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Kuno×Kunoの手仕事良品

奥田康博さんから教わったこと

奥田康博さんから教わったこと

2010年7月28日
三重県伊勢市朝熊町 神楽の窯
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

民芸店で民藝品を買う

 35年ほど前、同じ志を抱く仲間とともに、できるだけ安くて丈夫で使えるような物を恵まれない人たちに供給すべく工藝運動に取りかかり、同時に「もやい工藝」を立ち上げようとしている時のことだ。仲間の友人が陶芸の道を目ざし、京都・五条坂にある焼きもの専門の職業訓練学校に入所して一年間ロクロの勉強をすることになった。その頃から私たちは九州に足を運び始め、帰路で京都の彼の家に宿泊した。私もようやく民藝に片足を突っ込み始めた時期で、何がよいのか、悪いのかではなく、実用品であって普段使いの手仕事品ならば民藝であると、今の若い人たちのように誤解していた。
 京都・四条、河原町通りには「やまと民芸店」という日本で三番目くらいに古い老舗の民芸店がある。経営者の林さんは柳宗悦とも近い方で、河井寛次郎とも強い関わりがあった。当時は日本各地の民藝品を扱い、若い手仕事を求める人たちを支援する社会的に意義深い店だった。だが、ここは修学旅行の生徒たちがたくさん訪れる場所でもあり、私の目には、いわゆる土産物ばかりの店と映っていた。しかし、それら土産物にまぎれて、なんとなく、ほわっとした感じの物に眼が留まった。それは素人目ながらも、その物に軽やかさと温かみを感じたのだ。それはコバルト、つまり呉須釉の湯呑み茶碗だった。そのかたちがいかにもの民芸品っぽくなくて、どっしりしていて欲しくなった。母親がこのような物を使ったこともなく、興味もなかったので、土産にと購入した。家に持ち帰ってじっくり見てみると、三重県伊勢市朝熊で奥田康博氏によってつくられる「神楽(かぐら)の窯」の製品と書いてあって、何かよさそうな物を思いも掛けずに買えたと感激したことを覚えている。

やまと民芸店で母の土産にと買い求めた、奥田康博さんが朝熊山麓に設けた窯での初窯の湯呑み。
蕎麦猪口のかたちを模した物だと後に聞いた

不思議な縁

 その話を京都の友人にすると、自分もその窯のことを同じ学校に通う人から聞いて、今度訪ねてみようと考えていると言った。その後、早速彼は窯を訪問し、私に電話をかけてきた。「奥田さんは人柄が温厚で、とても参考になる前向きな話をずいぶん聞かせてもらった」と。彼は濱田庄司と河井寛次郎の弟子だったし、「今の丹波をつくったのはワシや」と話したそうだ。そして「君のような優秀な人が自分の窯の弟子になってくれたら、とてもいい。同じくらいの歳の弟子がいっぱいいるので、学校を卒業したらうちに来て、彼らと一緒に自分の窯を盛り立ててくれ」と声を掛けてくれたという。その話を聞いて、自分の選んだ湯呑みがいい物という思いを強くした。
 それから数ヶ月後、九州に出かける機会があり、小石原に向かった。その当時はまだ小鹿田には行っていなかったのだ。小石原では以前にもお話したように(第21回「小石原焼の太田ファミリー」参照)、太田熊雄さんの窯に寝泊まりしていたが、小石原には梶原力太郎窯という窯元があり、そこには次の当主となる同い年の梶原二郎君がいた。彼は頭が良く、よく話すし、豪快でありながら繊細な部分もあって非常に気が合った。彼に実はこの前、京都で伊勢の神楽の窯の湯呑みを見つけて感激したと話すと、「そこが自分の学んでいた窯だ」と梶原君が言うではないか。神楽の窯には3〜4年いたという。自分はまだ貧しかったし、社会のことも知らないから、ずいぶん叩かれ、怒られ、罵倒された。奥田康博というのはとても面倒な人だと梶原君は酷評した。
 自分が耳にした人物像とずいぶん違うなと、それは本当かと聞き直すと、窯に入ればよくわかるはずだと答えた。
 その後、梶原君の神楽の窯時代の兄弟子、兄弟子である山本源太さんが小石原に近く、昔、茶葉容器を主につくっていた星野焼の里で築窯していると聞き、訪ねることになった。山本さんは鳥取の出身。高校を出てから民藝プロデューサーの吉田璋也さんとの関係もあって、奥田康博さんを紹介され、弟子入りした。しかし、師匠と関係がうまくいなかくなって梶原君と同じく、追い出されてきた。
 両人によると、奥田さんの窯元に弟子入りして最後まで残る人はいないという話だった。この二人に会うことで、私は奥田さんとの縁を感じ、グッと身近存在となっていった。

生き字引のような人

 そして、京都の友人がいよいよ奥田さんのもとに弟子入りすることになった。彼に招かれたので訪ねると、伊勢の朝熊山の奥に神楽の窯はあった。非常に美しく自然豊かな環境で、照葉樹林帯特有の、南の雰囲気をたたえる場所だった。
 噂を耳にしていたので、おそるおそる奥田さんの窯に入っていくと、想像とは全然違う、軽い調子のおじさんが出てきた。藍の作務衣がよく似合い、眼鏡をかけ、声は関西人らしく甲高い。わーっと一気に話しまくられた。しかし、初対面で私はとても気に入られた。「今日は泊まっていけやー!」という言葉に甘え、その日は友人と一緒に、奥田さんの話をじっくり聞くことになったのだ。
 濱田庄司、河井寛次郎、丹波のこと、三宅忠一という日本民藝協団を興した人、柳宗悦、そして小鹿田や小石原を含めた九州各地の窯元の話が出てきた。まるで生き字引のような人だった。さまざまなつくり手と指導者、店の方々、いわば民藝道のあらゆる分野、とくに焼きものについては隅々まで知っていた。
 奥田さんは1920年(大正9年)、滋賀県信楽町で生まれた。彼が育った当時、信楽の窯は植木鉢をつくっていた。奥田さんは植木鉢の絵付け職人だったそうだ。信楽にも工藝試験所があって、その中で最優秀の人だったとか。工藝試験所に指導に来た濱田庄司が奥田さんを見初め「どうだ、うちの窯の弟子にならないか」と誘ったという。信楽側でも優秀な人は濱田のもとへ送りこんで信楽焼を活性化させたいという気持ちがあって、1942年(昭和17年)、奥田さんに濱田さんの窯へ行ってもらったのだという。ちょうどその時、濱田の窯にいたのが、先日亡くなった島岡達三さんだった。
 島岡さんの他にも、後に淡路島でスリップウエアを焼く藤井佐知さん、その後、修善寺での濱田風の仕事をする岡左久良さんが奥田さんの同期だった。また、彼らより遅れて入ってきたのが滝田項一さん。名だたる、濱田門下生とともに窯に入ったのである。

 奥田さんはロクロが島岡達三よりはるかに上手だと自負していた。実際、その噂は他からも聞いていた。彼は口が達者だけれども、ロクロ引きも非常に達者なのだと。その奥田さんが濱田の批判を口にした。濱田は関西人が嫌いで、関西弁を聞くとムカムカしてくるのだと。おそらく奥田さんの軽い口調でつまらないことを言って濱田に嫌われたのだろう。それで居づらくなって河井寛次郎の窯に行く。濱田には「お前は河井向きだ」と言われ、1943年(昭和18年)に、河井門下のもとへ追い出されるかたちで行った。河井も人を見抜く力があり、優秀な人間だとわかっていても、たぶん自分の所には置けないとわかっていたのだろう。それで「君のような腕の立つ人間はもっと他で役に立ってもらえるだろう」と、やまと民芸店の林さんに相談されたそうだ。

丹波の衰退

 ちょうどその頃、丹波立杭の里は非常に混乱していた。丹波は六古窯のひとつで平安時代初めからの窯が代々、主に大きな焼き締め陶器を穴窯でつくっていた。鎌倉、桃山、室町を経て江戸時代になると、大物だけでなく、京都、大阪・摂津、神戸・播磨が近いことで、都会文化の焼きものも手がけるように。そうして江戸時代のなかばぐらいから、素晴らしい焼きものができるになった。いわば丹波立杭は日本国内では最高の日用品をつくった窯であり、丹波焼と総称されるようになる。その名を広めたのは柳宗悦なのだが。
 しかし、丹波立杭は常に庶民が使う実用品と向き合ってきた窯だけに、時代のニーズの影響も受けやすい。明治期になると、つくる容器が重たく、流通して運ぶのに非常に不利な点で瀬戸の焼きものに負け、だんだん廃れていった。 
 さらに大正、昭和に入ると、磁器の物がたくさん流通し始め、丹波の焼きものは気の毒なくらい人気が衰退していく。

丹波の蛇窯

 丹波の焼きものは焼き締まると、鉄分が多いため非常に強い土で、がっちりとして何かにぶつけてもビクともしない。丹波ははじめの約400年は、山の傾斜を利用した穴窯で、慶長16年(1611年)頃からは蛇窯とも呼ばれる、直炎式の登り窯で伝統的に焼いてきた。急傾斜に小川をつくるように溝を掘って、その溝の上に土を盛り合わせてつくる。その小高い山の連なりが長く、蛇のように見えることから、蛇の名が冠せられたのだ。
 蛇窯は下から火を燃やすと傾斜が強いため、溝伝いに火が上がっていき、どうしても酸化炎(完全燃焼。酸素供給が十分で、高温の酸素を含み、酸化性がある炎)にならない。還元炎(空気の補充が不十分なため不完全燃焼に。温度が低く、還元性のある炎)になるのだ。ところが、還元炎では下から上への距離が長いため火が上まで伸びない。そのため、途中で空気(酸素)を送りこんで火を酸化状態にして焼かないといけない。還元で焼いている窯の一部で酸化炎により焼くと、還元と酸化が入り交じって中性炎になり、釉薬の色が弱く、発色が悪い。小鹿田や沖縄、山陰各地の窯元に見られるように、化粧掛けして、その上に釉薬を掛けて、釉薬のおもしろさを楽しむということはできないのだ。

左は使いこんだ湯呑み、右はあまり使っていない湯呑み

今では考えられないけれど、こんな小皿も登り窯で焚いていた

再興へ

陶土の鉄分が強く、黒く、あるいは褐色に焼き上がる丹波の焼きもの。その味気ない物に黒い釉薬を掛けてみたり、釉薬を雑に掛けたり、文様を付けたりすることで活き活きした物となり、隆盛を迎えた時代もあった。ところが一般雑器をつくる昭和になってくると、そもそも味気ない物だけに、うまくいかない。戦後になると、日本は流通が各地にまで浸透し、瀬戸物、唐津物(有田焼などをさす)など安くて丈夫な実用品が広がっていく。
 それで、ますます丹波の人気は翳っていった。丹波は傾斜地が多く、とても限られた面積で農業もやらないといけない、非常に貧しい地域だった。その貧しさの中で窯元が少しずつ疲弊していく。すると、庶民用の焼きものをつくろうとしても、なかなかできない。いくら丹波で手仕事の物を守ろうと民藝の人が関わっても、丹波焼を都会の中に売るのはとても難しく、みんなが頭を悩ませていた。
 そこで河井寛次郎が奥田さんを丹波の中へ送りこんで、近代的な窯の開発をしたいと考えたのだろう。それで、やまと民芸店の林さんに相談し、彼の資金により奥田さんは市野兄弟会社を設立。1949年(昭和24年)から丹波の窯場に入り、丹波焼きを再興することになるのだった。
 しかし、何を再興するか、奥田さんは悩んだと思う。たびたび京都に出向いては土質や釉薬を研究しながら河井寛次郎に相談した。河井は釉薬については世界に類をみない研究家であり、自分でさまざまな釉薬を開発した人なので、奥田さんの相談に応えるキャッチボールが楽しかったのではないだろうか。

左が登り窯、右がガス窯で焚いている

釉薬の開発

 そして、互いに研究した結果、中性炎でさまざまな日用品をつくろうとすると、普通の釉薬では合わず、黒か白しか無いという答えに至った。当時、黒か白の釉薬を掛け、蛇窯で焚いても、歩留まりが悪く、製品として取れない物が多くなる率が高かった。それでも、奥田さんは我慢して、黒か白を用いてつくり、やがて中性炎にも適した独自の白釉と黒釉を生み出す。白釉は藁灰を用いると、中性で焚くと肌色っぽい色が出てきて、あまりきれいではない。しかし、籾殻の灰を用いた白釉は還元炎が強いと、白が消えてグレーがかってしまうのだが、中性炎だとほどよく美しい白になることを発見したのだ。
 また、昔からある丹波黒と呼ばれる黒釉を蛇窯で焚くと色の安定性に欠ける。そこで奥田さんは安定させるために、土灰釉ではなく、石灰釉というものを考案した。これは河井からの指示だったと思うが、石灰にベンガラ(酸化剤)を掛けて中性炎で焼くと、黒が非常にきれいに出ることがわかったのだ。
 私が丹波を訪ねた時には丹波の黒釉は「奥田黒」と呼ばれていた。それくらい奥田さんは丹波焼の再興にとても貢献した人だったのだ。

ケンカ早い

 奥田さんはすぐ人とケンカしてしまう性格の持ち主でもあった。丹波は狭い村落社会なので、おのずと地域内で浮いてしまう。それでも関西の頑張り屋ゆえ、周囲と衝突しながらも仕事を続けたが、そのうちに販売の問題が出てきた。当時、増えてきた民芸店の人たちは採算を度外視するのではなく、利益追随型の商いをしていた。こうした商人は民芸人気により、丹波の物も売れるようになると、どんどんつくれと依頼しながら支払いがたまっていく。そういうことで奥田さんは店の経営者たちともケンカをした。
 昭和33年くらいに日本民藝協会から分かれ、日本民藝協団を興した三宅忠一は関西人で大阪スエヒロの社長だった。彼は九州関係も含めて民窯の製品をチェーン店として増え続けるスエヒロの食器に採用し、窯元に注文を出していく。すると、「奥田黒」と「奥田白」が開発されたばかりの時、丹波立杭のさまざまな窯元たちがいっせいにスエヒロからの注文に応じた。ところが値段が高い、コストを下げろということに。そこで、当時、普及しはじめたガス窯で製品を焚くようになる。
 ガス窯の場合、ちょっと味気ないけれども、中性炎で上手に黒と白の釉薬が焚けた。というわけで、ガス窯をうまく利用して丹波立杭が再興していくのだった。それがさらに広がり、スエヒロからの注文に応じた上でも物が余るため、日本民藝協団の販売会社、浪速民芸店経由で丹波の物が民藝協団系の店へもスムーズに流通していくように。奥田さんの釉薬開発ならびに販売への功績が認められ、民藝協団に技術指導部長として迎え入れられた。 
 奥田さんは濱田庄司ともケンカし、柳宗悦の理論と実践は違うと訴える実践主義者でもあったが、関西系の人ゆえ、お金に細かい人だった。それを批判することはできないけれど、奥田さんから話を聞くと、焼きものを生業とすることの貧しさを肌で感じていて、丹波立杭へ指導に赴いてもお金にはならなかったとか。指導してもお金はもらえず、つくって売ってナンボの世界ゆえ、相当に貧しく、つらい思いをしたという話を聞いた。

奥田さんが自らロクロを引いた製品

卓越した技能者

 そんな奥田さんに育てられ、影響を受けた人が生田和孝さんだ(第51回「生田和孝さんの焼きもの」参照)。生田さんは河井寛次郎のもとでの修行を終え、自身の窯を立ち上げる時、「丹波に行けば、奥田がいるから、手伝ってあげてくれ」と河井に言われた。私が生田さんの所へ通っていた時も、窯焚きがうまくいかないと、生田さんは奥田さんに聞きに行っていた。そういう意味でも奥田さんは熟知した職人だったのだろう。絵付けも上手だし、釉薬調整もできるし、窯を開発するセンスもある。そういう卓越した技能者だった。
 そういった話を奥田さん本人から聞いて、彼への認識を改めることになった。奥田さんは私を非常にかわいがってくださった。私がやまと民芸店で求めた湯呑みを見せると、「これは初窯やあ」と奥田さんは言った。「久野君はよくこんな物を手に入れたなぁ。これはそんなにいっぱいつくった物ではないぞ」と奥田さん。私も偶然の物との出合いを喜んだ。それからは母親がふだん使いしていた、この湯呑みを取り上げ、大事に仕舞っていた。

高台の裏側に初窯の製品であることを示すマークが。
奥田さんがつくり出す物が自分の好みに合ったこと、そして彼の湯呑みを選べたことが後にとても嬉しく思えた。
なにしろ、当時は世の中のことを何も知らないから、基本のかたちがどこから生まれたとか、
どの窯の製品なのかなど露も知らなかったのだから

飲み口の上手さにも感嘆する。奥田さんが優れた職人であるとわかる

朝熊山麓の新窯

 奥田さんは三宅忠一の日本民藝協団に参加したものの、ケンカ早さから結局、三宅忠一ともうまくいかなくなった。三宅も関西商人ゆえ、安く神楽の窯の製品を使おうとしたらしい。奥田さんもそれで吹っ切れて、伊勢の古い町、河崎町の風呂屋だった、妻、輝子さんの実家に転がりこみながら、1971年(昭和46年)朝熊山麓、近鉄線の最寄り駅から歩いて25分の場所(最初の窯は1959年、伊勢神宮に近い伊勢市浦田町薬種山に築いた)に窯を新設した。
 その頃には奥田さんの仕事が広く知られ、とくにやまと民芸店や民藝協会系の関係者が奥田さんのもとを訪ね、窯元は次第に隆盛していく。また、つくった物の多くがやまと民芸店に並んでいたので、私も初窯の物と出合えたのだ。

神楽の窯の焼きものはコバルト色が美しい、呉須釉が特徴だ

真実を教わる

 奥田さんと親しくなって、さまざまな意見を聞くのは、自分にとって貴重な機会となった。彼の口からは柳宗悦の話も当然出てきたし、濱田の関東人特有の厳しさと素っ気なさ、河井の温かさと厳しさ、濱田と河井との間の確執、濱田の所に居た時に耳にした濱田の柳への批判などを話してもらった。
 また、三宅忠一の本質についても言及されていた。単なる悪口というだけでなく、三宅忠一が残した偉業も含めた経済観念や、彼がどのように窯元に接近していったかを語った。窯元にアプローチする際には奥田さんを派遣して制作物を把握し、お金の力で窯元を傘下に置いていく三宅の方式を聞いたのだ。
 さらに三宅の日本民藝協団が何を目指したか、どういうことを考えていたかも奥田さんを通じてわかった。奥田さんは具体例を挙げて教えてくれたので、柳宗悦に対して批判的立場である民藝協団は民藝愛好家の集団であって、何ら社会的には貢献度の無い。いずれ無くなってしまう集団だと感じた。
 民藝協団から離れ、北九州で「民芸の倉」を営んでいた高田一夫さんが主宰する「用と美の会」にも私はお世話になっていたため、そのあたりの事情も教わっていた。当時から私にとって民藝というのは民藝協会の動きが最大のものであり、同時にこれを信じていくのが民藝における大切な道だと確信したのだ。

仕事が早い

 当時、神楽の窯の親分は田中さんという、私より歳が2〜3上の兵庫県三田(さんだ)出身の人がいて、今は故郷に戻り、三田焼と称した窯を主宰している。田中さんの後に続いたのは私と同い年の服部日出夫さん。さらに何人かいて、その中に龍門司焼の川原史郎がいた。窯元に行くと、いつも鹿児島ナンバーの乗用車が停まっていて不思議に思っていた。龍門司焼のリーダー格である川原光(みつ)さんが民藝協団の高田さんの紹介で自分の息子をいずれは自分の窯で仕事をさせるからと、弟子として史郎を送りこんだのだった。
 そうして自分の歳と非常に近い人たちのお弟子さんとの交流が始まる。それがとても楽しくて、毎月1回のペースでおこなわれていた窯出しに足を運んだ。30日そこそこで窯を焚くということは、制作日程はだいたい12〜13日。これは若い人たちが懸命になってつくり、奥田さん自身も手が早いからこそ成せることなのだ。奥田さんは物を素早くつくれる上、非常に記憶力がよく、新しい注文を受けても、すぐその場でつくってしまう力を備えていた。技能労働者としては最高の人だったのだろう。

呉須の秘密

 なんといっても神楽の窯は、呉須釉がとても魅力的だ。この呉須釉をどうやってつくるのか奥田さんに尋ねたことがある。その答えは驚くべきものだった。呉須という、いわゆるコバルトを筆や刷毛で付け、石灰釉を掛ける。それが乾いたら呉須を再び塗る。この繰り返しで7回塗り重ね、還元炎で焼くと、美しい色になるのだとか。この焼き方は河井寛次郎から学んだものだそうだ。
 しかし、この神楽の窯は丹波ほど強い中性ではないけれど、薪をたくさんくべて火力を上げて酸化をかけても、傾斜がきついゆえに還元になる登り窯。酸化炎と中性炎により発色が濃くなったり、薄くなってもよいのは呉須に限ると奥田さん。それに日本人は藍の色が好きだから、呉須の焼きものは一般社会にはとても受け入れやすくて、よく売れた。

 ちなみに奥田さんが用いたのは、信楽の陶土だった。

信楽陶土の特徴がよく出ている。しかも登り窯で焚いているので、高台の縁に緋色(ひいろ)が出ている

土の粗さが伝わる。信楽の陶土に多少、砂を混ぜると風情が出る。
窯出しの時にこの湯呑みを選んだら「こんなペケ品でええのか?」と奥田さん。
よく見ると、土の中の鉄分が吹き出していた。ということは還元がかかっているということ。
通常ならば店に並べられないペケ品だが、私にとっては一級品。この素朴さに心が打たれるのだ

コピーの名手

 奥田さんの話を聞いていた当時の私はかたちには全然興味が無かったし、沖縄にも行っていなかったので気づかなかったが、その後に見識を深めていくと、飯碗の文様が沖縄の唐草と共通し、かたちも沖縄のマカイと同じであることがわかった。
 つまり、奥田さんは真似がとても上手だった。くだけた表現をすればコピーの名手なのだ。普通に考えれば、焼きものその物をコピーすることはない。ところが奥田さんは丸々コピーしてしまう。ロクロ引きしやすい信楽の土による厚手のぼってりとしたかたちは、一見、違った物になるけれど、眼を凝らせば、各地の物をうまく利用した製品だとわかるのだ。

以下、具体例を紹介しよう。

神楽の窯の飯碗。呉須で唐草文様を描いている

左が沖縄の飯碗、マカイ。かたちが共通していることが一目瞭然

濱田庄司のまんじゅう皿を真似た物。
縁を抜いているのは、重ね合わせて焼くから。これは一番上に置かれたため、抜いた所が緋色の口紅になっている。
濱田庄司の伏せ合わせのまんじゅう皿の製法を利用して、登り窯で信楽の陶土で焼けば、
この縁が赤くなることを奥田さんはわかっていて、口紅というアクセントにした

呉須を7回も塗り重ねていることがよくわかる皿。黒くなっている部分が刷毛の跡だ。
これは焼きが甘く、釉薬が十分に溶けていないためコバルトの中にあるマンガン分がにじみ出てきて、
このような文様となるのがおもしろい。また、縁に鉄を巻くことで鉄呉須となる。こういった物は出西窯の原型である

濱田庄司型の湯呑みのかたちをそのまま利用した

奥田さんが巧みだと思えるのは、この削りの部分。
濱田庄司の削りをそっくりに真似ている。濱田も風情を出すために、ぐるりと削っている

右は俗に言う「竹の節高台」。竹の節の上下を切り取ったかたちに似ている。
河井型とも言われる。濱田型は右の湯呑み。いわば濱田と河井のいいとこ取りの湯呑みといえよう。
しかし、いいとこ取りがきちんとできる点に奥田さんの一級の強さがある。
今、民藝派作家と称するつくり手はこういう技術を備えている者は皆無。
少なくとも、かつての島岡達三や滝田項一さんは訓練度の高い作家だった。彼らのつくる物はこういう所がきちんとできていた

急須の師匠

 奥田さんは急須の師匠とも呼ばれた。急須づくりには高い技術を要するため、この呼び名は優れた陶工であることを意味している。師匠というのは、このあたりの窯元の呼び方で、丹波では大将と呼んだ。また、沖縄では親方、山陰では親父と呼ぶ。
 奥田さんは弟子たちから師匠と呼ばれ慕われていた。性格的には乱暴で、契約期間中に最後までまっとうした弟子は誰もいない。みんな途中で追い出されるか、抜けてしまうか、逃げ出す。わりと最後まで居てスムーズに仕事できたのは田中さんくらい。それくらい奥田さんは激しくて、厳しくて、うるさい人で、神楽の窯の中では下の者が育たなかったのだ。
 しかし、窯を出てからは、それらの人はそれなりのつくり手になっている。ということは、基本を奥田さんからきちんと教わったということなのだろう。

 そんな奥田さんが亡くなって10年ほど経つのだが、子供がいなくて、最後に弟子に入った人を養子として迎えた。そして今の神楽の窯として、昔ながらのこういった仕事を復活させようとして取り組んでいる。しかし、奥田さんほどの眼や訓練度が無いため、今は暗中模索の状態である。

指跡の残る湯呑み。わざと出している

感謝

 私が奥田さんと仲良かったのは3〜4年ほど。性格的な問題があったことと、付き合いが面倒くさくなったのだ。もちろん奥田さんを訪ねると必ず泊めてくれたし、私に期待して「どうや、ワシの養子にならんか?」と言われ、非常にかわいがられた。奥田さんが梅田の阪急デパートで初個展を開かれた時には「手伝いに来い」と言われて行った。
 ところが、その頃私は丹波の生田和孝さんとも親しくなっていた。奥田さんと生田さんとは微妙な関係で、生田さんのもとを訪ねると「なんだ、奥田の所にも行って、展覧会を手伝ったそうじゃないか」と言われるし、奥田さんは「生田の所によく行くのか、生田のことが好きなのか?」と言う。
 そのうちに小鹿田を知り、九州の焼きものにどんどんのめりこんでいった。そんなわけで、本物志向が自身の気持ちに芽生えてきて、奥田さんの仕事の立派さはわかりつつも、物真似的な物から、自然性を求めた物へと関心は移っていった。それで、奥田さんからは離れてしまったのだった。
 それでも何年に一度かは顔を出してはいたけれど、しだいに疎遠になり、訪ねにくくなるし、日本民藝協会や日本民藝館の館展運営に携わるようになると、まったく行かなくなった。奥田さんが嫌いになったとかではない。非常にお世話になったという気持ちは強いし、今でも尊敬する、つくり手である。
 また、彼からさまざまつくり手の生き様を教わったし、弟子と職人、親方との関係はどうあるべきか理解できた。同時に民藝の先達の方々の心的な部分に相違があったことを身近に感じられた。

 今回、奥田さんについての話をしたのは夏を迎え、この青く夏らしさを感じさせる焼きものを神楽の窯で再現できたらいいかなと考えているからだ。だが、それが実現できるかは何とも言えない。ただ、今まで生きてきた人生の中で焼きものの見方に大きな影響力を与えてくれたのが奥田さんであることは間違いない。技術、つくり、伝統について、さらには個人で生きていくということはどういうことなのかを彼からは教わった。奥田さんの考え方を元にして、私は現在、制作している人たちへの意見が出てくるのだなと思う。

奥田さんからいただいた湯呑み。
作品展に出品しようとする時、
登り窯のサマ穴(部屋と部屋の間にある穴)
にも置いて焼いていた。
出来上がりはたいてい曲がったり、
傾いたりするのだが、
うまく生き残るとこのように灰がかぶったり、
さまざまな窯変 (焼成の時に、
素地や釉薬の成分が化学変化をおこし、
予測しない釉色や釉相が出現)が生じる。
そのおもしろさが作品の一部となる