手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

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Kuno×Kunoの手仕事良品

日置の箕

日置の箕

2011年1月14日
鹿児島県日置市柿の谷
語り手:久野恵一 / 聞き手、写真:後藤薫

 日本民藝館の蒐集品にもなっている日本を代表する手仕事である箕はふたつ。東は岩手県一戸町面岸のニギョウ皮で編まれた箕、そして西は鹿児島県日置市柿の谷の「日置の箕」。丈夫で使いやすい優れた箕として九州一円を席巻していたこの箕も、つくり手の高齢化や需要の少なさで、一時はつくる人が誰もいなくなったと思われていた。しかし2007年、諦めきれずに柿の谷を訪れたとき、久野氏の執念ともいえる目は最後のつくり手を見逃しはしなかった。

竹細工の産地、薩摩半島へ

車の免許を取ってまもない昭和49年。もやい工藝をつくったころの友人が家具の工房をひらいたとき、宮崎のやきもの屋さんが土捏ね台を注文してくれたので、それを川崎から日向まで約31時間くらいかかってフェリーで運んだ。それが私の最初の仕事でもあった。
そういう仕事のなかで私は宮崎から薩摩半島へと足を延ばし、鹿児島地方の手仕事を1週間くらいかけて見て回った。学生時代のクラスメートがちょうど鹿児島市内に就職していたので、彼の下宿を拠点にして、出かけていってはもどってきて泊まり、また出かけるというやり方である。
薩摩半島が竹細工の産地であるということは、先輩(武蔵野美大の宮本常一研究室)の工藤員功さんが調査収集してさまざまな文献に書かれていたし、南の明るい景色や開聞岳の勇姿に憧れて、薩摩半島を回ってみたかったのだ。
最初は知覧の武家屋敷を見て感激し、その後仏壇の川辺町の整然とした町並みを見て、やがて加世田という薩摩半島の中心の大きな市に入る。
加世田には高倉商店という卸専門の竹屋さんがあった。日本の老舗民藝店が鹿児島方面の手仕事、特に竹製品を仕入れるときはすべてそこへ頼むという大きな倉庫をもった竹屋さんだ。しかし私は当初から、卸から品物を入れるというのは自分の本分とせず、「つくり手の人と話をして直接とる」という姿勢を決めていたので、まずはそこにどんなものがあるかを調べて、親父さんともこの辺にどんなものがあるかという話をしてみることにした。

日置の箕との出会い

店には立派な箕があった。まだものが見えてなかった時代だが、しっかりとした仕事であるということは、当時の私でもよくわかった。親父さんに、「その箕はどこでつくってるのか」と聞いたのだが、当然、教えてくれない。ただ、工藤さんが書いたもののなかに、「日置の箕」というのがあって、それは日置の柿の谷という地域だけでつくってる箕だということはわかっていた。
薩摩半島を回る数日のうちに、多くの竹をつくってる人にめぐり合った。金峰山という独特の形をした修験の山があるが、その山裾にはおびただしい数の竹細工の人たちがいて、彼らは高倉商店をはじめとする卸屋さんから注文を受けてつくっていた。専業の人はほとんどいなくて、農家の副業が多かった。
鹿児島には真竹(マダケ)、孟宗竹(モウソウダケ)、笹竹(ササダケ)系=キンチクのものがあるが、鹿児島の薩摩半島の竹細工専業の人たちは真竹しかつくらなかった。真竹細工の地域である。
つくり手にはいっぱいめぐりあったが、やはり応用が利くのは町の竹細工屋さんで、各町には必ず一人や二人、竹細工を専門にする人がいて、使い込んで破損したり朽ちたりしたものは、町の竹細工屋に持ってきて修理を頼む。かつて薩摩では「みつくりどん」と呼んで、町の竹細工屋さんはたいてい修理もしていた。

そのころ竹細工はもう衰退してはいたが、優れたつくり手はまだポツポツといて、吹上町伊作には永倉義夫さん、伊集院には小吹有蔵さん、吹上町でも加世田にちかいところでは櫨木盛雄さんがいた。その人たちは自分でもつくるし、同時に近在の人たちのものも一緒に販売していて、そこに行けば何でもそろうというようなところがあった。

野上清春さんとの出会い

「日置の箕」のつくり手を探してはじめて柿の谷という地域に入っていったとき、遠方から見ると、その地域はまるでネパールや中国の山岳地帯のような印象がした。なだらかな崖に寄り添うように住居が密集している。かつてこの地が耕作地を持たぬ地域だったということは一目瞭然である。
訪れたのが春先の昼時だったので、農業の段取りにいそがしく、どの家もほとんど人がいない。
たまたまいたのが野上清春さんの一家で、聞くと、明日、つくった箕を持って宮崎へ売りに行くという。家族全員がいた。
私は「これはしめた!」と思い、そのときに見た瑞々しい箕の美しさに感動して、値段も聞かずに「そこにある20枚、全部ほしい」と言ってしまった。

その当時1枚4000円だから8万円。若かった私にとってはたいそうな金額だった。(どうしようか。帰るお金もなくなるんじゃないか)とあせったが、自分の性格上いったん言ったからにはもう引っ込みがつかない。心では泣きながら8万円を支払った。向うは喜んで、家族中が盛大にご馳走してくれた。「鳥をつぶす」と言って、生を食わされそうになったので、「焼き鳥にしてくれ」と言ったら、「薩摩鶏を焼き鳥にして食うなんて聞いたことがない」と笑われたことを覚えている。夜になり鹿児島に帰るときには、免許取りたてで不案内な私の車を真っ暗な山道を先導して国道3号線まで送ってくれた。

柿の谷集落の風景(1991年)
写真:久野恵一

箕をつくる生活

そのときに聞いた箕をつくる仕事や生活習慣の話から、私は(箕をつくる人たちは、薩摩半島の他の地域で竹細工をする人たちとは、ちょっと異端な感じで製作にたずさわってるんだな)ということを感じていた。そしてその方々がつくるものそのものの良さと美しさに感動を覚えていた。
「どうして宮崎まで持って行くのか?」と聞くと、「宮崎平野ではこれが非常に使いやすく便利だと言われる」ということであった。そして、「昔から自分たちは代々ずっと箕づくりをしていた。この集落のほとんどが箕づくりをする家で、今でこそ農地を取得したりしたけど、昔は農地もなく、家族中が箕づくりに関わって、これだけで生計をたててきた。つくったものはほとんど直売りで、それぞれが自分たちのお得意さんを持って売りに出る。昔は鉄道を利用して鹿児島市内や他の都市に持って行ったが、今は車で、つくりためたものを何十枚ともって、ほとんど宮崎市内で売りさばく」と言っていた。考えてみると、そのときに一冬分で50枚あったとしたら、1枚4000円だから20万くらいの金額になる。大学出の初任給が4万5000円の時代、20万円は結構な金額ではあるが、一冬でそれくらいだとやはり家族が生活するのはたいへんだと思った。そのころはみんな田圃も畑も持っていたから、現金収入のための箕づくりということになる。それが野上さんとの出会いだった。
問題は、私が仕入れたその箕が店ではいっこうに「売れない」ということだった。結局なくなるまで数年かかり、そのうちにこういうものは退色して枯れたような色合いになるということがわかった。できたてのときは竹の色が青々として瑞々しく、見た人はみんなワァーとなるが、色が変わったらますます売れない。特に民藝関係の人は使うより見ることが中心なので、非常に往生した覚えがある。野上さんから「どうして来ないんだ」というお手紙や年賀状をいただけばいただくほどまだ行きにくくなってしまった。

春の川辺町、市風景(1991年)
写真:久野恵一

柿の谷再訪・平野正義さんとの出会い

「日置の箕」をつくる柿の谷の集落を、また調査してみたいという気持ちはずっとあった。その後、編組品の展示会を各地で開いたりしていたし、日本民藝館の蔵品にもまったく同じようなものがあって、今でもこれをつくることができるのはたいへんなことだと思い、仕入れをしたくて再び集落を訪ねてみた。
ところが今度は野上さんのところは家中誰もいない。弱ったなあと思いつつ、たまたますれちがったおばあちゃんに「このあたりで箕をつくってるのを見ますか?」と聞いたら、「昔はみんなつくってたけど、今つくってるのは6〜7人しかいないんじゃないかな」ということだった。「その人を教えてください」と言うと、やはり野上さんが一番上手で、ほとんどが副業だけど、一人だけ専業でやってる平野さんという方がいる、と聞いた。
平野正義さんの家は集落の一番下のほうだった。訪ねてみると非常に人懐っこく、いかにも鹿児島の昔ながらの好々おじさんという感じで、私が神奈川県から来たというだけでびっくりしていた。平野さんは小さな箕もつくる。「それは何ていう名前?」と聞くと、「『民芸箕』といって民芸屋さんに出すんだ」と言う。そうか、「民芸」というのはおみやげ品の代名詞で、田舎でもやっぱりそう思われてるのかと思うとちょっとショックだった。しかし民芸箕といえども手を抜いた仕事ではなくて、大きな箕と同じものを小さくしただけの立派なものだ。むしろこのほうが売りやすく、天婦羅屋さんや郷土料理屋で料理を乗せて出すのにはもってこいのものだ。平野さんには何十枚も注文しなくても大丈夫だったので、そこにあったものを1枚いただいてさらに注文をし、薩摩半島へ行くと必ず年に1度や2度は訪れて持って帰る。特にその当時10月には日本民藝館展向きに毎年必ず1枚2枚は仕入れていた。行って、お茶を飲んで話して、お漬け物をもらったりポンカンをもらったり。私は崎陽軒のシュウマイや鳩サブレ持って行ったりして、非常に親しくおつきあいした。
そのなかで、平野さんはわりとおおらかに自分がどういう立場でこういう仕事をしてきたかを話してくれた。彼は、「数えきれないくらい前からここでこういう仕事をしてきた」と言ったが、せいぜい江戸時代、4代くらい前しか遡れないなという感じがした。

平野さん夫妻の箕づくり風景
写真:久野恵一

「日置の箕」の特徴

「日置の箕」を積んで車で走っていると、他県の人からよく「鹿児島のこの箕は使いやすい」と言われる。熊本や福岡、佐賀の竹細工屋さんに見せると、「この箕にかなわない」と言うし、そのあたりの竹細工屋さんも「日置の箕」を買って売っていた。ということは、日置柿の谷でつくる何人かの人たちは、つくったものを県外輸出していたということになる。
九州全般で見ると、農機具よりも箕を使ったほうが便利だという老人もいるし、山間僻地の農機具の入らない地域では、この箕を必要とするところがまだまだあった。「日置の箕」は他の箕より丈夫で使いやすいことをみんなが知っていて、他の箕は駆逐されて九州一円にこの箕が行き渡るようになったのだと思われる。この箕が江戸のある時期からこの日置でつくられるようになり、せいぜい4代前までしか遡れないということ以外、この箕をつくる人たちがどこから来たかということはわからない。
薩摩半島は耕作面積がかぎられているため、薩摩藩は昔から手仕事に力を入れ、さまざまな手細工(テゼク)を奨励した。そのため金峰山を中心とした地域にも竹細工を生業とする人たちが相当数いた。また、武士の手内職としてもつくらせていたが、その場合、材料は真竹しか使わない。しかし、「日置の箕」はつくりが込み入ってるし、技術的にも相当な熟練度を必要とする。素材も、キンチク竹、山桜の皮、枇杷の木、大ツヅラフジという蔓といった身近な自然体系のものを駆使している。そういう素材を採取し組み合わせる力を持った特別な職能集団が定着したところではじまったのが「日置の箕」ではないだろうか。
米づくりにかかせない箕は、日本全国馬蹄形で共通しているが、薩摩に関してはおそらく東南アジアから入ってきたバラという円形平ザルが使われていた。ところが、「日置の箕」のように使いやすいものが入ったことによって、バラが籾ふるいからほかの使用目的のザルへと変化していったのだと思われる。
他に「日置の箕」をつくる人は数人しかいない、ということだったが、それが誰かということは誰も教えてくれない。平野さんも教えてくれない。探すのであれば、独自に見つけなければならないが、こういう狭い地域ではすぐに目にたってしまう。つくり手に肉迫すればするほど、その人オンリーにならなきゃいけない、というのがこういう狭い地域のむずかしいところだ。僕がもっと商売に長けていれば、そんなことも関係なしにいいつくり手を探しあてていくことができるのだろうが、数もとれるものじゃないから、結局、一人オンリーになる。

そして誰もいなくなった

今から10年くらい前、平野さんの奥さんが倒れ、平野さんも体力的に箕づくりができなくなった。箕というのは、夫婦とか家族が一致してつくる仕事であり、一人でつくるものではない。編むだけの人、材料をそろえる人、というふうにしなければ効率が悪いし、皮のような強い材料もあって、そういうものは男でないと編めないということもある。だから、夫婦でどちらか手伝う人がいなくなると、やめてしまうことが多い。平野さんも衰退していってやめたくなったという話になった。
まだ一人か二人つくる人がいて、日置の柿の谷出身の宮崎さんという人が加世田のほうに移って箕をつくっていたが、その人もやがてやめてしまった。3年ほど前、鹿児島県歴史資料センター黎明館で「北と南の編組品」の展示会があったとき、知人の川野学芸部長が、「箕はとうとうだめになって、つくる人が一人もいなくなった」と嘆いていた。そのときはもう平野さんが仕事をやめたので、私は日置の柿の谷へ行かなくなっていたし、その後平野さんも亡くなってしまった。息子さんが少しやり出してみたけれど、むずかしい仕事だからうまくいかずにやめたということだった。川野さんは、「とうとうこれで箕も終わりだ」と言っていた。私は、「川野さん、それは案外わからないよ。伝統の手仕事で、こういう箕のようなものは思いもかけないところでつくる人がいるはずだよ」と言ったのだが・・・。

久保安男さんとの出会い

あきらめはしていたが、やっぱり私は柿の谷へ行ってみたかった。3年ほど前、たまたま手仕事フォーラムメンバーの鈴木君が鹿児島に行きたいというので、私は鈴木君を連れて宮崎から南下し、久しぶりに日置に入ってみた。そうすると、日置郡日吉町は、市町村合併で日置市日吉町になり、農地が区画され、山も整地され、来年は大河ドラマ「篤姫」のロケがあるということで、町はずいぶんきれいになっていた。

柿の谷の風景(2009年)
写真:副島秀雄

平野さんのところを訪ねてみたが、やっぱり誰もやっていなかった。野上さんのところでは、たまたま野上さんがいて、「いやあ、あんた変わんないなあ」と言われたが、「おふくろも家内も亡くなって、息子は継がないし、箕をつくる仕事はとっくにやめて、今は専業農家だよ」と、新米をいただいた。「ここらで箕の仕事はないですか?」と聞くと、「ない。あきらめなさい」ということだった。一旦はあきらめて帰ろうとしたが、そのあたりは密集した地域の細い道で、迷ってもバックはできず前に進むしかない。怖々下りて行って崖を見上げながら鈴木君に、「ここへ来るのも最後だろうなあ。こういう集落があったという写真を撮っておこう」と言いながらふと見たら、キンチク竹のヒゴが干してある家が見える。あれっ、箕に編み込むためのヒゴ!「竹細工をやってる家かもしれない!」ということで、ヒゴのぶら下がってる家をめざして行ってみた。そしたら奥さんがいて、「頼まれればつくるくらいのことはまだやってますよ」とのこと。そのうちに、ご主人ももどって来られ、話を聞くと、「自分は箕をつくる技術はあるけれども需要がないからつくらない。しかし家は代々つくってきたし、うちの親父はこの辺でも非常な上手だったので、その親父に習った自分自身にも力がある。ただし今、自分は商売をやっていて、川辺町の仏壇を売って歩く仕事をしている。そっちのほうが1個売れればたいへんな金額で、箕なんかをつくってるより、仏壇を売ってるほうがよっぽどいい。しかも農業もやってる」ということだった。本当につくれるのかと思ったが、「つくったものを見せてやる」ということで見せてもらったら、たしかに上手だった。平野さんよりはるかに上手で、野上さんともまたちょっと感じがちがった。
同じ「日置の箕」でも、ビワの木の太さとか、巻き方、扱う素材の好きな風合いというものがあって、人それぞれやはりどこかちがうところがおもしろい。野上さんというのは人間も鋭敏だけど、つくるものもかなりシャープ。平野さんのは何かもたくて平野さん自身もそう。そして久保さんは、やはり上手で、職人的なきちっとした仕事をする人だ。たいしたもんだなと思った。「いつでもつくってやる。ただし、自分は農業と仏壇を売って歩いてるから、これをつくるときはほんとに限られてるし、自分がつくるとなったら、他の連中のようにいつでもつくるというようなことはしない。材料が一番いいとき、それがいつかと言ったら12月だ。11月に採ったキンチク竹が一番使いやすい。そして山桜の皮はあらかじめ6月か7月に剥いで、赤みが飛ばないようにちゃんと保存してある。ツヅラもカビがはえないようにきちんと処理してとってあって、つくる前にはもどしてきれいに拭くから、他のやつらのとは違うんだ」と言いはなつほどだった。「今つくれるのは自分しかいないだろう。あんた、よく見つけてくれたね」という話になって、「いやぁ、外から見たらヒゴが吊り下がってるから、これはつくってるにちがいないと、僕も感動しました」ということで頼んでおくと、しばらくして久保さんから「あんたから頼まれたのを20枚ほどつくってある」と電話があった。「えっ、また20枚か!」と思いましたが、「自分がつくったものはいくらでも売れるから心配ない。とにかく置いとくから取りに来い。送ることは絶対しない」と言う。翌年は行けなくて、今年(2010年)、どうしても鳴子のフォーラムで飾りたかったので、たった1枚の箕を取りに鹿児島まで行ってきた。そしたら箕にマジックで何か書いてある。2万ほどする値段をご自分でも高いと思ったのだろうか、「かちがあり」と書いてある(笑)。

私と談笑する久保さん
写真:副島秀雄

山間では、箕を逆さに立てて、8月15日にそこにお供え物をしてお月見する。里の民と山の民の接点がこういう儀式としてあったのだろう。今でも、これでなきゃ使えないという人が山間部の老人にはいるが、継続してつくってもらいながら、店において販売するということはむずかしい。

日本民藝館の蔵品にもあるが、ニギョウの木の皮で編んだ箕が東の手仕事の集大なら、「日置の箕」は、やはり日本を代表する西の手仕事の集大成だ。草、樹木、竹、蔓といった自然素材をすべて網羅して農具としてつくりあげる。どちらもできあがったときの造形がとても美しい。優美なものだと思う。