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Kuno×Kunoの手仕事良品

有田焼・大日窯

有田焼・大日窯

2010年8月25日
佐賀県西松浦郡有田町
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 今回は私よりわずか2歳年上で、若くして亡くなった有田焼大日窯、久保徹(とおる)さんとの出会い、そして関わりについて話をしたい。
 私はこの窯をなんとか存続させたいと願い、徹さんが亡くなってから半年間で何度足を運んだかわからないくらい頻繁に顔を出した。ぜひ仕事を続けるようにと勇気づけたのだ。そして、当時は運送会社に勤めていた次男の博志さんに焼きものの仕事についてもらえるようにと今後の話をした。そうして、彼らも仕事を継続していくということになり、今につながってきている。 再興というより継続。20歳台とまだ若い博志さんがこれから前向きに仕事をとらえて進んでいく中、私たちも関わって見守り、助けていきたいと思う。

勘違いの出合い

 私が大日窯の存在を知ったのは、この仕事に入る少し前のことだった。昭和47年(1972年)3月に私は大学を卒業するのだが、その前にもやい工藝を設立し、私と友人が中心となって運営していくことになった。その3月、私たちは長崎にいた。彼の実家に寄宿しながら、いろいろな策を練ったのだ。
 長崎には、いろいろな意味で関わりのある人たちがいたので、しばらく滞在し、その間にもやい工藝の名も考えたのだった。しかし、この時、私はまだ民藝をまったく理解していなかった。民藝品とは、なんとなく日用品と思っていた。今の「民芸」(民藝ではなく)ブームに乗っかっている多くのメディアや若い人たちと同じ次元だったのだろう。実用品で使える物ならば民藝品だと思いこみ、長崎を拠点に、そうした物を探そうとしていた。
 九州は窯場が多くある上、前にもお話したが、太田熊雄さんの窯にも知り合いが入っていたこともあって、まず長崎から出発して焼きものに着手しようと話し合った。
その時、たまたま、佐賀放送が肥前陶磁作家展という展覧会を長崎市の支局ホールで催していた。陶磁作家といえば陶芸家のことなのだが、民藝のミの字も理解していない私は会場を見に行った。そこに展示されている物は作家先生たちの作品であり、肥前、つまり有田周辺のかなり有名な作家が出品していた。
 その中にコーヒーカップ、湯呑み茶碗、ご飯茶碗など日常で使う焼きものがたくさん見られた。価格は当時の私には高いか安いのかはわからない。普通よりも高かったとはずだが・・・。私は陶芸というのは、そういう日用品はつくらず、日用品は瀬戸物屋で買う物と思っていた。また、日用品イコール民藝品という誤った認識もあるため、作家たちは民藝品もつくるのだなと勘違いしてしまったのだ。
 それで会場にある作家の作品のうち、私と友人それぞれが好きな物を買い求めた。私が選んだ物の中には一水会(いっすいかい)作家、久保蕉破(しゅうは)さんの作があった。住所を見ると、佐賀県西松浦郡有田町岩谷川内(いわやごうち)と書かれていた。蕉破さんが出品していた作品は磁器で、かわいらしいウサギの絵が描かれた物など、現在の大日窯の定番製品が並んでいた。価格も何百円と安く、こんな有名な方々も日用品、民藝品を手がけるのかと驚いた。

 ならばと、もやい工藝では手始めにこの窯の物を販売すればいいではないかと考えた私たちは、この展示会責任者である佐賀放送の村山さんのもとを訪ねた。今の若い人たちに無い行動力と勢いが、当時の私たちにはあったのだ。

現在の大日窯の外観(撮影/副島秀雄)

大日窯・初代、久保蕉破さん
(大日窯ホームページ http://dainichigama.comより写真転載)

昔、伊万里にあった赤絵の磁器人形。オランダ人がずいぶん好きだったようだ。
これは久保蕉破さんがつくった物。
最初の頃、窯を訪ねた時にいただき、大事に残してある。40年ほど前の物だから古色があり、いい感じに見える

これも久保蕉破さんの作品

陶芸作家の窯めぐり

 村山さんは「若い人たちがいったい何事ですか?」と驚き、迎えてくれた。「私たちは工藝店を立ち上げ、民藝の物を置こうと考えています。この間の展示会に置かれていたような民藝の窯を紹介してくれませんか?」と頼んだ。
「若い方がそのようなことに取り組むのは好ましいことだから教えましょう」と村山さんは名刺をくださり、そこに紹介の言葉を書いていただいた。
 最初に訪ねたのは中島宏(ひろし)さんという有名な陶芸作家。この人の窯は昔から知られる古窯のあった場所と知る友人とともに武雄からバスで向かった。中島さんに会うなり「自分たちは民藝の物を扱う店を始めようと思っています」と切り出すと、「いや、俺は民藝ではない」と中島さん。彼は青磁で有名になった人で、客間には松絵の大皿や大鉢が飾ってあった。
 それを見て、とてもいい物だと感じたが、その物の意味を知る友人が尋ねると「濱田庄司という民藝の大家が来て、欲しがった」と中島さんは民藝への悪い印象を抱いていた。自分は食器づくりが目的ではなく、生活のために食器も手がけている。それは決して、君たちが扱いたい物ではないと帰された。

 その後、嬉野温泉に移動し、一位窯を訪問。磁器をつくっている作家、田中一位さんの窯だ。そこでは青白磁のきれいなコーヒーカップなどが目に留まり、話を聞きながら、これもいいなと思ったが「これは民藝品ではないよ」とはっきり言われた。民藝を理解していない私たちがキョトンとしていると、「店で扱いたいのならどうぞ。あなたたちは若いから物を貸してあげますよ」と言われ、とても嬉しくなった。それからもう一軒、江口勝美窯に顔を出したが、そこは作家が不在で、夕方になり、大日窯を目指した。

初めての会話

二代目の故・久保 徹さん
(大日窯ホームページより写真転載)

 有田の町をゆっくり歩くのは初めてだったが、現在以上に風情があり、昔ながらの焼きものの看板を出した店が軒を連ねていた。その中の一軒が大日窯だった。
 煙突が立つ窯の中では重油で磁器を焚いていた。単窯(たんがま)といって、大きな袋が一つしか無い窯。そこに煙突を立てて、まわりから重油のバーナーで火を上げて焚く。
 そんな古めかしい工房に立っていたのが久保徹(とおる)さんだった。私と歳が近い、かわいらしい坊ちゃんのような風貌。お父さん(礁破さん)は?と聞くと、かなり体調が悪く、今は入院しているという。こうして私は初めて焼きもののつくり手として話をした。その相手が久保徹さんだったのだ。彼には私たちの店のことを話し、これから一緒に頑張りましょうと意気投合した。
 徹さんによれば、大日窯は当時、日本中に多くあった民藝店に物を送っているという。それは豆皿や5、6寸の小さな鉢、ご飯茶碗やどんぶりなど。古い民藝の物を知る友人は、これらは古伊万里の写しを現代に展開した物で、好ましい焼きもののひとつだと言っていた。

キャッチボール

 それからしばらくして、いよいよ物を仕入れるべく、以前、挨拶に回った窯を再訪した。その時は、他の窯元は全然、相手にしてくれなかった。しかし、嬉野の田中一位さんはとてもいい方で、物をどんどん持っていきなさいと世話してくれたのだった。その後に大日窯に行くと、お父さんが亡くなられた直後で、徹さんがひとり右往左往していた。友人が物を次々に選び、私もわからないなりに選んでいった。それから久保徹さんとの付き合いが始まっていく。
 その当時の私は制作者のもとを訪ねると必ず泊まっていった。久保さんとも話しているうちに「うちに泊まっていきなさい」ということに。そうして有田方面に行くと、彼の家に泊まるようになっていった。
 こうして久保さんのもとで、さまざまな物を見ていくと、わからないなりに発言するようになった。彼もお父さんが亡くなった後で、どういう方向で仕事をしていったらいいか迷いがあった時だった。それで、私との友人的な関わりで制作上のアドバイスをずいぶん求めてくるようになったのだ。

 当時の私は年に4、5回は九州に行っていたので、そのたびに彼の所に泊まっているうちに、私も物が見えてくるようになった。古い物も見たし、古伊万里の原型の美しさもわかってきた。そういった物を目にしてから、大日窯の製品を見ると、少し物足りなく感じた。その物足りない点を指摘すると、彼が反撃するというふうにキャッチボールが始まった。

型抜きの仕事

 彼はロクロの仕事がほとんどできなかった。どちらかというと機械的な物をつくるのが好きな人で、むしろエンジニアになったら能力を発揮したかもしれない。焼きものはそれほど好きではないように見受けられたのだ。お父さんとの間に確執があったという話も聞いていた。当時は自分の窯で焚いていたのだが、オイルショックだったこともあり、重油の価格が高騰していて、とても割に合わないと、岩谷川内にあった岩窯を処分して、有田郊外に新たな窯をつくることになった。
 まだ独身だった彼一人では、この仕事はできないので、昔から働いている老夫婦や若い男女の見習いの5人による窯がスタートだった。その老夫婦が型を抜く時に必ず出るホコリをパタパタとはたいて仕事をするのを横で見ていて、手仕事とは離れた窯と感じるようになっていった。その頃、私は小鹿田、小石原の窯場に行き始めていたので、ロクロを引いての素早い仕事と比べて、石膏の型で抜いてから削ったり、抜いた物を合わせる所を刃物できれいにする仕草は手仕事ではないように思えた。<

ロクロに挑戦

 大日窯は量産の物しかできない窯なので、まずは何10個という量の型をつくらないと量産できない。型を1個つくるにはいくらと決まっていて、膨大な費用がかかった。大きな工場ならば、それを使いこんで何千という数をつくれば採算を取れるのだが、大日窯のような小さな窯では型を買うだけでも大変なリスクを背負うことに。そんなことで、新しい仕事に向かうには型づくりをしなくてはいけないから、難しくなる。
「だったら、あなたは器用なのだから、少しはロクロでもやりなさいよ」と私は久保さんに提言。そうして徐々に久保さんはロクロ仕事もするようになった。ところが器用といっても、ロクロ技術はそう簡単に身につくものではない。
 それでも窯業学校を出て、多少のロクロはできる彼はモタモタしながらも着手していった。
 当時の大日窯には必ず日本民藝館展に出品していて、型抜きの物も入選を果たしていた。しかし、どうせ出品するのならロクロで引いた物にしようと、それから5年間に及んで、毎年日本民藝館展が近づく9月頃になると、ロクロ用の注文を出して、見本を送り、出品用のロクロ製品を頼んだ。
 すると久保さんは休みの日を利用して1ヶ月くらいかけてつくるように。ところが何10と焼いても、製品として取れるのはせいぜい5、6個。下手したら2、3個ということも。技術が無いために焼くと割れたり、歪んだりするのだ。それでも取れたわずかな製品を日本民藝館展に繰り返し出品していった。
 私はどうしても古伊万里の美しさを見出したかったから、陶土、釉薬、呉須に関してずいぶん彼に細かく指示して試作させた。久保さんは生来、分析をするのが好きな人だから、さまざまに繰り返してテストしながら、いろいろな釉薬を考えて、昔の古伊万里に近い物を再現しようとした。

 それは私オリジナルの物ゆえ、他の店には出さない「もやい工藝オリジナル」の製品となった。彼はそんな注文に応えて裏切ることはなかった。他の窯元の場合、特別注文したオリジナル製品を他の店に出したりする。自分たちでつくったと言うような窯元ばかりなのだが、彼は律儀だった。

久保徹さんがつくった燭台。ロクロで引いた製品。
竹の絵の収まりがおもしろい。
なかなかしっかりしたつくりで、彼の遺作としては最上の物だろう

鈴木繁男先生が指導

 やがてロクロ引きによるマグカップづくりも試みようということになった時、たまたま鈴木繁男先生が私と一緒に九州へ行くことになった。その時「先生、大日窯にも行ってくれませんか?」と頼むと、「うーん、気が重たいな」と言う。鈴木先生は砥部の梅野製陶所で製品の指導をずっとしてきた。彼自身も砥部で職人となり描いた物もあった。そんな自分が有田に行き、何か指導するのは砥部に対して申し訳ないと同時に、若いつくり手に絵付けの指導をするのは辞めたいと言われた。
 しかし、「大日窯には磁器の専門家がいないですし、先生が苦労されて砥部を再建したわけだから、申し訳ないのですが、行ってくれませんか?」と説得。すると「このことは一応黙っておいてくれ。砥部に対して義理が立たない」と鈴木さん。なぜかというと、当時の日本には磁器の作家は何人かいたが、磁器でつくる民藝系の製品といえば砥部か大日窯しかなかったのだ。
 むろん砥部の方が規模は圧倒的に大きいのだが、砥部を指導した鈴木先生の立場からしてみれば大日窯を指導するのはちょっと控えなくてはいけないという義理があったらしい。
 ところが大日窯へ一緒に訪ねると、自然と口を出すようになった。私としても先生に口出ししてもらわないと勉強にならない。釉薬や陶土のことを聞くと、私が開発した物に関してはすべてokだった。私が関わった陶土を全部選ぶのだ。「こんなにいい陶土を使っていて、どうしてこの製品が民藝館展に出てこないのだ?」と鈴木さん。この釉薬は他の製品とは違うではないかと。
 なぜこの釉薬を使わないのかと問うと、久保さんはマイナス思考の持ち主で、何かと理由ばかり付けるので、鈴木先生に怒られた。
「若い者がそんな後ろ向きでどうするのだ。もっと前へ、前へと進みなさい。とにかく久野君の話を聞いていれば絶対に安心なんだから、きちんと言われたことを守っていけば、安心だよ」と言われた。
 すると久保さんは久野さんのオリジナルという物を考えたいからどうしたらいいでしょうか?と相談してきた。
 「うーん」と鈴木先生は考えてから「簡単だ。何か大日窯を示す印があるか?」と質問した。確かに印はあったのだが「これはよくない。はっきり言って野暮ったい」と一刀両断。ならば先生、新しい印を考えてくださいと久保さん。
 よし!と今の「日」にチョンを付けたマークを鈴木先生が考えたのだった。そして私の注文したオリジナル製品にはすべてこのマークが入ることになったのである。

このマークが鈴木繁男と久野恵一の合作のデザイン。大日窯のもやい工藝オリジナルの製品に付けられる

安い土がいい

 有田では陶土の質を「エリ」と言う。「エリ上(じょう)」(選び抜いた、いちばん上質な土)、「エリ中(ちゅう)」(普通の並の土)、「エリ下(げ)」(最低の土)という土があるのだ。私はむしろ「エリ下」の方がいいと考えた。なぜかというと、古伊万里の「くらわんか手」が思い浮かんだからだ。「くらわんか手」の陶土に使われたのは、ほとんど「えり下」に近く、碍子に使ってもいい安っぽい土だった。逆に言うと粗末な土だから焼くと鉄分が出たり、硬いから割れにくくなる。庶民用雑器として「くらわんか手」が最上にいいというのは、まさにそういうところにあった。
 それから当時の伊万里焼は石灰釉ではなくて、木灰の釉薬を用いていた。今のように植林によって杉やヒノキだらけになる以前の九州は照葉樹林帯地域ゆえに良質の木灰がたくさん取れたのだ。とくに柚の木の灰はとても柔らかく、釉薬にすると、青白がかった美しい色が出る。そのため木灰の釉薬を庶民の雑器をつくる窯でも多用していた。
 古伊万里はそういう意味では悪い生地の中にきれいな釉薬を使ったりしている焼きものといえる。コバルトも山呉須といって、中国から入ってくるものではなく、山の中にあるマンガンなど鉄分を含む物を自分たちでいろいろ混ぜ合わせてつくった顔料なのだ。これを染め付けして焼くことによって独特の雰囲気の色が出る。そういった古伊万里のよさを再現したいという思いがあり、私は大日窯に焦点を当てて取り組もうとした。
 久保さんも聞く耳をもち、やってみたいという。問題はロクロの手引きで成形できないこと。どうしても型抜きによる仕事になってしまうのが難点だった。もちろん型抜きでも、いろいろな物をつくりたいけれど、採算が合わない。私たちの小さな民藝店にも採算が合うよう数百万円の売り上げを出す力も無いため実現は難しかった。そのかわりに、日本民藝館展において大日窯の健在ぶりを見せるべく、久保さんには昔ながらの土、釉薬を使い、下手ながらもロクロ引きしてつくって出品していこうと。その取り組みを長年ずっと続けてきた。

古伊万里の「くらわんか手」のかたちを真似た。
鈴木繁男先生の「線でまとめた方がいい。絵付けをするな」という指導により、コバルトの線のみを引いた

絵付けしたそば猪口が多いけれど、伊万里の物で白磁だけのなかなかよいそば猪口もあった。それをコピーさせた

有田の町の骨董屋にて、伊万里で輸出用につくった洋皿を見つけた。
それを久保さんに見本として渡し、手引きで真似して制作してもらった。
ロクロ引きが上手くないため重い。しかし、よくここまで頑張ったという皿。
日本民藝館展に出品したら、もちろん入選した

上の皿は縁が立ってつくりにくいと言うので、型でつくったのがこれ。
手仕事であることを示すために裏側にあえて青い線を入れているのは、鈴木繁男先生のアドバイスから。
縁に線を入れると洒落ているし、ひと味違うよと言われたのだ。
必ず私が関わった大日窯の製品には外側か内側に線が入っている

型で抜いた上の皿をさらに手仕事でつくり直してみたらと、ロクロを引いて制作したのがこれ

昔のくらわんか手に使われていたコバルトの鉄分が強い呉須釉を施し、テスト制作した皿。
少しコバルトが濃すぎてしまったようだ

型の仕事を見直す

 このように私の大日窯との関わりは長かったのにもかかわらず、今までこの連載記事で紹介してこなかったのは、仕事のメインが手仕事でないからだ。あくまで手仕事は絵付けの部分だけなのだ。  これは古伊万里の特徴でもあるのだが、昔は一人で絵付けすることは無かった。4、5人の手で1枚の器がつくられたのだ。線を引く人がいれば、枝だけ描く人がいるといった具合に、一貫した作業工程の中で物が出来上がるというシステム。今のように一人の人間が全部、絵を描くということはありえないし、一人の人間が描かないことで力が分散されていい物が出来上がってこないということがある。そういうことがネックだったため、なかなか最上品の物として館展には大日窯への特注品を出品できなかった。
 ところが私も古伊万里の古い物を見ていくうちに型物への考えを改めるようになった。ある時代から古伊万里の焼きものは型の仕事がずいぶん採り入れられてきているのだ。磁器という土の特性なのだが、泥状にして流しこむことにより、たやすくかたちが出来上がる。それに絵を描いて、そば猪口やくらわんか手、小さな碗、飯碗などができてきたのだった。そうした型の仕事でも有意義な立派な物ができたのだから、大日窯でも、それでいいのではないかと考えるようになったのである。

型で抜いた皿。そのかたちと線が洒落ている。普通は裏側に入れるマークを表側の中央に置いた。
これは鈴木先生に「余計なことをするな」と怒られた。
しかし、その後「ここにあると、うまく収まるものだな」と認められた

古伊万里の美を継ぐ

 次に私は、描かれる絵が気になるようになってきた。私はなるべく久保さんには線描き、幾何学模様でまとめるように頼み、なるべく絵付けした物は避けるようになった。
 そうして格子文様や縦の線描き文様、あるいは思い切って白だけの物を提案しながら、着実につくっていった。もやい工藝ではこれら、かなりさっぱりしたオリジナル製品の販売は軌道に乗っていた。
 私は大日窯を、従来通りの古伊万里と同じ絵を写し、絵付けする窯であると同時に、古伊万里のよさを現代的に表していく磁器の窯という方向へ導きたかった。とくに、古伊万里のもつ釉薬、陶土の美しさはかけがいのないもの。それを現代に活かす方法はなんとかないかと思案したのだった。
 正直言って、現在の有田を含めて古伊万里を再現しているのは作家的なつくり手ばかりだ。そんな彼らも陶土から釉薬まで精選された物ではなく、身近に入手しやすい安易な物を使っている。また作品が粗野で素朴すぎて、私たちの目があまり向くことはない。まして明治以降の伊万里付近の磁器は京風文化にとても影響されていたため、つくった物が京都の有名店に納められないと、よい評価を受けないという傾向がある。つまり私たちの目指す物はよく見てくれないのだ。

型で抜いた皿。そのかたちと線が洒落ている。普通は裏側に入れるマークを表側の中央に置いた。
これは鈴木先生に「余計なことをするな」と怒られた。
しかし、その後「ここにあると、うまく収まるものだな」と認められた

このバターケースは私の注文品ではないが、絵付けがいい。
梅の絵が古伊万里の絵と比べても引けを取らないと感心した。
久保さんの奥さん、としえさんが描いたのだが、今後もこんな絵がひょっとしたら描けるかもしれない。
釉薬の調子など、条件があるのだろう

不遇な事故

 オリジナル製品が定着することで、私の方向づけで大日窯を広められ、ある通販会社との関わりが強くなった。その会社の担当の方から古伊万里の現代的な物を販売していこうという提案もあり、その要望に応えて3年目の12月のこと。「久保さん、いよいよ来年は本格的に提案する物をつくって、世に出していこう」と話を交わし、さまざまな取り決めもした。久保さんも来年はいいですねとずいぶん喜んでいた。私も経済的にずいぶん迷惑をかけたこともあり、久保さんにはかなり助けられたのだ。その恩を返さなくてはと、積極的に大日窯の物を採り入れてと考えていた矢先だった。
 その2日後、私が鹿児島に着いた時、久保さんが不慮の事故で亡くなられたという電話がかかってきた。すぐに駆けつけなくてはと思ったが、ちょうど何10年ぶりの大雪で数日間、交通がすべて麻痺し、どこにも出られない状態に。鹿児島に缶詰になった私は葬式にも参列できず、結局、船で鎌倉に戻り、改めて弔いに出かけることになった。
 彼は何事にも心配性だった。それで、もしものことがあればと常に心配し、対策は生前からたてていたと聞いた。何か虫の知らせがあったのだろうか。

久保さんが独自でつくってみたいと思って、私の注文した洗面器型の鉢からヒントを得て制作。
私は白だけでつくってもらいたかったのだが、彼は絵を描きたかったのだろう

有望な継ぎ手

 久保さんが亡くなった後、元気にこの仕事を続けるよう叱咤激励し、なんとなく仕事は続けていくということになった。次男の博志君も少しずつ仕事に興味を示してきたということだった。
 博志君は活力があり、元気がよくて、前向きの好青年だ。彼はロクロを習いに、そして彼の奥さんは絵付けを習いに、それぞれ研究所に行っている。未亡人になった、としえさんは絵付けしながら細々ながら仕事をしているのが現状だ。前のような営業形態ではないけれど、博志さんが頑張りながら、これからも窯としてやっていけるような道をたどっている。
 彼は手仕事フォーラムのメンバーにいち早くなってくれたし、毎日のように手仕事フォーラムの動向をホームページ上でチェックしているようだ。外界の動きをきちんと見分けて、自分の道もつくっていくことだろう。
  これだけ長い歴史の中で培われた古伊万里という優れた焼きものが、今はまったく違った流れになってしまった。そんな中に少しでも昔ながらのよさを現代に採り入れていき、一般の人が当たり前のように使える、安価で気持ちのよい磁器を提供する窯としてやっていってほしいなと願うのだ。
 とくに磁器のつくり手というのは作家が多くて価格が高い。かたちを狙ったりする人が多い。だが、博志君はそういう色気が無く、量産できる物を心がけていきたいとやってきている。また、新しいかたちをつくるとしたら自分でロクロを引けないといけないと前向きに、職人としての立場を守ろうともしている。将来、有望な窯として続くよう、自分も関わっていきたいと思う。

このだし徳利は高橋邦弘さんから「よいそばつゆ入れが欲しい」と注文を受けて制作した。
白だけだと間が抜けてしまうので、線を入れてみたら、
高橋さんは白のみがいいと返されてしまった。
しかし、これは風情があるため、いずれは博志君に制作依頼したいと考えている

博志君がロクロ成形したフリーカップ

中国・清(しん)時代の什レンゲを模した物。これはポピュラーで若者向けのショップでも人気だ