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Kuno×Kunoの手仕事良品

小鹿田焼、坂本茂木さんの功績

小鹿田焼、坂本茂木さんの功績

2010年6月30日
大分県日田市皿山
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 この連載記事において坂本茂木さんについて語るのは4回目となる。今年5月16日の引退表明がそれだけ私にとって衝撃的だったのだ。まだ心の整理ができていないが、今回は坂本茂木という存在がいかに大きなものであったかを改めて語りたい。

あやふやな物の見方

 昨今、かつての本質的な民藝のあり方を認識している人がいるかどうかは研究者、関係者を問わず疑問だ。柳宗悦が民藝を発見して以降、そもそも民藝の物は使ったり、楽しんだりするところから始まり、常に身近に置いて眺めて、使い愛されていく物。その結果として、さまざまなつくり手たちの経済を安定させ、民藝品が長い歴史で培われた物であることを世の中に提示できてきた。また、これを残すことが、いかに大事なことであるかも伝えられてきた。ところが、今はその意識が薄らいでいるように感じる。
 たとえば、民藝関係者の方で、地方民藝協会の年輩の会長さんが、ある集まりで、その人の住んでいる地方でふだん使われている竹細工と、その地方でかなり著名な作家の竹細工作品を見比べてこう言った。ひとつの物としてのよさは明らかに圧倒的に作家の作品の方にあると。一方で伝統工芸品には弱さを感じるという。日常使いの竹細工は材料が粗雑だし、片方は材料が吟味され、素晴らしいと話す。
 この見解に対して同意する同人たちが多かったのだが、私はそうは思わない。ある人の眼の見識で素晴らしいと言っても、私たちの眼にはよくないと映ることがかなりある。精緻につくり、造形的にも狙った物は焼きものの作家、茶陶とまったく同じ仕事。手間ひまも、時間もかけて、金額も高い。それは当然よい物をつくらないといけないし、よい物であろうと思う。ただし、よい物であるかどうかは、どこに差異があるのかを見なくてはいけない。
 また、民藝品は常に使われる物という前提だけでとらえ、実用品で買いやすくて、手仕事であれば、民藝品だと思う人もこのごろは多い。作家のつくる物の方がよいという考え方もあれば、一方でこのようなとらえ方もある。
 このように物の見方があやふやなために、今までの流れの中で民藝が発展できなかったのである。

骨董趣味と民藝美の違い

 柳宗悦という眼識のきわめて強い人が集めた物を日本民藝館は展示し、私たちはよい物のお手本にしてきた。同時に、それらは古い物のため、どうしても骨董の方に眼が奪われがちになる。
 美を堪能する耽美主義者の人は身近に使うという以前に美しい物をそばに置いておきたいと願う。さらに高じていくと、自身では民藝を標榜しながらも、骨董趣味、耽美主義に陥りやすい面が民藝に大きく備わっていたともいえる。
 民藝美は言葉として「安価であり、無名の職人がつくった物である」と広まり、誤解が生じているようだが、柳宗悦が選んだ物がそんなことは、いっさいおかまいなしに、見て美しいと思った物をチョイスしているのだ。
 ところが今、民藝に携わり、深く民藝のことを広めていかなくてはならない立場にある人が骨董趣味に取り入って、非常に危険なあやうい病的な方へ向かっている。その人たちと柳との違いは、柳が集めた物には、病的な物はいっさいなかった。柳の伝えてきた民藝美の究極な物は日本民藝館にあるが、そこにはあやうい物はひとつもなく、まぎれもなく健康的な美しさがある。
 では、健康的な物とは何か? ひとりひとりがなめ回すように眺めて耽美する物ではなくて、「どうだ、こういった物こそよいぞ。こういった物をもっともっとつくりなさい」と宣言している物なのだ。その物こそが民藝であり、柳が集めた物は彼が訴える力強さを具体的に表してきた。
 そういう観点では、柳が創始した民藝は確かに古い物に関わざるを得ない。さまざまな運動が日本各地で起こり、柳をはじめ、民藝同人を呼んでは指導をあおいだ。当然、柳はそこに出向き、今つくられている物を含めて選んだり、評論したり、あるいはこんな物をつくってはどうかと指摘する。しかし、それがなかなか具体的に展開することができなかった。
 過去の古い物ではなく、新たに起こした創造的な物は使えなければ売れない。売れないとつくられなくなるという悪循環で淘汰され、なくなった物も随分ある。残った物もある。
 しかし、そういうことを言ってしまうと、どうしても民藝の弱さが出てしまう。民藝品は実用的な物で、過去だけではなくて現在も使える物なのだと述べなくてはいけないけれど、現在使える物がどこにもなかったら意味がない。

昔と今をつなぐ小鹿田焼

 だが、たまたま小鹿田という窯があった。小鹿田焼を発見したのは柳宗悦であり、そのよさを伝えたのも柳である。また、さらに世界に広めたのがバーナード・リーチである。つまり小鹿田は民藝の方々により知らされた窯場である。そういう窯場の物が当時、現実に使われたのは一般の農作業用の壺だったり、大甕(おおがめ)であり、そこでつくられた物は淡泊で、今話題の文様や技法による物ではなかった。柳が眼を引きつけたのは、小鹿田焼の環境、立地条件だったと思うのである。
 しかし、柳をはじめとした方々が出入りし、なおかつ時代の要請で大きな物ばかりでなく、小さな物が日常品として使われるようになると、新たな製品が誕生していく。昔ながらの技法を用い、陶土の採掘から登り窯による焚き、窯出しといった生産体系が一貫した手仕事というのは当時から希有な窯だった。
 柳は「そこでは時計が止まっている。時代が要請しているのだが、時代がそこにある」と述べているが、その手仕事の流れが今でもつながってきている。
 とはいえ、どんなによい素材を使い、よい生産体制でつくられても、物がよくなければ見向きもされなくなる。柳以後、日本民藝館は小鹿田の生産体制の現代化を図るよう指導してきたことは確かだ。
 しかし、10軒の窯場すべてではないが、柳の意志、意向を肌できちんととらえる人間がいたからこそ、昔ながらの手仕事を守り継ぎながら、新たな方向の製品づくりに取り組めてきているのだ。

つば縁抜き釉・飛び鉋尺一寸皿

つば縁象眼・飛び鉋尺一寸皿

つば縁櫛目紋・飛び鉋尺一寸皿

縁抜き釉・刷毛目ふせ合わせ六寸皿

打ち刷毛目六寸皿

飛び鉋六寸皿

縁刷毛目尺皿

抜き飛び鉋七寸皿

飛び鉋七寸皿

飛び鉋八寸皿

坂本茂木さんの役割

 なぜ坂本茂木が仕事を辞めるということに私たちが落胆するのかは、単に優れた、素晴らしいつくり手がいい歳になったから辞めて惜しかったという残念さではない。坂本茂木本人は何も感じなかったかもしれないが、彼は日本民藝館から伝えられたことを仕事に置き換え、ずっとつくり続けてきた。
 しかも、それは作品ではなく、製品として誰でもが使える物。湯呑みでも、どんぶり茶碗でも一つや二つじゃない。毎窯、何百という数をつくる物の中に驚くほど優れた物があった。
 同時にそういう中から日本民藝館の蔵品にしてもよいような物が、登り窯の中から生まれてくる。これは小鹿田の土質という自然環境や一貫した手仕事から生まれた作用ではあるけれども、なおかつ、つくる人間の意志というもの、技術的な訓練を受けたつくり手が無意識につくりあげてきた物だった。

つば縁刷毛目尺皿

象眼飛び鉋八寸五分皿

鉄釉・ふせ合わせ皿

四寸飛び鉋小鉢

抜き飛び鉋中皿

飛び鉋中皿

藁引き目五寸茶碗

打ち刷毛目5寸丼

指描き紋7寸深鉢

つば広鉢・打ち飛び鉋小鉢

民藝の素晴らしさを表す製品

 つまり、民藝の本当の素晴らしさを、そのまま表してきたのが坂本茂木なのだ。この人がいたからこそ、日本民藝館で新しい制作運動を提案しても、嫌な物にならなかった。日本民藝館のお手本をもとに、小鹿田のさまざまな工人たち、茂木さんを兄のように慕う柳瀬朝夫さん、あるいは茂木さんにライバル心を燃やしていた黒木 力さん、その他の老陶工たちも切磋琢磨しながら今まで仕事を続けてきた。
 そうして小鹿田が消えずに、民藝がいまだに残る大きな原動力になったのが坂本茂木だったのだ。このことを茂木さんに話すと「俺はそんなことを思ったこともないし、考えたこともない」と私に言った。けれど、私はそうは思わない。前々から話しているように、鈴木繁男という人が明快に私にこう話した「坂本茂木という、現代の中でもっとも優れた、民藝の中から生まれたつくり手に、自分が関われたのは大変嬉しい」と。

 そのつくり手が仕事を辞めたということは、私が彼と関わって35年、柳宗悦の亡くなった以降も脈々と流れてきた民藝の世界の仕事がここで終わってしまうかのように感じてしまうのだ。

打ち刷毛目・抜き飛び鉋四寸飯碗

飛び鉋壺型湯呑み(手前)、青釉煎茶碗

飛び鉋三寸五分皿(左)、抜き飛び鉋縁切り三寸皿

ぐい呑み

さよなら民藝?

 柳宗悦が「美の法門」を著した富山県南砺市、城端別院で五十回忌の法要を兼ね開催された第64回日本民藝協会 全国大会では、何か民藝が縮小していくようなむなしさがあった。大会として重要なテーマである今後の民藝を考えていく上で、信仰力のなさ、元気のなさを感じて、民藝はいよいよ終わりだと思った。
 また、日本民藝館の存在意義を誇るはずの民藝館新作展に対しても関わる方々に民藝の理念を私がいくら話しても感じてくれない方が多いのも不満だ。
 こうした現実を前に、坂本茂木が仕事から遠ざかるということに、時代の流れを感じざるを得ない。坂本茂木の手仕事からの撤退が、逆に引き金となって日本の手仕事が違った方向に行くかもしれないけれど、新たな道をつくっていく契機になるかもしれない。その一翼を私が担わないといけないと思うし、手仕事フォーラムに皆さんにもっともっと関わってもらって、新たな工藝運動をスタートするきっかけになってもらえればと願う。

そばがき茶碗

青打ち掛け水差し大

飯碗

そばがき碗

蓋物

二彩流しスープ碗

魔物が住む袋

 坂本茂木さんは、ここ10年の間に窯元を息子さんの坂本 工(たくみ)さんに継いだ。しれは小鹿田の不文律の決まりだ。息子が40歳台になると、だいたい後継者として継がせるのである。坂本 工窯になってからは、父親は隠居というかたちで引退し、ロクロ台に座りながら窯の職人として生きていくことに。ところが、そこに孫が帰って来たことで、2台しかない窯元のロクロ台から茂木さんに向かえなくなった。窯焚きからも離れていくことになった。というわけで、いよいよ焼きものの仕事を辞めることに。
 この7〜8年の間、茂木さんは窯の一職人として、登り窯の4つの袋(焼成室)の中の一番と四番、いわばいちばん焼きがよくない所に自分のつくった物を置いて焼いてきた。その状況下でも、それなりに頑張って茂木さんらしい物が生まれていた。
 小鹿田の中でもとくに茂木さんの窯は急傾斜にあるため、火が一気に登りやすい。そうすると一番目の袋「あんこう窯」とも呼ばれる袋では火前に置いた物はかなり強くて暴れる炎に焼かれることに。小鹿田焼はだいたい1200〜1230℃くらいで焼き締まるのだが、それ以上の温度になると膨れや変形が出来たり、割れてしまうこともある。
 また、窯を開けて冷たい空気が流れこむと温度差で貫入(かんにゅう)が入る。その貫入が強いと冷め割れといって、カチンと割れてしまうことがある。
 このように一番目の袋は最悪の袋なのだ。しかし、一番目の袋に入れて製品として取れた物は驚くような、生き物のような物が生まれることもある。魔物が住んでいるような窯なのだ。

 坂本茂木は一人で仕事をしていた時は、ずっと気まぐれな火の作用と向き合ってきた。だが、息子さんとともに焼き始めると、一番目の火が強すぎた時、二番目、三番目といういちばん重要な袋の物に焼き損じが生じる可能性がある。そのため、一番目の火力を抑えるよう、茂木さんは薪をくべてきたのだろう。

刷毛目なすび型徳利

飴釉飛び鉋土瓶(手前)、青磁土瓶

飴釉飛び鉋湯呑み

筒型湯呑み

青コーヒー碗皿(手前)、スープ碗

飴飛び鉋急須(左)、薄青流し急須

蓋物

飴釉刷毛打ち湯呑み(左)、刷毛引き湯呑み

藁引き五寸茶碗

最後の窯出し

 思いがけない物が生まれにくくなったのは、現在の窯元の意向に沿った焚き方、製品をたくさん取りやすい焚き方をしたため。そのため、茂木さんらしい粗野な性格がもたらす、おもしろい物ができる割合が非常に少なくなってきた。
 四番目の袋はといえば、ここは火のまわりが一番最後に伸びていく所なので、火力がいちばん弱く、ここに置いた物は不上がりになりやすい。土が肌色っぽくなり、釉薬は溶けても土そのものは焼けていないケースがあるのだ。そうすると、むしろ火が強い方が魅力あるということになる。
 そういう中から私たちは茂木さんのなんとかよい物をと、取ってきた。茂木さんは現在73歳。55歳ぐらいから体の変調が起こって、仕事に精彩を欠いてきたのは事実だ。つくる物も大物は肩に力が入りすぎていたり、削りが乱暴だったりしたこともある。
 しかし、このごろは枯れたおもしろさが出てきて、火が強くても弱くてもなんとなく雰囲気のある物が出来上がってきた。ただ、昔のように縁がしっかりしていたり、削りを大胆に最後まできちっとやり通すことはできなくなった。これは力の問題。口当たりの所が前に比べると弱いし、甘い。
 それでも全体をみると、老人的な雰囲気になりながらも、よいつくり手がつくった物であると見えてくる。
 最後の窯出し製品はすべて「もやい工藝」で引き取ることにした。それでもつくる量は窯元の10〜20%くらい。並べてみると、ほんのわずかな物しかないのだが、これが小鹿田での最後の仕事であると、皆さんが思いながら使ってもらえたらと、「もやい工藝」に展示して販売する企画を考えた。
 茂木さんに今回の企画のことを話すと、非常に喜んでくれた。「自分はそんな立場ではないのに、そこまで思ってくれて、ありがたい」と言っていた。

飴釉刷毛目・なすび型五合徳利(左)、
薄青釉・飛び鉋湯呑み

二彩流し七寸切立鉢

飛び鉋マグカップ

抜き飛び鉋筒花瓶(左)、飛び鉋筒花瓶

櫛目紋ピッチャー大、中

線彫り色出し紋ピッチャー大、中

飴釉線描き紋ピッチャー大、中

青磁釉櫛描き紋ピッチャー大、中

田型紋ピッチャー