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Kuno×Kunoの手仕事良品

野田利治の竹細工

野田利治の竹細工

2010年2月23日
長崎県佐世保市
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 ここ2年の間に、付き合いの長い竹細工の職人たちが仕事を次々と辞めたり、亡くなられたりしている。この連載記事の第37回で、長崎県平戸島、川渕栄治さんの竹細工を紹介した際も、あと1〜2年は仕事を続けてくれるだろうと期待していた。ところが、去年の10月に彼は入院してしまい、今後はもう仕事ができないかもしれないという。こうした状況からして、今のうちに竹細工の仕事をしている人の話をきちんと聞いておかねばと痛感したのだった。
 今まで私が紹介してきた竹細工は、山間の僻地や山中、または村のはずれなどでつくられる物が多かった。しかし、今回、紹介する野田利治(としはる)さんは長崎県佐世保という大都会の中にて、かつて生活必需品として活用されていた竹細工をつくる職人。昔、町のあちこちでよく見かけた竹細工屋さんがまだ頑張って仕事をしているのだ。

大都会の竹細工屋さん

 私が最初に佐世保を訪れたのは27〜28年前のこと。その時、佐世保市内から市外に出ようとするあたりの古い町並みの中に竹細工屋さんが3軒ほどあった。いちばん端には中村隆晴(たかはる)さんという昭和25年生まれの竹細工職人がいた。ところが都会から来た私が竹細工を扱うことに反発心があったようで、話しづらく、仕事のクオリティ自体も当時、たくさん仕入れて付き合っていた佐賀県の武雄(たけお)地方の物と遜色が無く、そちらのつくり手が元気だったため、あえて佐世保の仕事まで仕入れる必要はないだろうと放っておいた。

 そして10年ほど前、武雄で竹細工をする人がだんだん減少して、このままだと絶えてしまうのではないかという状況に。そこで、以前訪ねた佐世保の中村さんの店を思い出して寄ってみた。すると、すでに廃業していて他に移転してしまっていた。落胆し、その隣をふと覗くと、前は閉まっていた竹細工店で、おじいさんがひとりで竹細工をつくっているではないか。その人が野田利治さんだった。昭和10年(1935年)生まれで、三代目だという。製品を見ると、武雄の物に似た印象で、やや粗いつくりだった。その時はただ話に耳を傾けて、いずれまた来ますと言って帰った。

作業中の野田利治さん(写真/久野恵一)

野田さんの工房(写真/副島秀雄)

つくり手の涙

 その後、手仕事フォーラムを立ち上げて、各地を調査することになった。竹細工の危うい状況を考えれば、野田さんのような町の竹細工屋さんも大事な存在と考え、久しぶりに聞き取り調査のために再訪してみると、まだ元気に仕事されていた。私は彼がつくっている物の中で、大きな三段の箱型製品に目が留まった。釣り道具だとすぐにわかって目を見張ったのだ。
 「これは福岡県八女地方でつくられている物ですよね?」と聞くと、「あんた、よう知ってますね」と野田さん。さらに、昔からここでつくっているのか質問すると、このような物は佐世保ではつくっていないと野田さんは答えつつ制作の経緯を説明した。ある釣り客がやって来て、以前はこれを福岡県で制作してもらっていたのだが、もう出来ないと言われた。それで壊れた物を持って来て、これと同じ物をと頼まれたのだという。
 しかし、注文通りにつくって置いておき、電話を掛けても、そのうちに行くと言いながら、1年半経っても受け取りに来ないのだとか。私が想像するに、意外に高くて取りに来ないのだろうと思う。だが、これはどうみても、一日か二日でできる仕事ではない。それなりの価格にはなる物だった。ただ、陽に当たって変色していた。どうせなら青々とした物が欲しいので、もう一度つくってもらうよう私は依頼したのだった。
 価格は4万円くらいだったが、私はちょうど日本民藝館展が直前の時期だったため、これはいい物を出品できると思った。本来は八女地方の釣り道具入れカゴだけれど、伝統にとらわれず、よい物はどの地方でつくってもかまわないと解釈。佐世保の竹細工として出品したのだ。すると、思いもかけずに奨励賞を受賞した。芹沢C介が型絵染めした立派な賞状に額を付けて、私はその年の暮れに野田さんのもとへ持って行き、手渡ししてあげた。
 訪ねる前「あなたの出品物が日本民藝館展で受賞した」と連絡すると「日本民藝館展とはどげな(どんな)コンクールですか?」と聞いてきた。私が勝手に出品したため、わけがわかっていないのだ。民藝館展がどのような内容なのかも。
 だが、賞状を見せると、野田さんは涙を流して喜んだ。
「自分はこういう竹細工の仕事をしている。みんなに自慢するような仕事ではない。褒められたこともないし、褒められるような場に行ったこともない。人前にさらされることも嫌だった。しかし、こういう賞状をいただいて、『民藝』(毎回、入賞した物を紹介している)という雑誌にもこんないいことを書いていただいて、嬉しかー!」と。

 私はたまらなかった。この仕事をやっていてよかったなとうれしく思えた。そして、この人の仕事をこれからも大事にしてつなげていかなくてはと感じた。

民藝館展で奨励賞を受賞した竹細工 (写真/副島秀雄)

何でもつくり、何でも直す

 民藝館展への出品、そして受賞という、ひとつのつながりから、野田さんののもとへ通うようになって約5年になる。
 長崎や佐賀県方面に行くと必ず立ち寄って、さらに平戸や唐津まで足を伸ばしたりする、お決まりのコースとなり、頻繁に寄っているのだ。そのたびに野田さんがどんな竹細工をつくっているか見せてもらう。すると、町の竹細工屋さんの特徴なのだが、彼には何でもつくれないといけないし、何でも修理できないといけないという役割がある。かつては、例えば竹細工を市場で買ったとしても、少し壊れた場合、修理を請け負う竹細工屋さんが必ず町には一人、二人はいた。そんなわけで野田さんが修理を引き受けることは多かったし、つくった物を近在の人に買われ、細々ながら今でも仕事が続いているのだと話す。
 正直言ってそんなに上手ではないが、応用が効く人なのだ。佐世保という都会地にいるため、地域の人と結びつきが強く、地域に密着した仕事をしている。

以下、紹介するのはすべて私のアイデアで野田さんに制作してもらった物。
これは真ん中に針金を入れ、それを藤で隠し、長持ちさせるように工夫。
もともとはチリカゴだった物に素朴な足と柄、さらには、
かなり薄くはいだヒゴを用いてフタを付けた。
衣類、洗濯物を運ぶのに便利。サイズは大中小とつくれる

「マルゾウケ」と現地では呼ばれる米揚げ(水切り)用ザル。
少し粗い仕事だけれど、きちんと表面を磨いている。日常的に使いやすい製品

実用的竹細工が売れた時代

 野田さんは三代目。二代目の父親から竹細工を習ったそうだ。戦後の時は小学校4年生。その頃からとても自分が食べていける仕事はないと思い、父親の仕事を継ぐしかないと、この道に入ったのだとか。彼の父親は祖父に仕事を習ったという。祖父は佐賀県武雄市の西川登(にしかわのぼり)という所から移住してきたらしい。西川登は竹の大きな生産地だが、現在は竹細工の職人は二人しか残っていないが、祖父が暮らしていた当時はつくり手がたくさんいて、都会地へと出て行き、竹細工の仕事をする人もけっこう多かったとのこと。祖父も何人かと佐世保に出て来て、今は中心街である四ヶ町(よんかちょう)で仕事を始めた。しかし、戦争が激しくなると、佐世保は軍港のために爆撃があり、それを避けて郊外の俵町という所へ移ったそうだ。
 そこは平戸街道という旧道の方なのだが、野田さんが子供の頃は旧道をはさんで5〜6軒の竹細工店があったという。彼の家も竹細工店で職人さんが2人から多い時は4人ほど雇っていた。当時、軍需産業の物もずいぶんつくっていたし、炭坑が周辺にたくさんあるため、炭坑用の物もたくさん手がけていた。炭坑から直接買いに来るのだが、いちばん売れたのは「ホゲ」という石炭や砂利を運ぶ、粗くて丈夫なカゴだった。また、海仕事用の道具入れも制作したが、生活雑貨品はつくらなかった。実用一点張りの物ばかりだったそうだ。
 ところが、炭坑も昭和30年くらいになると廃れ、プラスチック製品が登場したことで、実用的なカゴづくりは下火になっていった。同時に父親の体も弱り、仕事をできなくなりかけていたので、自分がまだ若かったから、父親の代わりに頑張ろうとこの仕事を継いだ。
 それから約40年経過すると、野田さんは実用的な物ではなく、地域で使う一般的な農業用の製品を手がけるようになった。そのほとんどが西川登でつくられたような物を原型にしつつ、地域のニーズに応えながら細々と仕事を続けてきたんですよと野田さん。その間に5〜6軒あった店が次第に減り、とうとう自分一人だけ残った。自分が辞めたら、この仕事はおしまいだと語る。

手提げカゴ。買い物で野菜を入れるのに役立つ。車の中でも転がらない

大きな自転車カゴに載せるような配達カゴのかたちを浅くして、がっちりとつくってもらった。
茶碗カゴとして用いたり、小物を持ち運ぶ時に物に使えたらと考えた。
こういうカゴを現地では「タラシ」と呼ぶ。魚を入れて並べるための物

注文に応える

 野田さんは都会の中の情報をよくわかっている人だから、やや洗練された物をつくる。たとえば通常は針金を巻くところを藤の蔓を巻くとか、当たり前のように細工物は磨くのだ。竹細工というのは「磨き」といって、皮を一枚はぐ(へぐ)ことにより耐用性がよくなり長持ちする。それに見栄えもよくなる。そういうことをごく自然におこなうのは、都会地のつくり手ならではだと思う。
 今まで制作した経験の無い、新しい仕事の物も注文されればつくるから、私も最近はさまざまな物を制作してもらっている。たとえば九州の他の地方、佐賀県や福岡県でつくられていた竹細工を見本として持っていくと、それを取り入れてあれこれつくってくれたのだ。頑固なところもあまりなくて、とても人柄がやさしいし、九州人的な気持ちを持った人なのだ。
 彼の縁の巻き方はほとんど武雄地方と同じ。縁を竹ヒゴで巻き留めていく「巻き縁(まきぶち)」なのだ。しかし、なかには「当て縁(あてぶち)」の製品も見かける。当て縁は鹿児島県に多い編み方なのだが、彼が鹿児島県の影響を受けたとは思えない。対馬壱岐、あるいは五島列島の竹細工文化が入ってきたのではと想像する。当て縁は外側と内側に竹を当て、その間に竹を細かく裂いたものをはめこみ、蔓(つる)でくくる製法だが、野田さんはこの蔓に葛蔓(かずらづる)を当たり前のように使っていたので驚いた。聞けば、注文があった時に、自分ではよく覚えていないが、見本があったのだろうと答えた。

現地では「ゴミカゴ」と呼ばれる。本来はただの「当て縁」だった巻き方を
「千鳥縁」(返し縁や重ね縁ともとも呼ぶ、二つを×印のようにして巻いていく)にしてもらった。
この巻き方は佐賀県の伝統製法なのだ

野菜カゴ。「野菜バラ」とも呼ぶ、収穫用のカゴ。本来はもっと大きいのだが、小さくしてもらった。
これは「当て縁」で葛を使っている。この葛の巻き方が対馬や壱岐方面のカゴの巻き方と似ている。
ということは、済州島など朝鮮の巻き方に若干、似ているのではないかと思う。朝鮮の文化とも関わっているのかもしれない

佐世保に隣接する、平戸島の川渕栄治さんが編んだカゴ。
この巻き縁方法が中国江南地方の影響を受けているように思うので、
佐世保という同じ地域においても、異なる文化の交錯を感じてしまう

特徴が無いのが特徴

 野田さんは年齢的にも、制作ができるのはあと5年くらいかと思う。私がこう言うのもなんだが、このところ彼がつくる物が一皮むけたように上手になってきた。それで、残された時間に、彼にはさまざまな竹の物を発注しようと考えている。今まで九州内でよいと思った竹の仕事の物を持参し、そのまま復元してもらうのだ。これから手仕事をする人は少なくなるだろうけれど、老人会や、竹細工づくりの経験がある人たちに仕事を回していけば、この仕事を残すことにつながっていくかもしれない。
 野田さんは何でもつくれる反面、技術や製品にほとんど特徴が無い。特徴が無いというのが特徴で、俗にいう町の竹細工屋さんなのだ。
 しかし、生い立ちから、西川登の伝統をふまえているということ。海の近くの島でつくられていた竹細工も手がけられるのは、この人の強みである。こういう人を大事にして、これからも竹細工がつくり続けられるよう道を敷き、次の世代にどうやって継いでいくか、考えていくのが大事だと思う。

これも「ゴミカゴ」。本来は収穫のミカンをちぎったものを入れる「ミカンチギリカゴ」と呼ばれる物。
これも当て縁にして葛で巻いて押さえを入れている。
対馬や壱岐では蔓ではなく、桜のような枝をぐるりと巻いて、その上から葛で巻く。
これはそうしないで、葛の蔓その物で巻いている。
向こうの文化とこちら側の文化がミックスしてつくったような物。
つまり野田さんは見よう見まねでつくれるということ