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Kuno×Kunoの手仕事良品

Iさんの磁器

Iさんの磁器

2009年12月28日
京都府
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 私は実のところ磁器が大好きだ。そのくせ、なぜかそのつくり手との関係は持続しない。以前、この連載記事の第20回「O君の磁器」で述べた通りだ。磁器という特有の焼物をつくる人が内面に共通して持つ、個人的、個性的な部分を重んじたいという気持ちが、あれこれと方向性を提示、指示することと、どこかで融合しない部分があるのだろう。
 今回はそんな磁器のつくり手と関わり、その後、縁がいったん切れてしまった残念な物語と同時に、その跡継ぎのつくり手が磁器の世界に新しい風を吹かせてくれるかもしれないと感じた希望についてお話したい。

簡素で清潔感ある磁器に惹かれる

 Iさん、つまり石飛勝久(いしとびかつひさ)さんの存在を知ったのは1975年のことである。この年の日本陶芸展で生田和孝さんが外務大臣賞という民藝部門で最高賞を受賞したということもあり、真っ先に会場へ見に行った。陶器が多く展示される中で、ひとつだけ磁器の簡素でさっぱりとした清潔な印象を受ける組鉢を見出した。
 つくり手の名前を確認すると「石飛勝久 京都」と書いてあった。その頃、私は日本民藝館に出入りし始めていたので石飛さんの住所を聞け、早速訪ねることにした。当時の彼は京都、鞍馬の山際に建てた小屋組の住居に暮らしていた。若い方だと聞いていたのに立派な家を構えていたので驚いた。こじんまりしていたが、とてもよい家だったのだ。ちょうど石飛さんは在宅されていた。
 「実はあなたの作品を日本陶芸展で見て気に入りました。ぜひ、どんな仕事をしているのか、店を始めて間もないのですが、これからあなたの物を置かせていただきたい」と私は切り出した。

1975年日本陶芸展のカタログに掲載された石飛さんの出品作品

昭和53年くらいに盛岡の光原社で私が日本の民窯展を催した時に、当時知り合って仲良くなった人たちを連れてきた。
左から現82歳の出西窯をつくった多々納弘光(たたのひろみつ)さん、現72歳の小鹿田焼の坂本茂木さん、
現69歳の石飛勝久さんと森山雅夫さん、右端が小石原焼の太田哲三さん

河井寛次郎系のつくり手

 石飛さんは陶芸家の上田恒次(つねじ)さんに学んだと言う。上田さんは河井寛次郎の最初のお弟子さん。河井は陶器のつくり手だが、上田さんは磁器を目指した人。石飛さんはそんな上田さんの最初のお弟子さんになった理由を説明してくれた。
 彼の出身地は島根県奥出雲だった。この地に生まれ育った当時、河井寛次郎が島根県安来(やすき)の出身だったこともあり、県内の窯業指導所に出入りしていて、その関連施設で窯業補導所があり、中学を出た子供たちが将来、焼物づくりを目指せるよう訓練していた。その補導所に石飛さんは居たのだという。同期生に現・温泉津(ゆのつ)の森山雅夫さん(森山窯)、出西窯の本多考市さん、兵庫の椋木英三(むくのきえいぞう)さんらがいた。島根県出身のこれらの生徒さんはまず京都に呼び寄せられて河井寛次郎のそれぞれのお弟子さんに振り分けられた。森山雅夫さんは河井直結のお弟子さんになったが、石飛さんは上田さんのもとで修行の道に入ったのである。
 上田さんは河井のお弟子さんであるとともに、民藝派の磁器のつくり手としては富本憲吉の次に評価される方。富本は柳宗悦とともに民藝の道を当初は歩んでいたが、その後、柳の理念との行き違いもあり、民藝から離れて超個性的な作品づくりの方向に向かった人物だった。
 上田さんは造形にとても心を砕いた作家であった。それは河井の意思、方向を磁器で取り入れていこうという考えがあったからだ。磁器は昔から型でつくる仕事があったため、型で造形的に目を引く物をつくりだした。河井は陶器で独特の厚手のどっしりとした仕事をするけれども、上田さんは磁器で厚手でどっしりとした仕事をする最初の人だった。そんな作風から当時、民藝派の人に「中国の青龍刀の切れ味を持った磁器づくりの作家だ」と評された。

登り窯で磁器を焚く

 石飛さんは上田さんのもとで20年以上職人としての訓練を受け独立。鞍馬に近い静市(しずいち)という場所に窯を持った。ここでは公害の問題もあって登り窯は持てないので彼自身はガス窯を使用していた。ところがその窯から車で10分もかからない木野皿山(きのさらやま)という所に上田さんの登り窯があって、石飛さんはその登り窯の窯焚きのお手伝いに行っていたので、自分のつくった物も一緒に登り窯で焚いてもらっていた。そんなわけで静市時代の作品の多くは登り窯による物だった。
 磁器の物は有田でもそうだが、今はよほどの作家作品でない限り、登り窯では焚かない。燃料は変遷し、石炭からコークス、重油、そして現在はほとんどがガス窯で焚かれている。登り窯で焚くなど大変なことだった。
 費用的なことだけでなく、実際に問題もあった。磁器は白さを求められるため、土の成分にある鉄分が吹き出したり、黒点が付いたりがあると嫌われた。そんな焼物は製品としては認められない約束事が当たり前のようにあったのだ。登り窯で焚くとどうしても薪に不純物、灰などが混入したり、釉薬のにじみ具合が変わったり、焼き損ないが起こりうるため、均整に焼き上がるガス窯が選ばれているのも事実だ。
 火力が安定しているガス窯で磁器が焚かれる理由は他にもある。磁器の場合、還元炎焼成で焚く。還元炎焼成とは窯の中に酸素ができるだけ入らないようにして焼成すること。そのため窯の中が酸欠状態になる。炎は酸素を必要とするので、窯の空気からではなく、焼かれている胎土や釉薬から酸素を奪って燃焼。その影響で器にさまざまな変化が起きる。生地や釉薬に含まれる酸化物が還元することにより、鉄分を含む場合は青灰色の発色をする。
 しかし、登り窯でパーフェクトに還元炎焼成するのは非常に難しく、歩留まりが悪い分、出来上がった物の値段にはね返ってしまうのである。

 それでもあえて登り窯で焚いた物を石飛さんは日本陶芸展に出品し、その中の組鉢に私の目が留まったのだ。そして、どうしてもこういう物を店に置きたいと、京都通いが始まった。

尺2寸5分(直径37.5cm)の皿。磁器でこれだけ大きく平たい皿はなかなか出来ない。
たくさんの人をもてなす時に食べ物を盛ると、大変きれいで映える。
磁器は貫入が少ないし、使い込んでも汚れず清潔感がある。そのため磁器の方が日本の社会の中では重要視されているようだ

この大皿も登り窯で焚いた。今、磁器はガス窯で焼くものだから、とても貴重な物と言えよう

職人ではない

 私が九州方面に出かける時は、まず岐阜の友人の所に寄り、丹波立杭から鳥取の焼物屋の友人宅を経由して行ったのだが、石飛さんとの交流が始まると、岐阜を飛び越していきなり京都に寄るようになった。石飛さんは当時まだ若かったので親切に「どうぞ家に泊まっていきなさい」と言ってくれたので、言葉に甘えて宿泊させてもらった。そうして当然、仲良くなっていった。
 石飛宅に泊まった後は丹波の生田和孝さんの所を訪ねた。河井寛次郎のまな弟子である生田さんとお話していると、直に会わずとも河井が身近に感じられた。また、石飛さんからも上田さんを通した河井の話を聞いた。彼らと出会ったことで、浜田庄司よりも河井寛次郎の感覚が私の体の中に入り込んでいった気がする。
 上田さんの優れている点は彼がさらに建築家であるということ。優れた造形感覚を内面に備えていたのだろう。彼は豪放な建築設計をされた。京都は数寄屋や繊細な町家づくりが多い地域なのに、かなり太い梁を使い、黒く塗って骨太の民家を手がけた。いわば京都の町家を改革するかのような大きな建物をつくられたのだ。 皿山の窯場にある上田さん自身の家もまるで日本民藝館のような建築だった。そうした環境で豪快な磁器の仕事をしている点に好感を抱いた。ただし、私にはとても手が出る値段ではなかった。
 石飛さんも上田さんのお弟子さんゆえ、普通よりも値段がかなり高かった。その高さがどうも気に入らない。私も店を始めたばかりでお金も無い。どうしてもっと安いのが出来ないのかと石飛さんに言うと、自分は職人的な育て方というよりも、作家的な生き方を学んできたから数物をつくるのは苦手なのだと。同じ物を同じ寸法でつくるのは得手としない。一日で大量の物をつくることはできないと言った。確かに彼のつくった物を見ていくと統一性が無い。きちんとした整然性が無いのだ。やはり彼は職人ではないのである。

 当時、私は小鹿田や小石原を訪ね、優れた職人の人たちと交流が始まったばかりの頃だったため、ロクロ技術はすぐに目に触れる。石飛さんはロクロ技術に巧みさはあっても職人的な仕事は下手なのだなと感じた。

河井寛次郎の流れの中から行き着いたかたちと思われる変形八角形の皿。
四角の皿の面を取った感じ。四角の型物の皿を面取りして八角形にした。
嫌みの無い素直なかたちだ。磁器は薄く引くと土(石)質の影響で歪む。 厚く引くと重すぎてしまう。
ロクロ技術が難しいため、有田焼もそうだが、厚く引いておき、ある程度乾いてから削り出してかたちをつくる。
つまりロクロ技術ではなくて削り出しから生まれるかたちなのだ。
また、磁器は鋳込みに適しているため型づくりされることが多い。
瀬戸、有田などは型で磁器の物をたくさんつくり、絵付けを施すことで皆さんの目を引いている

デザインを提案

 やがて石飛さんと親密さを深めていくうちに、磁器の造形的な物で何かいい知恵を出してくれと頼まれた。私は喜んで提案し、さまざまな物を制作してもらった。

 その中で6寸(直径約18cm)の皿がある。よく見ると磁器土の中にかなり粗い陶石を入れて厚く焼いている。そのためとても重たい。また、線描きもてらいなく、深く描いて粗さを出ている。従来の磁器のイメージを逸脱したような物だ。この皿を料理屋さんに持って行くと、おそらく嫌がれるだろう。ところがこの作風に私は好感を持った。あまりよくない土で製品をたくさんつくっていくならば、これで十分ではないかと。潔白、清廉な物をつくるよりも、こんな土を使いながらつくってはどうかと。当時、1枚4000円くらいだったので、販売は難しかったけれど、こういう物が好きな人もいて非常に喜ばれたのだ。

6寸の皿。粗っぽさを見せたいために模様を描いた。
私が所有する中国の宋白磁の中にこのような雑に線描きした、いい物があった。
それをヒントにこの皿を石飛さんにつくってもらった

上田さんの登り窯で焚いた皿。しのぎの内側にロクロによるカンナできれいに削り落としている。
鎬(しの)いだ所の凹凸と磁器の粗い所がぶつかり合って、かなり乱暴な物が生じる。
だが乱暴でありながらリズムカルであり、なおかつ土味を活かしている。ポツポツと見える黒い点は灰。
こんな素朴で、野趣があって、強さの中に温かみもある磁器に惚れた。
どうしても欲しいと言うと、自分にはいい物かどうかわからないけれど、どうぞ使ってくださいといただいた。
これが磁器にのめり込む大きな転機となる皿だった。
ちなみに面取り、しのぎといった技法は李朝の技法を応用したもの。
この技法を得意としていた上田さんから石飛さんは習得した

このティーポットのかたちも私がデザインした。フタのつまみの細さは中国のしのいだ壷を参考にした。
ずいぶん気に入って長年使ってきたが、どこかで貫入が入り、水漏れするようになったので、今は使用を止めている

誤解から縁が切れる

 上田さんは年に3回くらい登り窯で焚いていたので、私はその時期を狙って登り窯から出て来た物を選び、仕入れた。そうして訪ねるたびに石飛さんには「誰にでも買える値段でつくって」と頼み続けた。彼は作家の道を行こうとしていたのに私が「数物をつくれ」と職人に引き戻すようなことを言う。これは彼にとっては気にくわないことだったようだ。
 石飛さんのもとへは8年ほど通った。その当時、京都民藝協会には30〜50歳代の人たちが青年部をつくって活発に動いていた。制作者も多く参加していて、石飛さんもそのひとりだった。そのある集まりで、大阪民藝館の展示を青年部が見に行った折りに、制作上の悩みを聞く会が青森の相馬貞三さんを囲んで開かれた。相馬さんは柳宗悦門下で、当時、弘前市で「つがる工芸」を設け、新作、とりわけ民藝人が苦手としていた編組品に取り組んだ第一人者。私もずいぶん世話になった、尊敬する人物である。石飛さんはその場で「あるお店の方のデザインのもと自分はつくっている。そのつくっている物を他店にも出したいのだが、その人は自分のデザインだから他に出してはいけないのだと言う。またデザイン料を請求されたり、値段を安くしろと言われとても悩んでいるのだ」と言った。それは誰だ?ということになって、久野恵一だと。
 その時、石飛さん自身はそれほど深刻な話としてとらえていなくて、話下手な人なりに自分の近況を報告したつもりだったのだろう。だが、その話に尾ひれが付いてたちまち日本民藝館に伝わった。学芸員のOさんは「京都で言われているぞ。いろいろなことを言うものではない。久野君はそんなことを言うべきではない、そんなことを言うようになったのかと相馬さんは言っている」と。
 誤解で、そんなことを言った覚えは無いのにと慌てて日本民藝館に出向いた。ちょうど鈴木繁男さんが来られていたので、一部始終を話すと、私にこう声を掛けてくれた。「久野君、京都は恐ろしい所だから、君みたいに直線的な人は気をつけた方がいい。何を言われるかわからないから。デザイン料を請求したり、他の店に売らないことは当たり前だろう。それが俺たちの仕事であり、死活問題なのだから。なぜ君は怒らないんだ? そんなことを言っているから民藝の人は幅が狭くて、いいつくり手を指導する人がみんないなくなってしまうのだ。君は安心してやりたまえ。どんどん言いなさい。陰で言われようが、この道に入ったからにはかまわないから」
 あれほど熱心に石飛さんのもとへ通っていたのに、この一件で熱が冷めていき、縁が切れてしまったのである。ちょうどその頃、私は日本各地の各仕事場との関わりが深まっていく時期だったこともあった。

柳宗悦が自宅で使っていた出雲布志名焼(ふじなやき)系の焼物で、クリーム色の釉薬を掛けたどんぶりのかたちがとても好きだった。
私はそのかたちであちこちの窯で陶器の碗をつくってもらっていた。 ならば磁器もおもしろいと石飛さんに依頼したのがこれ。
我が家に鈴木繁男さんが来られた時、この碗を見て、すごくいいと非常に喜んだ。
「こんなさっぱりとしたかたちは、柳宗悦が使っていたうどん茶碗が原型だと思うけれど、
それを磁器に転用させて、しかも持ち手を変えている。これは君の工夫だろう? 
大ぶりなご飯茶碗を手でしっかりと受け止められるよう高台を高くして、腰を削り落として切立ったかたちにしている。
持ちやすいし、とても品がいい日用品だ。素晴らしい物を君はつくらせたな。
縁に鉄釉を施した口紅も洒落ていて、この器を引き締めている」と言われた

フタ付きの碗も頼んだ。
私たちはご飯茶碗にはフタが無いと考えがちだが、西日本、とくに料理屋の多い京都ではフタ付きが当然なのだ

手紙が届く

 その後しばらくして石飛さんは上田さんの所を離れて故郷の出雲で作陶するようになった。当然、すべてガス窯で焚くようになる。
 その後、10年くらい前のことだろうか、突如、手紙が届き、息子の石飛 勲(いさお)君が跡を継ぐことになったと知らせてきた。それで、息子の仕事をもしよかったら面倒見てくれないだろうかと。そこまで言われたら、あの一件から20年は経っているのでそろそろ訪ねましょうかと言いながらも、近くにある出西窯との関係も薄くなっていたので、なかなか足を運べないでいた。
 何年か前、出雲民藝協会の集まりで石飛さんが話をする場があり、その時、自分は誰に育てられたかという問いかけに対して「今考えると、久野恵一さんだった」と答えたそうだ。出雲の人たちからは石飛さんともあなたは関わったのかと言われた。石飛さんからの手紙の中には、私との縁が切れてからは制作上においてピリッとしたものが出来ていないし、寂しいと書いてあった。

跡継ぎに希望を抱く

 なぜ今回、こんな話をしたかというと、数日前に催された日本民藝館展で石飛 勲君の焼物が奨励賞を受賞したからだ。出品した作品には父親を匂わせる分厚くて、どっしりとしていながらも前向きな仕事が垣間見られた。奨励賞を受賞した物は正直あまりよくなかったけれど、入選した物の中に奨励賞に値する、きちんとした仕事の物が何点もあったのだ。勲君は跡を継いで立派に育ち、いい方向に進んでいると思う。
 勲君の窯の近くには出西窯、湯町窯、永見窯、森山窯という日常の小物雑器を得手とする、ひたむきに仕事をしている人が多い。そういう物に影響を受けながら、作家ではなくて職人的な立場の仕事を続けていけば、きっといい仕事をする人になるはずと思っている。彼には磁器の意味合いをきちんと汲んで、新たな方向を探ってほしいと思うのである。
 今回掲載する作品はすべて登り窯で焚いた物で、よく見ると多少上がりが弱かったりするけれども、味わいや風情がある。やはり陶器だけではなく、磁器も登り窯で焚くと雰囲気のいい物ができるのだ。とはいえ、1300℃もの高い温度で焼かないといけないので薪の燃料代もかさみ、大変だなと思うけれど、登り窯での磁器づくりをやってのける人が出てきたらいいなと願っている。

左はO君の磁器。ガス窯で焚いた物で釉薬に灰釉(木灰)を使っている。
右の石飛さんの皿は登り窯で焚き、京都の陶磁器組合で購入した石灰釉を用いている。
両者の違いが色に微妙に現れている