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Kuno×Kunoの手仕事良品

蟻川工房 蟻川喜久子さんのこと

蟻川工房 蟻川喜久子さんのこと

2010年12月3日
岩手県盛岡市
語り手:久野恵一 / 聞き手、写真:後藤薫

 ホームスパンの蟻川紘直さんについては以前kuno×kunoでも詳しく述べたが、紘直さんが亡くなられてからもう13年になる。紘直さん亡きあと、その意志を継いで工房を担って来られたのが奥さんの喜久子さんである。
 今日は、私どもにとっても非常に大事なかたである蟻川喜久子さんの話をしたいとい思う。

手仕事フォーラム学習会のときの喜久子さん

 今、もやい工藝では「雪国だより」の展示会をしているが、喜久子さんにはわざわざ盛岡からご来店いただき、二日間にわたって実演をしていただいた。実演をしながら多くのかたがたにホームスパンという織物のよさを伝え、また手仕事フォーラムの勉強会でも熱弁をふるって織物の現状を語っていただいたことにとても感謝している。

喜久子さんとの出会いと印象

 喜久子さんとは、私が紘直さんと知り合った36〜37年前からのおつきあいになる。そのころの私はまだ20代で、喜久子さんはかなり年上の気がしていたが、きれいなことで有名なかただった。
 紘直さんは私より10歳ほど上で37~38歳、喜久子さんは35歳くらいだったろうか。私はまだ駆け出しだったし、蟻川夫妻もこれから仕事をがんばらなきゃという頃だったが、紘直さんはお母さんの福田ハレさんとの強い確執があったため、そのころの夫妻は、まるでハレさんと競合するかのように仕事をされていた。
 喜久子さんは非常に率直なかたで、私と蟻川さんが話していると横から嘴を入れてきて、ある意味では「うるさい姉さんだな」という印象ももっていた(笑)。当時の私は民藝まっしぐら。上っ面の民藝の理想論を述べたりしてると、紘直さんは「そうだそうだ」と相槌をうってくれるのに、喜久子さんは「何言ってんのよ」と口を挟んで攻撃する。私もむかっ腹がたつのでつい強い言い合いになる。そうすると紘直さんが間にたって「まあまあまあまあ」と笑っている・・・、そういう具合だった。
 喜久子さんのご実家はもともと芸術一家というか、家族に優れた彫刻家がおられたり、教育者がおられたりして、美術関係のことには非常に敏感だったのだ。

織り手として工房を担う

 今から25年くらい前に紘直さんは家を建て直した。今のように1階を工房にして、家族と母親のハレさんも一緒に住むようになった。そして、ホームスパンを運動体として広めていこうとして、工房にお弟子さんをとって社会に送り出すということを手がけていた。それは今も続く蟻川工房のありかただが、紘直さんは自分自身が織るというよりどちらかというとプロデューサー的な立場で、仕事の方向性や化学的分析、織りの良し悪しを含めた道づくりをされていて、実質的に織っていたのは、ほとんど喜久子さんだった。

染められた糸の押さえたトーンが美しい

 織りというのは縦と横の世界なので、訓練されればそれなりのものができるようになる。ところがホームスパンの場合、風合いだとか、糸紡ぎの感性的な部分、素材の活かしかたとなると、人間の個性というものが介在せざるを得ない。その考えかたと手との一致が、出来上がった生地の良し悪しになる。
 喜久子さんは結婚する前は、織りに関してはまったくの素人だったにもかかわらず、感覚的に非常に優れていたこともあり、ご主人の方向を継ぎながらかなり職人的ないい織り手として育っていった。同時に入ってきた若いお弟子さんたちを教育することも彼女の大切な仕事であった。
 及川隆二さんからこんな話を聞いたことがある。
 仙台のとあるギャラリーで「蟻川紘直ホームスパン展」をしたとき、喜久子さんがまだ子どもだった娘さんを連れて会場に見に行った。そうすると、「蟻川紘直ホームスパン展」と書いてあるのを見た娘さんが、「あれっ、お父さんは仕事してないのに、なんでお母さんの名前が出てないの?」と言ったので、大笑いになったそうだ。「織ってるのはお母さんだ」ということは、みんなが認識していたのだ。
 ふつうは親方が工房の実質的なつくり手ということになるのだが、やきものにしても職人的仕事のおもしろいところは、必ずしも個人ではなく全体でつくったとしても、工房の仕事はすべて工房主の仕事になるということだ。

決意表明

 喜久子さんは常にご主人を立てながら、とはいってもかなり強い意見を持っているかただし、もって生まれたすばらしいセンスというものがあるから、かなり強い立場でいろんなかたがたと接触されてきただろうと思う。
 お義母さんのハレさんとも、特に織りの方向についての意見の相違は、常にもっておられたことだろう。
 そういう困難ななかで、工房をまとめながら仕事をしてこられたわけだが、紘直さんが若くして亡くなられたときに私どもが心配したのは、あの言動にもみられるように、非常に一途な部分があるかたなので、工房をそのまま続けることができるかどうかということだった。
 工房と強い関わりがあった光原社の及川隆二さんも心配し、「今後、どうしたら喜久子さんに方向性を見出してもらえるだろうか」と、二人でよく話していた。
 ところが、お葬式のあとに関係者だけで重兵衛寿司に集まったとき、喜久子さんはふだんと違う顔を見せた。非常にきりっとした態度で、「私がこの工房を守っていきます。この工房の主人の道を繋いでいきます」と言って、自分の心情を明快に述べた。それまでの喜久子さんの性格を知る私は、ほんとにうまくやれるのかと危惧感をもっていたのだが、そのときの喜久子さんの顔には非常に強い決意があらわれていて、やっぱりこのかたは他の一般的なかたとはずいぶんちがう、自身の強い個性を持ったかたなんだという認識をあらたにした。

 それからの喜久子さんは、ご主人の仕事上の遺産ともいえる織物や、ご主人の人間関係でつくりあげたお客さんを継続し、しばらくはそのままの形で仕事をつないできた。

工房内風景
写真:中尾広道

後進に道を開く

 ところが数年したとき、喜久子さんは、自分自身の生き方や工房のことを考え、長く自分が携わるよりも後進に道を開いたほうがいいんじゃないか、ということを決断された。これは非常に勇気あることだ。
 工房を受け継いだり、ご主人の仕事を受け継いだりすると、えてして守るという意識になり、他人に「昔はよかった」とか、「ご主人の仕事はよかった」と言われたくないために、かなり無理をして仕事に取り組む人たちが多い。
 ところが喜久子さんは肩が柔らかく、意地を張らない。
 仕事の道と己をよく知ったかたで、後進に道を開いて工房の責任者にすえ、自分は後見人としてバックアップしながら、ご主人が切り開いたホームスパンの道をつなげていこうと決断された。
 その割り切りは非常に早く、長く弟子として来ていた伊藤聖子(きよこ)さんに工房を託すことにして、自分は一職人として工房で仕事をするという方法をとった。そして数年かけてその道をつくりながら、伊藤さんを次の工房の担い手とするように努力をしてこられた。

工房で糸を紡ぐイトちゃんこと伊藤聖子さん

喜久子さんの潔さ

 ところが伊藤さんがそれ以上になって、工房主としての自覚を持って仕事をするようになると、どんな世界でもそうだが、後ろにいる人がめんどくさくなるものである。自分よりベテランのオーナーが常に後ろから見ているというのは、はっきり言って非常に息苦しい。彼女はそういうこともいち早く察知して、「あなたが好きなようにやりなさい」と伊藤さんに全権を任せて、自分はスパッと身を引いた。
 はたして私にそれができるだろうか。どうしてもスパッと引けない部分がある。こういうふうにやっていってもらいたいとか、仕事の道はこうなんだとか、ついつい口出しをしたくなるものである。
 しかし喜久子さんはちがっていた。

「紘直さんが引いた道は確立してるんだから、多少はぶれたとしても、彼女(伊藤聖子さん)の今の道を尊重して自分は陰に回り、さらに重たくなれば一線を引いてもかまわない」とも言う。生半の人間にそういう潔さはもてない。やはりたいしたかたなんだと思う。

ホームスパンで作られたコート
写真:川崎正子
ホームスパンでジャケット
写真:鈴木修司

ホームスパンという仕事の性格

 私自身のかかわりとしては、蟻川工房の仕事を見守るというほどの立場ではないし、ホームスパンという仕事そのものに対して、自分自身がのめりこんでいくものでもない。
 なぜなら、私が強くかかわるやきものや編組品、木工品といったものが、いわゆる一般的な生業形態で実用品をつくり、なおかつ手仕事のよさ美しさをつくりあげていくのとはちょっとちがい、ホームスパンはかなり個人的な仕事の方向性をもつものだからだ。

糸紡ぎの機械
写真:川崎正子

見るホームスパンと着るホームスパン

 ホームスパンの良し悪しについてはさまざまな見方がある。
 先日の学習会でも天然染料と化学染料のことが話題にのぼったが、及川全三さん系の風合いを求める方向と、柳悦孝先生系の着ることに重きをおいた仕上げの方向。
 個人的にいえば、私はやはり風合いが好きだから、全三さんのものがすごく好きなのだ。布地の立体感ということからいえば、やはり全三さんということになる。
 そういう点で、紘直さんとはずいぶん対立することもあった。
 「着る」という上での仕上げは、たしかに「蟻川さんのほうがいい」と言われる。しかし実際に着古してくるとやはり同じように毛羽立ってくるし、落ちてくるのはやむを得ないことだ。全三さんのものも、風合いだけがすばらしいのではない。これはどちらが優位に立つというわけにはいかないものなのだ。
 織りの宿命として金額の問題もある。どんなに「普段着に使ってくださいよ」と言われても、1着が20万も30万もするのでは、布の良し悪しと、「着る・着ない」が一致しない。
 蟻川さんの布は着心地がよさそうだしきれいではある。だけど平面的なのだ。天然染料よりも化学染料のほうが退色しないのは確かだし、化学染料にしてもそれなりの工夫をしながら天然染料に近いものをつくっている。喜久子さんは、学習会でもそれを実演して見せて、みなさんを納得させていた。

ホームスパンの命ともいえる糸づくり

 しかしそれとは別に、美しさの世界というものがある。それは「見る」という観点であり、「着る」という観点ではない。柳先生や濱田先生たちがボロボロになってもホームスパンを着ていたのは、美しいから着ていたのであって、実用で着ていたんじゃない。しかし悦孝さんたちはそれが許せない。「着る」という以上、当然耐久性がなければいけないし、退色しちゃいけない、ということになる。結局は、民藝の美なのか、実用工芸の美なのか、ということだ。
 この違いをあらわすいい例が、私が『暮しの手帖』で紹介した藍の染め分けの座布団だ。あれは民藝館展でBになった。あんな美しいものを悦孝さんはBにした。なぜなら、「座布団は日に干さなければならないのに、藍で染め分けしたものは退色して汚くなる。それは座布団としては価値がない」から。
 そういう人が紘直さんの先生であり、紘直さんは悦孝先生を尊敬し、その理論を信じてお母さんの福田ハレさんに向かっていった。喜久子さんはそれに追随したわけだが、喜久子さんにはすぐれたセンスがあった。
 センスの固まりのような喜久子さん。職人的な仕事を徹底的に仕込まれた蟻川紘直さん。しかもお母さんの福田ハレさんの優れた仕事ぶりと対抗しなければならない。そういう狭間で蟻川工房が成立していた。そしてもう一つ大事なことは、経済的にもたいへん苦しかったということ。たしかにホームスパンが売れた時代はあったけれども、そんなにむちゃくちゃ売れたわけではない。

ホームスパンジャケットの生地のアップ
写真:川崎正子
ホームスパンのマフラーやネクタイ
写真:鈴木修司

工房の要としての喜久子さん

 喜久子さんが工房を継いで、自分の道をつくりながらやっていくようになると、私どもとのかかわりが以前より親密になってきたように思う。
 私も盛岡へ行けば工房へ立ち寄り、紘直さんにお線香をたてて、また喜久子さんと言い合ったりしている。

 次の工房主の伊藤さんにも、手仕事フォーラムの一員として、メンバーとも仲良くかかわってもらっている。

機の前で語る喜久子さん

 蟻川工房にとって、喜久子さんの潔さとセンスのよさというのは非常に大事な要素であった。直裁にものを言うから、お弟子さんたちとぶつかり合うのも喜久子さんだったが、喜久子さんはいつも工房の要だったのだ。