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Kuno×Kunoの手仕事良品

外村ひろさんのこと

外村ひろさんのこと

2011年3月7日
神奈川県
語り手:久野恵一 / 聞き手:後藤薫

 「ペリカンピッチャー」や、「木のパン皿」など、もやい工藝のヒット商品にさまざまに介在している女性がいる。
 ノッティングの椅子敷のつくり手でもある外村ひろさんだ。ひろさんのつくるノッティングは、雑誌『ディスカバー・ジャパン』では「伝統柄にどこかモダンで洗練された趣」と紹介され、『暮しの手帖』編集長の松浦弥太郎氏には「ふんわりとした感触は大好きな草むらのよう」とも表現された。
 「外村ひろさん」とは、どのような女性であろうか?
 「外村」というお名前から、「もしや?」と思われたかたもおられるだろう。
 ペリカンピッチャーが生まれたいきさつを紹介しながら、外村ひろさんという女性について語りたい。

――奥原ガラス・桃原正男氏に追悼の意を捧ぐ――

 ペリカンピッチャーについて語る前に、そのつくり手であった桃原氏に追悼の意を捧げなくてはならない。
 2月初旬、私が沖縄の旅から帰る日に、突然、桃原さんが亡くなられたという知らせが入った。4時半にご自宅に向かったら、お棺に入った桃原さんが病院からもどって来られ、最初の対面を私がすることになった。私は現実主義者なので、「縁」だとか「呼んだ」とかは考えないほうなのだが、残念という以上にやはりショックだった。
 桃原さんと私とのつながりは、もちろんものづくりを通してであるが、つくったものが評価を得て販売にのると、当然、制作者である桃原さんの私への信頼は増すし、発注者である私も桃原さんに率直に意見を言うことができる。そういうやりとりを通して人間関係はさらに深まっていった。
 桃原さんは、沖縄の新しい工藝や手仕事の発展のためには、なくてはならない人だった。自分としても、桃原さんを通して、これからの沖縄の手仕事にどうかかわっていくかということを考えていたし、その方向も定まりつつあった。なのに、こんなに早く亡くなられるとは。何とも言えない思いが残る。
 しかし心から感謝していた人だったものだから、顔を見ればお礼を言いたかったし、まだ何もできておらず、お役に立てなくて申しわけなかったという気持ちが強い。深く追悼の意を捧げたい。

ペリカンピッチャー

 「ペリカンピッチャー」というのは、口の先のかたちがペリカンみたいだからそう呼んでいるだけで、正式には「イタリー型ピッチャー」である。これには原型があり、その原型を私に提供してくださったのが「外村ひろ」さんなのである。

外村吉之助さんが推薦したイタリー製ピッチャー

 このピッチャーはもともとはイタリアの工業製品であり、機能性にすぐれ、シンプルで機械でつくりやすいかたちとしてできている。
 倉敷民藝館の館長であった故外村吉之助さんが、イタリアへ行かれたときにこのピッチャーを見つけて、『世界の民藝』という雑誌に紹介されたのだ。『世界の民藝』は、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢C介、外村吉之助という当時の民藝同人のなかでも特にすぐれた人たちが、海外で使われている民藝を一冊にまとめたもので、おそらく外村さんはそういうものを国内のガラスのつくり手に見せて、ご自身で再現したかったのだと思う。
 しかし、これはあくまで機械製品である。機械製品を手仕事におきかえるというのは、ある意味で工藝をものすごく熟知している人か、あるいは、「おもしろいものがあるからつくってくれ」という言い方ができる人にかぎられる。要するに、勇気があるかバカのどちらかだということになるが、おそらく外村先生はその両方をもっておられたかただと思う。
 外村先生のことだから、当時ガラスをつくり出した小谷真三さんに当然アプローチしたはずである。しかし小谷さんがこれをつくらなかったのは、技術的に非常にむずかしいということもあるかもしれないが、小谷さん自身、とても規範的な仕事の方向性をもったかたなので、ご自身の中で機械と手仕事の区分けをしっかりとつけていて、おそらく受け入れなかったのではないかと思う。
 しかし外村先生としては、民藝に関わっている以上は、安価で誰でも使えるものを展開したいという意志をお持ちだっただろうし、新作のものを自身が関わって広めていくためにも、どこかに再現してもらいたかったのだろう。

イタリアのピッチャー(少年民藝館・用美社より)

村上ガラスのペリカンピッチャー

 福岡県の八幡(現在の北九州市)にあった「村上ガラス」は、吹きガラスの工場だった。昭和のはじめから漁具や室内用の大きな照明器具を展開してきた大きな工場で、たくさんの職人さんがいたが、時代の流れは機械製品に変わりつつあり、村上ガラスとしては、生き残りをかけて近くの民藝関係者に「吹きガラスの製品が何かできないだろうか」という相談をもちかけた。おそらくその依頼が外村先生のところにあったのだろう。先生はちょうど熊本に「国際民藝館」を建てたばかりで、月に一度は九州へ出かけていたこともあり、八幡の工場を訪ねて新しい製品を提案するという関わりができた。
 さまざまな提案をしていくなかで、それらはすべて民芸の店で販売するようにという約束をして、村上ガラスが再生することになった。その点で、外村先生の功績はとても大きい。
 先生のことだから、きっとイタリー製のピッチャーを持って行って、「同じように吹きなさい」と言ったのだろう。それがある程度うまくできるようになると、ピッチャーは工場の定番商品となり、カラーのカタログにもなった。カタログをつくるという販売方法も、おそらく外村先生の発案だと思うが、そのカタログを当時最盛期だった日本国中の民芸店に送って注文を取り、それをきっかけにして、村上ガラスはさまざまなガラス器をつくるようになった。
 私もこの店をつくった頃(今から25年ほど前)、村上ガラスを訪ねることになった。社長はかなり年輩の老人だったが、非常に社会運動家的な方で、知的障害者の人たちをひきとってガラスを教えていた。
 ガラスはふつう3〜4人のチームを組んで吹くのだが、村上ガラスでは障害のあるかたをチームのなかのやさしい部分に取り込んだり、あるいはできた製品の鋭利に尖った部分を磨く作業をやらせたりしていた。村上さんというかたはずいぶん立派なかただと、いかにも九州の前向きさをもったいい老人だと感心したものだった。
 ガラスは、火をおこして吹ける状態まで温度をあげるのに、9時間から10時間はかかる。燃焼効率のこともあり、常にすぐに吹けるようにするためには、炉の火を絶やすことはできない。
 余談になるが、小谷さんのように一人で吹くスタジオガラスの場合は、火事の心配があるために火の始末をしなければならない。すると翌日、火をおこしてから吹ける状態にまで温度をあげるのに、また9時間から10時間待たなければならないという難点がある。
 村上ガラスでは大きな炉を焚きっぱなしにしてガラスを吹いていたが、その定番商品のなかに「ペリカンピッチャー」があった。しかし、「ペリカン」という名前をつけたからか、口先の部分が異様な感じがするほど大きく、はっきり言ってあまり私の好きなかたちではなく、うちでは商品として扱いたくなかった。
 私としてはやはりオリジナルのものがほしいので、村上ガラスにかなりアプローチして、淡くやわらかい感じで「小谷さんのよさ」のようなものを吹いてもらうなど、取引も進んできていた。ところがその矢先、村上ガラスの社長が亡くなられ、職人さんも年金がもらえる年代になるとやめてしまうという問題がおこってきた。手仕事の労賃はそれだけ低く、「こんなに苦労して給料をもらうのだったら、社会保障の年金を受けたほうがはるかにいい」ということになる。そこに手仕事の現実を見た思いがある。結局それで村上ガラスは解散してしまうことになった。
 小谷さんのようなスタジオガラスの半分くらいの値段で、せっかくやわらかみのあるガラスができていたのに残念だった。しかし、もっともこの材料は再生ガラスではなく、原料ガラスであったのだが。

奥原ガラスのペリカンピッチャー

 それを切り替えるかたちで、私は沖縄の奥原ガラスにのめり込むようになっていった(奥原ガラスとのつきあいについては、kuno×kuno第4回参照)。
 基本的には小谷さんのつくってきたさまざまな製品を頭に入れて、それに代わるかたちで、奥原ガラスに製品を注文していった。そこから桃原さんとのつきあいがはじまるわけだが、はじめはそんなに大きく販売が促進するわけでもなかった。
 ところが今から10年近く前、外村ひろさんのお宅にお邪魔したときに、例のイタリー型ピッチャーを見たのだった。
「あ、これもしかして?」と聞いたら、「そう、おじいちゃんが――」という答えがかえってきた。それこそは外村吉之助さんが一番最初に村上ガラスにつくらせた、本物のイタリー製ピッチャーを忠実に模したオリジナル品だったのだ。まさにイタリーの機械製品によく似たかたちで、とてもシンプルで使いやすそうで、これだったら私もほしいなと思うものだった。
 このオリジナルの形態が村上ガラスで変わっていったのは、一つは吹き手の技術的なこともあるが、もう一つは意匠を強調したいという九州的なデザイン感覚もあるだろう。いずれにしても、村上ガラスでの強調されたデザインは、私の目には響かなかった。
 オリジナルを見た私はぜひ再現したいと思い、ひろさんに「貸してもらえますか?」と尋ねて、幸いにして快く貸していただくことができた。
 再現するにあたってオリジナルのピッチャーをよく見てみると、それにも少し難点があった。あまりにも機械製品に忠実に似せたため、かたちが直線的すぎるのだ。これをごく自然に吹いていけば、きっと手仕事の素朴性があらわれるはずだ。奥原ガラスにはオリジナルピッチャーを持っていって、「ガラスの流れに抵抗しないかたちにしてもらいたい」と説明した。こうして現在のイタリー型ピッチャーが誕生したわけである。
 イタリー型ピッチャーをきっかけとしてひろさんとのかかわりもまた一段と強くなり、それはさらに4〜5年後の「木のパン皿」の製品化にもつながっていった。「木のパン皿」も、たまたまひろさんの家へ行ったときに、クッキーをのせて出してくれたお皿がきっかけとなって製品が生まれ、ヒット商品となったものなのだ。(kuno×kuno第6回参照)。

左が40年以上使い込んだ樺のパン皿。
これをベースにケヤキの古材で
製作したのが右の皿(約1年間使用)

外村ひろさんはどんな人?

 このようにヒット商品にずいぶん介在していただいている「外村ひろさん」とは、どういう人物なのだろうか。
 ひろさんは宮城県仙台市にある曹洞宗の名刹「林香院」の三姉妹の長女として生まれ、本来ならば婿取りをして寺の跡を継がねばならない人だった。
 ひろさんのお父さんの門脇信亮さんは、柳宗悦の民藝運動に非常に共鳴されたかたで、宮城県で民藝の活動をされていた。
 当時、地方の民藝の名だたる人たちの娘さんは、嫁入り修業の先として、外村吉之介さんの「本染手織研究所」へ行かされて、そこで日本式の礼儀作法を教わり、「家族の着る最低限の服くらいは自分で織りなさい」という方針のもとに、1年間修業して織りの基本を学ぶということになっていた。それは外村先生の民藝の普及活動の一貫として行われ、今では生徒は公募になっているが、当時は民藝関係者のお嬢さまがたが行く手習い学校的な側面もあった。
 本来、寺を継がなくてはならない立場だったひろさんは、「本染手織研究所」へ行き、外村先生に見初められてご次男の奥様になられたのだった。
 織りについては外村吉之助さんの影響も薫陶も受けておられるので、ひろさんは家事を守りながらもずっと織りを続け、それなりに手も動かしておられたのだろう。
 「本染手織研究所」には、卒業生で組織された「本染手織会」があり、1年に1回は各地で発表会をすることになっている。卒業しても織りを続けているかたが、出品して材料費を得るというくらいの規模で、今でも続いている。おそらくひろさんもそういうかたちで続けてこられたのだと思う。

製作中の外村ひろさん

ひろさんとのかかわり

 私とひろさんとのかかわりは、私が北鎌倉に店を出したころに訪ねて来られたのがはじまりである。民藝が好きなかたなので、いろんなところから情報を得てやって来られたのだろう。そして、私がやっていることと、お舅さんである吉ノ介さんがやっていることを対比して、何となく助けてあげたいという気持ちもあったのか、お客さんも連れてきてくれたりして、ずっとお客さんと工藝店というかかわりで続いていた。
 お嬢さんが結婚するときは、松本民藝家具で支度をしたいということで、松本民藝家具の世話をしたりしたこともあった。
 今から25年前に佐助のこの家をつくったとき、こういう建物を建てて工藝店を設けたということが日本中で話題になった。おそらく外村先生の耳にも入っていたんだと思うが、先生が東京に来られ、ご次男の吉康さんの家にお泊まりになると、ひろさんが外村先生ご夫妻を連れて店まで来てくださったこともあった。
 彼女は東北の人の割にはねちっこくなく、さっぱりとしている。気質は頑固だが、応用がきいてくよくよしない。割とすんなりと注文を受けるし、いやなことでもすぐに忘れてしまう。切り替えが早く、つきあっていてもとても気持ちのいいかたである。それは姪っ子の門脇綾さん(手仕事フォーラムメンバー=仙台のles-vacance店主)にもつながるところである。林香院は次女のうたさんの婿養子となった門脇允元住職が継がれたわけだが、允元さんは仙台民藝協会の会長でもあり、私のやっていることも積極的に応援していただいた。そういうこともあって義姉である外村ひろさんとの関わりはよけいに強いものとなった。

ひろさんのノッティング

 「本染手織会」を通してひろさんのつくったものを見ていると、才覚があるかただということは当時から見えていた。「手織会」には何十人という人が出品してくるが、はっきりと言ってその中で目につく人は、数えるほどしかいない。一人は佐藤多香子さんであり、もう一人が外村ひろさんだ。「なぁんだ、ひろさん、そんなに上手なものを織れるの?」などと冗談に言ったりしているうちに、あるとき、ひろさんが自分で織ったテーブルクロスをもってきてくださったことがあった。えてして外村学校の「手織会」の人は、やぼったいところが強いのだが、ひろさんが織ったそれはとてもセンスがよく、垢抜けていた。
 織りの場合はどうしても女性が中心になる。彼女とうちのスタッフや家内も仲良くなって、そのうちに、ひろさんがノッティングを織っていることも知るようになった。もやい工藝で開催する「手織会」の展示会にもノッティングを出品するかたが何人かいて、私はノッティングにすごく興味があったのだ。
 日本の伝統的な手仕事としての織物にかかわるとすると、帯や着物が焦点になるが、男の場合はどうしても着るということから離れる。そこへいくと椅子敷などは自分の身近において活用したいものである。とくに自分のうちの松本民藝家具はお尻が痛くなるので椅子敷がほしくなるし、また車を運転するときにも椅子敷がほしくなる。
 倉敷のアイビースクエアには、ものすごいパターンの椅子敷が置かれているが、ああいうのを見るとほしくなるのは民藝関係者の特徴で、使う使わないはともかく、身近に置いておきたくなるものなのだ。ノッティングの椅子敷のよさは、まず直に座れるし、座って毛羽立ちを押さえて使い込んでいくとしまってよくなるところ、洗い込んで使っていくとさらによくなるところである。
 ノッティングの椅子敷は、ひろさんが自分で織ったものを見せに来ていただいたと記憶している。それを見て、「ああ、ひろさんは、ずいぶんセンスいいんだな」と思った。そして、「椅子敷を店に置かせていただけませんか」ということから仕事としてのかかわりもできてきた。
 ノッティングがどういう状態で織られるかということを知っておきたくて、うちのメンバーとともにひろさんの家へ見学会に行ったり、つくりかたを教わったりしているうちに、よけいに身近な存在となっていった。
 ノッティングを織るとき、ひろさんは採算を度外視して、昔ながらの習ったとおりのことをやるから、あれほどしっかりとしたいいものになり、注目が集まり出したのだ。
 『暮しの手帖』では、松浦弥太郎さんの「メイド・イン いいもの」に取り上げられ、またエイ出版の『ディスカバージャパン』でも取り上げられて、ひろさんは一躍ノッティングの織り手として社会に登場するようになった。その評価もずいぶん高まって、ノッティングの椅子敷は、現在、注文をしてからできてくるまで半年待ちになっているくらいである。

外村ひろさんが織ったノッティングの椅子敷

民藝活動のパイオニア

 僕のヒット商品のきっかけが外村ひろさんだったという話があちこちで出るようになって、ひろさん個人の魅力や情報もひろまっていった。
 「外村」という名前は吉ノ介さんを彷彿とさせるし、「ひろ」という名前もなかなかいい。そしてひろさんはある種のムードと人間的魅力をもっったかたである。
 まったくのアマチュアの手仕事が、まさに今、プロ的な生き方をしようとしているわけである。これは彼女自身がもっていた才覚でもあるだろうし、あるいは外村学校で学んだことが華開いたということもできる。そして何よりも大事なのは、新作に関われるようなものを大事に使っていくという姿勢である。
 これは外村吉之助さんの民藝に対する姿勢をひろさんが受け継ぎ、実践されていることにほかならない。そして、それによって私どものような者が影響を受けて、それをうまく新作に反映することができたということは大きな意味があることだと思う。
 彼女自身の生き方としても、晩年になって、学んだことが職業的な方向にまで華開いてきたというのは、おもしろい流れだと思う。手仕事にはこういう流れも可能性としてあるんだ、ということだ。
 これは私一人のことではなく、日本各地で工藝店やギャラリーを経営するかたがたが、手仕事の薫陶を受けてそれを生業かあるいは生活の糧とする人のものとの繋がりをすすめていければ、細々ながらも織りを含めた手仕事の継続も可能かもしれない。それには織り手の志と同時にセンスが問われるし、また私たちのような立場の担い手のセンスも問われるところである。しかし、両者がうまく合致すれば、けっして捨てたものではないと思う。
 ひろさんは、外村先生の民藝の活動を今的なやり方で展開した、パイオニアといえるだろう。