種くらいの小物製品をつくることに成功した。 ところがどうしてもガス窯では弱いとも感じていた。

最初の頃の窯出しの様子(撮影/久野恵一) 楢岡窯に指導をおこなっていた時のノート
平成6年、山形で日本民藝協会の全国大会があった時に私がみんなを連れて窯元を訪ねた。
柳宗理館長、倉敷ガラスの小谷真三さん、小鹿田焼の坂本茂木さん、故・蟻川紘直さん、湯町窯の福間秀士さん、私など。
左上の写真の奥にいるのが故・伊藤洋子さん(撮影/久野恵一)

登り窯をつくる

 小松君は商売上手で空港やキオスクなどあちこちに販売網を持っていた。もともと観光用の物産が売れる県の上、県内に他に窯が無いため、焼き物はたとえば温泉の売店などに独占的に置いてもらえていた。そんなわけで、上手い具合に商売が回転していたのだ。
 私が指導のために通っていた当時の小松君は30代とまだ若かったので、今のうちに登り窯をつくり直したらどうかと提言すると、「それはいい」と乗り気に。ところが登り窯は簡単には出来ないもの。九州の窯元の登り窯を真似ようとしても、勾配や燃焼効率を考えると、その構造が九州の粘土質の土には向いても、楢岡のような土質には向かない。島根県石見(いわみ)地方に85歳になる島田さんという窯づくり職人のグループがいることを親しい石見の窯元から耳にしていたので、その人のつてを頼って打診した。すると楢岡まで出向いてもいいということに。そして窯つくり職人を呼んできて登り窯をつくった。
 登り窯の初窯に顔を出すと、小松君は地方のテレビ局を3局ほど呼んでいて初窯のシーンを撮ったりしていた。なかなか冴えた男である。それで一躍、登り窯を復活したことが秋田県でも注目されたし、お客さんも増え、小売りも順調にいき、今では東北を代表する窯になったのである。
 登り窯で焼くと、海鼠釉は単調な釉薬のため、火によって焼き上がりがものすごく違うことが難点であった。変な場所に置いて不上がりになると、とても見られた物ではなくなる。また、焼きが強くなると土が変形してしまう。そのため、歩留まりが非常に悪いのだ。

石見から職人を呼んで築いた登り窯が20年経過し、今度は自ら修繕の作業をする小松哲郎君(撮影/久野恵一)
ワラ灰だけの釉薬、白釉を掛けた片口。
登り窯内の場所によってこんな色になる

頭のいい窯元親子

 作業の流れはこうだ。まず近くから採れる土の上に、飴の釉薬を掛ける。飴といっても干潟のガタ釉で、鉄分を含んだ泥釉だ。その上にワラ灰を掛けるのだ。だが、ワラ灰を掛けた物は登り窯内の場所によっては変化が多い。そこで研究熱心な小松君はワラ灰だけでなく桜の木灰も入れていった。長石も寒風山(かんぷうざん)という男鹿半島にある有名な山にある物を掘ってきた。そういうふうに調整しながら焼いていくのだ。
 彼の息子、潮(うしお)君がまた優秀だった。潮君は早稲田大学の理工学部に進学。本当は家業を継ぐつもりではなかったのだろうけれど、息子、娘の二人兄弟だったから、窯元を継がないといけないと思ったようだ。大学卒業後、インターネット関係の会社を立ち上げて京都にまで行っていたのだが、京都の訓練学校に何年か通い勉強して家に戻って来た。
 潮君は化学的な分析力に長けていた。窯焚きの仕方は、他にこんなに上手に焼ける窯はいないほど。難しい窯を上手に焚きこなす実力があるのだ。
 彼が今、代替わりではないけれど、頑張って仕事をしている。惜しむらくは、大きな物をなかなかつくりきれない。ただ考えはきちんとしているので、将来的には楢岡の窯の伝統を伝えていけると思う。

小松君が今つくっている4斗入りの甕。
彼はロクロ技術が巧みで、
これだけ大きな物を焼ける

モダンなブルーに

 昔の登り窯で焼いた場合、楢岡焼の古い物は置く場所によっては海鼠釉を掛けても真っ白な物になる。土も非常に粗い感じがする。現在の楢岡の陶土はきめ細かく味わい深さがどうしても出ない。大きな片口は楢岡の特色的な物。昔はこういった片口に醤油や濁酒などを入れて注ぐために用いていた。重たいとか軽いとかは関係なくて容器として使っていたのだ。
 このような豪快な物の方が本来はいいのだが、今はこれを若干縮めて擦り鉢にしてみたり、深鉢にしてみたりと転用している。
 造形的な特徴としては腰に丸みがとてもある点に注目したい。これは土質からくるもので、たわみをつけていかないと焼き物が下に落ちてくる。そのためどうしても削ってこの丸みを出すのであった、その丸いかたちが鉢に向いているのだ。逆にこの窯は土質から皿のようにフラットな物をつくるのは難しい。そのため楢岡焼の物はやや丸みを帯びたかたちが多いのである。
 とはいえ平皿も手がける。この平皿は2度焼きをしている。還元(無酸素状態)にして一回焼いて、さらにもう一度焼くのだ。すると土の成分の鉄が錆色になって釉薬のブルーがかなり濃くなる。その濃くなる変化の具合がわりと現代の物に合うのだ。
 こうした海鼠釉の新たな色あいは、現代の暮らしの中に活用できる釉薬になりうることを示している。昔ながらの色でもいいけれど、都会地では少し泥臭く感じられる。だが、二度焼きすることによってブルーの色を濃くして味わい深い物にできるのだ。これは手間がかかることだが、それなりの物にしていけばいいと思う。
 小松君は世の中の流れをよく知っているので価格調整がいつでもできる人物。これが高いと思えば、すぐに安くしてくれるし、安すぎるなと思えば少し価格を上げて調整する力がある。伝統を背負った窯でありつつも、窯元の主人が現代の時代に非常に目が向いている。それから潮君も都会の生活を知っている。このように地域的なものを感じさせない人たちが地域性そのものの環境下で仕事している。そのアンバランスさがおもしろいのだ。石見でも小鹿田でも伝統を背負って生きている人たちは伝統の中に埋没して地域性そのものになっていってしまうのだけれども、楢岡焼の親子は秋田弁丸出しながら都会の生活形態を十二分に知っている。その上で地域的な物をつくっていける。地域性を豊かに醸し出しながら都会的な物にも転化できる力を持った窯なのだ。だから案外、私は将来、有望な窯ではないかなと思う。
 平成元年から平成12〜13年の10数年間通って、この窯の近代化を計り、再興を手伝えたことには、とても意義を感じている。沖縄や小鹿田のような人気のある窯ではないので、実際の販売は苦戦しているが、いずれは楢岡窯の良さも認められるだろう。
 それに潮君が新たな視点を持って、いっそうと制作の範囲が広がっていく可能性もあるので、未来は明るい窯ではないかと思う。

ふだん使い用にアレンジした片口。
腰のふくらみが古いかたちと似ている。
これがこの窯の基本
片口を利用して擦り鉢に転化した物。
土ががっちりしていて安定していて人気が高い。
左は5寸ほどのサイズ。
海鼠釉をたっぷり掛けずに縁だけに巻くことで、
少し洒落っ気を出した
深めにした尺皿。沖縄の深い皿のかたちを真似た。
海鼠釉が底の部分にたまるように考えて深めの皿にした。
嫌みの無い皿として、これも人気が高い
還元を二度かけることで海鼠釉の色がやや深みのあるものになる。
縁に線を入れることで洋風に 。
これは日本陶芸展でも入選した