手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

ホーム>連載・手仕事レポート>Kuno×Kunoの手仕事良品>新垣栄用さんのアラヤチー

Kuno×Kunoの手仕事良品

新垣栄用さんのアラヤチー

新垣栄用さんのアラヤチー

2011年5月23日
沖縄県
語り手:久野恵一 / 聞き手:後藤薫

 2011年2月の終わりから3月はじめにかけて、手仕事フォーラムの旅で沖縄へ行ったとき、メンバーを連れて新垣栄用さんのアラヤチー(荒焼)の窯場を訪ねた。飄々とした表情の新垣栄用さんを見て、みんなは非常に親しみを覚えたと思うが、私自身の仕事の流れのなかでは、アラヤチーは非常に販売しにくいものである。
 アラヤチーはもともと沖縄の日常雑器であったとはいえ、今の人の暮しには受け入れにくいだろうし、それゆえ大衆民衆から少しずつ離れていき、美術品や花器やお茶の世界に行かざるをえないのは、このやきもののもつ質の宿命だと思う。おそらく民芸が盛んになった頃から、ふだんの生活からは遠ざかっていく運命にあったのだろう。
 しかしながら一般庶民が最初に触れたやきものはアラヤチーだったし、このアラヤチーとわれわれが好むジョーヤチー(上焼)がオーバーラップしながら沖縄の「やちむん」を形成してきたといえる。
 そのように衰退しつつあるアラヤチーの伝統を、唯一守ってきた新垣栄用さんは79歳。今回訪ねたときは、みんなの前で、「旅立ちが早い」と言っていた。
 息子さんもやきものの道を継いでおられるが、培われた伝統技術がいつの間にかなくなり、沖縄の「やちむん」のひとつの歴史が消えてしまうかもしれないというのは、非常に辛く残念なことである。しかしその技術を習得するだけの力と意志をもった人が出て来ないのも現実であり、その現実とはとりもなおさず、「アラヤチーでは飯がくえない」ということにつきる。アラヤチーをどう展開するかという手だてを考えないといけないところだが、なかなかむずかしい問題である。
 自分で「旅立ちが近い」と言う新垣栄用さんの話をする。

沖縄の造形の原点、アラヤチー

 もやい工藝を設立してしばらくしたときに沖縄のやきものとの出会いがあった。アラヤチーの存在は知っていたが、当初から店では販売しにくいものという見方であったし、つくり手のところを訪ねることなど考えてもみなかった。
 アラヤチーとは素焼の焼締め陶器である。施釉されない陶器となると、まず日本の六古窯が想定されるが、焼きあがったアラヤチーの中には、鉄錆色が窯変して、さらに赤茶けた色になっているものもあり、備前焼と似かよったような見え方をする。備前焼は、お茶かあるいは自己意識に埋没していくようなやきものにしか見えず、私どもはあまり好まないし、それと重なって見えることもあって、アラヤチーには眼がいかなかったのだ。
 現在、みんなの心に訴えることができるものはジョーヤチー(上焼)で、自由奔放な絵付けや、化粧掛けした白土の上に釉薬をいくつも掛けたりする多彩なものである。沖縄の明るい気候風土に染まったかのようなやきものに眼がいくのは当然であり、素焼のみのアラヤチーが遠ざけられるのも仕方ないことなのかもしれない。
 しかし、日本民藝館の古い収蔵品や各地の民藝館のなかには、鬼手(タワカシ)という独特のかたちをした細徳利や油壺(アンダガ―ミ)など、すぐれた造形のものがいくつか残されていて、庶民生活のなかにも、造形的に優れたものがいくつもあらわれているのは確かである。
 アンダガーミには蓋のつているものもついてないものもあるが、いずれも耳が4つついていて、沖縄の各家々ではこれに豚の脂を入れて、灯りや煮炊きに使っていた。そのような中国文化を取り入れるためには、アラヤチーは必要不可欠なものであった。
 それから按瓶(共手土瓶)と呼ばれるものもある。普通、土瓶には耳がついていて、その穴に蔓や金物をひっかけて使うものだが、沖縄には籐や金物がなかったので、持ち手そのものを土でつくって土瓶にくっつけて、すべて陶器でできたものである。
 そのような民藝館に蔵品されたものの造形をきちんと見ていくと、かたちそのものが出てくるのは釉薬がかかったものよりむしろ素焼のものであることに気づく。アラヤチーの造形的すごさ、いわば生きもののような独特の強さを感じるとき、沖縄の原点はこんなところにあるのではないかと思う。
 私の眼の師匠である鈴木繁男氏も、「沖縄の造形を端的に表したものは、ユウトイという木の汲み出しだ」と言われたことがあった。それは船に溜まった水を汲み出す道具であり、沖縄の民俗的な造形だが、そこには沖縄的な流麗なやわらかさなどは何もない。ただ木を彫りぬいたという荒々しさが目立つ。しかし、沖縄本来の造形的な原点はそこに帰結するのではないだろうか。
 琉球王国が形成され、雅な文化が入ってくると、それに迎合するかたちでさまざまなものがつくられるようになる。そして島国で常に波を見て暮らしていることから、曲線に対する意識が工藝と結びつき、江戸の半ばから後期にかけて、今のような沖縄のかたちができあがっていったのだろう。アラヤチーにはそれとはまたちがったゴツゴツしたものや荒々しいものが感じ取れるのである。

栄用さんとの出会い

 沖縄の文化を如実にそして具体的に私に示してくれたのが、読谷山焼窯元の山田真萬である。彼との出会いは、沖縄本土復帰10周年を記念して県立博物館で行われた日本民藝館の沖縄収蔵品の展覧会であった。そしてそれから数年して、私は頻繁に彼の窯に通うようになった。歳も近く、体型もよく似ていて、非常に気が合った。明るくおもしろい人で、僕の知らない沖縄のあちこちを連れ回してくれた。あるとき、私が「首里へ行ってみたい」と言ったことがあった。首里といっても首里城ではなく、昔、窯があったという石嶺である。そこは御殿山(うどぅんやま)ともいって、戦争で被災してはいるがなかなか雰囲気がよく、おもしろい人たちがいるという話を聞いていた。山田真萬と同じく読谷山焼の窯元である大嶺実清(おおみねじっせい)という人が、読谷に移る前に石嶺窯を築いていたので、行ってみたいということもあった。そのときに、「僕の知り合いの窯がもう一軒あるので寄ってみよう」と言われて訪ねたのが新垣栄用さんの窯だった。
 どんな人かということも知らされずに山田真萬に連れて行かれると、ベレー帽をかぶり、ランニングシャツにちょっと長めの白いパンツ、足は裸足で土だらけのおじさんが飄々とした感じで出て来た。沖縄の人にしてはずいぶん大柄な人だなあという印象だった。「なんだ、ヤマトンチューか」というところから話がはじまり、一発でおもしろくなった。

 

アラヤチーの栄用窯

 窯も見せてもらった。大きな窯がひとつ横たわっていて、しかも連房式の登りの窯ではない薪の窯で、丹波にある直炎式の鉄砲窯に似ている。横幅が広く、山がない。アラヤチーというのは素焼で釉薬がかかってないから、ずさんに焼いてもくっつく心配はない。聞いてみると、1100℃くらいで焼き締るという。
 すごい窯だなあと思ったが、すぐ隣接して住宅があるので、「こんなところで、よく燃やすなあ」と言ったら、「だいじょうぶだよー」のひと言。「俺は適当にやってるからサー」という感じである。
 そこにはジーシーガーミ(厨子甕)やシーサーがあったのだが、色釉を付けたり型でつくっていたりして、正直言ってあまり好きなものではなかった。だが、栄用さんは、「これ持って行きなさい、内地の人は喜ぶよ」と言う。「あんまり欲しくない」と言ったら、「あんたも変わってる人だな。店やってるんだったらこういうのも買っていきなさい」。「買えない」と言うと、「買いなさい」と(笑)。それを横で聞いていた山田真萬が「この人はちがうんだ」と言ったら、「同じサー」のひと言。いやぁー、おもしろい人だなあと思った。

サキガーミ(酒甕)

 サキガーミもあった。「これに何を入れるの?」と聞いたら、「泡盛を入れる瓶なんだけど、あんまり売れないサー。だけど、たまにこのごろ注文もあるからサー」ということだった。

 よく見るとハトロン紙がかかっていて、上にきたない字で何年何年と書かれた甕がある。蓋をあけて、「あれ、これお酒が入ってるね」と言うと、「古酒(クースー)にしてる」と言う。「あんたもサキガーミ買うか?」と聞かれたが、そのときは資金的に不足していてとても買える状態ではなかった。すると、「買わなくてもいいけど買わないかわりにこれ飲んでいきなさい」と言って、強いクースーを飲まされた。そして「あんたは今日どこへ泊まるのか?」と聞かれ、「山田さんの家」と言ったら、「へえー、山田さんのとこへ泊まるのか、そんなに仲がいいのなら瓶ごと持って行きなさい。酒が入ってるものは売らない。あげることしか考えてない」と言われた。変わった人だなーと思った。

タワカシ(鬼手)

 陳列所には「タワカシ(鬼手)」がいっぱい転がっていた。「これ売れないサー、今使う人いないんで」と言うので、「どうしてですか?」と聞いたら、「今これで喧嘩できないもんね。昔の人はこれで喧嘩したよ」と言う。「えっ! そんなことしたら相手死んじゃう」と言ったら、「相手殺すためにつくったサー」と。僕がびっくりしていると、「久野さん信じちゃダメだ」って山田真萬が大笑いした。
 しかし昔は、実際そうやって海賊に立ち向かうこともあったらしい。お酒を入れた瓶だといわれているが、実は水筒代わりに水を入れて、木などで栓をして横倒しにしてサバニに載せる。糸満の海人(ウミンチュー)はそうやって遠くインド洋まで出かけて行ったという。水を入れておいても素焼だから気化熱で腐らない。飲み干したらそのままにしておいて、海賊が来たらそれをぶつけて立ち向かうサー、ということだった。
 この人おもしろい人だなあと親しみを覚えて、沖縄に行けば三回に一回は栄用さんのところに顔を出すようになった。そのころは山田真萬の窯に年5回は行っていたので、行く度にサキガーミをもらってきたりして、だんだんアラヤチーのものにも興味が向くようになった。

鈴木繁男さんからの宿題

 沖縄市に諸見民芸館というところがある。そこには沖縄のやきものが何でもかんでも置いてあって、アンダガーミもたくさんあった。私はそこで鈴木繁男さんに「このなかからすぐれた極めつけのアンダガーミを探せ」と言われたのだ。
 「沖縄の民家では、アンダガーミの4つや5つは必ずあったものだから、沖縄では莫大な数のアンダガーミがつくられてきたことになる。100年単位のなかにはさまざまなつくり手がいただろうし、そういうなかからすぐれたつくり手のつくったものが必ず一つや二つあるはずだ。このなかから君がすごくすばらしいと思う造形を見つけて俺に見せろ。持ってこい。見つからなかったら、いつまでも探せ」ということだった。それはものに対する一つの大きなアプローチだったと思うし、観点というものを教わったように思う。

 諸見民芸館には、香取線香の入れものがあったり、溲瓶があったり、およそジョーヤチー(上焼)では焼かない庶民生活の諸雑器がいっぱいあった。素焼であるがために、上焼と比較するとやっぱり魅力がないわけで、それを販売する気にはならないが、沖縄の基本造形を見るにはとてもおもしろかった。沖縄には鉄がなかったから木工品が発達しなかったし、木の文化が育たなかったからやきもの文化が発達した。そして思いもかけないものまでやきものでつくっているということも発見した。自分なりに一つ一つ確認していくことによって、沖縄の工藝に対する見方がわかってきたのだと思う。

叩きの仕事

 平成8年に沖縄で民藝協会の全国大会があったとき、柳宗理さんをはじめとする協会の方々を、まだ石嶺にあった栄用さんの窯へ案内することになった。事前に「柳宗理さんという人が来るから」ということを栄用さんに伝えたら、「えっ、柳先生が来られるんですか!」と言う。「ええ、柳宗理先生が来られます」と言っておいたのだが、どうやら柳宗悦先生とまちがえていたらしい。ちゃんとしなくてはいけないと思ったのか、栄用さんは黒い背広に白いネクタイの結婚式のような服装をして待っていた。しかしベレー帽かぶっていて、ふと見ると足は裸足だった。そして「柳先生って、写真で見るよりずいぶん若いですね」と言う。それで、(あ、まちがえてるんだ)と気がついて、「息子さんの柳宗理先生です」と言ったら、「ああ、そうですか。あのかたは亡くなったんかね」というので、「50年くらい前に亡くなってますよ」と、みんなで爆笑してしまった。
 栄用さんは裸足でペタペタ走りながら窯の説明をした。「つくりをやってください」とお願いしたら、脱げばいいのにそのままの格好で轆轤引きをはじめた。
 私もそれまではいつもしゃべるばかりで、栄用さんが仕事をしている光景を見るのははじめてだった。
 蹴り轆轤で時計と反対周りの左回転だから、九州に通じる。沖縄のやきもの文化は薩摩から入って来ているから当然そうだと思った。そうして見ていると、叩きの技法で甕をつくり出した。びっくりして思わず「あ、叩きだ!」と叫んでしまった。他の先生もみんな叩きのなんて知らない。「叩きというのは、沖縄本来のものですか?」と聞くと、「沖縄は昔からこれだよ」と言う。しかし、ジョーヤチー(上焼)に叩きはないし、濱田先生の本にも叩きの話は一つも出てこない。アラヤチーをつくるところだけが叩きの技法を使うのだということがわかった。
 アラヤチーで使っている土は本島北部地の山原(ヤンバル)の土ではなく、南部から採ってくる鉄分が強い赤土で、腰がないために1100℃で焼き締ってしまうという話だった。土の腰を強くするためには、叩いて土をしめていかなければならない。そうすると叩くということに必然性がある。
 栄用さんはそのときの大笑いのなかで、背広で正装しながら、土でベトベトになりながら平気で甕をつくっていた。柳宗理さんは手を叩いてもう大喜びだった。その光景は強く心に残っている。

石嶺から読谷へ

 そのうちに、「実はこの辺も窯を焚いてられなくなった」ということになった。やっぱりクレームが来るのだろう。「そのうち山田さんの近くに行くからサー」と、読谷に土地も買ってるので、引っ越しをするということだった。
 そのころにはちょうど息子の栄さんが帰って来て一緒に仕事をされていた。栄さんは立派な顔立ちをしたなかなかいい男だった。大阪の芸大へ行って美術の勉強をしてもどってきたかただから、どちらかというと美術陶芸をめざしていて、備前作家のようなものをやりたいのだと思う。僕が「お父さんがつくってるのをやるべきだ」と言うと、「親父の仕事は叩き上げじゃないとできない仕事だ」と言っていた。
 読谷に移ったと聞いて行ってみると、息子さんがいない。「息子さんは?」と聞くと、「石嶺でやってる」と言う。「石嶺をやめてこっちへ来るんじゃなかったの?」と言うと、「それは僕がやめてこっちへ来るんであって、窯はやめないよ」という調子で(笑)、「このごろ甕の注文が入るようになったサー」と言っていた。これは「うりずん」の土屋さんが古酒(クースー)復活の文化をおこしたことの功績が大きいと思うが、このころから泡盛ブームが少しずつきていた。30年くらい前は、泡盛のクースーはまだそんなにみんなが飲む時代じゃなかったが、だんだんと泡盛専門の店が増えてきて、今では、泡盛だらけといってもいいくらいだ。
 栄用さんは息子さんとの方向性がちがうと、はっきりとは言わないが、親子がきちんと一緒に仕事できない状態が、ここにもあったのかなということを感じる。
 そのときに聞いた話では、栄用さんはもともとは壺屋でやきものをやっていたそうだ。金城次郎さんが読谷へ移ったのと前後して、公害防止条例で窯が焚けないからということで、石嶺に引っ越して焼いていた。そしてそこでもやりにくくなったということと、親子で一緒にもやれないということで移ったのだろう。

 移ってからもしばらくは「窯がついてなくて仕事できないよ」と言っていた。あの大きな窯をつくるはたいへんなことなのだ。沖縄では窯をつくる専門の職人というのはいなくて、みんな自分たちで窯をつくる。仲間や経験者を呼んできてユイマールの精神でやるから、すぐにはできない。しかし、アラヤチーは乾かしておけばいつでも焼けるので、焼かないでもものはつくっていた。

叩きの技法はどこからきたか?

 新垣さんのところへたまに出入りすると、やはり「叩き」の技法は強烈なインパクトがあった。たどっていくとどうしても沖縄独自のものではなく、薩摩の苗代川焼の技法が入っている。苗代川焼の技術導入がアラヤチーを育てたんじゃないかと思えるのだ。
 沖縄のやきものというのは、読谷村の喜名焼が発火点であり、これも釉薬がかかってない素焼で、そこからやきものが発達していった。
 庶民が使ったものは施釉せず、素焼だから重ね焼で量産できる。日本でもその当時は同じで、要するに暮しの道具であり、焼きがあまかろうが強かろうが歪んでいようが多少欠けていようが、使えるものだったらなんでもいいという時代。壺屋は、そういう庶民のものをつくる人がほとんど主流で、大量につくったものが琉球列島に広がっていった。
 そのなかにたまたまあがりのきれいなものがあったり、備前風のものがあったりすると、骨董屋さんが持っていって、備前焼として売っていたりすることもあったという。鹿児島の骨董屋さんのなかには、沖縄にどうして備前焼があるのかと思った人もいるくらいだったそうだ。

 栄用さんのところでも、おもしろいことに気がついた。タワカシ(鬼手)やアンビン(按瓶=共手土瓶)を見ていくと、同じものなのに値段が倍もちがうのだ。それで栄用さんに「これキズもの?」と聞くと、「キズものじゃない」と言う。「じゃあ、どうしてこっちのほうが高いの?」と聞くと、「こっちは備前焼みたいだろ。備前焼だと高く売れる。備前焼みたいじゃないほうは安くていいサー」ということだった。
 沖縄と本土の間には種子島があるが、そこには能野(よきの)焼というやきものがある。鉄分を多く含んだ土壌の島なので、焼締めても鉄が強めに呈色する。備前焼によく似ているが、ここは琉球文化を色濃く伝えており、文様を入れたりするので、備前とはちがうということがわかる。ところがアラヤチーは文様もめだたないほどで、線文が主なため、まちがわれてもしかたないのだ。




残したい栄用さんの叩きの技法

 そういうわけで、栄用さんのところへ行くたびに叩きの技法を見せてもらうのだが、栄用さん自身は「叩きなんかいくらしても同じだよ。腰が強い土はいくらでも入手できるから」と言う。息子さんが学校を出ていれば当然、土の取り合わせができるし、腰の強い土で火度に合わせたものをつくることができる。しかしやはり栄用さんの叩いて形成していく仕事というのはたいへんなものなのだ。
 今から10年くらい前に、「叩きをできる人は?」と聞いたら、「自分しかいない。壺屋に一人職人がいたけど、もう彼もできないだろうなあ」と言っていた。
 つくり方はまさに苗代川とほとんど同じで、叩きというのは内側からものをあてて外側から叩いて締めていく。苗代川では、フティを内側からあてて、トキャーで外側から叩くという言い方をする。用いる木の道具は二つだから、その道具の名前を聞けば朝鮮から入ってきたものかどうかわかるはずだと思ったが、ここの場合は道具の名前はあんまりなくて、「ただ内側にあてるだけサー」という言い方なのだ。
 こういうことを見ても、この技術はとっておかなければと思う。今、日本で叩きをやる人は栄用さんの他は一人もいない。いるのは、中里太郎右衛門(唐津焼窯元)のような美術陶芸作家だけである。それは言っちゃ悪いけど、叩きをしなくていいような壺をあえて叩いているのである。
 叩きというのは、本来は、大きなものをつくるときに叩いて土を締めてのばすものである。昔は水簸(すいひ)しない土には叩きが必要だった。小鹿田を見ればわかるように、水簸すれば粘土質にして固めることができるが、水簸しない土でつくるのは、朝鮮のもっとも原始的なやきものづくりなのである。水びきはするが、腰がないから土を叩いて締めて、それをいきなり焼くという非常に簡素なやり方。朝鮮から出てきて唯一残った叩きの技術、それをもった人は新垣栄用さんただ一人。苗代川に児玉健二さんという人がいたが、もうじいさんになってできないと思う。
 これは貴重だなと気がついたのが10年前で、沖縄にツアーに行くときは、必ずみんなで新垣栄用さんのところへ寄って見せてもらっている。普通だったら見せはしないし、僕とは長い間知り合ってはいても、取引関係はないのと同じなのに、それでも行くと、飄々としてやってくれる。
 10年前には5升瓶をやってもらった。1升が1.8キロだから9キロ入る。「みんなに見せるから」と言ったら、「最初からつくるから途中で帰っちゃダメよ」と言う。「何分でつくる?」と聞いたら「55分」。ぴったり55分で終わった。

 5年くらい前に行ったときは、「5升ガメできないから、3升ガメにしろ」と、3年前は「3升ガメができないから1升ガメにしろ」ということになって、そして今度行ったときは、叩きの道具がなかに入らない程度の一升ガメづくりだった。「旅立ちが早いから」とか言っていたが、そういう人なのである。

高麗瓦のロマンと新垣さんのルーツ

 息子の栄さんからもいろいろと話を聞いたことがある。そのとき、「新垣というのは、祖先は朝鮮人だ」と言っていた。「根拠は?」と聞いたら、「そういうふうに昔から言われていた」と。「じゃあ、苗代川から来たの?」と聞いたら、「それはわからないけど、自分たち新垣姓はみんな身体が大きい」と言う。たしかに栄さんも大きいし、栄用さんも沖縄にしてはめずらしく背が高くて足が長く大陸系だ。そして、もともとは瓦なんかをつくっていたという話があったので、もしかしたら高麗から入ってきた三別抄(さんべつしょう)の生き残りの人たちかもしれないなあ、と思うようになった。
 三別抄というのは、高麗王朝の近衛兵のこと。蒙古が攻めて来たときに闘ったが、結局軍事力で負けて、高麗王朝は制圧されてフビライの下に屈服する。しかし、三別抄の人たちは、自国民という意識が強く、民族を守るということでゲリラ戦をはじめ、釜山のところに防衛ラインをつくって闘うが、政府軍と蒙古軍の両方に攻め落とされそうになる。そのときに日本の鎌倉幕府に助けを求めたが、鎌倉幕府はそれを無視する。それで最後は済州島に逃げ、そこでも血の湾という名が残るくらい過酷に殲滅された。
 ところが、沖縄の一番古いやきものとして、浦添ヨードレから発掘されたもののなかに高麗瓦が出てきたのだ。それは高麗人が焼いたやきものであったということは事実で、瓦の文様が三別抄のものだったというのだ。浦添ヨードレというのは大昔のお墓群であったが、今帰仁(なきじん)城よりも前にできた最初の城(グスク)があったといい、その後首里城になる前の尚氏の城であったが、それ以前は高麗の人がつくった城である可能性がある。
 沖縄というのは、かつてさまざまな漂着民や大和から来た人間が集まり、集落を形成し、その地を守るということでそれぞれが群雄割拠していた。そこに先祖があり、そこを基点としてグスクもできるしお墓もでき、姓が地域の名前になっていたりする。ひょっとすると新垣というのも浦添ヨードレとかかわりをもっていたのかもしれない。浦添城の基盤となっていたのは高麗軍の末裔であり、そのときにやきものの技術をもった人間が瓦をつくっていて、それが内地からはいってきたやきものの技術と結びつく。そういう大胆な発想もできるかもしれない。新垣さんは、なんとなくそういうロマンを駆り立てたくなる人物であり、どこか沖縄人らしくないところがある。
 新垣さんのアラヤチーのあとを継ぐことができるかどうかは非常にむずかしい問題である。伝統を継ぐためには新垣栄さんがその気になってゼロからの出発でやるしかないのかもしれないが、ただそれを継いだところで飯が喰えないとなると、やっぱり誰もやらないのが現実だろう。それよりも茶碗をつくって1個いくらの世界のほうがやりやすいし、家族の人も型でジーシーガーミやシーサーをつくってやっていくことができる。そして今までの私の経験から、沖縄の人は「これをしなきゃ」というこだわりがないように見える。そういう意味では、消えてしまう確率は非常に高い。記録としてだけでもいいから、つくりかたは大事に撮っておきたい。新垣栄用さんはある意味では、日本朝鮮中国の最後の叩きの職人かもしれないから。