手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

ホーム>連載・手仕事レポート>Kuno×Kunoの手仕事良品>小石原・太田熊雄さんの大皿

Kuno×Kunoの手仕事良品

小石原・太田熊雄さんの大皿

小石原・太田熊雄さんの大皿

2010年9月29日
福岡県朝倉郡東峰村小石原
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

この連載記事の第21回で小石原焼、太田哲三さんの師匠であり父でもある、太田熊雄さんとの出会いや、その後のさまざまな関わりについて語った。そして今回、改めて熊雄さんの仕事について追記しようと考えたのは、熊雄さんが制作した一枚の大皿と再会をつい先日、果たしたからだ。この大皿にスポットを当てつつ、以前と現在の私の眼の違い、大皿の製法と技術、その皿から生ずる民藝美とつくり手の技量を見極めるポイント、さらには小石原焼と小鹿田焼の違いを解説したいと思う。

展示会をまかされる

 第25回で前述したように、私がこの仕事を始めて間もない頃、太田熊雄さんとの付き合いが始まり、彼の窯へちょくちょく出入りするようになった。まだ店舗としてのもやい工藝を構えていなかった頃のことだ。私はそのため、東京各地の民藝店を回って卸し商売を始めた。
 そして懇意にしていた、当時は渋谷、宮益坂にあった「べにや民藝店」を訪ねた際、太田熊雄さんとのつきあいが深いことを説明すると、「自分の店は焼きものが弱いため強化していきたい。民藝の中ではよく知られた太田熊雄さんの物を扱えたらありがたい」と店主。それで太田熊雄さんの窯に行き、卸しの許可を得て、早速着手したのだった。
 そのうちに「窯出しのたびに出向くほど通っているのなら、うちで太田熊雄窯の展示会をやってみたいから、すべてあなたにまかせたい」とべにや民藝店に言われた。私も仕事を始めて1年そこそこだったし、張り切っていたので、よしとばかりに取り組んだ。その頃は夜行を乗り継いで小石原を目指していた。太田熊雄窯には私の友人も弟子として入っていたし、その後、仲良くなった太田哲三さんも三男として弟子と同じような立場で仕事していた。

工房で作業する太田熊雄さん。太田熊雄窯は個人窯だが、小石原の中でもかなり大きな窯だった(複写/副島秀雄)

つくりやすい土質

 小石原の陶土は県境をはさんで隣に位置する小鹿田と比べ、とてもつくりやすい土質をしている。また、砂気があるために土を厚めにして大きな物を成形しやすいのだ。さらには小石原では小鹿田と異なり、需要が多くなると生産量を増大すべく土練機を導入していた。そのため工房に入ると「バッタン、バッタン」と土をつくる機械の音が聞こえてきたものだった。
 小石原は太田熊雄窯だけでなく、他の窯も機械導入が進んでいたものの、当時はまだすべて登り窯で焼かれ、手仕事の製品だった。鋳込みで泥を流しこんで手仕事風に見せる模様を付けることは、まだしていなかった。ただ、民窯ブームの渦中だったためお客さんは多いし、各地の民藝店からかなり大きな注文が来ていて最盛期だった。とくに太田熊雄さんの窯は東京の日本料理店「ざくろ」との関係が深く、毎窯、山のような食器類をリンゴ箱70箱に梱包して大型トラックで搬出していた。そういう定番製品をつくる力があった窯だったのだ。

大皿を勧める

 展覧会を催すにあたっては今もそうなのだが、窯の特色がある物や展示を考えて大きな物から小さな物までバランスよく選んだ。太田熊雄さんにはご自身でつくられる、いちばん大きな皿をと所望すると、喜んで制作してくれた。
 その皿のうち、出来のよい物を2枚選び、展覧会に出品して、いよいよ「べにや民藝店」の展覧会が始まった。
 その当時は大きな壺もあったが、今、考えると小鹿田よりもはるかに小さな壺だった。大きさは2斗5升くらいが精一杯。今、小鹿田では3斗5升の壺を制作している。しかし、当時の私は大きな壺という印象を抱いていた。
 メインの展示物となった大皿のうち1枚は焼成温度が柔らかく(低め)、やや白みが残っていた。もう1枚は温度が非常に強い還元炎で焼かれた、グレーがかった力強い物だった。私は展示会期間中、毎日会場に詰めていたが、初日に来られたお客さんの中に、信太(しだ)さんという方がいた。八幡製鉄(現・新日鉄)に勤められている会社員だった。とても物が好きで、こけしのマニアだった。べにや民藝店は当時、こけしもずいぶん扱っていたため、こけしファンが集まる店だったのだ。信太さんもその一人で民藝店を回っているうちに民藝が好きになって、焼き物にも少しずつ興味を持っていったようだ。それで「べにや民藝店」で何度も顔を合わせているうちに話が通じるようになり、太田熊雄さんの窯出し展示会にも来ていただいた。
 会場で話していると「久野さんだったら、どれを勧めるか?」と尋ねてきた。当時の私は飛び鉋よりも、刷毛目に関心があったので、太田熊雄さんの刷毛目文様の皿を勧めた。では2枚の皿のうち、どちらがいいかなと聞いてきた。私はこの白が残ったような柔らかい方がいいのでは?と答えると、じゃあ、「あなたが勧めるのなら、そっちにしよう」と買ってくれた。
 ちょうど信太さんは千葉市郊外に家を建てたばかりの時で、家の中に飾る物がどうしても欲しくて、この皿が欲しかったのだそうだ。私は展示会終了と同時に、この皿を届けにうかがった。床の間に飾られた皿を眺め、これはいい物であり、非常に大きな皿という強い印象を持ったのだった。
 この買い物が縁で信太さんととても懇意になって、私のことを「久野ちゃん、久野ちゃん」と呼ぶような関係になった。私よりずっと年輩の方だったのだが、鎌倉に店を出すと遊びに来てくれたり、泊まりがけで私を呼んで一緒に酒を飲んだこともあった。物が好きな、とてもいい方で、ずっと長く付き合ってきた。

 しかし、定年で退職されてからは千葉に住まわれていることもあり、まったく会わない状態に。それでも私が手仕事フォーラムを設立すると、すぐに入会して支援していただいた。

信太さんに勧めた、太田熊雄さんが手がけた尺5寸の大皿

小鹿田に惹かれて

 その後、小鹿田との関わりが強くなっていくと、太田熊雄さんのつくられる物と、小鹿田の方々、とくに坂本茂木、柳瀬朝夫さんの両者がつくる物を並べて比較検討してみたりした。どちらが好きか、嫌いかなどと比べているうちに、小鹿田焼の方にのめりこんでしまい、太田熊雄窯の窯出しに足を運ぶ機会も減っていった。当時は太田熊雄さんに惚れ抜いていたから、この大皿は日本で最高の物だと思っていた。それで信太さんに「ぜひ買ってください。買わなくては駄目ですよ」と勧めた。信太さんも喜んで買ってくれた。ところが、それからまもなく、柳瀬朝夫さんの甕と太田熊雄さんの甕、同じ刷毛の甕を並べて、小代焼の福田豊水さんと夜中に論争したことがあった。その時、私は太田熊雄さん、福田さんは柳瀬朝夫さんの甕がいいと主張した。ところが長く話しているうちに自分が負けていった。小鹿田の魅力がその時にようやくわかったのだ。 
 また、長男の太田孝宏さんが太田熊雄窯を継いだことで、さらに縁遠くなっていった。たとえ小石原に足を運んだとしても、友人としてお付き合いしている太田哲三さんの窯へと向かってしまう。その経緯は第21回の記事でも述べている。

朝鮮半島から来た焼き物、扁壺(へんこ)。
太田熊雄さんは朝鮮のつくり方や民藝派作家先生のきちんとした手順ではなく、素人のやり方で成形していったことが、
かたちから如実に見て取れる。ロクロで回してまず円形の物をつくってから手で押さえ、かたちを整えてじっくりとつくっている。
そんな見様見真似でつくった物には素朴なおもしろさがある。
釉薬を逆さまに掛けているのは、作家的な仕事もできるし、やりたいという意識の現れだ。
ちょっとひょうきんだなと思う

あれ、小さい!

 

 今年の夏のこと、信太さんから突然電話がかかってきた。
「自分もずいぶん歳になる(80歳近い)から、身の回りの整理もしていきたい。今までずいぶん物を買ってきたけれど、あなたが私に推薦した太田熊雄さんの大皿は欲しがっている久野ちゃんにどうかなと思って・・・」。跡継ぎの息子はまったく物に興味が無く、そんな物は邪魔だから処分してくれと言われたそう。「だったらどこかに売るよりも、久野ちゃんにあげたい」と信太さん。
 すぐさま私は千葉へと受け取りに向かった。彼の家を初めて納品で訪ねた時、家の周辺は荒れ地に新興住宅が出来つつあるような地域だった。それが先日、36年ぶりに再訪してみると大変な住宅街になっていた。
 彼の家で例の皿に再会してみると、思わずこんな言葉が漏れ出た。
「あれ、こんなに小さかったっけ?」と。36年前と今では私自身の見識の相違がある。当時はものすごく大きくて、元気がよくて素晴らしい皿と思っていた。ところがその後、坂本茂木さんや柳瀬朝夫さんがつくる粗野な皿の強さ、勢い、大きさを目のあたりにしてきた自分の現在の感覚からすれば、それほど大きくはなかったのかと驚いたのだった。
「なんだ、要らないの?」と信太さん。
「いや、そんなことはないです。案外小さかったんですね」と私。小鹿田の大きな皿をほとんど見たことのない信太さんは「自分には大きく見えるけどなぁ」と首をかしげた。

太田熊雄さんは何でも練り付けでつくった。
練り付けというのは土を紐状に巻いてつくる紐づくりのことなのだが、こんな豆皿も手がけていた

尺5寸皿に豆皿を載せて

皿をつくらない皿山

 当時、太田熊雄さんから、この大皿の謂われを聞いた時、小石原ではもともと皿はつくっていなかったと言っていた。とくに大皿は無く、皿そのものは昔の各地の物を見様見真似でつくるしかなかったとも。昔の陶工とは外来の廻り職人のこと。彼らがつくる物を見て皿をつくっていたのだと。
 以前にも話したが、小鹿田、小石原を含めて九州一円に、皿山と呼ばれる所がたくさんある。皿山とは皿をつくっているからそう呼ぶのではなくて、焼き物をつくる場所を皿山と呼んだ。壺山ではなく、皿山となるのは、「皿」が焼き物を総称した北部九州の呼び名であって、「山」は焼き物を手がけている窯場のほとんどは人里離れた山の上にあったことに由来している。なぜかというと、昔から窯は登り窯を設けるのが当たり前で、そのためには屋根をつくらないといけない。しかし、明治時代以前は瓦屋根が許されなかったため、

茅葺きか藁(わら)か葦(よし)、あるいは木の皮(こけら葺き)の屋根にする。となると、窯場で火を焚いて、下からあぶればあぶるほど火の粉が散る。カラカラに乾いた屋根に火の粉が付けば火事が起こりやすい。それゆえ防火のために昔から人里離れた山、あるいは田んぼや畑や農作物が盛んな所に迷惑をかけないような場所に窯場を構えざるを得なかったのだ。

太田熊雄さんは一介の職人だったかもしれないけれど、民藝に関わった先生方と接触が
あったことで世間に対して敏感な部分がある。そういう意味でさまざまな物をつくった。
この花瓶は決していいかたちとは言えない。
しかし、土の鉄分の強さ、登り窯の火の強さが表出している。
白っぽく海鼠色になっている箇所はおそらく藁灰を掛けたのだと思う。
温度が強いあまりに藁灰が流れて消えてしまい、土の中にある鉄分が吹き出してきた。
そして融合してこんなふうに、透明の釉薬や飴釉を掛けたような雰囲気になっている。
この焼き物は小石原の強さと魅力を示している

石見の技術が転化

 小石原の皿山もまた、ほとんど皿はつくっていなかった。壺、甕類が主で、大きな鉢も手がけたかもしれない。とはいえ、時代の流れで皿をはじめとする焼き物の注文もこなしていかないといけなくなった。しかし、皿をつくる技術があまり無ければ、人から学ぶ必要がある。というわけで、小石原は廻り職人と呼ばれる人たちを雇ってつくっていた。
 おそらく明治時代以降の島根県石見(いわみ)地方には「玉づくり」の技術を備える職人がたくさん存在していたのだろう。これは土の塊を絞って立ち上げて、非常に大きな物をつくる技法。石見の土は磁土に近い性質で、伸ばしにくい。それを強引につくれる優れた陶工がいたのだ。ところが、明治、大正、昭和と日本が近代化されていくにつれて、そういう重たい壺、甕類は避けられ、瀬戸物など軽い物が求められていく。すると、つくり手自体はいても、その技術を持っていても職人は食えないために他所へと流れて行く。それで小石原の窯元たちが安い日当で石見の廻り職人を雇ったのである。
 小石原の土質と島根方面の土質はまったく違うが、どちらの土も焼くと締まって非常に強くなる点で共通していた。ただし粘りが少し欠けているために分厚く引かないといけない。それは石見の土とやや似た部分があるのだ。
 そのため、石見の陶工たちは小石原の陶土を使いながら物をつくっていくことに苦労はしなかった。逆に、小石原の陶工たちは大物づくりが不得手だった。
 九州には多々良窯や苗代川焼など朝鮮系の製法をおこなう窯が存在していたことも留意したい。これら朝鮮系の窯は水肥をせずに土を叩いてつくっていく。いわゆる紐づくりなのだが、叩きという道具を駆使して土を締めながらつくっていく。これは内地の一般的な製法とは違い、大物づくりは技術を要する。  
 そんな窯のひとつである小石原に石見の陶工たちが来て、島根県の技術を伝えることで飛躍的に大きな物をつくれるようになっていく。そして、それが伝統として地域に残っていった。
 石見の廻り職人は昭和40年代のなかばまでは小石原にいたのだが、私がこの仕事に入ったのは昭和40年代後半には、もう姿は無かった。手仕事フォーラムでも推薦している、島根・宮内窯の宮内謙一さんも過去には小石原にてずいぶん物をつくっていたらしい。そういう話を聞くと、石見の陶工の技術は小石原に転化して、小石原でも大きな物をつくるようになったといえる。
 とはいえ、それまでは大きな物をつくるのは苦手というか経験の無かった小石原の陶工が手がけるのは大皿ではなくて鉢となる。円形の焼きものは壺、甕類という袋物に限られていた。その製法もまた石見から教わったものだ。

飴釉を精製する際に土灰を少なくしていくと、鉄分が表出して錆が生まれる。
それを錆釉と呼ぶ。茶人が喜ぶような一輪挿しだ

高台がたいせつ

 太田熊雄さんは民藝のさまざまな方とのおつきあいからものづくりをされていて、皿のつくり方はもちろん知っていたし、皿をつくっていかなくてはいけないともわかっていたので、皿を頻繁につくるようになる。
 ところが太田熊雄さんが備える練り付けという、紐を巻きながら、締めながらつくる製法では限界がある。大皿をつくるには、ある程度つくっておいて途中で継ぎ足さないといけない。そうなると継ぎ足した部分にへこみができたりして皿そのもののかたちが歪み、なかなかいい皿ができてこないのだ。しかも、紐づくりなのでどうしても平坦にできない。そのため、高台をわりと広めに取ることになる。
 では、ここで小石原での昔ながらの大皿づくり、つまり太田熊雄さんが尺5寸の大皿をつくる行程を説明しておこう。
 まず朝鮮から来た蹴りロクロの径は尺2寸の36cmくらいと決まっている。その上にベタと土を載せると、くっついて土が取れなくなってしまう。そのためにカメ板という隅が落ちた四角い板をロクロ台に載せる。その板の上に土を落として、叩いて締めていく。次に紐を巻きながら上へ伸ばし、ロクロを引きながらいっぺんに成形する。
 このカメ板の上で成形するから皿の径は尺5寸くらいまでが精一杯なのだ。さらに大きな皿をつくろうとすると、いったん外に出してよく乾かしてから、またロクロ台の所に持ってきて土をつないで伸ばしていくしかない。そうすると、どうしても土のかたちに無理があって歪みがあったりする。
 それでも、そんな歪んだ物を裏返しにして削ってつくられるのが現在の大皿。熊雄さんはそういった無理なことはしない。昔ながらのつくり方だから引きっ放し。縁も付けないでつくるから皿が平たくならず深皿になってしまうのだ。
 そして土が乾いたら裏返しにして高台を削る。ところが、もともと皿づくりをしていない地域。高台の無いベタ底でつくっていた。ところが高台が無いために、皿に変形が起きやすい。そこで、高台をつくる方法をいろいろなものから学んだり、見たり、あるいは石見の伝統技術を真似たりして高台を削る方法を知るわけだ。

 そうなると小石原の陶工はご飯茶碗をつくる際にも皿と同じように高台を削って立てて、中をえぐるようになる。皿づくりの基本技術を活かして、変形が少なくなる焼き物をつくれるようになっていく。

これは黒い釉薬を掛けた物。
黒釉といっても飴釉の中の成分を少し変えただけで黒になるのだが、火が強いと鉄分と融合してさまざまな風情を醸し出す。
これこそが小石原の特徴だ。小鹿田と同じように飛び鉋を打ったり、刷毛目を打ったりする仕事ではなくて、こういう土味を活かすべき。
小石原は砂気が強く、土が引きやすく、鉄分がある。
そのことに温度調整が重なり合って焼成温度と中の鉄分がさまざまに釉薬のおもしろさを出してくる。
このおもしろさは登り窯でないと絶対に出ない。

伝統など無い

 つまり小鹿田も小石原の陶工も、従来は皿のつくり方を知らなかったのだ。他所の技術を真似て、取り入れてきたのである。小鹿田の坂本茂木さんは、廻り職人として小石原に雇われたこともあるそうだから、かつて小鹿田の陶工は小石原の技術を学んだのだろう。そして小石原は石見の陶工、あるいは唐津などを廻っている職人の技術を導入しながら技術を形成していった。

 小石原、小鹿田が300年の伝統をかたくなに守るということは無くて、実は伝統というのは人間が伝統であって、技術はさまざまなものが導入されて伝統になっていくということなのだ。伝統とは最初からつくりあげたのではなくて、途中からどんどんいろいろ技術が導入され、その土地の陶土、釉薬、地形などに左右されながら、工夫してつくりあげていかれたもの。それゆえ、この2つの民窯にはそれほど長い伝統などは無いのである。100年、いや50〜60年かもしれない。その事実をきちんとつかまないと、伝統に対してのひとつの見方を誤ることになるかもしれない。

下手な大皿

 私が小石原をはじめて訪ねたのは昭和46〜47年頃だが、その当時、尺8寸くらいの大皿があったりした。しかし、太田熊雄さんは尺8寸以上の皿は引けなかった。それは彼が昔ながらのつくり方しかできないからだ。
 当時の小石原での尺8寸以上の大皿のつくり手には梶原藤徳(ふじのり)さんがいた。太田熊雄さんより20歳ほど若く、豪快なつくり手で、焼きものの職人的な体型。ずんぐりむっくりで、足が太くてロクロ技術に長けた人だった。彼の窯の隣には梶原二朗(じろう)君がいた。私と同い年で奥田康博さんの窯にいた人なのだが、藤徳さんの製法を横で見ていた彼も尺8寸の大皿をつくれた。しかし、その皿のつくりは小石原伝来だとか、九州伝来のものではなくて、内地の信楽あたりでつくられるような大きな物の真似だった。元来の小石原焼らしいつくり方では太田熊雄さんの尺5寸の大皿がいちばん大きかった。
 小石原の特徴は高台が広い点だ。高台を狭くすると、分厚く引いた土が縁から重さで下に落ちる(それを「へたる」と言う)。よって、高台を広く取らないといけないのだ。ところがあまり広く取りすぎると、今度は皿の真ん中に力が加わって落ちてしまう。そのため、高台を幅広に取りながら縁が落ちないように保たせる。そういう製法ができれば尺8寸の大きな皿も引けることに。となると、その後に続く人がみんな真似する。
 いちばん真似したのが、熊雄さんの長男で、現在の太田熊雄窯の代表、太田孝宏さんだ。彼は大皿のつくり手として有名だ。彼が大きな皿を手がける時はまず全体を厚く引いておいてから、よく乾かし、裏返してカンナで削り落として整えて、高台の幅を広く取る。父親のような、昔ながらの製法ではなく、削り出しの製法。こんな製法で自分は大皿をつくれると、民藝作家を自称する人は各地にたくさんいる。ところが彼らのほとんどが高台の幅が広く、土が重たい。皿をカラカラに乾かしてから鋭利なカンナで削って余分な厚みを落とし、かたちを整えていくやり方で大皿がなんとか焼けているのだ。
 この製法だと、真ん中が落ちこむので、高台裏の所に何かを置いて焼く。ということは高台裏を見れば、つくりが上手いか下手かがわかるのである。今、大皿を引いているつくり手のほとんどはロクロ技術が無いから、その程度の物しかできていないのだ。

 高台裏に何かを置いて何とか焼かれた大皿を作品展で表側の文様だけを見て素晴らしいと賞賛するのはおかしい。裏側を見れば、どんな細工をして物をつくっているかがわかるのだ。ただ、そういうことを抜きにして物が好きならばともかくとして、そういう技術的な問題があることを知っておいてほしい。

土質の違い

 小石原の窯は酸化燃焼用にできていて、焼き物は1250℃から1280℃というかなりの高温で焼かれる。すると還元炎が中性気味となり、白い化粧土を刷毛で打っても真っ白にはならず、ややグレーがかってしまう。また、土が強くて粗く、よく引けるために歪みがあまり少ないことも小石原の特徴だ。

 緑釉を掛けた時には中ぐらいの温度で焼く。1250℃以上だと緑釉が溶けてしまうからだ。この釉薬は小鹿田もよく用いるが、小鹿田の場合、1250℃まで温度が上がると土が壊れてしまう。小鹿田は1230℃がいちばん適度な温度なのだ。小鹿田はきめが細かく、鉄分が多くて、収縮率が高い土だから1250℃まで上がると土が爆発して壊れてしまうのである。

 ちなみに小鹿田は緑釉を青地釉と呼ぶが、この釉薬を掛けた時にはいちばん火の強い所に置く。一方、小石原は火力がやや普通の所に置く。そこに両者の違いがある。

こんな雑器の壺をつくったこともある。
ふだんはお弟子さんがいっぱいつくる砂糖壺なのだが、熊雄さんがたまたまつくった。
飛び鉋を小鹿田と違って浅く広く打てているのは小石原の土に砂気が多いため。
粘りがあり、締まっている小鹿田の土質では飛び鉋を深く細かく打てる

小石原と小鹿田を比較

 では同じような大きさの大皿で両窯の差異を比較してみよう。下の写真で見比べてみてほしい。柳瀬さんの皿はやや還元がかっていて、より白く見える。小鹿田の土の方は鉄分が多いから地が黒い。それゆえ白い化粧土を掛けると、黒と白の相反作用で白の方が強く目に映るのだ。この皿はよく焼けているけれど、小石原よりも温度は柔らかく、1240℃くらいで焚いた物。小鹿田で1240℃というと最高に高い温度となる。
 次につくりの違いに着目しよう。太田熊雄さんは引きっ放し。柳瀬朝夫さんは引いてから少しコクを持たせている(縁に至る部分をさらに締めている)。皿を裏返してみれば縁をきちんと留めていることがわかる。練り付けあるいは紐づくりでつくっても小鹿田の場合は土が伸びやすいから留まるのだ。小石原の場合はコクを付けることはできない。
 さらに高台の大きさを見比べてほしい。皿の径は共通でも、これだけ高台の大きさに差があるのだ。
 そして発色の違いにも目を留めたい。小鹿田の土は粘土質で鉄分が多いため、焼いた時の変色が激しい。小石原の土は砂気が多くて粗っぽいため変色が少ない。そのため小鹿田は後ろ側に白い化粧土を刷毛で引いて、収縮をうまく止めている。小石原は土が重くなって下に落ちるため、化粧土を引いていない。

太田熊雄さんの尺5寸大皿

柳瀬朝夫さんの尺5寸大皿

高台の大きさを比較。左が太田熊雄さん、右が柳瀬朝夫さんの皿

飴色がおもしろい

 小石原は焼成温度が高いために、鉄分が小鹿田よりも少ないのに土の中の鉄分が吹き出すことで飴の色が強く出る。小石原の焼きもののおもしろさはこの鉄分の強さにあるのだ。小鹿田の土は鉄分が多いけれども黒みがちだからあまりおもしない。小石原は鉄分が吹き出してくると赤みを帯びるからおもしろい。このよさというものを小石原が活かせていたら伝統が守れたかもしれない。
 しかし、このメリットに気づく人が誰もいなかった。濱田庄司先生も気づかなかったかもしれない。他所者の私は長くこの窯の製品を見てきたからわかる。  
 このような特色をきちんとわかっていれば、現在の小石原のような、とんでもない流れができず、もっと素朴な物をつくれていただろう。  これはどっちが上手い、下手とかではなくて、土質の問題なのだ。小鹿田も小石原も刷毛目も打つ、飛び鉋も打つけれども、化粧掛けしたものは小鹿田にはかなわない。小鹿田の方がきれいに決まっている。小石原はもっと力強い物を陶工のみんなが目指していたら、違う方向にいけたかもしれないと思う。

模範か、素朴か

 刷毛の打ち方も、太田熊雄さんと柳瀬朝夫さんはまるで違う。熊雄さんの皿は刷毛の幅が広い。朝夫さんの方が狭い。これはつくっている量とも関わってくるのだが、朝夫さんは外側に土をかいていることによって刷毛が非常に伸びてきている。熊雄さんは刷毛を手狭に止めているから、そこで刷毛が収まってしまった。熊雄さんは刷毛が飛び出すような所を櫛描きで止めて抑えている感じ。そういう意味では、熊雄さんは規範的な仕事。朝夫さんは素朴で躍動感がある。
 それから釉薬の掛け方にも要注目。朝夫さんは素朴でてらいがない。非常に粗野な感じがする。熊雄さんは収めようという感じが見える。こういう所の差が出てくるのだ。
 好き嫌いは別個にして、収めようという意識が強いのが熊雄さん、失敗してはいいけないという立場で物をつくっている。朝夫さんは失敗を恐れず、というか無頓着なのだ。ここに民藝の意味合いが現れてくる。
 小鹿田と小石原の違いはここではっきり線引きできるのだ。飛び鉋も刷毛目もまるで昔からあるような伝統と言われているが、むしろ小鹿田の方で流行って、小石原の方がそれを真似た。だが、飛び鉋や刷毛目は化粧土がきれいに見える所に打った方がいい。それゆえ、小鹿田焼の方が向く技法だ。

これは僕の宝物。熊雄さんはこんな小さな蓋付きの豆壺(薬味入れ)もつくっていた

小石原のこれから

 小鹿田と小石原は兄弟窯とも呼ばれ、互いに歴史を持ち、同じような文様をやり、同じような物をつくってきた。しかし、今の時代は小鹿田の方が人気は高い。15年ほど前までは小石原の方が観光バスで押し寄せる人が多く、賑わっていた。窯元も10軒から15軒になり、今は50軒を越える。そして、さまざまな物をつくってはいるが、登り窯で焚いている窯はほとんど無い。ガス窯で焚いているし、中には鋳込み型で成形したり、あるいは他でつくった物を文様を施す窯もある。大変な陶業地にはなったけれど、近年は小鹿田のような山間の自然が残る所に一般の人が興味を持つようになってしまった。
 そうなると、小鹿田の方に人が集まり、50数軒になった小石原の方にはあまり人が行かなくなった。いくら小石原が福岡を代表する窯場といっても一般のお客さん足がだんだん遠のいているのは事実。その理由はいったい何なのか?
 それは今の時代は自然の摂理に逆らわず、その方向を向いた窯が注目されているからだろう。また、窯元が増えすぎたことにより、自意識が強まった窯が見切られたということなのだろう。
 そういう状況の中で小石原は今後、いったい何を求めていったらいいのかというと、やはり原点に戻るべきだと思う。小石原と小鹿田の違いをつくり手がはっきり認識して、小石原の特色あるものを活かしていった方がいい。
 では、どう活かすか? 小石原の土は砂気があって粘りがあってつくりやすいという利点がある。焼けると飴色がよく出る。それから化粧掛けもきれいではあることは確かだ。さらに窯の中の温度が高いために、温度の変化が非常に激しい。その激しさが特徴であり、奇異を狙ったものではなくても、土質だけでも、より個性がある物ができるし、そういう土の中にある強い鉄分を出しながら、強い焼きものを考えていくことによって、現在の食器に還元していく手段を考えた方がいいと思う。
 いわゆる機械的な物を導入したり、同じような文様を付けたり、伝統の物ではないことを均一にやるよりも、長い歴史をふまえつつ、何がいいか悪いかをユーザーとともに考え、生産地ならではの、物を活かす術を考えなくてはいけない。そして、そのことが理解できるプロデューサーも育てていくことも必要だ。そういった人たちとともに、つくり手が考えていけば、まだまだ小石原の再生、復興はあると思っている。
 私もこれからそういうかたちで小石原に関わっていきたい。小鹿田と小石原の違いははっきりあり、それぞれのよさを明快に伝えて、再興の道を探っていきたいと願うのだ。
 さいわいなことに、太田哲三さんがこの度、小石原焼陶業組合の理事長となった。彼は私がここで述べたことを十分に認識しているのである。また、将来に向かって取り組もうという強い意識も持っている。今後の彼の動向が小石原焼の将来へのひとつのテーゼとなる可能性も見えるのだ。

 なお、太田熊雄さんの大皿はせっかく信太さんからいただいけれど、私は熊雄さんの息子である太田哲三さんにお返ししようと思っている。なぜなら現在の小石原には昔ながらの皿はほとんど無いからだ。小石原に残る大きな皿はみんな石見の職人がつくった物ばかりなのだ。これでは石見の職人の方が上手だったということになってしまう。石見の職人が残した大きな物が小石原の伝統工芸館に小石原の作品として残っている。それは悪いことではないけれど、小石原の人がつくった、村で最高の傑作はなかなか見られないので、この大皿はやはり小石原に残しておきたいと思う。

つい先日、小石原に行ったら、太田哲三さんの息子で、
吹きガラスを吹いている太田潤君がいた。
彼はインターネットでさまざまな物を見ているのだが、
たまたまオークションに祖父、
太田熊雄さんがつくった物が出品されていたそうだ。
藁の釉薬を掛けた扁壺や5寸くらいの普通の中鉢など、
あまりにも安い物だから3点購入した。
全部、桐箱に入っていて、熊雄と箱書きされている。
ところが、そのうちの中鉢は誰が見ても下手。
とても熊雄さんが引いた物とは思えない。
しかも玉づくりでつくられた物だった。
これはおそらく太田孝宏さんが若い時につくったのだろう。
それを太田熊雄さんと偽って出品されていたのだった。
これを見ると、小石原の現実とはこんなものだなと見えてきてしまう
(撮影/副島秀雄)