手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

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Kuno×Kunoの手仕事良品

南房総の竹カゴ

南房総の竹カゴ

2011年4月28日
千葉県館山市、南房総市・千倉、鴨川市
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏

  先日、手仕事フォーラムのメンバーを同行させて、房総半島の南部を3年ぶりに訪ねた。南房総の竹製品を、4月末に催される出雲民藝館での「日本全国カゴザル展」に出品するための仕入れも兼ねていた。もちろん制作者には、あらかじめ注文書を出しておき、品物を受け取りに行く段取りになっていたのだが。
 メンバーの一人は3度目の訪問だが、他ははじめてだったため、私が近場で竹細工をどのように選び、注文しているのか知ってもらうことが大事だった。また、それ以上に南房総が旅情を誘う地域であり、なぜそう感じられるのか、感性的な豊かさを啓発させる機会になるかなと考えたのである。

横須賀・久里浜港から東京湾フェリーに乗って、対岸の房総半島・金谷港を目指す。
1時間ほどの湾内の船旅だが、まるで外洋を旅しているような気分に浸れる。
途中、海上保安庁や海上自衛隊の巡視船によく遭遇する

金谷(かなや)港に接岸。
港の背後に浮かび上がるのは椰子の木並木や山々のシルエット。
温暖な気候と豊かな自然がいきなり目に飛び込んでくる

南房総の竹細工調査へ

 私が南房総の仕事と関わり合ったのは、それほど前のことではない。もともと千葉を含めて関東には手仕事の優れた物がほとんど無いと、柳宗悦先生の「手仕事の日本」にも書かれているし、民藝の物として挙げられるのは館山の唐桟織り、もしくは房総で採れる女竹(めだけ)を素材に用いた館山の房総うちわくらいだった。このうちわには染織家の芹沢C介が型絵染していた。
 ところが平成になるかならないか、23年ほど前のことだ。NHK地方局の旅番組を観ていた時、巨大な丸いカゴをつくっている人がちらりと映っているではないか。その人は名前も紹介されず、魚を入れるための生け簀のようなカゴが館山あたりの漁港で使われているとだけ説明されていた。
 また、毎年、正月を越すとテレビでは早春の到来を知らせる風物詩として、南房総の菜の花が揺れるフラワーラインの景色や菜の花畑を映し出す。そんな番組を観ていたら、少し変わった大きなカゴに花が挿しながら販売しているシーンが映っていた。このカゴをかついでいる女性もいた。
 カゴをかつぐといえば、かつては農作物や魚をカゴに入れて早朝、千葉から東京都心まで行商しに来る女性たちを見かけた時代もあった。彼女たちが一様に大きな竹の背負いカゴに商品を入れているのを眼にしていて、このようなカゴが房総半島でつくられていることはなんとなく知っていた。それで一度は現地の状況を探ってみたいと思っていた。

 ちょうどその頃、ドキュメンタリー映画監督、映像民俗学者である姫田忠義(ひめだただよし)さんの民族文化映像研究「民映研(みんえいけん)」の映画会のテーマのひとつとして房総の竹細工をつくる人を取り上げた映画があることを知る。私は映画会には観に行っていなかったし、詳しくは知らなかったけれど、案内には千葉県君津(きみつ)の仕事と書かれていた。なるほど君津市で竹細工はつくられているのかと、平成になってから日本民藝協会の手仕事調査の一環で、私は君津へと足を運んでみた。

千倉のフラワーライン近くでカゴを背負った女性に出会う。
農作業の帰りで、このカゴは君津で手に入れた物だという

牧場にカゴあり

 竹細工のありかを探ろうとまず向かったのはマザー牧場だった。というのは牧場では牛馬用の飼料を運ぶために必ずカゴが使われるからだ。訪ねてみると、案の定、大きなカゴがあった。どこでつくっているのか尋ねると、南房総の海岸沿いだと牛馬を世話している人が答えながら「ここに何をしに来たか?」と聞く。「竹細工を探しています」と答えると、「ああ、ならばこの君津の山のふもとに内記(ないき)さんという、竹細工をつくっている人がいるよ」と教えてくれた。
 それからマザー牧場につながる街道沿いを探り歩いていくと、君津の町中から少し郊外の田園風景の一角の、昔ながらの建物に大きく「竹細工、竹製品」と書かれた看板が掛けられていた。中に入ると、かくしゃくとした感じの初老の男性、内記忠男(ただお)さんが出て来た。彼は竹細工を制作していることと、自分の仕事が映画でも紹介されたと話した。この人が民映研の映画に登場した方だったのだ。だが、制作している物ははっきり言えばあまり上手ではなかった。
 つくっている物はどう販売しているのですか?と尋ねると、この辺は神社が多く、神社の市に持って行くのだと内記さん。竹材は近在の竹材屋から購入。このあたりは農作業用の要望が多いため、農具用のカゴをもっぱら手がけ、漁業用の物はつくらないとのことだった。君津の海は内房だから漁業は盛んではなく、海苔の養殖などをしているのは半島の南の方だという。
 内記さんが制作するのは農業用の粗雑なカゴで、特徴的な製品は皆無だった。しかし、関東地方で共通して「甲州ザル」と呼ぶ、深めの大きなカゴには眼が留まった。その形態は周辺のカゴの特徴だと彼は説明。このカゴは早速、民藝館展に出品した。
 彼には他に竹細工をする人が近くにいるかと聞くと、外房の方へ行けば、つくっている人はたくさんいるよとのこと。館山にもいるし、千倉には竹細工職人が集まる集落もあるとか。千葉はそれほどの竹細工産地だったのかと驚き、帰ってから調べた。ところがそんな情報は出てこないのだ。千葉は竹材としては有名。女竹の生産地として知られている。そのほとんどが建材用や垣根、造園用に使われ、一部は房総うちわの素材になると資料には書かれていた。

南房総に群生する女竹

女竹(メダケ)の群生(1991年当時)

ヒゴザルを発見

 その後、2年くらい経過してから、魚の生け簀用の大きなカゴをつくっている人を探しに館山を目指した。現地に着くと、まずは船形(ふながた)という港に立ち寄った。魚がたくさん売られている、ふれあい市場が始まったばかりの頃で、並べられた魚の脇の海苔売り場で独特の丸いカゴを目にした。
 このカゴはなかなかいいと思い、尋ねると「ヒゴザル」と呼ばれているのだそうだ。カゴなのにザルというのがおもしろい。ヒゴとは網など細い物を束ねて入れるためのカゴなのだという。これは海で主に使う物で、このあたりは浅草海苔をつくっていた所だから摘み取った海苔を入れているということだった。
船形港から少し入った近所、長須(ながす)という所で青木さんという人がこのカゴをつくっているという。しかし、探しても、なかなかその場所がわからなかった。やがて車で右往左往しているうちに農協の倉庫の斜め前に荒物屋があり、そこにカゴが掛かっていて、看板に青木商店と書かれていた。
 店の奥では人の良さそうな年輩の青木さんがカゴを一生懸命つくっていた。「注文すれば何でもつくるよ」と青木さん。店の軒先に置いておけば竹細工は売れるし、周辺は漁師用のカゴをつくる人がずいぶんいて、前の農協事務所でも販売してくれたし、君津で竹細工の商売をしている人がよく取りに来るとか。  
 「その人は内記さん?」と聞くと「おっ、よく知っているじゃない」と。
 実は内記さんは青木さんがつくった物も君津の市に出していたのだった。青木さんはあくまでも自分の所でつくり、奥さんが営む食料品や雑貨全般を扱うなんでも屋の商店で販売していた。
 青木さんと話し込んでいるうちに、彼はさらに特徴的なカゴを見せてくれた。そのひとつは網入れカゴというカゴで、楕円形のおもしろいかたちをしていた。また、ヒゴザルの他、長めのかたちの背負いカゴも出してきた。ところがテレビで観た大きめのカゴは無かった。「それは千倉のカゴだよ」と青木さん。千倉でしかつくっていなくて、自分たちは「長狭(ながさ)カゴ」をつくると言う。半島を少し下った所で使う背負いカゴで独特のかたちをしていて、薩摩の金山で使う背負いカゴのような、背にぴったりと密着するデザインのようだ。
「それからさぁ〜(南房総の人たちの口調)、山芋を入れる長細いカゴもつくる」。彼は他にも魚籠などいろいろな物を手がけていた。
 しかし、結局、それらのうち私が選べたのは船形港の市場で使っていたヒゴザルと網入れカゴだった。これらはつくりがとてもおもしろい。素材は真竹を用いた物もあったが、中には真竹と違う薄い色のかちっとした竹も用いていた。「これは女竹っていうんだ」と青木さん。内記さんは女竹ではなくて、真竹ばかり用いていた。女竹はカゴの素材として使うとすぐに色が変わってしまう。青々としたものはほとんど採れないと青木さんは話す。

船形港近くの寿司屋にてランチ。
新鮮な魚介と大きな玉子焼きが名物で、私のお気に入りの一軒

これが網入れカゴ

花カゴづくり50年

 青木さんの工房兼店を後にした私は車で館山市内を抜け、千倉に入った。そして竹材屋に行く前に道端に目を配らせていたら、テレビで観た大きな花カゴを背負った年輩の女性が手ぬぐいでほおかむりして歩いているではないか。私は興奮して「これはどこでつくっていますか?」と尋ねると「すぐそこの小屋の佐藤さんがつくっているよ」と女性。国道沿いの住宅に併設された小屋。そこに入って行くと、花カゴのつくり手で、当時70歳くらいの佐藤 博(ひろし)さんがいた。
 作業場には花カゴが山のように積まれていて感激してしまった。その大きさに驚きつつ「これは花入れカゴですか?」と聞くと、「これは花入れなんかに使わないよ。背負いカゴでさぁ、海に行けば海苔や天草、ヒジキ、イワシなんかを入れたりしている。だから丈夫につくっているんだ」と佐藤さん。素材は女竹のみを使用。真竹よりもつくりやすいから女竹を使うのだという。
 佐藤さんはこの花カゴしか手がけていない。中学を卒業してから50年以上もひたすらこれだけつくってきたと話す。
「これで十分食べていけたから、これだけしかつくらねぇ」と佐藤さん。しかし、昭和30年代は売れたものの、20年ほど前、東京オリンピックの頃から急に売れなくなったという。たぶん減反政策の影響か、漁の仕方が変わったからではないかと佐藤さん。ただ、この頃はまた随分売れるようになった。花を入れるのに使っているのかなと首を傾げる。
 自分のつくる物に対して、その程度の認識しか無く、なかなか気骨のある、感じのいい人柄に私は惹かれた。とはいえ、このカゴだけでは自分としては関わり方が少ないかなと思った。
 「このあたりでは生け簀のようなカゴをつくるようなことはないの?」と尋ねると「俺はあんなでかいのはできない。あれは体力が無いと・・・。俺の倍ぐらいの体格でないと無理だ」と佐藤さん。分厚くて太い真竹を使って編み込むから力が無いとできない。では、つくっている人を知っているか?と聞くと「この山の裏側に高田さんという人がいるよ」と言う。
 すぐに教えられるまま、高田さんに会いに行った。

竹カゴの素材となる竹ヒゴを準備する佐藤 博さん。地域で採れる女竹を割る手の動きは目にも留まらぬ速さ。熟練の技だ

整理整頓された作業場に竹ヒゴが並ぶ。これを編んでカゴをつくる

完成した花入れカゴ。まだ竹の色が青々としていて美しい

花カゴの底面。ラフに地面へ置いてもカゴが傷みにくいよう頑丈なつくりをしている

巨大な海のカゴ

 そこは何とも美しい谷間で見事な自然景観の一帯だった。女竹の群生が川沿いに展開。また、照葉樹林帯の景色は晴れていると南国の薩摩半島に来たかのような雰囲気。光が満ちあふれている様子に感銘を受ける。谷間の裏側に回ると集落が崖や山に沿って、家が点在していた。
 最初に入った家には、かなり腰の曲がった90歳近いおじいさんが竹細工の作業をしていた。そのおじいさんも花カゴをつくっていたが、来年か再来年には仕事を辞めてしまうと話す。「高田さんは?」と聞くと「ああ、この3軒先だよ」と老人。高田さんの家は大きな農家だった。その中から相撲の力士のように大きく迫力がある、赤ら顔のおじさんが「なんだにー?」と出てきた。
 「魚入れるカゴはありませんか?」(私)
「何、魚入れるカゴ? どれくれぇのカゴを欲しいんだよ?」(高田さん)
「欲しいんじゃなくて、つくっているのを見に来たんです」(私)
「なんで、そんなの見るんだよ? おめぇは何者だ?」(高田さん)
「テレビであなたを観た気がして・・・」(私)
「ああ、俺はNHKに出たことがあるからな。大きいカゴをつくってるからさぁ、それを撮らせてくれよって来たんだよなー。そうしたら、俺がテレビに出たらしくて、ずいぶんその時は電話があった。何年前だっかなぁ?」(高田さん)
 結局、私の意図は理解されず、再び高田さんは何貫目(かんめ)のカゴが欲しいのかと聞いてきた。5貫目、10貫目、20貫目、30貫目とサイズの違いがあるらしい。1貫は3.75キロだから10貫目は37.5キロ。20貫目なら75キロ。これは巨大だ。いったいどんな物かと想像がつかないでいると・・・
「そのへんに転がっているから見なよ」と高田さん。そこには修理を受けたボロボロになったカゴがあった。「これさぁ、小さいんだよな、5貫目だよ」。丸々としたおにぎりのようなかたちのカゴで、確かに竹のヒゴはがば広く分厚くてしっかりとしているつくりだ。
「これはさぁ、ばんりょうカゴって言うんだよ」(高田さん)
「ばんりょうってどんな漢字を書くの?」(私)
「そんなの知らねぇよ。ただ、ばんりょうカゴって言うんだよ」
 たぶん「万漁」と書き、どんなふうににも使えるカゴのことかなと思った。獲った魚を海に入れたままにしておく生け簀として使う漁場カゴなのだろう。海水に漬けるため、竹のヒゴは分厚く、幅広でがっちりしていないといけない。   
 そのことがわかって私はこのカゴを注文した。送ってくれるかと聞くと・・・「おめぇさぁ、こんな物を送るっていったって、大きくて送れねぇよ。取りに来いよー、海の向こうじゃんかよぉー」と言う。海の向こうといったって、こちらとしては一日がかりの旅なのだが。高田さんはそう言いながら、人のよさそうな顔で笑い「おれんち大根つくってるから持って行きなー」と山のようにくれた。私は5貫万量カゴを1つ注文したのだが「これしか注文しねぇのかよ?」と言われてしまった。それで10貫万量カゴも注文して帰った。
 竹細工で気をつけないといけないことは、竹の表面が使いこんでいくうちに汚くなっていく点。黒い点状のカビも表出しやすい。それは避けたくて、竹の表面は磨いてもらえないかと頼んだ。
「磨くって何?」って言うので説明すると「なんだ、編む前に竹のヒゴをさぁ、タワシで取っちゃえばいいだよ」(高田さん)
「じゃぁ、それをやってください」(私)
「面倒だけどやってやるかな。遠い所から来てくれるんだから」(高田さん)
 私は万漁カゴを民藝館展に出品したかったので、それから1ヶ月くらい後に受け取りに行った。すると、青々とした真竹の素晴らしいカゴが出来上がっていて驚いた。しかも、その編み方が女竹と同じように真竹を巻き重ねた「返し縁(ぶち)」の仕様なのだ。技術的にはとても高度なものなのだろう。
 この返し縁について高田さんに尋ねると「おめぇ、よくわかるな。これは竹細工でも上手でなければ縁は巻けねぇんだ。だからさぁ、佐藤なんかにはできねぇんだ」と他人の悪口を言い始めた。
「縁巻きには、すげぇ気を遣うんだ。1年物の真竹の皮の縁をよく取って柔らかくしないと曲げられねぇんだ。縁はそうして巻かねぇとカゴは強くならねぇよ」と高田さん。その説明を受けて、彼の力の強さ、技術の高さを納得できた。
 この時、青木さんや佐藤さんの所にも寄って、注文を出しておいた網入れカゴや花カゴも受け取った。いずれも大きなこれらのカゴは当然、民藝館展にも出したのだが、網入れカゴを見て審査員である織物の先生、柳悦孝(よしたか)さんが「久野君、よくこんな物を見つけてきてくれたねぇ」と話しかけてきた。「自分は戦前、館山に住んでいた。このカゴはずいぶん愛用していてね、気に入っていたカゴだったけど、どこでつくっているかはわからないし、カゴだからと粗末にしたまま忘れてしまっていた。改めて見ると、これはいいカゴで、立派な物だ。よくあんたは探してきたね」と初めて柳悦孝先生に褒められた。いつも嫌みを言われたり、「出ていけ」と言われたり、ずいぶんいじわるをされたのだが、この時は非常に褒めてくれた。そして以来、柳悦孝先生は私に対して好意的になってきた。
 網入れカゴはわりと価格が安いし、よく売れたことで青木さんとの交流が深まった。一方、佐藤さんの花カゴは大きすぎてなかなか販売できない。せいぜい年に1回、民藝館展のために注文するくらい。高田さんの万漁カゴはわりと人気があって、手仕事日本展がスタートして間もなく売れた。
 そして平成5年の民藝館展の時には万漁カゴが初めて奨励賞を受賞した。高田さんは東京まで出て来て「これはあんたのおかげだよ」と喜んでくれた。
 その2〜3年前に大阪で花博があり、竹の物で何か大きな円形の玉みたいな物の制作を彼は担当したらしい。大きなカゴをつくる技術を日本中で高田さん以外誰も持っておらず、彼が制作者として選ばれたのだ。ところが、それほどの大きさはさすがに高田さん一人では無理で、佐藤さんをはじめ、当時4人くらいいた千倉の大物づくりのつくり手を連れて行き、制作したそうだ。

これが巨大な万漁カゴ
(写真:関東手仕事調査より)

高田三好さんと万漁篭

高田三好さんの仕事場

背負篭と高田さんの奥さん

高田さん隣の老人

二人の仕事が消える

 佐藤さんの家の前の国道をまっすぐ進むと千倉の海に出るのだが、海の手前の踏切を越して左側に竹材屋さんがあった。そこに掛かっている竹材の束の見事さ、美しさには心打たれた。これはすべて女竹なのだ。10メートルくらいの均一な長さで、青々とした物が並んでいるのは本当に美しい。
 その店から200メートルほど駅の方に入った所に「高橋竹材店」がある。この店はさらに大規模に営業しているため、女竹の美しさも圧巻。千倉を訪れるたびに、ここの店頭に並ぶ女竹を観に行くのが習慣になった。
 そんなことで房総との竹のつきあいがあったのだが、間もなくして、当時NHKの顔であった斉藤季夫さんと知り合い、懇意になった。
 斉藤さんは「ラジオ深夜便」という番組で手仕事をする人を活かすというコーナーを設けて日本各地を歩いていた。その番組のために、半日で行けて一日で収録できる所は無いか?と私に尋ねてきた。できれば、あまり知られていない手仕事がいいと言う。私はすぐに思い当たって高田さんを紹介した。
 するとしばらくして連絡が来て、斉藤さんはとても喜ばれていた。「こんなに近くで、元気がよくて、たくましい人がいたんですね」と。当時の千葉はゴルフ場建設ラッシュだったし、山を崩して東京湾の埋め立てや羽田空港の拡張工事に使うなど、きれいな房総半島をどんどん壊していくような荒れたイメージしかなかった。そんな県に素朴でたくましくて自然と対話できるような人と出会えたと心から喜んでくれた。高田さんは取材の帰りがけに沢庵を山のようにくれたという。
 そうこうしているうちに高田さんから連絡がきた「俺はもう仕事ができねぇ」と。脳梗塞で手が思うように動かなくなったのだとか。それでお見舞いに行くことになったのだが、ついでに青木さんの所にも寄ろうと考えた。ところが、青木さんに電話を何回かけても出なくなったのだ。それで1年間とうとうほったらかしにして館展の出品もできなくなってしまった。
 2年目にようやく奥さんが電話に出て、「いやぁ長い間、扱ってくれて嬉しかったけれど、主人が突然死んじゃったんで・・・」と。心臓発作で亡くなられて、彼の竹細工の仕事も無くなってしまったのだった。私は落胆した。一挙に二人も仕事できなくなった。残るは佐藤さんの花カゴのみ。しかし、これだけ大きなカゴの販売は難しい。それでもと早春の花摘みの季節に工房を訪ね、青々としたカゴを目にするたびに、佐藤さんのカゴは健在だなとは思っていた。

亡き青木健さんとヒゴざる

千倉駅そばの「高橋竹材店」。長い女竹がずらりと並ぶさまに目が奪われる

高橋竹材店の女竹(1991年当時)

希望のニューフェイス

 ちょうどその頃、車を運転できて、つくり手の所へ行っては酒を飲むのが好きな、元気な女の子が「もやい工藝」にスタッフとして入ってきた。私は当時、鳥取との関わりが強くて、房総へ足を運ぶ時間が取れなかったので、鴨川から勝浦にかけての場所に、竹カゴをつくっている所があるから探しに行って来るように命じた。彼女は出かけていくつかの竹細工職人を見つけてきたし、まだヒゴザルをつくっている人がいることもわかった。その時は名前だけ聞いたものの、製品自体はあまりよくなかった。下手だなと魅力を感じなかったのだ。
 それで花カゴだけは気にしつつも注文はしないという状況が続いていたのだけれど、その何年後かに手仕事フォーラムを結成。今から4〜5年前にはメンバーのひとりを連れて、しばらくぶりに房総半島に行こうということになった。佐藤さんは変わらず制作していてまずは安堵。佐藤さんと千倉の竹材屋に尋ねると和田の方に行くと、もうひとりつくっている人がいるという。
 和田の海近くに工房を構える宮田弘(ひろし)さんだった。訪ねてみると、宮田さんはヒゴザルや各種竹細工をつくっていて、実は青木さんができない分を頼まれては制作していたのだとか。
 「もやい工藝」の名も知っていて、「おたくにいた女の子も来たことがあるよ」と宮田さん。この人が女の子のスタッフが以前探し当てた職人だったのだ。それから5年は経過し、宮田さんは竹の扱い方もだいぶ上手になり、非常にこなれた仕事をしていた。もともとは調理人の修行をしていたけれど、ワケあって実家に戻り、代々続いている竹細工を継いだのだそうだ。
 上手くなった宮田さんは本来、ヒゴザルは女竹でつくる物だが、頼めば真竹でもつくれるという。真竹の分厚い材料を使えるため、とても迫力ある仕事も可能なつくり手なのだ。佐藤さんは現在82歳だけれども、宮田さんはまだ60歳前後と若く健在ゆえ、房総半島の竹細工はまだまだ未来があると感じた。
 また、宮田さんの工房から太平洋沿岸を北上した八日市場にはまだ箕づくりをしている人が残っている。近々にはメンバーを募り、1泊2日くらいで健在な房総の竹細工を見て回ろうかなと考えている。
 知られざる竹細工の産地、房総半島。紀行と風土、黒潮に洗われた地域性、温暖な気候、そして太陽のきらめきは南九州と共通する南国の趣がある。
 こういう心地いい場所には必ず文化が残っているものなのだ。

太平洋の温かな潮風が届く工房前にて。宮田弘さん

宮田さんの制作する長芋入れカゴ

ハンドル付きのカゴを宮田さんの工房で見つける。
器用な人だから、こちらのリクエストにも柔軟に応えてくれそうだ

民藝館展に出品する花カゴを運ぶ。房総のカゴは私自身でいつも受け取りに行っている