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Kuno×Kunoの手仕事良品

吉田桂介さんのこと

吉田桂介さんのこと

2011年1月28日
富山県富山市八尾
語り手:久野恵一 / 聞き手:後藤薫

――降り積もった雪はあたりをおおい、大きな合掌造りの屋根にも届きそうである。そんな積雪のなかに律儀に並んだ、和紙の干し板。働き者の主の心意気を讃えるかのように舞う「越中八尾 紙すき」という赤い文字―― もやい工藝の板の間ギャラリーにかけられた一枚の絵は、芹沢C介作、「八尾の紙すき」。この絵を見ながら久野さんは、「今日は吉田桂介さんの話をしましょう」と言った。

吉田桂介という人

 「吉田桂介」という名は、この仕事に入ったときから何となく知っていた。
 昭和49年頃、『用と美』という小冊子で“李朝特集”が組まれたとき、そのなかに吉田さんは「李朝木工」という記事を書いていた。
 『用と美』というのは、北九州八幡にあった「用と美の会」が発刊していた小冊子で、社会主義的でリベラルな考えかたをもった高田一夫さんという木版画家が、「倉」という民芸店を経営しながら年に3〜4回出していた。地域の医者や文化人のバックアップを受けて、内容もかなりしっかりとしたものだった。
 その頃、吉田さんは韓国へ渡り、骨董品屋さんをまわって、李朝時代の家具類を含めた木工品を集めて日本へ持ち帰った。そしてそれらを富山民藝館で展示販売したのだ。
 それは、濱田庄司をはじめとする柳宗悦以降の民藝同人が寄って集って争奪戦を繰り広げるほどのレベルの高いものだったという。その当時すでに、李朝のやきものはクローズアップされていて持ち出しができなくなっていた。木工品はまだそれほどでもなかったが、しかしそれが最後の海外持ち出しだったのではないかと言われたものだった。
 当時、倉敷民藝館をはじめ、ずいぶんいろんな方々のところに李朝木工がおさまっているのを目にした。丹波の生田和孝さんのところにも立派なバンダチ(半開)があって、その大きさと金具のバランスのよさは眼を見張るものだった。生田さんは、「どやっ、これすごいやろ! 富山で買うたもので、吉田いうおっちゃんが韓国へ行ってもってきたんや」とうれしそうに言われ、私の頭の中でようやく吉田桂介という「李朝木工」の著者と富山のおっちゃんがつながった。
 それから数年して、民藝館へ出入りしているうちに、「芹沢型染カレンダーは、吉田桂介さんが経営する富山県・八尾の桂樹舎でつくられている」ということ、「吉田桂介さんは、芹沢C介先生を非常に尊敬していたので、C介の“金”偏に対して自分の名を木偏の“桂”にした」ということ、そして「吉田桂介さんは、柳先生を実際に存じあげている古い世代の民藝の同人である」ということも知った。
 だが当時の富山には、木工のプロデューサーであり富山民藝館をつくられた安川慶一というかたがおられ、そのかたは日本民藝館展の審査員もされて、非常に表だった活躍をされていたので、吉田さんはその陰に隠れた存在のように聞いていた。

はじめての八尾

 昭和53年、柳宗理さんが日本民藝館の館長になられたとき、民藝館の大広間で「菓子型の美」という展覧会をしたことがある。宗理さんは菓子型が大好きだし、金沢美大の講師もされていたので、金沢の干菓子の文化に驚異を感じておられたのであろう。
 昭和54年の秋も深まった頃、借りていた菓子型を返すために、私は民藝館へ入ったばかりの尾久さんと一緒に、富山・金沢へ行くことになった。それは安房峠を越えるかなり長い道程の旅で、思えばそれが尾久さんとのはじめての骨董行脚の旅であった。
 途中で尾久さんが「吉田桂介さんのところに寄りたい」と言い出して、私ははじめて八尾を訪れることとなる。尾久さんの話では、吉田桂介さんは、病気で倒れた安川さんの後に富山民藝協会の会長になっていて、「これから何かしなくちゃいけないんだ」と言っていたという。富山は、これといったやきものや籠類がつくられることもなく民藝不毛の土地だったが、どういうわけか民藝関係の人が多く、つくり手たちを呼んで展示会をしては成功していた。しかし、トータルな意味での民芸品の普及の会はあまりしてないし、民芸店はあっても骨董的な店ばかりで、「新作運動的なものはない」ということだった。ただ、昔は、富山民藝館を使って展示会をやっていたことがあるというので、「今は、できないものなのかなあ」と言うと、尾久さんは「それならいつでも吉田さんに紹介してやる」ということになった。

吉田さんとの出会い

 桂樹舎へ行き、吉田さんに紹介されて事務室に入ると、そこには芹沢C介さんのものがいっぱいあった。しかし、当時の私はさほど敏感に感じなかったものだから、「ああ、あるなぁ」ということだけだった。
 吉田さんのコレクションを展示している民族工芸館を見学して出てくると、吉田さんが待ち構えていたように、「どうや、わしのガラクタ見てきてくれたか?」と富山弁丸出しで人懐っこく話しかけてこられ、非常に親しみを感じた。そして、「君は何をしてる?」と聞かれて、「私はこういう店をやってます」と言い、尾久さんに「ちゃんと説明してくれよ」と言うと、何かしぶしぶのように「久野さんは、安くていいものを全国をまわって広めていく、そういう民芸店をやろうとしてる」と言った。すると吉田さんはすごくうれしそうに「わしもそうじゃ!」と顔をほころばせた。「ほんとにそうかな?」と一瞬思ったが(笑)、「富山の協会ではこのごろ展示会とかしてないですか?」と尋ねると、「ぜんぜんやってなくて、このままいくと沈滞ムードで終わってしまう。総会を開いたときにそういう展示会をやってもいいなと思ってるんだ」ということになった。そして私がそのときに考えていた構想を語ると、「それはいいな、やろうじゃないか」と言ってくれた。
 吉田さんはとてもいいかただし、吉田さんのところには民藝館と同じようなものがいっぱいあるし、(民藝の人たちって、みんなこういう人たちなのかなあ)と僕は感動してしまった。
 当時の富山には、安川さんの息のかかった人がまだずいぶんと生きておられて、そのときも、安川さんを信奉する協会会員のかたから、安川さんの甥っ子である尾久さんを「ぜひ家に招きたい」という連絡があった。そのかたは貫田さんという国鉄の機関車の運転手のかたで、北陸本線の富山から直江津までの間で機関助手になった人をみんな民藝に引き込んで、「貫田さんの国鉄グループ」といわれるぐらいに熱心なかただった。招かれていくと、金城次郎さんの皿や小鹿田の皿に、富山の海の幸をふんだんに盛り合わせて、すごい歓迎をしてくれた。そのときに、「今日、吉田桂介さんに会ってこういう話をした」と言うと、「それはいいことだから」と話がトントン拍子に進み、しばらくして貫田さんから直接電話がかかり、「さっそく展示会をやろう」ということになった。

民族工芸館の入口にかかげられた主旨文

富山でのはじめての展示会

 昭和55年6月、富山県民会館で、「九州民窯展」という名の会をすることになった。自分の商売もまだまだうまくいってない状態だったが、私はうれしくて、早速、小鹿田の人たち、小代焼の福田豊水さんや井上泰秋さん、小石原の窯元にも声をかけ、みなさんに協力を願った。展示の間、吉田さんは毎日のように会場へ足を運んでくれた。そしてこう言った。
「地方にはまだこんな仕事が残ってるんですねえ。自分たちは今のものをあんまりよくないと思って古いものばかりに目がいってたけど、地方の民藝の仕事の力というのはまだまだたいしたもんです。私たちもこれから支援するから、あなたたちもぜひがんばってください。そしてできれば毎年のように、ここで展覧会をやりましょう」。
 それ以来今日まで、毎年のように富山で展示会をするようになった。30年を越える吉田さんとの長いつきあいがはじまったのである。
 当時、北鎌倉の私の工芸店はわずか3坪。紙や染織品を仕入れる力もなかったし、店に置くものは私自身のオリジナルなものを目指していたので、吉田さんとのつきあいも、仕入れ先としてではなく、あくまでも民藝同人の尊敬する先輩としてであった。そして富山へ行くと、かならず吉田桂介さんとお会いするようになり、家にあげていただいて富山の海の幸、山の幸をご馳走になった。

富山と民藝

 柳宗悦を知っている時代の民藝に長けたかたがたの家では、濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチ、富本憲吉、舩木研児、金城次郎、島岡達三、滝田項一といった作家の食器が使われている。特に富山には民藝ファンが多く、あちこちのギャラリーで展覧会も多いので、みんなそういうものを持っていて使うのだ。
 富山のどっしりとした家づくりには、そういうものがまたよく似合う。分厚いケヤキの大テーブルの上に、同じくケヤキの拭き漆のお盆、そこに濱田・河井のどっしりとした器がのって、壁面には泰山文字や芹沢・棟方の作品が飾られる。そういう「これぞ民藝」というパターンがあって、当時の私はすごくそれに憧れていたので、「ああ、自分もこういうものがほしいなあ」と切に願っていた。
 富山の民藝館にしても安川慶一さんの筋が通っているので、展示されているものもどっしりと重たく豪快なものが多い。伊万里も、くらわんか系の分厚いものが飾られていた。そしてそれらは、ずいぶんと私の目の肥やしになった。
 そういう富山の民藝同人の志向に比べ、吉田さんのところのものは、ちょっと軽い感じがした。吉田さんは常に現代品を見ている人だったし、今の生活の中に和紙を取り入れさせなければならないという根本的な考えかたがあった。湯水のごとくアイデアを出しては、小さなようじ入れから、紙袋から、とにかく和紙を使った製品をいっぱいつくっていた。うんざりするほどの民芸風で、ちょっと方向をまちがえるとすぐにおみやげ風に転化してしまいそうな、境目ぐらいのものもあった。しかし、この境目くらいのものがよく売れるのだ。彼はそのへんの認識も非常に強くもっていたので、自分の生活もあまり重々しくはしなかったんだろう。
 吉田さんが物故作家のものを使っていなかったのは、仮にそういうものを入手してもおそらくそれは右から左へと流し、そのお金で根本的な民藝のすぐれた古作品を買っていたからにちがいない。

和紙文庫(上)と民族工芸館(下)

桂樹舎・和紙文庫での展示会

 あるときから公民館関係では販売を伴う会はできなくなり、それで吉田さんと親しいギャラリーで私の会をやるようにんなった。富山の民藝同人たちは、「民藝は眺めてるだけではダメだ。使わなアカン」と言って私を援助してくれたし、吉田さんもサポートしてくれた。ところが民藝関係者は熱心なだけに、ギャラリーのオーナーに少しでも理念に欠けるようなところがみられると、あんなところはだめだと言い出すようになり、だんだん富山で展示会をやるところがなくなってしまった。吉田さんに相談すると、「じゃあ、うちでやるしかないな」ということになり、以来、桂樹舎の和紙文庫を会場にした展示会が今日まで続くこととなる。
 桂樹舎の民族工芸館は、富山の山奥の利賀村というところの建物を移築したものである。利賀村は白川郷の五箇山と同じような合掌集落だが、近代化の中ですたれてくるのが眼に見えていて、吉田さんはいち早くその建物を移築した。それが民族工芸館であり、吉田さんの住まいにもなっている。
 古民家を移築して住まいと展示場を設けるという、いわば古民家再生を最初にやったのが吉田さんで、それを見た松本民芸家具創始者故池田三四郎氏は、「これだ!」と騒いで、自分の生活館を合掌集落のものでやろうということになった。そして「吉田は背が小さいけど、俺はデカイのでないと気にくわねえ。デカイのを探せ」と吉田さんに命じた。池田さんは大先輩にあたる人ですから、吉田さんは「はい、わかりました」と探しに行って、山奥から巨大な合掌住宅を手に入れてきて、松本民藝館に納めた。今の巨大な生活館があるのはそういういきさつによるものである。あまり知られていまいことだが、吉田さんによってずいぶん多くのものが発案されたり開発されたりした。
 吉田さんは新作運動にもけっこう興味をもっていて、八尾の漆職人のものや木工品、五箇山の竹細工などを実際に買って使っていた。しかし、それを販売にまで広げるということは、自分の会社がたいへんで、できなかったんだと思う。それを自分の後悔の一つとしていて、それを僕が代替えするようにやってるものだから、僕のやることをこんなに支援してくれているんだろうと思う。
 自宅を開放して展示会をやるというのは、来客の接待や世話もあり、家族にとってはたいへん迷惑な話だと思う。それをあえて何事もないように立ち居振る舞いをしてくれたのは、非常にありがたいことだった。

近年の民族工芸館での展示会の様子

目が利くということ

 吉田さんは基本的に、「ものが見える」人である。民藝の古いかたがたの薫陶を受けているので、非常に目が利く。
 これは実は大きな問題で、本質的なよさを感じるか感じないかは、目が利くかどうかによる。「ものが見える」というのは、やきものも、木工品も、建物も、染織品も、ガラスも、ある意味では電化製品のような工業品でも同じことなのである。いいデザインを選ぶとか、すばらしい意匠だとかいうのではなく、そのもののよさ悪さが感覚的に見えてしまうということだ。
 機械製品であろうと、手仕事であろうと、今ものであろうと昔のものであろうと、よい悪いの判断が素直に言えてしまうということがある。
 そういう力をもった人が、柳先生のまわりにはずいぶんいた。しかし、それが嵩じてくると、人よりいいものが持ちたいという人間の本質的な欲望に昇華されて、骨董趣味に入りこむ。民藝館が美の極致の標準であり、それよりいいものを探したくなる。私も当然そうなのだが、私の場合はないものがほしいというより、いいものをつくらせたいという気持ちがさきにくるので、何とか助かっているのだ。
 吉田さんのものを見る力には定評がある。いいものをもっていることでは有名な民藝協会のある人も、50万60万もするものを買うべきかどうか迷うときは、吉田さんに聞きにくる。また某有名民藝店の主人は、客が柳宗悦の書や芹沢C介の絵を持ち込んで評価を尋ねると、「僕にもわからないし、おそらく今の民藝館ではわかる者はいないだろうから、吉田桂介さんに聞きなさい」と言ったそうだ。今の時代、ものが一番見えているのは吉田桂介さんだということは、万人が認めることである。そして目が利くだけではなく、桂介さんは民藝の流れもちゃんと知ってる人なのだ。

民族工芸館で行われた学習会

民藝の世界における吉田桂介さんの評価

 では、吉田さんほどの人がどうして民藝館の役員にもならず、民藝運動の最先端をいきながら、民藝の指導的立場として評価されなかったのだろうか?
 これは私も同じ運命なのだが、商売をしているからだ。故池田三四郎氏も同じで、そこに悲哀がある。
 一般の民藝派の先生たちには、経済を重視したり積極的に販売することに対する反感や本質的な嫌悪のようなものが強くあるのだ。
 吉田さんの本業は桂樹舎の社長で、和紙を漉き、漉いた紙を製品にして、各地の民芸店に卸していた。やがて直売りをして直営店をつくったり、私と同年輩の現社長泰樹さんが経営に参加して、販売網を広げていった。それだから桂樹舎は今でも続いている。
 吉田さんの事務所に行くと、吉田さんがさまざまなアイデアを出して、ものに挑戦しているのがわかる。「これはどうじゃ? こんなもんつくったら、どうだろうかな?」と。
 同時に吉田さんは富山県の民藝協会長もされ、平成3年に富山で民藝協会の全国大会をして、それを最後に民藝協会の会長をやめられた。そしてその後は平成12年まで民藝協会の常任理事としておられ、平成14年、私がかかわる民藝協会の大騒動のときに嫌気がさして、「今の民藝協会は夢も希望もない」と言ってやめられたのだ。
 協会の理事会のなかでいつも発言されていたのは、「もっともっと民藝を若い人たち、特にご婦人たちに広めていかないと、このままでは尻すぼみになってだめになる。民藝というものは購買層がいなければ意味がない。学者を増やしても民藝は広がらないし、民藝好きが旅行ばかりしていてもしかたがない。ものを使って楽しむ人たちが増えてこなければ、民芸品の普及活動を積極的にしなければ、民藝は落ちてしまう」ということだった。民藝の普及活動がいかに大事かということを常に言っていたので、婦人雑誌が民藝を取り上げると、吉田さんは非常に喜んでいた。「そのことによってご婦人たちが少しは見てくれるし、買ってくれる」と。

意匠家としての吉田桂介

 吉田さんが卓越していたのは、ものが見えるということ、同時にアイデアを出して和紙の製品をどんどんつくるということ、芹沢先生の怖さを感じるほどのものすごい仕事の下請けをずっとやってきたこと。そのなかから芽生えたものは、工芸意匠家としての吉田桂介である。鈴木繁男や岡村吉右衛門に匹敵するかどうかはわからないが、工芸意匠家としての彼の存在は注目に値する。それを表す一番いい例として、表装表具をしてもらうとき、あるいは額装をしてもらうとき、吉田さんに頼むと一番いいものができあがる。自分のところの紙を使ってデザインをして、近くの表具師につくらせる。そのような仕事を「装案」というが、これは柳宗悦がつくった言葉であり、柳先生はそれをはじめた第一人者である。日本民藝館所蔵品の「大津絵」は、先生が意匠したものが多い。
 今、その装案ができる力を持っている人は、吉田さんをおいて他にない。その前は鈴木繁男さんだったが、これはもうすごくレベルの高いものだった。

喜べば集まった

 吉田さんは、今、95歳。結局、柳先生を知る最後に残った同人ということになる。
 吉田さんとのおつきあいを通して得るものが大きいので、最近は、桂樹舎で手仕事展をやるたびに、ギャラリートークとしての対談をしている。
 この前は、「喜べば集まった」という題にしたのだが、私は桂介さんに怒られてしまった。「『集まった』って過去形で言うなんて! まだ自分は現役だ。冗談じゃない」と(笑)。
 なんだかんだ言って、吉田さんも、こっちが喜べばくれる。そこは同志で、もらい方のテクニックというものがある(笑)。みんなテクニシャンで、たとえば外村吉之介さんは、ほんとに欲しくなると奥さんの清子さんを呼んで、「清子、清子、これ見てごらん。これ美しいねー、いいねー、いいねー。これ、倉敷民藝館に飾ったらどんなに美しいだろうねえ」と、「イイネ、イイネ」と手を叩きながら踊る。そしたらどうしてもあげざるをえなくなる(笑)。

 僕の場合もこんなことがあった。吉田さんは濱田さんの茶器セットを使っていたが、もったいなくなって、ケースの中に展示していた。茶器セットというのは、急須、湯冷まし、湯呑み茶碗6個が一揃えになっている。ところが茶碗は5個しか飾ってなかった。バランスを考えて5個にしたということは、すぐにわかった。でも僕はわざと「吉田さん、あとの1個割っちゃったな」と言った。そしたら吉田さんは、「割りゃせんわい。大事なものだから持っとるわい。カッコが悪いからたまたま5個にしただけじゃ」と言う。「じゃあ、あとの1個いらないよね」と言うと、「まあ、いらない」。「じゃ、ちょうだい」と言ったら、吉田さんは僕の顔を見てニヤッと笑って「ムムッ」と言いながらくれました(笑)。あげてイヤなもんじゃないし、同志だと思うとあげたくなる。そういうもんですよ。

愛すべき人

吉田さんから学んだものは、生活をしていくなかの諸々のことと同様に、ものに関して、思いやりをもちながら実際に使っていくということだ。うれしいのは、30年前の展覧会で買ってくれた湯呑茶碗をいまだに使ってくれている。小石原焼の太田哲っちゃんの小さな飛び鉋の飴釉染分けの湯呑み茶碗。売れ残った物を20個買ってくれたのだ。そして、和紙文庫のコーヒーコーナーのカップは、25年くらい前にうちで買ってくれたものだ。そういうのを見ると、ものがほんとに好きで、使うということをわかってる人だなあ、と思う。こういうかたがこれからもいてもらわないといけない。なかなか策士な部分もあるから、腹が立つこともあったけど(笑)、今はそれも通り越した思いがある。
 吉田さんは言わば富山の名誉県民だ。八尾を紙の町にし、町並のことに関しても、けっこう口を出す怖い存在だと思う。怖い存在があるからこそ、町並みも守られている。「おわら風の盆」にしても、自然発生的にいうけれど、雰囲気のある建物と手仕事が守られ、ああいう風情ある町並みがきちんと残されたのは、吉田さんたちの力である。
 それが証拠に、かつて吉田さんの家の前にあった古い町営住宅が立て直され、町営アパートとしては、日本で一番いいアパートじゃないかと思うほどのものができた。これは、やはり吉田さんの桂樹舎を意識して、不都合なものをつくってはいけないという意識が町にあるからだと思う。
 今、「八尾の町」は風の盆だけがクローズアップされてるが、古い町並みを利用した「坂の町アート」も行われ、そういう企画でも吉田さんの功績は大きい。あの人こそ、文化的にも政治的にも表面に立てるような人なのだが、そういうことをせずに、コツコツと桂樹舎の社長として商売を守ってきた。
 和紙を生業にしたのはやはり柳先生の影響だ。戦後、よれよれの学生服を着て、柳先生のところへ「こんにちは」と飛び込んできたという話を聞く。柳先生から安川さんを紹介され、八尾の出身ということで、「紙を守っていけ」ということになったんじゃないかと思う。
 民藝協会の第1回の大会が松本であったときの写真に吉田さんがいる。子どもみたいな人が写っていて、「これ僕だー」って言っておられた。
 95歳で、トンカツは1枚食べてしまうし、たまにはお酒も奥さんと一緒に2合瓶は空けてしまう。
 働くのが好きな人で、ちょっと前までは夜中1時2時まで仕事をしておられたが、さすがにもう和紙の型を彫るということはしなくなったようだ。僕が息子さんと遊びに出かけてカラオケして帰ってくると、「お前ら遊び過ぎじゃ」と言って僕が怒られる。息子に怒らないで僕に怒る(笑)。
 芹沢のカレンダーが桂樹舎にとっては一番大きな収入源だが、いつでもアイデアを出して、和菓子の林盛堂をはじめとして、八尾の町中の意匠はみんな吉田さんのものばりだ。のれん、包装紙、すべてに渡ってその功績は大きい。
 今でも、民藝のためだったらひと肌もふた肌も脱いでもいい、というのが吉田桂介さんである。