手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

ホーム>連載・手仕事レポート>Kuno×Kunoの手仕事良品>宮城正享のやちむん

Kuno×Kunoの手仕事良品

宮城正享のやちむん

宮城正享のやちむん

2010年1月26日
沖縄県読谷村北窯
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 宮城正享(みやぎまさたか)君は沖縄読谷(よみたん)北窯の4人の窯元の一人。私とのつながりは北窯の中で最も古い。いかにも沖縄人らしい顔立ちの宮城君は思いやりのある人。しかし、地味な存在であり、細やかに気遣ってくれていながら表面によさが出てきにくい。宮城君はそういうタイプのつくり手だ。そんな彼との長い付き合いについて今回はお話したい。

律儀な人柄

 30年ほど前、読谷村の山田真萬(しんまん)さんの窯にうかがった時のことだ。宮城君はこの窯に弟子のような立場で働いていた。山田さんのもとに弟子入りする人は当時、1年あるいは2〜3年で消えるパターンが多かった。また、職人を雇ってもそれほど長続きしない。しかし、宮城君は独立して北窯をつくるまでずっと山田さんの窯で働いていた。
 宮城君は昭和25年生まれ。見た目はとても若いが、現在は60歳。個人史を話したがらない上、写真を撮られるのを嫌がる。それゆえ、北窯はこの頃、世間で評価を受けてメディアにも随分紹介されるのだが、宮城君はほとんど登場しない。カメラが向くと逃げてしまうのだろう。とにかく目立ちたがらないのだ。そういう性分もあって彼個人のことはあまり聞いておらず、焼物を生業とするようになった背景も知らない。

北窯で作陶する宮城正享君 (撮影/上砂雅彦)

仕事の礎を築く

 最初、宮城君は壷屋出身の作家的な生き方をしていた島袋常光(しばぶくろじょうこう)さんのもとに弟子入りし、2年間ロクロの仕事を学んだそうだ。
 その後、宮城君の姉が大嶺實清(おおみねじっせい)さんの奥さんと同級生だったこともあり、紹介されて大嶺さんの窯に入ろうと思って訪ねたという。
 大嶺さんは首里の石嶺(いしみね)という場所で大きな窯を設けていて、当時そこには現・北窯の松田兄弟(共司と米司)がいた。石嶺から読谷村に移ってやちむんの里で読谷山窯という窯をつくろうとしていた時だった。
 大嶺さんの窯は弟子が多かったために、宮城君には山田真萬さんを紹介した。最初に読谷村の現・やちむんの里で焼物を始めたのは金城次郎さん。当時の山内村長の発案かはわからないが、米軍の広大な射爆場跡地を工藝村にして窯を設けようという構想があった。ここでは共同窯が原則で、呼びかけに乗ったのが金城次郎さんを慕う大嶺さん。当時は高校の美術の先生で焼物もやっていたし、名前がかなり知られていた人だった。
 大嶺さんはあちこちに声を掛けて共同窯のために仲間を集めた。その集まった4人のうちの一人が山田真萬。広大な土地を取得して、共同の大きな登り窯を建て、それぞれ工房を建設したのだった。建設時、山田真萬の窯に大嶺さんの紹介により宮城さんが入ったのである。
 つまり、北窯の窯元の一人になる現在までずっと宮城君はやちむんの里の一部始終、盛況を目のあたりにしてきたのだ。
 読谷に山田真萬さんらの窯が出来たのは1975年頃。そして宮城君らが北窯をつくったのは17年前ほど(1992年)。ということは、宮城君が山田さんの所で弟子入りしていたのは8年間くらい。焼物のロクロのイロハは島袋常光さんから学び、山田さんからは窯づくり、工房づくりを手伝えた。それらの経験が最終的に北窯として独立するまでスムーズに仕事する上での礎となった。
 彼はある程度技術を身につけてから、山田さんのもとに弟子というより、職人的な立場で入った。私が山田真萬の窯を訪ねたのは1980年頃だったと思うが、その時にすでに宮城君は窯にいた。その一年後に山田さんとの付き合いが始まるのだが、宮城君はその窯元の職人のトップとして働いていたのだった。
 当時の印象としては沖縄人では珍しくサラリーマン的で、就業時間や昼休みなど時間をきっちり遵守するタイプだった。またとても律儀な性格でもあった。一生懸命に仕事をして、オートバイに乗って窯に通っていたのも覚えている。

北窯の登り窯(撮影/副島秀雄)

鈴木繁男さんと沖縄へ

 宮城君の存在をとくに意識しはじめたのは、鈴木繁男さんを二度沖縄へお連れした時のことだ。鈴木さんは戦前に芹沢C介さんとともに民藝協会の資金稼ぎのために沖縄の皿に赤絵を施した。その赤絵があまりにも素晴らしく出来がよかったために絶賛された。私も深く感動したし、その赤絵を鈴木さんにもう一度描いてもらいたくて沖縄へお連れしたのだった。
 その際、私が親しくなっていた山田真萬さんの工房に一週間ほど滞在し、山田さんが引いた皿に絵付けをしてもらった。鈴木さんは50年ぶりの赤絵の絵付けということで最初は戸惑いながらも、すらすらと「描きやすい」と言いながら筆を走らせていた。沖縄らしい皿や碗は伝統的なかたちをふまえていると褒めてもいた。この滞在期間はわずか一週間だったため、大量には描けなかったため、しばらくしてもう少し鈴木さんに、私が目指していた、昔ながらの沖縄らしい物を手がけてもらいたくて、再度依頼し、沖縄をともに再訪した。
 二度目の滞在でも、しばらく山田さんの皿に絵付けをしていたけれど、珍しく苦戦していた。一度本焼きした焼物に赤絵を施してさらに低火度で焼くのだが、「描きにくい」と漏らしていたのだ。
 はじめは何も言わずに懸命に取り組んでいたのだが、そのうち描いては雑巾で消し、なかなか順調に進まない。そしてイライラしはじめた。
 作業の2日目には呆れるようにこう言われた。
 「久野君、君はこんな皿に絵付けをさせるのか? 沖縄に来た以上は描かないといけないけれど、なぜこの前はあれほどよかったのに今度は悪いのだ? しかも嫌らしい。鉢にしてもロクロ目の指跡がある。この指跡はロクロの仕事だと見せつけようとしているのか、あるいは下手な人間の仕事ゆえ付いたかのどちらかだ。前回はこうした嫌みな物が全然無かった。沖縄の皿らしいかたちだった。だが、今度はあまりにも下手だ。もしくは何か狙いがあるのか。この皿には僕は描き気がしないね」と。
 私はなんとか描きやすい物を選んでくださいと懇願。わざわざお連れしているのだから描く気がしないからと何も描かないで帰るのはひどいと言うと、わかったと渋々言いながら、では、つくった本人を呼んできなさいと鈴木さん。
 そして本人を前に、こうはっきり言い放った。
「山田君、こんな指跡を付けたような皿などつくるな。それに飯碗はへなへなしたかたちをしている。君は沖縄のマカイという基本形を十分に見ていないのではないか。あるいは、この前来た時にはちゃんと出来てきたのに今回出来ていないということは基本形を無視して、何か新しい創造的な物をつくってしまうという嫌らしい作家根性が出てきている。
 これは非常によくない。もっと素直になりなさい。こういう物は日常的に使う物であって、そこに自分は赤絵を施すのだから。
 僕はここに作品を描くために来たのではないんだ。沖縄のこれからの赤絵の製品をどうしたらいいか何か提案して、少しでもお役に立ちたいと考えている。柳宗悦とともに歩んで来た自分たちの民藝は沖縄があって初めて成立する。ならば、沖縄から学んだもの、得たものを返さなくてはいけないという使命感があるんだ。だから、戦前に沖縄で赤絵をやるということは積極的にしたくはなかった。あの仕事はただ描いてみたいという赤絵の魔力にとらわれた、若気の至りであって、今はあんなものを描く気は無いし、描けない。
 今、描くとすれば普通にみんなが使える赤絵。沖縄の今の仕事が行き詰まった時、どのような赤絵が展開できるかを想定して描いて、ここに置いていきたいんだ。しかし、根本的に焼物の骨格がきちんとできていなければ、その上に何を描こうとしても無駄だ。こんな仕事をしているのはよくない」と。

身に備わった沖縄の基本形

 山田さんはにこやかに笑いながら謝った。
「実は前はうちの職人につくらせていました。今回はその職人が新しい窯を設けるために辞めたばかりで自分でつくりました」と答えた。
 それを聞いて鈴木さんは「まあ、では仕方ない。我慢して描ける物を選びましょう」と言った。しかし、結果として、前回の半分ほどの量も描けなかった。
 私は前回、どの職人が手がけたのかは、すぐにピンときた。なんだ、宮城君がつくっていたのかと。それで、宮城君はロクロが上手だったのかと悟った。
 今まで山田さんから仕入れした製品の多くも実は宮城君による物だということも知った。実のところ彼のロクロ技術は決して上手とは言えないのだが、沖縄の基本形をきちんとふまえ、沖縄のよさがなんとなく染み付いている物をつくる。彼は山田さんの所で職人的訓練を受けたと言うが、島袋さんの所での2年間で沖縄の基本形をみっちりと教わったのだと想像する。
 彼自身は意欲的に物を見たり、物に執着してつくる人間ではない。非常に大雑把な男だ。それでも基本形が出来るというのは、やはり彼自身が持って生まれた眼の作用というもの、地元に根付いたようなものに影響を受けていたのだろう。それゆえ、明快にそういう仕事が出来ていたのだ。これならば、独立して構える窯も期待できるなと思った。その反面、山田さんの製品はむしろこれからは期待できないなと感じた。

3点の皿は山田真萬さんの窯の製品。すべて宮城君がロクロを引いた物。
裏の皿のかたちを見ればわかるのだが、沖縄の伝統的な皿のかたちをきちんと踏襲している。
そこが非常にいい。ただ土取りが厚いため、やや重たくなりがちだが、我が家ではこれらの皿を愛用している。
山田さんの絵付けする文様はこのように単純で力強い。ただの丸紋でも魅力を感じる

宮城君のロクロ引きあってこそ

 私は山田さんと知り合うと、彼の製品を日本民藝館展に出品して、窯出しは毎度のように足を運ぶようになった。当時、やちむんの里の窯の人気が出始めていて昔から沖縄の窯を手がけていた熊本の民藝店や地元の頑張っている民藝店の女性オーナーもやって来て、いつも奪い合いになるほどだった。私はさらに山田さんの製品を東京にも持って行って、さらに評価が高まっていったため、4つの窯のうち当初は大嶺さんに集中していたのが、山田さんの方へとだんだん移行していった。
 しかし、山田さんの製品のよさは宮城君のロクロ仕事があってこそ。彼が引いた物に山田さんが絵付けをすることに魅力があったのである。彼の絵付けはとても大胆で、やや乱暴。天性の筆使いがあるのだろう。宮城君が引いた器物にその絵を載せることで融合してものすごく魅力ある物として眼に映ったのだ。
 ただし、山田さんが引いた製品がよくないというわけではなく、現在の製品を喜ぶ人がたくさんいる。だが、伝統的なかたちづくり、民藝の方々が重んじるポイント、伝統をふまえ、しかもつくりが非常にきちんとしているかどうかという視点で評すれば宮城君の方が訓練度は高いといえよう。
 つまり、宮城君が8年間頑張って引いた時期は山田さんの全盛時代だったのだろう。現在、山田さんは沖縄を代表する作家のように取り上げられているけれども、製品に関して言えば、宮城君が引いていた時期の方には活力があって、明るく、力強く、たくましい品物が出来ていた。私が山田さんの所に通っていたのはちょうどその時期だったのである。
 山田さんは鈴木繁男さんが来たことによって、赤絵の技術を取得した。鈴木さんはその際、誰もが赤絵を使えるようにという考えから、筆や残った赤絵の顔料を全部置いていった。しかし、山田さんはその気持ちとは逆に、自分の仕事に取り入れて作家活動的なものに利用したのである。
 すると一般の人は器物よりも絵付けそのものに眼がいくようになる。というわけで、だんだん、私たち民藝の立場から離れていく物をつくるようになった。そうして私と彼、それぞれがいいと思う物の差が広がっていき、とうとう今は元に戻れない距離になってしまった。
 私はあくまで民藝という立場で沖縄の焼物に接していたけれど、山田さんは沖縄の焼物に対して自分の方向を探り、しかも自分の名を広めていこうという考えだった。すなわち誰もが使えて喜ぶ製品化を目指す人と、作品化を目指す人の差なのだ。

左は宮城正享君が引いた皿、右が山田真萬さんの引いた皿。
どちらにも鈴木繁男さんに赤絵の絵付けをしてもらった。
見ても瞭然だが、筆の走りは宮城君が引いた皿の方が速い。線は伸びやかで細い線で描けている。
一方、山田さんの引いた皿は赤絵の顔料をたっぷりと染み出させ、太い線で塗りたくるように描かれている。
結果、器物の上で線が活き活きとしていないのだ。裏のかたちを見ても違いは明らか。宮城君が引いた皿はかたちに沖縄らしいコクがある

独立して悪戦苦闘

 やがて宮城君は自分の窯づくりに進んでいく。先にも述べたように、沖縄の読谷で窯をつくるということは共同窯でないと許可されなかったために、大嶺實清さんの所にいた松田共司、米司の兄弟、それから與那正守(よなはらまさもり)さんと4人で瓦を探し、木造の工房を建てた。この4人は最初の読谷焼の窯をゼロからつくり上げることに関わった経験があったため、このような仕事が出来たし、4軒の窯が公平に焼けるよう工夫できたのだ。
 かくして宮城君が窯元になってからは、当初よりいっそうと関わるようになった。はじめから宮城君の窯の方に顔を出し、アドバイスもした。ところが焼物のつくり手は独立すると、親方のやった仕事を真似ようとする傾向がある。だが宮城君の場合、親方の窯が50メートルも離れていない所にあるものだから、親方の仕事の真似は遠慮しないといけない。同じような文様の物を描けないので違った新しい文様を描かざるを得ないのだ。すると、おのずと金城次郎さんの物など古い物を参考にすることに。
 そういうわけで独立後、宮城君はずいぶん悪戦苦闘していた。まして彼は絵付けよりも器物をつくる方が得意な人だから。それでも当初、彼の仕事はわりとよかった。同じような物がずいぶんできていたし、窯の焚き方もよかった。製品として取れる量も多かったのだが、そのうち2〜3年経ってくると彼も一人では出来ないので、職人や弟子を迎えた。そういう人たちと一緒に窯で働くようになると、ずいぶん人間関係に気遣いながら仕事をしていたのだろう。心的要因が多少、仕事に影響していったのか、少しずつ仕事に対する集中力が欠けてきた。
 そもそも、やや乱暴なつくり方をするものだから、窯出しの時にそれが割れたり、歪んだりして製品にならず売れない。歩留まりが6〜7割だったのが5割、4割と減ってくると、いくら懸命につくっても出来上がりが悪くて売れなければヤケになるのだ。
 その頃、私は当時いちばん売れていなかった、仕事ぶりがいちばん悪かった松田共司君とつながりができた。共司君は素直に私の言うことを聞いたし、明るくて楽しい人柄で人付き合いもいいものだから、どうしても共司君の所に力が入ってしまう。
 もちろん宮城君の製品も気にしてはいるし、工房は隣り合わせゆえ、両方に顔を出すのだが、共司君の方がなんとなく付き合いやすかったということもあった。共司君は背水の陣というか、子供がたくさんいるし、家も無くて工房の横を自分たちの住まいにしていた。苦しい仕事をしているから助けないといけないという思いもあった。さらに共司君の奥さんの絵付けが馴れてきたので、私は金城次郎さんの見本や写真から得た知識でずいぶん注文するように。
 共司君はそれに応えて懸命に焼く工夫をした。宮城君は工夫することが嫌いなのだ。人に対しての気遣いは細やかで、生真面目で優しいのだが、つくりそのものは乱暴で粗野な部分がある。それが影響して、つくる部分が少し魅力を感じなくなった。そうすると窯の焚き方までやや変質していった。
 窯焚きがつらいのは長時間ひとつの袋(焼成室)を見ないといけないこと。そのつらさに耐えられなくなると、わかっていながら最後の方になるとやや乱暴な薪の焚き方をする。すると出来上がりがますます悪くなる。そして落ち込み、ヤケになるということの繰り返しで、彼は衰退の方向にいってしまった。
 非常に気の毒なのだが、今や北窯といえば松田兄弟が注目される。彼らの方が歩留まりはいいし、販売しやすい物を工夫してつくるためだ。宮城君は歩留まりが悪く、注文しても思ったような物が出来ないということもあって、注目が薄れていったのだ。

これは最近の北窯での宮城君の仕事。彼は雑器類が多くつくるため、作品として保存しておく物はほとんど無い。
彼はこのような、筒の中に化粧土を入れて唐草を施す「いっちん」が好き。
焼きが赤くなるくらいに強いと、いっちんの白が活き活きとしてくる

自由な職人

 ただ、宮城君もチャンスがあれば再びかつてのよい仕事が再現できるはずだ。彼には沖縄の人らしい面もあって、骨格のある仕事ぶりも体質として持っている。だから窯出しの時に時々、ハッとさせられる力強い仕事の物が見られる。しかし、焼き上がりがやや粗野で乱暴だから、どうしてもグレーがかった焼きの調子が多く、松田兄弟のような明るい調子の、俗にいう沖縄らしい仕事ぶりから少し離れてしまうのだ。 
 それでも私は我慢して窯出しに行くたびに、宮城君のいい物を引き出そうと、最良の物を取って今も付き合ってはいる。ただし、松田共司君の方が沖縄の現代的な物にかなったような物をつくる。米司君も同じような物をつくるが、絵付けに差が出てくる。やはり共司君の焼物の方が沖縄らしい力強さを感じる。ただし、つくりの本質のよさは宮城君の方が一枚上だと私は思っている。
 宮城君は人に教わってつくるのは苦手。私は全国の窯場で親しくなってくると、よく制作上のアドバイスを頼まれる。またこちらからもあえて制作指導する場合もある。宮城君のつくりはいいのだけれど、難点がいくつかあって、それがもう少し踏みこんで取り組んではどうかと二度ほどロクロ仕事の現場に行き、宮城君を前に座らせて助言したことがあった。
 ところが5分と持たないのだ。何か理由をつけては立って出て行ってしまうし、人が訪ねてくればわざと、その人とおしゃべりする。何か人に指導されて物をつくるのが苦手で、自分の道は自分でいくというタイプなのだろう。
 だからといって、こうしなければいけないという制約も無い、彼なりの生き方をしている。また、窯の状況がよくなれば、仕事もよくなるだろうし、そうすれば再び調子が上がっていくに違いない。
 私は山田さんのいちばんいい時代の物を知っていて、それらのほとんど宮城君がつくっていた。だから、なるべくその仕事に近づいた物をこれからもお願いしていこうと思うし、彼はおそらく一生付き合える人間だと思う。どんなに仲良くてもお互いに気を悪くして別れる場合もあるのだけれど、宮城君とはそういうことがいっさい無い。彼のような人は今後、沖縄ではなかなか出てこないのかなと思う。訓練度は高いけれど、沖縄らしく自由に、闊達に生きている。職人的であり、個人的であるという希有な人間だと思う。

最近の製品で、三彩点打ち7寸の大きなマカイ。彼の粗野な部分が滲み出ていて、なかなか大胆で魅力的だ

山田さんの所にいた時の文様を彼に頼んで復活してもらった。
波の文様をコバルトの呉須釉で描いて、その上を櫛で差すことで力強さが倍増している。
沖縄的な力強さを感じる仕事