手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

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Kuno×Kunoの手仕事良品

健在な東北の手仕事

健在な東北の手仕事

2011年3月27日
宮城県黒川郡大和町
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

 このたびの東北大地震には私自身大変なショックを受けている。かつては三陸海岸を車で走行したこともあるし、汽車で回ったこともある。あの美しい景観がいっぺんで崩れ、暮らされていた方々も悲惨な状態になってしまったことは非常に大きな悲劇であり、残念でならない。
 ただ、長い目で見た時に、いずれは地域的に美しさを取り戻すのは確か。暮らしのあり方も変わりつつ、新たな町づくりや人間関係を構築して、もう一度立て直していかなくてはならない。これは国を挙げて解決すべきことだ。
 今回は被害の大きかった宮城県には頑張って手仕事を続けている人がいるということ。そしてその仕事を例に挙げながら東北地方をめぐる思い出を話したい。

東北の旅

 大学時代、宮本常一先生のもとで学んでいた私の、初めての大きな旅は盛岡市郊外の雫石町だった。そこにダム建設で沈むといわれる集落のさまざまな民具や伝承されたことを聞き取り調査に出向いたのだった。このように宮本先生の影響を受けながら私は日本各地を歩くことになるのだが、大学を卒業する間際の冬場にも東北を旅行した。柳田国男著「遠野物語」に惹かれていたこともあり、また当時のテレビによく映し出された三陸沿岸の漁業の人たちの習俗を見てみたくて遠野を目指したのだ。
 まずは遠野を視て、釜石に出て、三陸沿いに汽車、バスを乗り継ぎ、ヒッチハイクしながら八戸近くまで上っていった。その時に泊まった民宿や国民宿舎から見た、朝の美しい景色はいまだに目に焼きついている。

 そして現在の仕事に入ってからも三陸沿岸から仙台を経て相馬を汽車や車で回って、美しい風景をつぶさに目にしてきた。あの美しさが記憶に残っているだけに、今回の天災で一変した様子を見知ると大変残念な思いがこみあげてくる。

海辺の流通

 現在、私が関わる手仕事をする人たちの多くは山間部に暮らしている。三陸沿岸も含めて海沿いで仕事をする人は比較的少ない。なぜなら背後に山が迫り海に近い集落では運搬手段が大変で、海から入ってきた物資により生活することになるからだ。
 東北の太平洋岸付近で手仕事をしている地域としては、今回の震災では大きな被害を受けた岩手県久慈が挙げられる(久慈も海沿いではなく山間部)。久慈では漁業用竹製品を制作してきた。その他の日常生活で使う物は宮城県岩出山周辺が一大生産地だった。ここでは篠竹を用いてつくるザル、カゴ類を制作。さらに岩手県を北にさかのぼれば一戸、二戸の周辺でもスズダケを用いた細かい仕事があった。これらの手仕事品を行商人が東北中を歩き回って販売していたのだ。  
 つまり海から入ってくる大きなカゴ類を仕入れる以外にも、行商により物を仕入れたり、あるいは市において生活必需品を買い求めていた。東北地方の生活必需品はおおむね、そのようにまかなわれたのである。
 そして山間部の地域では、竹が採れないために樹皮細工が始まる。身近な材料により農具がつくられていくのだ。東北地方の大きな手仕事のあり方といえば、鉄や木工品には地域に根ざした物もあるけれど、誰にでも使える生産道具は商人が流通の役割をしながら売り歩いたり、市へ持って行って販売していた。
 大正以降には小さな雑貨店が各地に登場。小さな町にもいわゆる荒物屋の雑貨店が1、2軒かあって手仕事品が扱われた。

つくり手は無事

 今回の震災では、東北の手仕事に関わる人に被害は少なかった。三陸の太平洋岸には手仕事を専業とする人がほとんどいなかったためである。鍛冶屋、刃物屋という昔ながらの仕事をする人は当然いたと思う。しかし、久慈周辺を除いては際だって優れたかたちをつくれる人はこの地域にはいないようである。よって私が関わる手仕事のつくり手で被害に遭った人は皆無といっても過言ではない。精神的な部分や、家の中が破壊されたり、什器や備品が倒れて破損したことはあったとは思うが、悲惨な被害には場所的なことで逃れられたのだ。

 東北には私たちが関わっているつくり手が多く、中でも岩手県に集中。今回、それぞれの方と連絡がとれて無事を確認できたが、もう仕事をしたくないという人も増えている。とくに木工関係の人の場合、今までの経済状態が悪くて、専業としての手仕事は衰退している上に、さらに震災で追い打ちをかけられたようになり、将来に対して非常に暗い気持ちを持っているのだろう。その暗い気持ちを払拭させて、手仕事品の販路をさらに拡げて、このつくり手たちの物を使うことがいかに明るい将来へつながるかを私たちは示さないといけない。そんな使命感をもって手仕事フォーラムとして関わっていくべきだと思うし、私自身もそのような決意を新たにしているところだ。

七つ森

灯台下暗し

 こうした状況の中でも元気を呼び起こしてくれたのが仙台市郊外の北東に位置する大和町(たいわちょう)の手仕事だった。この地域にはかなり昔から箕(み)をつくる人がたくさんいて、箕づくりの技術を利用してカゴも制作していた。この箕づくりの技術をカゴづくりに転用したのは全国でもここだけなのだ。 
 私がこの仕事に入った時に、独特の箕と肥料振りカゴの2種類の優れた手仕事品がこの仙台郊外の地でつくられていることなど露知らずに、遠野の荒物屋、小林商店で制作しているとしか聞いていなかった。商店の人も遠野近くで扱っていると話していたので信用して、そう認識していた。
 ところが、そうではないことがそのうちにわかってきた。日本国中を回っている私たちでさえ案外、灯台下暗しで、東北地方でもいちばん民芸の活動が盛んな宮城県の仙台のすぐ近くでこんなに健全な手仕事があることに気づかないとはおかしな話。それだけ民藝に関わる人たちが、つくられている物にあまり興味がなくて趣味的な物に目が向いていたということなのだろう。これは宮城だけの話ではなくて、大きな反省点だと思う。
 私がこの仕事に入って間もなくして大先輩の近藤京嗣(きょうじ)さんという方がいて、手仕事の物を集めたり調査したり、支援していた。この方はお茶の先生で「茶こん」とか「こんちゃん」と呼ばれてもいた。彼は栃木市に住まわれていて、私が東北を回る前に寄った時、仙台郊外に根の白石(ねのしろいし)という場所があり、そこに独特のアケビ蔓のカゴがありますよと教えてくれた。地名からしておもしろそうなので、泉岳(いずみだけ)という山のふもとにあるこの町を早速訪ねてみた。当時、その地域ではたった一人のつくり手が残っていたけれど、もう仕事は辞めていて、頼みこんで1個だけなんとかつくってもらった。
 そのカゴは非常に目が粗くて、都会が近いためか洗練されたかたちをしていた。カゴは民藝館展に出品して売れてしまい、今は手元には無い。このカゴがアケビ蔓を木綿の糸で結んでいく手法が独特だった。仕事自体は技術的には甘いけれどかたち自体はユニークだった。

宮城県大和町宮床でつくられる箕。日置の箕と製法は同じ。全国の箕づくりの共通性に着目したい

実用ザルを発見

 手仕事調査が平成元年に始まった当時、宮城県の民藝協会は門脇允元(いんげん)さんが会長を務め、とても熱心に活動されていた。また、光原社が仙台にもあったことから宮城には民芸の活動に興味をもつ人が多数いた。私はその人たちを率いて仙台地域の手仕事調査をしようということになった。
 根の白石にもう一度行ってみようと皆さんを連れて行ったのだが、わずか20年くらいの間に町の様子は激変していた。村落社会が完全に消え、仙台郊外の住宅地に変容していて、以前どこを訪ねたのかわからないような地域になっていた。しかし、まだ手仕事の物を扱っている女性がいると聞き、そこに調査に向かった。その女性はカゴ類をつくる人を訪ねて、買い取って売り歩く行商的な商売をしている女性だった。彼女には根の白石のアケビ蔓の仕事について尋ねようとしたのだが、そのことは何も知らず、肥料振りカゴを私たちが探しに来たと誤解して、近くでつくってはいるけれど、その場所は教えてくれなかった。自分が扱っているから分けてあげるというのだ。
 そこで、さらに自分たちのネットワークで調査を進めたところ、肥料振りカゴを制作しているのは何のことはない、すぐ近くの大和町の峠をひとつ越えた場所だった。すぐにそこへ向かうと、佐藤さんを中心に、つくり手が3人いることがわかった。この仕事は一人でつくるのではなく、夫婦でつくる仕事なのだという。素材を取りに行き、取ってきた素材を編み組みできるように整えるのは男性(夫)で、編みこむのは女性(妻)がおこない、最後の縁づくりやまとめる仕事は男性がするのだとか。
 この肥料振りカゴは現地では「実用ザル」と呼ばれていた。その佐藤さんは量産して、そのほとんどを遠野の小林商店に送っているという。東京の卸し専門の某店はこのカゴを小林商店から仕入れて、民藝館展に堂々と「遠野の民藝ザル」と名づけて出品していた。
 その後、佐藤さんが仕事を辞めようとしていた時、鈴木里子さんという方がつくるのがとても上手だと聞き、鈴木さんのもとへうかがった。彼女の製品を見ると、どうも一人でつくっているように見えなかった。しかし、つくっている工程はなかなか見せてくれない。それでもずっとお付き合いしていたのだが、ある時、仕上げとひごづくりは別の人に依頼していることがわかった。
 その人はすぐ近所に住んでいる佐藤朝治(あさじ)さんだった。それ以降は両方の顔を立てながら付き合っていくことになる。鈴木里子さんのご主人は役場の人で、地域のことをいろいろと調べている方で、その人になぜこの地域でこんなカゴをつくるようになったのか質問した。

 伝聞によれば、伊達藩の武士の人が宇都宮の方から箕づくりの技術を持ってきて広めたのがそもそものはじまりという。それも正しいことなのかもしれないけれど、私は箕づくりよりも、箕からザルに変えたという技術の仕方とアイデアに驚いたのである。

浅ザル。箕の製法を応用して、箕と同じ桜の皮とつくられている。制作したのは佐藤朝治さん。以下、同じ

驚異のカゴ

 肥料振りカゴという名前がどこから出てきたのかはわからないけれど、これは持ち手があって、肥料を入れて蒔くための道具。樹皮や草、竹など身近な材料を組み合わせてつくる箕と同じく、桜の皮を底面に敷いて、篠竹を編みこみ、地域で採れる木を持ち手としている。このように素材そのものは周辺で採れるものを上手に利用しているため値段はかなり安い。安価で丈夫で、しかも自然の素材を上手に組み合わせたこのカゴに私は非常に驚異を感じた。
 これだけの仕事をおこなうには強い伝統がないとできない。単に宇都宮から技術を伝搬しただけではなく、もっと深い伝統の流れがあったのではないかと思う。その証拠に、ここは七つ森という地名があり、七つのかたちが特徴的な山が連なっている。高い山ではないけれど、仙台平野の中にぽつんと七つの山が盛り上がっている。そもそもこの地域には泉岳という大きな山がそびえているから、かつては当然、山岳信仰が存在していただろう。箕づくりは山の民との習俗、山岳信仰とも関わりが強い仕事で、それゆえに全国共通したかたちになっている。
 この大和町に住んでいる方々は確かに伊達藩の末裔かもしれない。顔つきが無骨というか、しっかりとした顔立ちの方が多いのだ。その地域での箕づくりの伝統と地域性が重なり合って、こういったカゴができている。

 また肥料振りカゴは改良、改善して今の物に置き換えられた物ではなくて、そのものが今の生活にそのまま使えるというのは非常に大きな利点といえよう。

肥料振りカゴ

嫌なネーミング

 この肥料振りカゴがおもしろいのは農具として使われる大サイズの他、素材やかたちはそのままに中、小のサイズもつくられている点だ。これらには「民芸ザル」というとても嫌な名がつけられている。遠野の小林商店が日本各地の民芸店からに注文を受ける際、売りやすいようサイズを小さくして、また売りやすいよう「民芸ザル」という名にしているのだ。昔ながらのきちんとした製品は「実用ザル」、大・中・小と3サイズつくっている製品は「民芸ザル」という名でいまだにこの地域でつくられ、販売されている。
 さらに箕にも先が細くなった、この地域特有のかたちが見られる。その箕は石巻や気仙沼を含めた三陸沿岸用の魚をすくうための道具。農業だけではなくて、漁業にも箕が使われているのだ。それはつくっている人たちが自分で考えたものではなくて、岩出山(現在は大崎市)の商人が箕を販売していく過程で、使う人の側の意見を聞いてつくり手に伝え、工夫をさせてそういう物をつくりだしたのだろう。おそらく実用ザルもそうした商人のアドバイスをきちんと受けたつくり手がかなり昔からの伝統の技術を活かし、伊達藩ゆかりの地域性をミックスさせながら、トータルに優れた実用品をつくり上げたのだ。
 だからこの製品は民芸ザルではなく、実用ザルと呼びたいし、「民芸」ではなく「民藝」の優品として認めてもいいと思う。

浅カゴ

東北人の粘りに期待

 箕をつくる時の底部の薄い皮のまとめ上げ方は非常に美しい。桜皮と竹の結び方、それをまとめていく紐のあり方まで重ね合わせる原理が関わり合って造形的な美が表出している。底部から立ち上がって四隅にもその美しいかたちが宿っている。さらに一本の持ち手が全体を引き締めている。
 桜の皮と瑞々しい篠竹で構成される本体、そして周辺で採れる杉の小枝や桜の小枝でカーブを描いた物を切り、皮を剥いだ白みがかった持ち手が魅力的だ。
 つくり手である佐藤朝治さん夫婦はまだ70歳台。非常に前向き元気な方で、震災後、電話したところ「うちはなんともなかった。大丈夫だよ。頑張って仕事するから。ただ、残念なのはつくった物を運び出す手段が今のところ無いだけ。この仕事がおもしろくて仕方がないし、頑張っていける」と話しておられた。その言葉にとても大きな勇気と力を与えてもらった。
 東北地方に暮らす人は粘りが強く、素朴性がある。同時に宮城の人たちは伊達の気風を持ち、洒落た部分も備える。その洒落た感覚も手仕事に影響し、これだけの困難の中でも再構築して新たな動きができると思う。
 これをきっかけに、この実用的であり、「民藝品」といってもいいような優れた手仕事の物が東北には健全であると示していきたい。

深カゴ