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Kuno×Kunoの手仕事良品

出西(しゅっさい)窯 前編「陰山善市(かげやまぜんいち)さんの丸紋土瓶」

出西(しゅっさい)窯 前編「陰山善市(かげやまぜんいち)さんの丸紋土瓶」

2010年3月30日
島根県斐川町
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 私はこの仕事に入って以来、出西窯からの恩恵をずいぶん受けてきた。同時に私もこの窯に対して製品意匠のアイデアをたくさん提供し、製品へのアドバイスもおこなった。15年ほど前までは、年に数回は窯出しのたびに招かれ、私を囲んでの勉強会も開いてくれていた。出西窯に大きな力を与えてくれることになる鈴木繁男さんをこの窯へとお連れしたのも私だった。

 私はとりわけ創立者のひとり、多々納弘光(ただのひろみつ)さんと深い信頼関係があったが、ある時からしばらく互いに離ればなれとなっていた。 
 こうした深いつながりがあるため、出西窯について語ろうとすると、前編、中編、後編にわたるほどの内容となる。ひとまず、かつて窯を代表する製品のひとつであった丸紋土瓶とそのつくり手、陰山善市さんについて紹介しようと思う。
 出西窯やその地域の人たちが「善ちゃん」と親しみをこめて呼ぶ、陰山善市さんは昭和16年生まれの陶工。現在69歳だから、本来ならば引退している年齢なのだが、嘱託として窯の仕事をしつつ、丸紋土瓶を制作している。

出西窯の外観(撮影/副島秀雄)

出西窯の作業風景(撮影/副島秀雄)

久野恵一と話す陰山善市さん(撮影/副島秀雄)

民藝の先達がサポート

 出西窯は昭和22年、島根県出雲平野、斐川町の農家の三男である多々納弘光さんの工藝運動的な提唱によって興った。当初から彼と同世代の5人が集まり、共同体的な窯としてスタートしたのだ。彼らは終戦後、生活の糧を求め、新作民藝を手がけることに光を見出し、集団で仕事しながら、労働に見合ったお金を得て、手仕事で生きていこうとした。崇高で美しい理念を持つ集まりだった。
 そして柳宗悦をはじめ、河井寛次郎、浜田庄司、バーナードリーチといった優れた先達の方々の支援により、この窯は育てられてきた。途中から陰山善市さん、本多考市さんの訓練度が非常に高い二人が加わった。両人は河井寛次郎に招かれて京都で訓練を受けた後、出西窯に戻り、窯の一工人として働く。創立メンバーの5人と合わせて7人体制となることで、飛躍的に窯の生産量は増えていった。現世代は多々納弘光さんの長男で40代の多々納真(しん)君が理事長となり、窯を運営しているが、それまではこの7人で経営されていた。
 出西窯では、さまざまな新作が生まれてきたが、そのアイデアを出したのが、バーナードリーチ、河井寛次郎、浜田庄司であり、その後、外村吉之助、吉田璋也が助言した。さらには松江の工藝意匠家であり茶人の金津滋(しげる)がサポート。近年では鈴木繁男や私がかなり関与したのである。

 そうした流れの中で、本多考市さんという皿、鉢づくりが非常に上手なつくり手が育っていく。また、袋物という焼物の中では難しい仕事、土瓶、急須、ポット、ピッチャー、花瓶の他、大皿を上手につくれる、ロクロの達人、陰山善市さんが頭角を現し、制作上の中心となっていく。

出西窯の特徴的な製品である深皿

胎土の上に黒釉を全体に掛けて化粧掛けしている。
すると鉄と白とが相反してコントラストが出て、白がきれいに見える。
さらに鉄を巻いた縁(口紅と言う)がアクセントに。私のお気に入りの皿

引き刷毛目鉢、あるいは波刷毛目鉢。
鳥取の民藝運動家、吉田璋也が九州古唐津の焼物からヒントを得て注文した物。
これは後に民藝賞を受賞。しばらくの間、出西窯の代表的製品となった。
蔭山さんが得意とする皿である

陰山さんオリジナルの製品。丸紋を皿に置き換えた物

丸紋土瓶との出合い

 陰山さんはいかにも出雲人らしい素朴な人柄。奇をてらったことが嫌いで、生真面目で、仕事に実直な人。どんなに腕がよくても自己を主張することなく、40数年間、この仕事を続けている。彼がつくる丸紋土瓶は出西窯を代表する物。今でこそ、この窯は現代的で都会向きなコバルト釉を用いたり、きわめて機能的でシンプルな製品が多いのだが、かつては野の花のごとく野趣あふれる焼物を焼いていた。特に、この丸紋土瓶は農民たちがほうじ茶や番茶を入れて、畑や田んぼでの昼休みにお茶を酌み交わすのに使われるのに、もってこいと思うほどの素朴でたくましい器。そんな生活感が滲み出た、地域に根付く焼物だ。
 蔭山さんは非常に勉強熱心な人だった。作家を目指すわけではなく、工人としてよい仕事をしようと目指した。彼は若い頃、鹿児島の苗代川焼の田中政幸(まさゆき)という黒い物をつくる名人のところで、素朴で野趣のある朝鮮伝来の焼物制作を教わった。また、彼は沖縄、壷屋の金城次郎のもとでもしばらくご厄介となり、制作工程を見てきた。その時に出合ったのが丸紋だった。
 丸紋とは球体に釉薬が円形に付着することで生まれる模様。釉薬を掛ける時に土瓶を持って、その側面をバケツや甕(かめ)に溜めた泥水状の釉薬に漬けると、円形がそのまま残る。非常に単純な釉薬の掛け方だ。その技法は沖縄から始まったが、とりわけ金城次郎の丸紋に蔭山さんは惹かれたようだ。

 ちなみに浜田庄司は丸紋を「窓絵」と言い、釉薬を抜いた所に赤絵を施して焼いた。これは沖縄・壷屋の伝統から引き出した技法なのだ。

沖縄・読谷、北窯の松田共司が最近制作した丸紋土瓶。
出西窯の製品を真似たのではなくて、沖縄の伝統的な丸紋土瓶。
本来はこのように緑釉を掛けることはあまり無いのだが、白掛けした土の上に緑釉を掛けてもらった

沖縄、照屋佳信制作の丸紋土瓶

独自のスタイル

 陰山さんは出西窯に戻り、黒い釉薬を丸紋にして焼物を制作した。おもしろいのは赤土部(あかどべ)という丹波で江戸時代末期によく用いられた施釉の仕方を取り入れている点だ。そこでの胎土(たいど)(陶土)は性質上、釉薬を掛けると、重さで胎土がつぶれてしまう。とはいえ、防水処理の必要性から釉薬的な物を掛けなくてはいけない。そこで胎土と同じような、鉄分を混ぜた泥水状の液体をずぶ掛けする。この釉薬的な液体を掛けて焼くと、釉薬に含まれる長石分が無いために、ほとんど焼き飛んでしまう。だが、若干残った成分が胎土の鉄分と融合して赤みを帯びさせたり、灰が残ったりする。そうして、とても風情ある焼物となるのだ。
 しかし、この釉薬的な化粧掛けでは出来上がりが鉄分を含む黒、赤、茶の色になるため食器には向かない。ところが袋物に掛けて焼くと非常に味が出る。蔭山さんは、そこにさらに丸紋という黒い釉薬を掛けることによってひとつのスタイルをつくったのである。もっとも、丸紋ではなくとも、釉薬の流しや打ち掛けでは丹波、信楽でも見られる。
 30年ほど前、この土瓶は本来5〜6合入りという、とても大きなサイズだった。湯呑み茶碗で8杯注げるくらいの容量があった。一般家庭でも、それくらいの大きな土瓶が使われていたのだ。ずいぶん人気があり、出西窯といえば、丸紋土瓶と言われるほどだった。
 この丸紋土瓶の原型は沖縄なのだが、そこからヒントを得てつくった物がいつの間にか定着して、むしろ出西窯の丸紋土瓶の方が広く知られるようになった。
 沖縄と違って白、コバルト、黒、飴と限られた釉薬を使用しつつ、見栄えする出西窯の丸紋土瓶は窯を代表する焼物となり、あたかも100〜200年前から手がけてきたかのようなスタンダード製品に。そのスタイルを確立させたという意味での蔭山さんの功績は大きい。

蔭山さんのような職人的な立場の人は時代ごとに、同じような物をつくっていても意図的ではなく、
かたちが変わっていくことがある。左から2番目の土瓶は黒釉ではなく鉄釉をポッと掛けたシンプルな土瓶。
焼きが強くて素朴な風情がなかなかよい。注ぎ口のかたちに着目して欲しい。
現在のかたち(右側の2点)と違うのが見てとれる。だんだんと、そのかたちが変化してきている 。
つくり手の馴れや考え方がかたちの変化に現れるのだ。左端の丸紋土瓶は約15年前につくられた古いタイプ。
やや縦型のかたちは意識したわけではなく、つくっていく過程でたまたま縦型になったのだろう。
右から2番目の小さい丸紋土瓶は現代の暮らしにフィットするよう私が提案して制作してもらった。右端は中くらいのサイズ。
それぞれ土瓶の腰から上がっていく全体のフォルム、注ぎ口のかたちが異なる。また、フタのカーブ(アール)も変化している。
訓練度の高い、どんなつくり手であっても、本人は同じ物を制作しているようでも、
つくり馴れていくと、実は時代により、かたちが変化していく。

袋物の技術継承

 蔭山さんはものづくりが上手なため、いろいろな物に挑戦。丸紋土瓶のみならず白のみの土瓶も制作。出西窯で袋物をつくる技術を備えるのは彼しかいなかったため近年はポットや小さな急須もつくるようになった。さらに皿など注文を受ければ、こなせるだけの力がある。
 出西窯が20年ほど前から二世の世代に変わっていくと、必然的に現代の暮らしに見合う物を考えるように。すると、さまざまなデザイン的な物を多方面から吸収したり、参考にしてつくるようになる。コバルト釉を掛けた物が重宝され、今の陶芸の世界で注目されたりもした。そうして、つくっていく物の質が少しずつ変化しつつあるのだ。
 近年の出西窯は現代的に見合う物を無理して制作する傾向の中で、ベテラン陶工の蔭山さん一人が残って、昔ながらの出西窯らしい物をいまだにつくり続けている。数年すれば、彼も仕事ができなくなるだろうが、袋物は非常に技術が要るし、馴れないとなかなか出来るものではない。
 出西窯で袋物が出来なくなれば、大小のポットやピッチャー類の定番製品から消え、状況が苦しくなることに。さいわいにも、その技術を今のうちに蔭山さんから学び、活かして、彼の袋物に近づける方向が見えてきているので、心配は無いかなと思っている。
 集団で名を馳せた出西窯のような窯元でも、つくり手の中に、さまざまな考え方、さまざまな訓練度がある。蔭山さんは出西窯を飛び越えて日本のいわゆる伝統的な民窯の中の一人の優れた職人として名を残してあげたい。

 出西窯という集団の窯ゆえ、本来、個人の名前はあまり前に出さないのだが、彼の仕事ぶりを後世に残していきたいと考え、例外的に個人名を挙げたのだ。

販売好評な現代製品のポット。しかし、注ぎ口の袋部分が上がりすぎていて、私は好まないかたち。
これでは注ぐ際に中の液体が垂れてしまう。フタの深さも浅くて、持ち方によっては注ぎ途中にフタがはずれる恐れもある

黒釉だけシンプルに掛けた土瓶

モダンなティーポット

職人が考えすぎてつくると、こうなるという例。縁の黄色い部分のみ化粧掛け(白掛け)、他は全部、飴釉を掛けてある。
縁のまわりに白掛けすると、縁に掛かった白と胎土の白との間にどうしても隙間ができて剥離しやすい。
だから逆に全部、白掛けして、ここだけ飴で抜いた方がよかった。
蔭山さんは飴のきれいさを出したいと願い、こうしたのだろうが・・・