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Kuno×Kunoの手仕事良品

松本民芸家具のアカシア小木工

松本民芸家具のアカシア小木工

2009年10月28日
長野県松本市
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

昭和59年(1984年)、松本民藝家具の研究所の
庭先で「小鹿田焼の会」を催した際の1枚。
穏やかな表情を見せた池田三四郎さん
(写真提供/もやい工藝)

民藝の先生、池田三四郎さん

 近年、再評価され、雑誌を中心にメディアでも脚光を浴びている松本民芸家具。その創始者、池田三四郎さんは家具の新作運動に着手した唯一の民藝関係者だろう。英国家具のよさを取り入れつつ、日本の和家具の伝統も継承し、今のライフスタイルに合うような新しい家具を展開した。
 池田さんはそうした家具づくりの参考になるよう世界各国の家具を収集して、富山県の山奥にあった合掌造りの民家を移築した「松本民芸生活館」に収蔵。ここは木工訓練生たちの学習寮、修練の場として機能。彼らは毎日家具を使用し、作務としての掃除などを通じて、じかに肌で触れることで真の工藝品の持つ意味を体得。松本民藝家具の伝統を継承する職人として巣立っていった。
 私はたくさんの木工職人を育てた池田さんと深い関係にあった。池田さんと知り合うことによって民藝の世界を理解し、現在の仕事に入っていけたのだ。亡くなるまでの長い間、親しくおつきあいすると同時に、御教示も受け、ともに民藝の喜びを味わうことができた。とても恩義を感じている人物なのだ。

 

間伐したニセアカシアに着目

 26〜27年ほど前、私は池田さんに呼ばれた時の話である。それまで年に10回ほどは松本の池田さんのもとを訪ねていた。時間を見つけては電話をかけてきて「出て来い」とか「用があったら寄れ」と声を掛けられていたのだ。

 その時、池田さんは「おいどうだ、この家具は?」とラッカーを塗ってやや赤みを帯びた、素朴なスツールを私に見せた。松本民芸家具といえば、オイルステインを塗った黒光りする家具が特徴なのだが、そのスツールは趣が異なる物だった。そのスツールは背もたれと3本の脚を持っていた。安定性のいい4本脚でないことに驚いた私は思わず「あれ先生、これは脚が3本ですが・・・」と戸惑うと、「3本で座れないと思うか? 座ってみろ」と池田さん。
 実際に座ってみても、安定がいいのかよくないのか、わからないと率直な感想を述べると、「馬鹿野郎、お前はわかってないな」と池田さんは呆れた。
 スツールの材料はニセアカシアという木だった。戦時中から戦後にかけて燃料が無かったため、松本周辺の小高い山々ではほとんどの木が伐り倒され、焚き物にされてしまった。それで、あわてて防災用としてニセアカシアの木を大量に植樹したのだそうだ。
 この木は根がしっかりしていて、短期間に太くなる。そのため戦後30〜40年経つとかなり太くなってしまって、花粉が春になると漂い、花粉症の原因と推察された。また、間伐をしないために根が張って山を荒らしていた。そこで間伐をしないといけないと、ニセアカシアの太い木をすごい勢いで伐ったらしい。
 製材所か貯木所なのかわからないが、間伐したニセアカシアが山となって積まれていたのを池田さんは目に留めた。そして、この木の目はケヤキみたいに、少し赤みを帯びていてなかなかいいじゃないかと思ったという。

一枚板でつくったニセアカシアの家具は堅くて丈夫。
ベンチのスタイルは松本民藝家具を含めてよくある、きわめてシンプルなデザインだ。
かれこれ25年近く使っているが、全然傷まないし、使いこんだ味が出てきて、とてもいい具合だ。
単なるラッカー仕上げゆえ、赤みを帯びたニセアカシアの材料がストレートに出ている。
目をよく見るとケヤキのよう

老職人とのやりとり

 当時、松本民芸家具には湯田広夫(ゆたひろお)さんという製作部長がいた。抜群の腕とセンスを持った老職人で、池田さんが「こんな物をつくってみろ」と言えば「あいよー」とつくってしまう人だった。
 池田さんの発想とアイデア、センスを図面に起こしたのが、池田さんの義理の弟の荻原小太郎(おぎわらこたろう)さん。そして、荻原さんが書いた図面をもとにして試作品をつくるのが湯田さんだった。この3人体制が松本民芸家具の初期からがっちりと組まれてきたのだ。
 池田さんに湯田さんは「会長、こんな木はいけねえよ」と言い放った。乾かしているうちに割れてしまって使い物にならないよと。
 「今は割れてねえじゃないか」と池田さんが言うと、「生木の時は割れないんだ。だから、生木のうちに伐って組んで留めてしまえば割れは入らねえよ」と湯田さんは答えた。「おう、そいつはおもしれえじゃないか。それで何かつくれねえか」と池田さん。「まあ、ちっちゃな椅子くらいだったら、できるんじゃないの」と湯田さん。「じゃあ、おめえつくれ」と池田さん。
 こんなやりとりがあって、ただ同然だった幅広のニセアカシアを入手して試作品を制作してみることになった。
 「間伐材を活かすのも民藝の木工の道だぞ。まあ、おまえみたいな浅はかな人間にはわからねえだろうけどな」と私に話されたのを今でも覚えている。
 湯田さんは凝りに凝る性分。いったん仕事を始めると時間などかまわず、ひとつの物を仕上げるのに夢中になる。このニセアカシアの木の特性を見抜き、生木のうちに組ませて、乾燥にともない歪む力をうまく利用して割れを防ぐ方法を考え出したのだ。
 そのアイデアによれば、構造的には4本より3本脚がふさわしいという。椅子の座は本来、幅広の無垢材を用いるが、ニセアカシアではその幅広材を取れないため接ぎ合わせないといけない。この接ぎ合わせは三角形を起点にして、3本の脚で留めた。脚の中にほぞ(木材を接合するための突起)を入れて座へ強引に留める。かなり乱暴なつくりなのだが、乾いていくと割れずに、しっかり固定されていく構造だった。

非常に細い材料をうまく利用している。小板を3枚接ぎ合わせて、下からの脚の部分を上で留めている。
それを押さえるためにストレッチャーが入っている

ベンチを切って小さなスツールにした。円形のスツールは中心に三角形の木を入れて半月の板を3枚合わせている。
それによって円形をつくって、しかも脚を3本にすることでうまくまとめあげている。
両方とも脚立がわりに使えるほど安定感がある。生木で組んだ物が乾燥することによって木が締まる。
池田さんが言っていたことは本当であると感心した

先見の明

 これはおもしろいと池田さんは引き続きさまざまな物をつくるよう指示した。 
 しかし、かたや松本民芸家具は定番製品やオーダーで受ける本格的な家具製造会社。社内の優れた職人たちは忙しかった。そんな状況だから湯田さん一人がニセアカシアの家具を抱えてしまったら本業に支障をきたす。

 ならば、誰に制作させようかということに。当時、松本民芸生活館には先にも述べたように、職人に憧れて入って来た若い人たちがたくさんいた。彼ら訓練生に初歩的な技術を覚えさせるのにニセアカシアの家具づくりはうってつけだろうと池田さん。そうして簡単な家具をつくって低価格で提供しようじゃないかと。若い人が頻繁に、乱暴に使ってもいい。まずは木のよさを味わってもらえる家具を使ってもらいたい。いずれ会社に入って給料も入るようになれば、より上質で本物の家具を買ってくれるだろうからと。そんな願いをこめて、この小木工の家具に取り組むということになった。このような柔軟で先を見据えた考えを持つ人は当時おらず、池田さんには先見の明があったと、私は尊敬している。

最初の頃につくったスツール。
背もたれをどうするかずいぶん悩んだようで、
右は背もたれがきちんと付いていて、
左は曲げ木にしてある

背もたれの部分を前にしてテーブルがわりにしてもいいのでは
という池田さんのユニークなアイデア。
塗装は松本民藝家具従来のオイルステイン仕上げ

松本民藝家具を従来つくってきた物を
小幅の材料をうまく利用してつくった。
安いわりにはかなり骨格があって、推奨すべきいい物。
後ろの階段状、俗にいうラダー編みのデザインがシンプル

思わぬ反響から中止に

 池田さんがアイデアを出し、湯田さんが実行に移し、それを若い職人希望者につくらせる体制が整えられていった。そして、いよいよ世間に広めようとした時、これは湯田さんの案で製品化したからブランド名を「ユダの家具」にしようという話もあった。だが、さすがにユダでは縁起が悪いと「松本小木工塾」という名前で判子をつくり、売り出すことになった。
 池田さんに同調し、尊敬する私や花森家具の花森良郎さん、地方の若手の民藝店が自分の店でも販売したいと扱い始めた。私が経営する「もやい工藝」はちょうど佐助に移転して開店したばかりの頃だったので、ずいぶんと力を入れて販売したものだった。
 ところがニセアカシアの家具ばかりが民藝関係者の人たちに人気が出てきて、逆に松本民芸家具の足を引っ張っていくことになった。本体の大事な家具が売れなくなってしまう危惧が出てきたのだ。たまらず、経営陣から池田会長に「この家具はやめてくれ」ということになったそうだ。若い訓練生も他にやる仕事もいっぱいあるのに、それを怠ることによって本体が揺らいでしまうからと中止になってしまったのだ。
 池田さんは私に「これはもったいない話だぞ。おそらくこれから広葉樹はますます伐れなくなる。すると杉や松を伐り倒さなければならない。その時にこういう小木工のことを手がけるアイデアを活かさないと日本の木工芸はいずれつぶれてしまうぞ」と言った。

 「俺の会社でやらねえということならば、お前が将来こんなことをやってみたいんだったら自由にやってかまわねえぞ。別にこれは特許があるわけでもねえ。志みたいなもので、これで木工屋に飯を食えとは言えないものだから、その辺は難しい。ただ、こんな安易な材料をうまく使いながら家具づくりをするのも手じゃないか」と言葉を続けた。

鳥取のヒノキで再現

 池田さんは常々、家具は松に始まって松に終わると言っていた。朝鮮の家具も一般には主に松を使っている。松を使った材料で、使用頻度の激しい小木工をつくっていくことは非常に有意義なことだと話していた。私はそうした池田さんの意思を何とか継ぎたいと思った。
 6年くらい前のことだ。私は指導を頼まれ、「鳥取たくみ」と鳥取民藝美術館の再建のために尽力していた。その頃はちょうど鳥取の片山知事が地産地消運動を展開しはじめた頃で、県で自立する工藝品を探っていた。
 私は県の職員から鳥取県の三朝町(みささちょう)の小木工を何か開発してくれと依頼された。三朝町には建具屋職人上がりの人が二人ほどいて、県からの補助金により町内に大規模な工場をつくっていた。そこでは地域では多く採れるヒノキ材を用いた家具を制作していたのだ。

スツールを拡大して3本脚の円卓にした。
外でお茶やコーヒーを飲むのにちょうどいい大きさ。
これもオイルステイン仕上げ

 だが、現地に赴き実物を見ると明らかにデザインがよくない。県の工業試験所の人が東京から大学の先生などデザイナーを呼んできたのだろう。そういう人たちは地域性を無視して自分のデザインを押し付けがちだ。相手がどのような技術を持っているかとか、材料を見ないで押し付けるため、みんな失敗してしまうのである。
 本当に嫌な物ばかりで、私は酷評した。すると批判ばかりしないで何かいい知恵を出してくれというので、思い出したのがニセアカシアの家具だった。

 池田さんから渡された家具が家にずいぶん置いてあるから、その見本を工場へ持って行った。ニセアカシアは広葉樹に近い堅い木だが、ヒノキは柔らかい。ぶつければすぐに傷んでしまう。そのあたりの難点をどう克服するかという課題はあったが、とりあえずつくってみようということに。柔らかい木だけれど、値段さえ安くて頻繁に使える物ならいいんじゃないか。ぶつけても使いこむうちに馴染めばいいという荒っぽい考え方で提案したのだ。
 このヒノキの小木工がわりと成功して、県の方々や片山知事もずいぶんと喜ばれて、これを県の物産として売り出そうということになった。そして、これがきっかけでビームスに私が関わることになった。柳宗理さんを通じて知り合ったビームスのバイヤー、エリスさんと北村さんにこの家具の話を持って行ったら、おもしろいから扱わせてくれということに。

 しかし、この家具は安すぎてかえって売れなかった。また、町の予算は単年度予算で、またちょうどその頃、町村合併が討議されていたこともあって現実に赤字のものはすべて清算ということで、工場自体が切り捨てられてしまったのだ。生産が中止になって痛い目に遭っただけではなく、私にとってはとても残念だった。もし、この取り組みがうまくいけば、県が地産地消運動と兼ね合って補助金も出し、もっと大きな展開ができたのかもしれない。

明るい将来

 ニセアカシアの家具はもう一度再現したいと私は考えている。木工家具に携わる人はけっこう多い。だが、その人たちが一般の人並みの経済状態を確保しながらニシアカシアの家具づくりに関わって生きていけるかというときわめて難しいだろう。それでも、その手だてを手仕事フォーラムが考えて、給料を出すようなかたちで家具を販売できる組織的なものを将来構築していきたい。
 この家具は木工技術が初歩の人でもたやすくつくれる。だからこそ、かえってこういった物を大量につくることによって腕も上がるだろうし、材料のことを知ることになると思う。
 現在、木工の職人は松本民芸家具のような大きな工場に勤める場合を除いて、個人で仕事するしかない状況だ。だが、個人で木工家具の制作を続けるとなると、まず資材を置く場所を考えないといけないし、家具の材料を買わないといけない。それに、どうしても機械導入も必要と、大変な金額がかかる。
 そういった工程を経て家具をつくるとなると、ひとつあたりの単価が高くなるは当然であろう。集団で分業しながらつくれば、価格を抑えられるが、個人では抑えられない。となると、やはりこれは難しい仕事なのだ。
 それゆえ、こういった簡単な小木工の手仕事で、しかも間伐材という、自然素材ながら捨てられてしまうような材料をうまく利用した家具に関わってもらえれば、決して暗い将来ではないと考える。
 そうして生まれた家具で若い人たちが素材感を味わい、使いこむことによって、よさを知り、ライフスタイルの中で活かしていって欲しい。何とか、間伐材の小木工を手がける人を見つけたいし、手がけていきたいなと願うのだ。

ニセアカシアの家具の中ではもっとも手のこんだ仕事。1本か2本くらいしかつくっていなかった。
そのひとつがこれで池田さんからいただいた物だと思う。ベンチの組ませ方に念が入っている。明らかに湯田さんがつくった物