手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

ホーム>連載・手仕事レポート>Kuno×Kunoの手仕事良品>生田和孝さんの焼きもの

Kuno×Kunoの手仕事良品

生田和孝さんの焼きもの

生田和孝さんの焼きもの

2010年4月30日
兵庫県篠山市今田町釜屋
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

河井寛次郎の住まい

 つい数日前、2回にわたって京都の河井寛次郎記念館を訪ね、河井の居宅と仕事場を改めて見てみた。とくに今は手仕事フォーラムとしての家づくりに関わっていることもあり、建物のディテールを興味深く観察したのだった。
 建物の各所に河井の哲学を感じさせられ、物の見方、工夫が盛り込まれ、河井のアイデアを手がける大工との協力関係もよく理解できた。安い材料を用いながら非常に優れた建物、しかもそこには茶道や美術工芸に対するアンチテーゼを見出せる。空間構成の取り方に私は非常に感動したのだった。
 一方、東京駒場で再生し、一般公開されている柳宗悦邸は、建物には柳の考え方が取り入れられていると関わる建築家は言うけれども、私自身は疑問を抱いている。日本民藝館の方に柳は全精力を注ぎ尽くし、自身の住居に関しては妥協し、彼の思想的なものが結実されていないことが一目瞭然なのだ。関東大震災以降に建てられた高級住宅の延長線上の建物である。柳にして、どうしてこんなに安易な建物を建てたのか、ずっと疑問を感じていた。そして、そんな建物を修復することにも反対だった。むしろ取り壊した方が柳のためになるのではないかと思うほどだった。
 しかし、一般の人たちと民藝関係者の多くは柳宗悦という名前と、登録文化財ということだけでよい建物だという先入観で見ている。
 また、益子の浜田庄司の住居は豪壮な農家を移築して、彼らしい住まいのあり方だけど、細部にわたってはあまり見るべき所は無い。しかし、それは当時の農家のあり方ということでよかったと思う。
 ところが河井寛次郎の建物はとても制限された町家の地域で豊かな暮らしと自身の芸術活動を開花させている。スペースに自分の考えを貫徹させ、細部にわたって気配り、目配りがあり、同時に河井を信頼し、信奉する大工をはじめとする職人が関わりながら、限られた資金で素晴らしい建物をつくった。これはもう大変なことだと思う。
 そういう意味では河井はものすごく優れた造形家であり、哲学者であり、建築家だった。僕らはそれまで大きな環境的なものを含めて、富本憲吉さんのアーキテクチャーとしての優れた眼を尊敬していたけれど、河井はもっと身近な住まいを例に、どのような住空間にすべきなのかを深く考えていたのだと感銘を受けた。

3年ほど前、鳥取民藝館で
生田和孝遺作展を 催した際、
複写した生田さんの顔写真

ものづくりの道筋を教えてくれた人

 そんな感銘を受けた後で、河井のそういった熱や想いを誰が受け継いでいるのか考えてみた。だが、現在は皆無だといっても過言ではない。かつては、河井がどういう人であるか、あるいは、彼のものづくりへの熱意を伝える人がいた。河井の弟子であった故・生田和孝(いくたかずたか)さんである。
 私が約40年にわたって民藝の中で生きてきた中で、鈴木繁男、池田三四郎と出会い、非常に大きな力を与えていただいたのだが、違う観点で、ものづくりの心がけや職人道、あるいは陶工としての道筋を私にきちんと教えてくれた方が何人かいる。その最初の人物が生田さんだった。また、彼と同い年の出西窯、多々納弘光(ただのひろみつ)さん、この二人が私に民藝の世界におけるつくり手の方向、生き方、哲学を体得させてくれたのだ。
 生田さんと接していくうちに、私は一人の陶工を立派なつくり手と同時に、社会に通用する人として育て上げた師匠、河井の存在を背景に感じた。河井寛次郎記念館を訪ねて余計にそのことを身近に感じたことで、生田さんのことを思い出したので、今日は彼についてお話したいと思う。

日本陶芸展示での出合い

 昭和2年生まれの生田さんが亡くなられたのは10年以上前のこと。彼と知り合ったのは毎日新聞社主催の第2回日本陶芸展がきっかけだった。その時に入選していた生田さんの出品作、しのぎの鉢に魅せられた。この回の大賞は小鹿田焼の坂本茂木(しげき)さんだった。当時の日本陶芸展あるいは日本民藝館展に出品してくる品物は現在よりも数段レベルが高かった。しかも数物の製品の中に人の心に訴える物がたくさん見受けられたのだ。
 この展示で生田さんのことを知った私は、窯のある丹波に足を運んでみたいと思った。というわけで、この仕事に入って2年目の時、車を運転して丹波篠山(ささやま)を目指したのである。窯は立杭(たちくい)という地域にあるということで、この里を目指した。ところがその地域には窯がたくさん集まっていて、どこに入ればいいのかわからない。だが、たまたま私がよく足を運んでいる小石原焼で、職人としていい腕の若いつくり手が丹波立杭の窯に職人として入っているという話を耳にしていた。それで、その職人の名を聞き、訪ねることにした。

日本陶芸展の図録と記事。
優秀作品賞・文部大臣賞を受賞した生田さんの糠釉鎬手大鉢(ぬかぐすりしのぎでおおばち)大皿が掲載されている

日本陶芸展で受賞した皿と同じような、しのぎの大皿。
何かの理由で生田さんと喧嘩した後、仲直りしたいと呼ばれてもらった物

 丹波の窯へ

 その職人、梶原政次(まさつぐ)君は市野信水(しんすい)さんの窯にいるということで、メモを片手にその窯場を探したら、立杭の窯元が軒を並べる入口付近に位置していた。窯にいきなり入り「梶原君はいますか?」と尋ねると「おう、オレやー」と逞しい雰囲気の男が出てきて「なんやー」と話しかけてきた。「実は小石原の知り合いに紹介されて来た。君を訪ねれば一宿一飯の恩義に授かれるという話だったので、今日泊めてもらえないか」と唐突に切り出すと「おう、いいぞ。一緒に酒を飲もうじゃないか」と梶原君。
 「しかし、ここは君が関わるような窯ではないぞ」とも言う。古丹波を再興しようと芸術活動している作家の窯。丹波の昔の焼き締めの仕事を目指している人だから作品は一点物でとても高価だと。
 「では、君はこの窯に何をしているのか?」と尋ねると「この窯でも雑器をつくらないといけない。自分は急須、湯呑み、飯碗を挽いている」と答えた。 
 ならば、私はどの窯に行けばいいのかと聞くと、昼休みに軽トラで連れて行ってあげると。その行き先が思いもかけず生田和孝さんの窯だった。梶原君が丹波に来て、あちこちの窯を動いて出会えたおもしろい人の中に生田さんがいて、生田さんも梶原君を非常に気に入られた。出会ってすぐに飲んで行け、遊んで行けと言われてすっかり親しくなったのだとか。

これが俗に言う、面取りの糠釉(ぬかぐすり)。
刃物で上からスパっと切る、そのてらいの無い切れ味に面取りのよさがあるのだが、
生田さんの他、そこまでうまく面取りできるつくり手はいない。
糠は米の籾殻を擦って焼いた灰釉。
非常に強い釉薬で、かなりの高温でないと溶けない。
酸化炎でも還元炎で焼いても釉薬の変化が多いが、
酸化炎でも還元炎でもない中性炎という焼き方だとちょうどいい具合に。
丹波の蛇窯は火炎放射器のような窯。火口からそのまま火がシュッといっぺんに抜ける。
還元をかけても酸化炎になるし、酸化しようと空気を送り込んでも空気が遮断される。
この中性炎という焼き方の難しさは釉薬の色が出ないこと。
逆によいのはこういう強い釉薬を掛けると一定のきれいな上がりになる。
ちなみにこのカップ&ソーサーは清水俊彦さんが
弟子時代に生田さんの窯でつくった物だろう

生田さんと初対面

 生田さんの窯は立杭から少し離れた釜屋(かまや)という地域に位置。かつて丹波の古作がずいぶんつくられた地域で、その窯跡周辺にできた窯だった。
 かなり勾配のきつい傾斜地には登り窯が5袋あった。九州の山型の登り窯ではなく、泥の半筒状の窯が上に迫っていく形状だった。これは直炎式で焚く窯で「蛇窯」と呼ぶのだという。蛇のように細長く上に這っていて、これが日本の窯の原型みたいな物と言われた。
 そんな話を聞いている時に生田さんが出て来られ、開口一番「おい、なんだそこの若いのは?」と。「おい、上がって一杯飲め」と誘われるまま、居間にお邪魔して酒を飲んでいたら梶原君は仕事があるからと自分の窯に戻って行った。
 「お前は何しに来たんやー?」と露骨な関西弁で話かけてきた生田さん。私が民藝店を開こうとしていると自己紹介すると「何やー問屋か?」と生田さん。「問屋ではなく、小売店です」と答えると、「同じようなもんやないかー。若いくせに金儲けして、ごつういい家をつくったろーという程度の低い奴じゃないのか? そんな奴は帰った方がええぞぉ」とぶしつけな言葉を浴びせる。
 私はムッとして、このおっさん、失礼だなと思いつつ「いや、私はそんな人間ではなく、最近は民藝館に出入りして、こういう活動をしている」と説明。
 「何もわかっとらん若造のくせに生意気なことを言うな」と生田さん。
 しかし、おもしろい人でとにかく酒を飲めと勧めてきたが、当時の私はあまり酒に強くなかった。「だらしないやっちゃなー。酒も飲めんで偉そうなことをぬかすな」と嘆かれた。
 そうこう話しているうちに3時のおやつの時間になり、若い4人の弟子たちが居間に入って来た。その中に都会的な顔をした好青年がいた。それが神奈川出身で、今ではやり手のナンバーワンになっている柴田雅章(まさあき)だった。年も同じくらいだったため、「お前ら仲良くなれ」と生田さんは言った。
 そのうち彼はこう問いかけてきた「俺の物はどないやー?」と。「いいですね」と私。しかし「何がいいのか言ってみろ」と言われて答えられないので、「なんだ、わかってねえのに生意気なことを言うな。お前も売りたいから、そんなことを言っているだけだろう」と生田さん。
 会話のやりとりの末、非常に生田さんとは親しくなれた。その日の夜には、梶原君が迎えに来てくれて、日本民藝協団系の窯元へ。そこでも酒を飲んだ。

手前は私が一番最初に生田さんを意識することになる飴釉の面取り。
これは河井寛次郎窯で生田さんが挽いた物で私の宝物のひとつ。
信楽の陶土を使い、厚みをもって挽いているからこのような風情が出る。
後ろの黒釉の面取りは丹波の窯にて内側に白掛けして中性炎で焼いた物。
やはりこれも生田さん自身が手がけた。両者のかたち、雰囲気の違いを見比べて欲しい

どうしても欲しい

 生田さんをはじめ、窯元の人たちと懇意になれて、私は丹波に行くのが楽しみになった。それで何回か通ううちに、当時、北鎌倉の「もやい工藝」もきちんとせざるを得ず、仕入れをしっかりしなくていけなくなった。
 当時、親しかったのは神楽窯(かぐらがま)の奥田康博さん(奥田さんこそ、この丹波立杭焼の近代化、つまり民藝的窯に育てた、卓越した仕事師)、それから小石原焼の太田熊雄さん。その時は小鹿田焼をまだなかなか仕入れられなかったので、福岡の民藝愛好家、福田豊水(とよみず)さんから分けてもらった。
 他にも大日窯、出西窯、湯町窯、温泉津・森山雅夫窯の製品を扱い、充実した店を目指していた。また、生田さんの焼きものは何か魅力があり、どうしても欲しかった。それで生田さんの所へ通い始めて4度目の時、いよいよ店のためにも仕入れさせてくださいと電話で頼んだ。
 「俺は窯をつくるのに銭が無くて困って、いろんな人たちがお金を出してくれたり、貸してくれたりしたから、しばらく返さんといかん。昔から付き合っている店も多くて、とても新しい店には物を出せん。自分は商売人や問屋は嫌いで、できるだけ自分の物を愛してくれる人にしか出したくないんや。勘弁してくれ」と生田さん。それまで私は仕入れを断られたことが無かったので驚き、諦められずにいると、「しつこいやっちゃな。よし、じゃあ窯出しの日に遊びに来いや」と生田さん。
 それで私は窯出しの日に訪ねた。昼頃に着くと、ちょうど作業の真最中だった。「おいっ、もうすぐ飯だから、一緒に食おうじゃないか」と生田さん。食卓に置かれた生田さんの食器は分厚く、糠釉(ぬかぐすり)の白い物、黒釉、飴釉の物に目が引かれ、私はますます欲しくなってしまった。
 「どうしても欲しい」と言うと「アホか、なんでお前なんかに物を出すか」といじめる。私が社会のことなど理想論を話すと、「そんなことを言ったって、どうせ物を売るだけだろう」と言いながら酒を飲む。そのうちに窯出しを目指して生田さんのファンが神戸あたりから訪ねて来た。

 「ごっつう来たなー。みんな上がって来い、一緒に飲もうや」と宴会に。一方では若い弟子たちが窯出し作業をしている。私はそちらの方が気になって仕方がない。ああ、そこにいい物があると・・・。その時、電話が鳴った。

号泣

「おい、ちょっと電話を取ってくれや、うるさくてかなわんぞ」と生田さん。私が電話を取ると相手は毎日新聞社だった。「このたびはおめでとうございます」と言う。「はあ?」と答えると、「生田さんですよね?」「いえ、生田の代理です」と私。「このたび日本陶芸展で文部大臣賞をご受賞されまして、まずご報告します。ご出品していただいたあなたの作品が非常に素晴らしかった」と丁寧に言われた。
 生田さんに伝えると「おい、それは嘘やろ? おい、もう一度電話して聞け!」と怒鳴る生田さん。104で番号を調べて電話すると、同じ内容を先方は説明。すると、電話の脇で生田さんが「おい、本当に俺が受賞したのか?」と驚く。電話を替わりましょうか?と言うと、「替わらんでいいわー」と生田さん。
 そして私が電話を切ったとたんに、うおーっと泣いた。

「ごっつう嬉しいわー。俺は九州に勝った、小鹿田のくそったれに勝ったぞ」と言う。そしてその場にいた太ったファンのおばさんに抱きつき、うおーっ、うおーっと泣く。「久野、ここに来い。こんなに嬉しいことは一生にひとつかふたつしか無い。出品する時には最上品が無くて、汚れのある物をくそったれーこれしか無いから出したれーと出品したんや。すると俺のことが好きな、富山県の民藝館の館長、安川慶一が今度は俺の製品を賞に入れてあげるからなと言っていたが、くそったれにそんな力があるわけない。小鹿田の方がいいに決まっている。この前、受賞した坂本茂木は日本でいちばんのつくり手だ。俺みたいなくそったれが賞を取れるわけねえ」と異常な感じで歓喜していた。

私の大好きな皿。菊皿とも呼ぶが、菊の文様をしのぎで施している。
しのぎはかなり強いハガネを手が痛くなるくらい曲げて、その曲げた力で一本一本の筋を通していく。
引いていく時にどうしても引き口と引き終わりの所が窪みができるが、窪みが嫌だからと一度削り取ってしまう。
その生田さんの技術をつぶさに観察していた私は後に、湯町窯でのしのぎの指導に役立てた。
これは生田さんの窯の製品だが、生田さんが自分でつくった物ではないと思う。
だけどとても気持ちのいい物で、ケーキ皿でも何でも使える。
丹波の陶土は鉄分が強いため重く、使いずらいと言う人もいるけれど、私はあまりそう感じない。
柄の調子が2枚で違う点にも注目。酸化が強いとやや黄ばんだ感じに焼き上がる

小鹿田に勝つ

 私にはその時、九州に勝つということ、小鹿田に勝つということの意味がわからなかった。理由を聞くと「くそったれ、なんでわからないんや。九州のあいつらは毎日同じ物を繰り返しつくっているやろ。こんな小さい、けちくさい物から、あんなどでかい物までつくって1ヶ月の間に何千、何万とつくっちまう。何も考えないボケナスの奴らがぼんぼんつくって、それがみんないいんだ。あんないい物に、俺みたいにちっぽけな、こんな所で個人で仕事している奴が勝てるわけあらへんわー。
 しのぎという手法は皿に一本一本ハガネできゅーっと引いていく。それが何十、何百あるかわからへんわ。何回も引いて釉薬を掛ける割の悪い窯はみんなやめちまった。くそったれ二度とやるかと思いながらも、やっぱり俺はこの仕事をしないとさまにならないんだ。
 だけどな、これは個人の仕事やけど、しかし繰り返し、繰り返し手を動かしていくうちに、しのいだ面が何も無い状態になる。それがたまたま小鹿田の奴らと同じよう自然な物になってしまったんだ。そういったところが認められたんだしたら、こんなにごっつい嬉しいことは無いわー」とまた泣き出した。

使い込んだ味が出ている気持ちのいい皿。これは生田さんが挽いたらしい

品物を選び、もらう

 これだけ大騒ぎして歓喜していたのに、夕方になるとコロっと変わって「おい、お前、何しに来たんや? 窯に来て物を見てないじゃないか」と今度は怒り始める生田さん。
「だって大将(生田さん)、僕なんかに物を見せなかったじゃないですか?」
「くそったれー、物が好きな奴だったら、そう言われても飛び込んで行って見るのが当たり前やろ。そんなことでいい民藝店ができるわけあらへんわ。若造が生意気なことを言っていても、結局物には興味が無いんだろう?」(生田さん)
「とんでもないです。欲しいです」(私)
「じゃあ、俺のを選んでみい。何でもいいから持って行けー」(生田さん)

 それで、私なりに品物を選んだ。まず面取りの湯呑みが欲しくてたまらなかったので、面取りの湯呑みを。さらに飯碗、皿と選んでいったら、夕暮れ時になり、あたりは暗くなってしまった。
 「なんや、お前が選んだのはこれか? 偉そうなことを言っても店に置いたら売れそうな物しか選んでないやろ。くそったれが! 所詮お前はつまらん商売人だ。そんな問屋みたいな奴には出さん」と生田さん。するとまわりのおばさんが「先生そこまで若い人が言っているんだから仕入れさせてあげて」と。
「こんな若造から金なんか取れるか、みんな持ってけー」と生田さん。
「もらっていいですか?」(私)
「もらったんじゃない、持ってけー、くそったれ、泥棒持ってけー」(生田さん)
「おおおっ」と私は興奮し、両手に欲しい製品を抱えた。
「おっ、こいつは本当に持っていくのか。ええ根性してるわ」と生田さんは言い、また泣き出しながら私を非難してきた。
 お前みたいな奴は、俺の師匠の河井寛次郎のことを知らないだろう? 河井先生ならこう思っただろうと、先生の考えをとくとくと述べる。物は売らんと食えないけれど、どうやって売るかとは、ただ物を売っている者には汗水たらして仕事している者のことをわかるわけがないと言う。

 生田さんの話を聞きながらこんな人を育てた河井はどういう人なのだろう?と考えた。受賞が決まった夜、丹波篠山で二次会、三次会と飲み歩いた。だが、その場でにおいても生田さんは私を攻撃するのだ。いちばんのお祝いの夜なのに・・・。当時いちばん仲良くなっていた柴田に理由を聞くと、「いやあ、久野のことをすごく心配しているし、大切に思っていきたいということではないのかな。何か未来を語りかけているんじゃねえの?」と推察してくれた。

生田さんはこういう面取りが得意だった

若い弟子たち

 それで柴田とは一気に友人となった。また生田さんの他の弟子、よっちゃん、けんちゃんは両人とも親しく話した。この二人は鳥取県倉吉の出身で、いろいろな事情があって生田さんの窯に入った。実は生田さんも倉吉の隣、北栄町の出身で、親戚関係から頼まれて、この若い二人を今まで雇ってきたのだとか。けんちゃんこと河本賢治は鳥取の陶工として現在は立派に育っている。
 そして彼らの他にいたのが清水俊彦さん。当時から私たちの年上だったから黙々と仕事をする地元の人だった。清水さんの父は生田さんが丹波に来た時に土づくりで雇った職人だった。ところが酒の飲み過ぎか、脳梗塞で若くして急死。雑用をする人が誰もいなくなったため、中学出の息子の俊彦さんが食べられなくて困っているからと、父親の代わりに土づくりをさせようと窯に入れたのだそうだ。その頃、若い弟子をとりはじめた生田さんは非常に心の優しい人だったから、他の若者が弟子として窯に入っているのに、俊彦さんが土づくりだけというわけにはいかないので、「お前も仕事をせんかい?」と俊彦さんを職人としてではなく、弟子として雇ったのだという。その当時、いちばん雑器類をつくっていたのは清水俊彦さんで、仕事も早かったし、上手だった。

これも面取りで李朝の壷のかたちをうまく利用している

河井の影響と人間像

 生田さんは河井寛次郎の影響を強く受けた人であり、特攻隊の生き残りだった。そういう意味で戦時中を引きずりながら生きてきた、あの時代では典型的な人だった。死ぬつもりだったが、死ねなかった人間が河井と知り合った。そんな男が河井の得意な哲学と持って生まれた天分がマッチしたのだろう。河井的な思想、ものの考え方が彼自身の中に投影されていく。
 生田さんの倉吉の実家は浄土真宗のお寺だったため、浄土真宗の他力的なものの考え方が幼い時から備わっていた。また、奥さんが骨董屋の娘で物を見る才に長けていた。こういうことが生田さんの人生観に作用してしまったのだ。 
 だが彼はまた非常に心根の優しい人であり、気が小さいために酒に逃げたのかもしれない。それが彼の体をだんだんと蝕んでいった。私が出会い、日本陶芸展で受賞したのは、ちょうどその頃だったのだ。
 生田さんと知り合い、惚れた私は九州に車で向かう時は必ず生田さんの居宅を訪ね、泊まっていた。その繰り返しで、会うたびに深夜まで延々と話をした。
 話の中では河井先生がいかに自分に影響を与えたかと、常に河井の話題に及んだ。それで生田和孝を通して河井寛次郎の人間像が私なりにわかってきたのだった。河井と柳宗悦との間に確執が明確にあったことも知った。また、河井と浜田庄司との関わりも生田さんとの会話から見えてきた。
 決して柳、河井、浜田が一致団結したかたちで民藝運動をしていたことではないと私は感覚的に理解できたのだ。民衆的工藝とはこの3人がつくった言葉だが、それぞれの生き方の問題があり、着かず離れずの境遇とそれぞれの認識の違いもあったようだ。互いに批判をしたいけれど、批判はできない。しかしながら仲間としていなければならない立場。そういう宿命に生きる3人の有様をつぶさに感じたのだ。河井が断片的に柳や浜田に対して断片的に言ったことを生田さんから聞くと、余計に河井という人の凄さ、恐ろしさを感じた。 
 私自身はそれからしばらくして鈴木繁男の影響を強く受けたため、どうしても浜田と柳に焦点が当たり、そちらの方が身近に感じていたのだが、その時は河井寛次郎に傾倒していたし、出西窯に行くと多々納弘光さんが河井の恩恵を述べたし、河井の非常に強い影響力が西日本の各つくり手の中に浸透していたのだと思っていた。そういう精神的な支柱になった存在だった。
 河井の影響を受けながら仕事と向き合っていた生田さんは民藝という範囲で生きていく宿命を抱えていた。作品づくりではなく、製品づくりに取り組むこと。これは生田さんが常々言っていたのだが、人が使って喜ぶ物が大事であると。しかし、その喜ぶ物も自分の意思を通さないといけないのだと。
 そのため、しのぎ、面取り、うり、胴紐など朝鮮半島の李朝様式の技法を現代的な日本の中で活かしていこうと考えていたようだ。

これは砧(きぬた)のかたちを利用した、しのぎの瓶。
砧のように叩いてかたちを変形させる。しのぎは生田さんのお家芸。

李朝様式をモダンに活かす

 生田さんがいちばん愛していた物は居間にあった巨大な李朝の箪笥。ケヤキの木目がきれいで、金具のバランスのよい立派な箪笥で、非常に自慢していた。富山県八尾の吉田桂介さんから買った物だった。40年くらい前、吉田さんは韓国を回り、最高の物を100〜200点近く持ち帰り、富山の民藝館で販売したことがあった。その時に日本中の民藝ファンがこぞって富山まで行って、みんなで買い求めたのだ。生田さんが選んだのは李朝の巨大な箪笥で、俗に「半開(ばんたち)」と呼ばれる。
 生田さんはこの箪笥が自慢で「どうやー、俺の横に置いておくとオレの仕事を見張っているようなもんやー。常にこれを見ることによって自分の仕事が進むんやー」と言う。おそらく河井も同じようなことを口にしていたのだろう。  
 河井と生田さんのつながりを想像しながら10数年つきあってきたある時、生田さんはいきなり電話してきた。彼は酔っぱらうと時々、夜中だろうが電話してくるのだ。
 「おい、うちの女房がまた入院しちまった。だから、お前が女中ならぬ男中奉公に来い」と。
「いや私には店があります」(私)
「くそったれが、そんな店はどうでもいいじゃないか。どうせお前の店は客が誰も来ないんだろう。お前の店の一日の売り上げ分くらいはオレが出したるから一週間来い」(生田さん)。
 まあ、話し相手が欲しかっただけで、酒の肴が欲しかったのだろう。私は生田さんのもとへ行き、三食をつくり、弟子たちの分の飯づくりもした。
 私は肉が好きだから、つくる料理も肉系が多い。すると生田さんが「今日もすき焼きをやろうや」と毎日がすき焼きになる。肉を買う代金は生田さんが渡してくれた。確かキリムだったか、オリエンタルな趣きの絨毯を豪快にはがすと、その裏側に1万円札が敷き詰められていた。ケタケタケタと笑いながら、「おい、これを2枚持って行って好きな物を買ってこいやー。いいか、おつりを持って来たらあかんぞー」と生田さん。
 窯から15分くらい車で走ると、三田牛の(さんだぎゅう)の店があった。神戸牛の元となる牛を飼い、屠殺して直売する。だから安くて新鮮で旨い。その肉で一番高い物を買って来いと生田さん。それで私が1キロ買って来ては、すき焼きに。すると若い弟子がばくばくと食べる。しかし、生田さんは食べずに酒ばかり飲んでいた。だからだんだんと体が細っていった。みんなが食べるのを嬉しそうに眺め「おい、つくれーつくれー、飲めー飲めー」と言う。
 この頃には、窯出しに行けば当たり前のように自分が好きな物を選び取れるようになるのだが、生田さんはほとんどお金を取らない。「もっていけー」と。「大将はどうやって生計を立てているんですか?」と聞くと、「オレはこれでも有名になってしもうたからな、個人の注文がいっぱいあるんだ。このあいだはサントリーの社長が来てな、日本陶芸展で受賞した物と同じような物をつくれと30万円で売ってしまった」と生田さん。
 また生田さんは河井の弟子ということで、神戸、京都、大阪あたりの料理屋の仕事をずいぶんしていた。そんな定期収入があって窯を維持していたのだ。とくにウナギで有名な銀座の「竹葉亭(ちくようてい)」、「ざくろ」には生田さんの器をたくさん使っていた。
 よき朝鮮のかたちを日本の伝統的な窯の中にうまく組み入れてモダンに仕上げた。この窯が今でも続いていたら、どんなにいいだろうと私は思う。何か新鮮さを感じさせながら、それでいてどっしりとした民藝のよさもあるのだ。

窯の灰が積もって灰と釉薬が融合することで、糠釉がこんな色になった

破天荒な生き様

 生田さんのつくる、しのぎの皿は本当に細かくしのいでいる。だが、一度の窯で焼けるのは6〜7枚。たった1枚にどれだけ手間をかけているかわからない。5〜6日かけてつくるのだから。しかも一回の窯出しで1〜2枚しか取れない。歪んでいたり、窯からの降り物があったりして、そんな物でも平気で私にくれてしまう。傍若無人な、普通では考えられない破天荒な生き方をしている人だった。
 彼の窯は弟子の入れ替わりが激しく、腕のいい清水俊彦さんが抜けてからは極端に質が劣化し、つくれる量も減っていく。とはいえ、下ごしらえを手がける人手は必要なので、弟子を入れなくてはならない。そのうち心身症のとんでもない年配者が弟子入りしたいと生田さんに懇願し、入り込んでしまった。しかし、生田さんはさすがに気に入らず、追い出しを私に相談したのだった。そのため私は彼に恨まれ、ある日の夜遅く、生田窯の裏にある山上の神社に呼び出され、なぐり殺しに遭いそうになった。だが、なんとかこちらも「気」で勝負し、逃れたのが忘れられない思い出として残っている。そんなこともあってだんだんと生田さんの窯に行きにくくなったのだ。
 しかし、ちょうどその頃から私は池田三四郎、鈴木繁男と密に会い、小鹿田へとどんどんのめりこんでいく時期だったので、生田さんから離れていった。 
 そんなタイミングの時に酒の飲み過ぎで生田さんが病気で倒れた。しかし、見舞いに行こうとすると、私を憎んでいる弟子が来られないように工作して、生田さんの死に目には残念ながら立ち会えなかった。
 私は生田さんから一人の陶工の生き方、民藝の中で作家を目指そうとする人の生き方を教わったように思う。

土の鉄分が出てきて真っ赤になった

民藝とはちっぽけ?

 思い出話を続けよう。生田さんの仕事の評価が高まり、世間から注目を集めてきたため、大阪の民藝館で展覧会を催したことがあった。その時、生田さんはこう話していた。「お前は大阪での展示を見たか? うちの女房があれを見て来て、いきなり何と言ったと思う? さっき大阪の万博の跡の建物の中で作家でもない、職人でもない、中途半端な生き方をしている不細工な奴の展覧会を見てきたわと」。生田さんは自分のことを言われ「しもうた」と落ち込んでいた。
 その話を聞いてから1ヶ月後に生田さんの窯に行くと「おう、飯を食っていけやー」といつものように居間に上がると、生田さんの素晴らしい食器がきれいさっぱり無い。そこにあったのは瀬戸と美濃の器。磁器も陶器もすべていわゆる瀬戸物で統一されていた。しかし、これがよいのだ。なぜだろうと思った。美濃と瀬戸の中途半端な皿なのだが、料理を載せると素晴らしく美しいだけではなく、実によい。私は驚いて何も言えなかった。事情があってのことだろうから、質問することもできない。
 食べ終わったら生田さんは悲しそうな顔をして「どうや、今日の食事は?」と言う。「おいしかったです」と答えると「食器はどうや、どう思った?」と生田さん。
「いや、ショックでした」(私)
「そうかショックか? 俺もショックだ」(生田さん)
「どうしたんですか?」(私)
 奥さんがこんな重たくて使えない物は要らないと、いきなりどこかに持っていかれたのだそうだ。そして全ての食器を替えられた。弟子たちは批判していたが、私は批判せず、少し驚いたのだった。生田さんに素直な感想を伝えると、泣きそうな顔をして「そうか、お前もあれがいいと思ったか?」と一言。それ以上の説明はしなかった。
 その時、私は自分たちがやっていることは、こんなに小さなことなのかと思った。生田さんはこんなことを言った。「河井先生が夜中によく、おいっ、いくちゃん(生田さんの愛称)、ちょっと来いやーと呼ばれたことがある。2階の書斎に上がって行くと、いくちゃんなあ、ワシは今、いろんなことを考えているんやと、かたわらにあった新聞紙をクシャクシャに丸めてポーンと投げてきた。民藝ってなあ、こんなもんやーと」。河井は突然ワーッと泣き出したのだそうだ。先生の様子を見て、「民藝とはくそったれ」と生田さんは思ったという。これからは個人作家の時代なのだと。ただし、個人作家で行きていく以上は組織に入って、組織をうまく運営するようにならないといけないのだ。と、なかばヤケっぱちに捨てゼリフのごとき口調で言ったのが印象的だった。

 生田窯を卒業して弟子たちがこぞって「国画会」に入り、作家活動的な方向をたどる。しかし、私はいくらこんな活動をしたがっても、作家は師匠、生田さんの生き方そのものを理解できる教養と見識が無いと無理だと思う。結局は口が上手で、やり手か、さまざまな人たちを踏み台にして成り上がるのを競うかのように見えてしまうのだ。

弟子の中でいちばん上手だった浦富焼(うらどめやき)の山下碩夫(みつお)さん
がつくった「うり型」。生田さんはうりのかたちを得意としていたが、
うりは朝鮮にあった技法。重たい物を挽いて軽くする技法だ

河井の視点は今も生きている

 生田さんからは丹波焼の技術的なことをずいぶん教わったけれど、いちばん大事な経験は一人のつくり手の生き方に触れられたことであろう。民藝という中でさまざまな人の教えや葛藤の中で苦しみ、もがいて、最後に身を滅ぼしてしまった情熱的な一人の人間の生き様を見知ることができた。
 河井寛次郎館を訪ねると、森山雅夫さんが河井の最後の弟子と言うけれど、森山さんなりの河井への視点があって、よい職人になりなさいという助言を今も守っている。一方で河井は生田さんにはそんなことを言わなかった。河井の鋭い視点は生田さんを通して今でも生きていると思う。その視点を感じられた経験が私にとっては、焼きもののつくり手との関わりの中で、きっと生かされていると思う。

ロウソク徳利のかたちを利用してしのいだ物。一輪挿しにすると、とてもよい

生田さん自身で挽いた容器。日本古来のドラのかたちをしていることからドラ鉢という。
しのいで錆と鉄を交互にした作品。内側がわずかに食い込んでいるのは持ち運ぶ際に滑らないようにという配慮から