手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

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Kuno×Kunoの手仕事良品

宮崎の杞柳細工(きりゅうざいく)

宮崎の杞柳細工(きりゅうざいく)

2009年9月23日
宮崎県宮崎市生目
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 

これは失敗談であり、残念なストーリーだ。同時にカゴやザル類など編組品に対する新しい提案をどのようにしていくべきか、その道を示してくれた一件である。

手仕事が無い

 私がこの仕事に入った翌年の昭和48年(1973年)、頑張って車の免許を取り、自分の車で九州へ出かけた。その時にたまたま知り合った「日向路(ひゅうがじ)」という工藝店のご主人の導きで、宮崎周辺の手仕事を見に行こうと考えた。
 しかし、当時の宮崎県は九州の中でも不思議なことに、ほとんど手仕事の見られない県だった。竹細工はもちろん存在するが、昔、島津藩が薩摩、大隅、日向の3つの地域を統治していた歴史的な背景からか、それらのほとんどが鹿児島から入ってくる製品ばかり。また、海上の交易ルートも開けていて、農具は輸入品が中心だった。

クラフトの台頭

 ところが手仕事の無い宮崎県においても新たな動きが沸き上がった。折しも昭和40年代は民芸品がブームに。また、各県、各地域の自治体が工芸工業指導所、試験所を創設。専門学校を出た先生たちが指導教官となって、各地で手づくり品に取り組み始めたのだった。
 そういう世の流れの中で、宮崎は民藝と相対するかたちでクラフトが興隆していく。素朴な美を求める民藝に対して、新たにクリエイティブな物を創造していくクラフト。いわゆるデザイン主体でつくられたクラフトの日用品にはデザイナーが関わっているため、歴史的や伝統的なことは無視する場合が多い。それは民藝の考えには馴染まないものだが、伝統や歴史的な手仕事も手仕事のつくり手もいない宮崎はクラフトが入りやすい地域だったのだろう。

減反対策として

 宮崎市郊外の生目(いきめ)地区はもともと農業が盛んな所だった。ところが1970年代には農業政策が一気に変わり、減反側へと転じた。それによって多くの田んぼが放置されていく。そうした状況の中で、工芸試験所のアドバイスもあったのだろうが、生目地域の婦人会が農業に変わる何か新しい仕事をしようと動き始める。団結力がある、この会のリーダーは森本千保(ちほ)さん。かつては教員をしていて、指導力もあり、志を持った方だった。彼女は減反で放置された田んぼで何か新しいことをしていかなければならないと強く感じた。そこに工芸試験所の技官、黒木さんが現れ、減反の田んぼを利用しつつ、地域で手仕事のクラフトの物をつくっていこうということになった。

杞柳に注目

 では、何をつくろうかということになった時、田んぼに植えて、育ったものから編める物が無いかと考えた。具体案を思案していた時に思い浮かんだのが杞柳細工だった。鹿児島県との県境に近い小林市にヒキミさんというつくり手がいて、杞柳をはじめさまざまな細工をしていたのだ。その素材となる柳は我々の知っている柳の木ではなくて、杞柳というヤナギ科の植物。これを剥いてさらしてからカゴを編んでいた。
 この俗に言う杞柳細工づくりが明治期以降、盛んなのは兵庫県豊岡と信州中野。ヒキミさんは戦前、神戸にいた時、外国から来た、杞柳で小物をつくる人から教わり、自分の郷土に技術を持ち帰った。そして戦後、小林市で杞柳を剥いて白くさらした材料でカゴ類や小さなザルをつくって生活していた。このヒキミさんの製品を見て、市の指導もあって生目の人は取り入れようと考えた。減反の田んぼに杞柳を稲と同じように1本1本植えると、それぞれが上に向かってすーっと伸びていく。高いものでは3mを越すほどの材料となる。これは稲と同じように植えていくそうだ。これで手仕事のクラフト製品に取り組もうと、小林市からヒキミさんを呼び、講習会を開いた。そして、婦人会会長の森本さんのかつての教え子が集まり、独自の組織力により、頑張って講習会をやり遂げたのだった。 
 当然、婦人会には器用な人と不器用な人がいたが、制作した物を地域の催しに出品すると売れた。ならば、これは小遣い稼ぎになると、周辺の老人、男の人まで習いに来るようになったのだった。
 すると材料が柔らかく編みやすくて割合と難しい仕事ではないため、器用な人はどんどんとつくれてしまう。そうこうしてこの手仕事が始まって3〜4年経った頃に私は「日向路」の紹介で現地を訪ねたのだった。だが、現物を見て私は落胆した。素材の雰囲気があまりにも弱々しいし、質感も嫌みなもの。力強さや素朴さが感じられないのだ。

原木の素材感に惹かれる

 それでこれでは自分がこの物に関わることは無いと思い始めた時、アケビ蔓や山ブドウの樹皮と同じく素材感が強い、茶褐色の物で編んだ大きなカゴが目に飛び込んできたのだ。それは練習用につくったという。この茶褐色の素材こそ本来の杞柳の木だった。しかし、無加工の素材はがっちりしていてとても編めないので、木に付着する表皮をきれいに剥がし、蒸気で蒸して柔らかくしてから編んでいた。原木(げんぼく)のままでは、硬くて編むのがとても大変だと言う。しかし、私は蒸して白っぽくなった杞柳よりも、原木のままの素材感に惹かれた。
 もともと柳のカゴ類はヨーロッパにあった物。「アルプスの少女ハイジ」にも登場する、手が付いた小さなバスケットも素材は杞柳だ。それらはすべて原木で制作していたが、ヨーロッパの寒い地方に生える行李柳は芯が太くて、まわりを覆う白身の部分(白太=木材の樹皮に近い外側部分)が柔らかい。実は柳の木は芯が太いほど弱いのだそうだ。逆に芯が細いと、白太が強くなるとか。
 そのため、芯が細くて白太が強い南国宮崎産の杞柳を原木のまま編むのは、かなり骨を折る。そのため柔らかくするために熱処理をしないといけなかった。
 その苦労があるとしても、原木で編んだ方がいいと私が提案すると、婦人会の方々はいやそんなことは無いと意見が分かれ、その時はそれで話が終わった。
 それから数ヶ月後、私は再び生目に足を運び、原木を用いたカゴを注文するから何かつくってみませんか、と申し出た。ならば、何をつくったらいいかということになり、カゴ類ならばいいのではないかと答えた。
 婦人会からは原木を使う場合、大きなカゴでないと編めないからと言われた。それで何かいい物はないかなと考えていたら、頭の中に、どこかで目にしたことがある、持ち運びができる手の付いたバスケットが思い浮かんだ。そのバスケットは楕円形で、楕円の小さな幅の方に手を渡していた。それを逆に楕円形の長円の方に一本手を渡すとがっちりしたカゴが出来るのではと提案した。
 そんな物がつくれるかなと不安を口にしたので、まずはつくってみてくださいと依頼したら、この大きなカゴは型枠にはめないとつくれないという。それで、型枠にはめて、縦組、横組を合わせながら、しかも下に釘で打ち付けて、廻してつくっていくことになった。
 なんとか大きなカゴはつくれる。では、どんなかたちの物をつくればいいかということに。目分量で何寸という感覚が当時の私はわからないため、適当に縦の長さが60cm、横幅が50cmとか適当なことを言ってスケッチ帳に描いて発注した。

最初に私がデザインして最優秀賞を受賞した手付き楕円大カゴ。
ヒモをアクセントとして入れた。
今眺めても、なかなかいい物を26〜27歳の時に
デザインしたなと嬉しく思う
使いやすいよう大きさを抑え、
リーズナブルな物をと助言して生まれた物

原木のカゴが誕生

 半年くらい経ってから再訪すると、向こうがいきなり「久野先生」と言う。当時、26〜27歳で、先生などと言われたことが無かったので驚いたら、「あなたに頼まれてつくった大きな物を黒木さんが見て、これは素晴らしくいい物だから、宮崎市の暮らしの道具展に出品しなさいと促され、出品した。すると、第一位になった。黒木さんがどうしてこれが出来たのかと尋ねてきたので、東京から来た美術大出身でこれから工藝店を開こうとしている人が来て、私たちに指導してくれてつくった物だと答えた」と言う。  黒木さんいわく、その人は大先生だから、今度来たらぜひお会いしたいということになった。黒木さんは「日向路」のご主人と遠い親戚だったと後でわかって驚くのだが、会ってすぐに親しくなった。「普通だったら見もしない、捨ててしまうような物。皮を剥かないでそのまま利用してつくるのは、逆に言えばこんなにやさしいことはない。そのことに目を向けたのは大変ありがたいことで、あなたはたいした人だ」と褒められた。  そして、さらにまた別の物を何かつくってくれと頼まれ、さあどうしようかなと考えたのが、浴室の脱衣入れカゴだった。熊本県の山鹿(やまが)温泉で昔からつくっている竹細工の洗濯カゴのかたちをうまく利用したらどうかと提案した。すると、寸法を出してくれと言うものだから、自分で適当に寸法を考えたら、思わぬ大きさになってしまった。想像する寸法と実際の寸法は違うと、この時によく理解できた。  杞柳の素材は水や湯に強いというメリットがあった。またカビが発生しにくい。素材自体に脂を含んでいるからだ。まさに水回りで用いるカゴにふさわしい性質を持ち、その素材の利点を活かすことができたのだった。

脱衣入れカゴをデザインした時の原型。
山鹿温泉の洗濯カゴ
山鹿温泉の洗濯カゴを模した脱衣カゴ。
上げ底になっている

評判が広まる

 この脱衣入れカゴを県主催の公募展に出品したら、また入賞してしまった。その年の暮れには、市の助役さんで、10年後に市長になった方や市の企画課長らが5〜6人、黒塗りの車で生目に駆けつけ、私を囲んで忘年会をやってくれた。その会に黒木さんも顔を出したが、ちょうどその頃から民藝にのめりこみ、(当時はまだ表面的なよさだけしか見えていなかった)柳宗悦を崇拝する私と柳宗悦嫌いで、クラフト運動を推進する黒木さんと意見が対立し、大げんかになった。私は若造、黒木さんは60代の年輩者で噛み合ない。なんとなく後味の悪い会になった。
 それでも現地では頼りにされ、おもしろいことに、噂を聞いて、地域の婦人たちのみならず、宮崎のあちこちから男性の老人でかつては器用だった方々が一人、二人と仲間に入ってきて、見よう見まねで制作を始めた。すると、半年くらいでなかなか上手につくれるようになっていった。
 とりわけ期待を寄せたのは、森本さんの弟さんである。彼は非常に頭のいい上に力が強くて、それまで1個しかつくれなかった、大きな楕円カゴも何個もつくれるようになった。それらは評判を呼んで各地で売れるようになり、原木を用いたカゴ類への評価も高くなってきた。4〜5年経つと、県の物産展に物が出され、宮崎を代表する工藝品として認知されるようになった。

さまざまなカゴを考案

 私は次にどんな物をつくったらいいかと頼られるたびに、さまざまなアイデアを出した。たとえばその一例がチリカゴである。そのかたちは下がすぼまった小鹿田焼の傘立てにヒントを得た。カゴの下方には「胴ヒモ」があるが、これは丹波の焼き物、生田和孝さんがしばしば採った胴ヒモという技法だ。胴ヒモを入れることで手が滑らないよう用途性を配慮したのだ。これもとても評判が良かった。
 それから、織物をしている知り合いから毛糸カゴの注文が入ったが、これは最初、失敗した。素材の切り口が内側に入っていると、毛糸が引っかかってしまったのだ。この件は勉強になり、かたちを考える前に用途を考えなくてはいけないなと反省した。それで睡蓮鉢のかたちを利用して再び毛糸カゴをつくった。丸く腰をふっくらとさせて、切り口は外に出した。
 次々と新たな物をつくっていくと、ご婦人方から小さくて何かいい物ができないかと言ってきた。それで、皿のようなかたちの楕円のカゴを考案した。これは女性の装飾品を鏡の前に置いて収めるのに最適な物となった。こういったかたちの物は型枠をつくってから制作。その型枠をつくる技術を持った年輩の方が偶然いたことが幸いし、多様なカゴづくりが順調に進んでいった。
 杞柳という素材のよさは非常に力強く見えるということ。本質的な民藝の良さを自分なりに理解していた私はこの素材感を利用して、さまざまな物を手がけたが、これらは民藝のいわば「新作」といえよう。当時の私は古い物をほとんど見ていなかったため、自分のアイデアをストレートにぶつけていった。そして、たまたまつくる婦人会の方もゼロからの始まりだったため、何をしていいのかわからず試行錯誤。そういうことがうまく一致したのだった。それに、余所者の私が熱心に現地へ通ったことで信頼を得られ、アイデアを聞き入れてくれたのかもしれない。

小鹿田焼の傘立ての甕(かめ)から
ヒントを得てつくった物。
下側は非常に緻密に編んで、上側は太い物で巻いている。
上下で段分けして、ヒモを巻いたようなかたちに。
これは胴ヒモといって
丹波の生田和孝さんの焼き物からヒントを得た
毛糸カゴ。
毛糸が引っかからないよう内側に切り口が入っていない。
丸い睡蓮鉢のかたちから考えてつくった物

いざござが噴出

 順風満帆のように思えた杞柳によるカゴ類づくりだったが、大きな問題が起こってしまった。前述したように、かなり強い力をもつリーダーの森本さんは実力者すぎてしまって、命令口調でいろいろな人を指導した。最初、会のご婦人方も森本さんの言うことを聞いていたのだが、5〜6年経ってくると、煩わしさを覚えるようになっていく。技術をそれなりに備えてくると、森本さん自身はそれほど技術が長けていないため、いさかいが起こってくるのだ。それで最初は黙っていたご婦人方と森本さんの関係がだんだんこじれていったのだ。
 また減反農家から杞柳を買い取る際にも、婦人会には市からの助成金もずいぶんと出ていて、その売買のことで何か誤解を招くような噂が流れた。そんな悪い噂は一気に広がるもの。指導者が没落していく過程にはいろいろな噂が飛び火することがよくあることなのだ。
 それで森本さんに対しておもしろく思っていなかった人たちがいっせいに同調した。私には吹き出た不満を止めようがなかった。宮崎の人間ではないし、宮崎県人の気質は九州の中でも異質。おっとりしていながら根が深い所がある。森本さんはそこまで自分が嫌われて人望が無いのならばと、辞めてしまった。
 こうして指導者がいなくなり、残ったメンバーが集団で取り組むことになった。だが、つくる人の技量の優劣が出てくると、物の売り上げの配分の問題が噴出した。組合組織が無く、「ゆいまーる(助け合いの精神)」「もやい(一緒に何かをする、人と人のつながり)」といった共同体意識が強く持てない地域社会では、どうしても経済的なことでいさかいが起こり、規模が縮小していくのだ。
 生目の会も同様で、いちばんいいつくり手だった坂本さんをはじめ男性陣がご婦人方の確執に嫌気をさして、いなくなってしまった。自分の仕事というプロ意識が薄い人たちは嫌なことがあると、まあいいやと辞めてしまうのだ。
 結局、会に残ったのは4〜5人だけだった。そのうちのひとり安井早智子(さちこ)さんがリーダーとなり頑張った。ただ、女性のために大きな物の制作を難儀し、後藤さんという力強い年輩のご婦人だけが大きな物をつくれた。しかし、この方も縮小したグループの中で起こったいざこざが嫌で辞めてしまい、結局、会は小さなお土産品的な物ばかりをつくる方向にいってしまった。
 そして、安井さんも歳をとられ、12年ほど前、とうとう私に電話してきて、自分は老人で病気になり、力が弱くなったから、もう駄目ですと辞めた。その方が辞めたことで、会は完全に分解され、カゴづくりは途絶えてしまった。

焼き物の深鉢のかたちをヒントにして
果物入れ用に考えた物
右は曲げ物の小判弁当箱から考えたかたち。
左は径が6寸ぐらいの深皿。
ちょっとしたおつまみを入れたり、頻繁に使う小物を収めるのに便利
ぐい呑みを入れて持ち運ぶのにちょうどいいカゴ。
家で愛用している

新作運動の可能性

 結果としてこの取り組みは失敗に終わるのだが、私は大きなことも学べた。伝統も歴史も技術も無い地域では、強い人望を持った人が何かをやらねばならないとひとつのことに取り組む。そうした地域復興への働きかけが工藝と農業に結びついたことにより、新たな手仕事文化を創設できることを知ったのだ。
 本質的な民藝のよさ、素材感や質感、地域性をきちんとふまえた上で関わることにより、新たな工藝運動へもっていけ、それが長く続くことにより伝統になる可能性もあるのだと。
 ただし、何も無い地域には経済的な問題も横たわっている。現代の日本の社会構造の中でもう一度地域の人たちが信頼関係で結ばれる社会を復活させる必要があるだろう。しかし、それには関わる人たちの志が大事だと痛感した。
 生目での日々は苦い思い出でありながら、前を向いた試みでもあった。現場で得た知識、人間との関わり方、提案した物がすべて自分にはプラスとなった。
 新作運動に対する自分の役割を気づかせてくれたという点で、大いに意義があったと思っているのだ。