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Kuno×Kunoの手仕事良品

出西窯創立メンバー 多々納弘光さんからのメッセージ

出西窯創立メンバー 多々納弘光さんからのメッセージ

2011年6月23日
島根県出雲
語り手:多々納弘光、久野恵一 / 聞き手:後藤薫 / 写真:後藤薫、高梨武晃、川崎正子

 「出雲、観光の旅」で私たちは、多々納弘光という出西窯の創立メンバーの一人にお会いすることができた。お会いするだけでなく、ご自宅に招いていただき、民藝とともに生きてきた人の暮しの一端を見せていただき、泰山の書の前で、民藝にまつわるさまざまなお話を聞かせていただいた。
 また、私たちの「出雲、観光の旅」の最終日は、出雲民藝館特別展『日本の手仕事 篭と笊展』の最終日でもあった。この最終日の最後の最後に、出雲民藝館での久野さんのギャラリートークを受けて、多々納さんから久野さんへの感動的なメッセージが寄せられた。
 それは今回の私たちの旅をしめくくるにふさわしい言葉であり、手仕事フォーラムの活動へのエールであると受けとめた。
「美しさと、生活と、自分の心がばらばらでないような、一貫した生き方、暮らし方」を志向してこられた多々納弘光さんの二つのお話をご紹介したい。



● 泰山文字「見佛子心」を前にして

多々納:出西という窯は、民藝の創始期の諸先生方が去られたあとは、日本民藝館におられた鈴木繁男先生とのご縁で育てられました。
 鈴木先生のことはみなさんご存知かもしれませんが、若いときに静岡から家出同然で柳先生のところへ書生にお入りになって、柳先生にしっかりと眼を鍛えられました。それは厳しい訓練だったようですが、暮しのなかで書生をしながら、いうなれば直感力を鍛えられた。そして『工藝』という本の装幀を担当されるほどの造形力のある方で、若いときには盛岡の光原社に派遣されて漆絵もお描きになりました。
 その鈴木先生のご縁で出西窯はずいぶんと育てていただきましたが、久野さんも同じで、鈴木先生によって眼を育てられたひとりであると思います。
 そういうこともあり、静岡で鈴木先生の生涯の一大イベントともいうべき特別展があったときに、われわれは二人で先生に会いに行きました。そのときに、「池田」という古道具屋がありまして、二人で一緒に入ったわけです。
 さてみなさん、親友とは古道具屋さんへは一緒に入らんほうがええ。今、ここにかけてありますものは、久野さんは私に譲ったんだと言われるけれども、私は一瞬のタッチの差で私のほうが早かったような気がしています(笑)。


久野:いいえ、私、譲ったんです(笑)。


多々納:ちょうど値段が7万円でした。


久野:僕は、お金に躊躇した!


多々納:私は幸いになけなしはたいて買えると思った。それですぐにお金を払った。それで久野さんにけっこう恨まれました。でもね、そのとき私はすでにお念仏を喜んでいましたので、仏縁はあなたより私のほうが古い。仏さまを見るという「見佛」という言葉がありますが、法然上人の教えのなかには「念仏三昧必ず仏を見る」という華厳経の文言がありますから、ああこれはどうでも私が持たなきゃならんと、久野さんをくどいて無理矢理私が持って帰った。だから今でも久野さんが来られるときはこれを掛けとかんと、久野さんに申しわけない。


久野:そうじゃない。そんないい人じゃない。今日はわざわざこれを掛けて、「ざまあ見ろ」と思ってるんじゃないですか(笑)。


多々納:久野家の床の間に掛かっていてもいい書ですけど、縁あって出雲へお迎えいたしました。この言葉に意味はありません。泰山の金剛経というお経の文字が刻んであるだけで、もともと一字一字で、これを持っていた人がたまたまこういうふうに貼り合わせただけのことで、仏師の心を見るという経文があるわけでもありません。


久野:たぶん御仏の心というものだったんでしょう。


多々納:そうですねえ、仏さまの子どもである素直な心にかえりましょうという意味にとれんこともありません。文言そのものに典拠はありませんが、見所は意味をとるよりも文字そのものにあります。柳先生はこの泰山文字を個性を超えた書として大事にしておられまして、日本民藝館には泰山の拓本がたくさんあります。どういうかたちで刻んであるのか、私は行ってみたことはありませんけれども、今は拓本をすることはもう禁じられていまして、今、日本に入ってくるものは、オリジナルから木に彫って、それから拓本をつくったものだそうで、泰山の書としておみやげにもなっています。個性を超える、超個性という意味では板に彫ったものもかわりはありません。
 ここにもものをつくられる方が来ておみえだと思いますが、出西の場合にしても「これは個性的だねえ」と言われることは、気持ちは悪くはないけれども、まだわがままが残っているという意味にもなります。だから、わがままのない書、あるいは自分のプライベートな癖のようなものを超えた書という意味で、柳先生は泰山の石経の拓本をたいへん高く評価されていました。そしてもう一つ、六朝の書にも柳先生はたいへんご関心がありまして、日本民藝館の書なかには一種そういう範疇がありますが、民藝の世界の者にとって、泰山のものを持つということは一種ライセンスのような思いがあります。
 私どもは鳥取の吉田璋也先生にもたいへんご恩になりましたが、先生のところの食堂には「楽天道(らくてんのみち)」という額装した書がかけてありまして、こんなのがほしいなあ、と思っていたこともありました。民藝運動に参画された先生がたはみんなこの泰山の書をお持ちでしたので、俺も欲しいなあと思っていた、ちょうどそういう巡り合わせだったのです(笑)。だからこれは久野さんが来られるときには、ある意味、謝罪もこめて。


久野:いやあ、ちがうなあ、謝罪だなんて。これ(「見佛子心」の書)見てくださいよ。このとおりになってくださいよ。もうしばらくして私にくれればね(笑)。


多々納:まもなくあの世へ旅立ちますから。そうすると、縁のある人がやっぱり持つようになるでしょう。でもちゃんと後継者がありますからね。ちゃんとわかる人なので。血以上にちゃんと評価しますから。たぶん大事にしてくれるかもわかりません。


久野:先手を打たれてしまった(笑)。


多々納:さ、お話よりもおまんじゅうを食べてください。

久野:(手仕事フォーラムメンバーに向かって)いつも言ってることですが、民藝の同人の人たちというのはこういう生活空間というのを楽しんでいるわけです。多々納さんは今、ちょっとご病気されていますが、もしご病気でなければきれ〜いに展示して見せられるところです。


多々納:はい。ほんとごめんなさい。


久野:多々納さんのところには宝物がいっぱいあって、本来ならばその宝物を一つ一つ見せようというお気持ちなんだけど。これはあくまで氷山の一角で、なかにさまざまにおいてあって、今度僕が整理に(笑)。


多々納:そうね。民藝運動に参加される人はついつい同じようなパターンになるので、さっき言った個性を超えるという話に矛盾しますが、同じことになりたくないところはあることにはあります。でも、柳先生の教えの縁に恵まれたおかげで、毎日の暮しを楽しんでいます。ほんとに楽しんでいます。ですから鉛筆1本にいたるまで、ずいぶん選びます。消しゴムだって選びます。それはとてもありがたいことなのです。
 私ももう84歳になります。たいへんな高齢になりましたが、民藝運動の縁に恵まれましたのは、河井先生にお会いしたのが昭和25年、23歳のときです。23歳で河井先生に出会い、また吉田璋也先生に会い、やがて柳先生にお会いして、濱田先生に具体的にやきもののご指導を受けるようになりました。
 それからうちの家内が倉敷の外村先生のところに弟子入りしましたのが昭和29年です。外村先生はもう徹底して、暮しの下着まで選ぶような教えをなさったかたでした。極端に言うと、みなさんは外村先生にお会いにならなくて、残念でもあると同時にあるいはよかったかもわかりません。と言いますのは、外村先生は、「あなた、その着物おかしいじゃない?」などということをストレートに言われるほど、身につけるもの手に用いるものを選びぬくかたでした。美しさというものはなにもそんな遠いところのものじゃなくて、暮しのすみずみ、ご飯を食べるときのお箸まで選びぬいてという感じでした。つまり、美しさと、生活と、自分の心がばらばらでないような、一貫した生き方なり暮らし方を徹底したかたです。

外村吉ノ介の倉敷本染手織研究所で修業された桂子さんと昌子さん。今は孫の朋美さんも加わり、3代で染織の仕事を続ける

その方のところへうちの家内も弟子入りしましたし、うちの嫁の昌子さんも真と結婚する前に1年間勉強に行ってくれました。
 もちろん、仕事の上で手仕事をするから民藝をやるということでもありますが、同時にどういう暮らし方をするか、という徹底した生活の選び方、ありようを外村先生との出会いから授かったと思います。
 出雲民藝館では、明日の総会で久野さんのお話を聞きます。そして出雲民藝館には今、日本中の荒物がいっぱい並んでおります。

 家内が昭和30年に外村先生から「これは買っておきなさいよ」と言われた例の山ぶどうの手さげ、それから久野さんの青春のころに九州から帰られるときに自動車に満載されていた竹かごは、いまだにわが家では健在です。脱衣の部屋で使っているそのころにもらった乱れかごはもう飴色の何ともいい色になっています。たかがかごだけれど、されどかごです。何十年と使うと家族になるほど美しくなります。
 出雲はそういうものを喜んでくれる人がとてもたくさんありますので、久野さんにわがままを言って今回も全国の篭や笊を集めていただきました。
 まあ、お茶を、おまんじゅうを食べてください。
 久野さんとは長い長いおつきあいでしたけど、そういう心の通い合いがありました。この人は宮本先生のお弟子さんらしく、全国津々浦々を自分の足で歩かれて、民俗学の初歩の手法である、旅人の眼で土地を訪ねて、心に映ずる驚きと喜びを感ずるということを生涯行じておられる。

 これはとっておきの話なんだけれども、久野さんはそういう手仕事がわかるだけではないんです。この人とともに、今回の震災で災害を受けた仙台のほうを車でまわったことがあるんですが、不思議な人で、「多々納さん、ここのラーメン屋おいしいんだよ」と言うんです。それから出雲でも、国道9号線沿いにバスを利用したラーメン屋があるんですが、この人に「案外おいしいんだよ」と言われていってみると、びっくりするくらいおいしかった。また出雲のお魚屋さんでは、鮮度のいい魚を置いているので私もそこで買ったりしていたんですが、一緒に歩いていたらこの人が「ちょっとおみやげを買いたいので」と言って、その魚屋でかまぼこを買うんです。その魚屋のかまぼこがおいしいということを私は知らなかった(笑)。おいしいもの、美しいもの、おそろしい人です。長い長いおつきあいを喜びました。
多々納さんが長年家族同様に大切にしてきた三角ショケ

出雲民藝館と山本家のこと

 各地にある民藝館は、美しいコレクションができたからそれを展示する場所をつくろうとか、あるいは民藝運動のための民藝館を開設しようということではじまりますが、山本家は、先代のおばあさまが亡くなられた直後の昭和47年に、たまたま出雲市長が倉敷の外村先生を案内されたことからはじまりました。
 山本家というのは、毎年上納のお米が何百俵何千俵と入るような、この辺きっての豪農の家でした。今の倉は300俵ほど米の入る蔵ですが、それが二棟ありました。出西窯の蔵も、もともとは駅の前にあった山本家の米蔵でした。山本蔵とよぶ蔵が、JRの駅前周辺にはたくさんありました。
 しかし蔵もさることながら、屋敷の佇まいが非常にシンプルで、虚飾がない。これほどの大旦那ですと、権威を象徴するようにこれでもかこれでもかと棟を重ねたりしますが、山本家はほんとにシンプルに平瓦がざーっと並んでいるだけです。まさに機能に徹した簡潔な家なのです。
 今の家が建ったのが明治5年ですが、それは以前の江戸時代の家をそのまま復元した家ですから、佇まいの歴史的な意味合いからすれば、江戸時代からのこの辺の豪農の家の建築様式がそのまま保たれていると言えます。
 玄関へ入ると木組みがすごいです。外村先生が見て、歓喜されました。

 また何百俵というお米が一時に入りますから、荷車が入って、米を下ろしてまた出て行くために、広い砂庭があります。
 何にも植え込みのない広い平庭が今もそのままですが、外村先生はその庭の上に座って、「柳先生がご健在なら、これをご覧になればどんなにお喜びだろう」と感涙されました。
 私は、ああいう喜びようというのはそれまで味わったことがありませんでしたので、びっくりしてしまいましたが、それが出雲民藝館が生まれる縁起となったできごとでした。
 その夏に出雲で夏期学校をしましたとき、山本家のご当主が出席をしてくださいました。そのとき講師をなさったのは、外村先生と水尾先生でしたが、ご当主は民藝の議論にすごく感動されました。といいますのは、山本家の家訓と民藝の理念が完全に合一したという感動を山本さんは味わわれたわけでして、そういうことで出雲の民藝館が生まれることになったのです。
 外村先生はこうもおっしゃいました。「民藝の造形のシンボルをいうならば、山本家そのものだ。これこそ民藝の美しさだ」と。つまり機能の美しさ。これ以上省きようがないところまでシンプルに造形化されています。そして建築ですから長持ちするようにという健康なる美しさに満ちあふれています。「これこそが一大民藝品です」と外村先生はおっしゃいました。
 民藝館は山本家ご自身の経営ではないので、実質お金はありません。みんなで合議して守っております。今は仲間で磁器のつくり手の石飛さんという方が展示の責任を背負ってくれておりまして、展示替えもみんなで協力して行います。だいたい土地のものを展示することが多いのですが、不思議に荒物の展示をすると、民藝館自体がいきいきしてきます。つまり編み組のものが一番出雲民藝館にはピタッと合一します。まるで命が通い合うようなすばらしさです。久野さんが一番喜んでおられるでしょうけど、私たちも、編み組のものを並べると、このために民藝館があると思うほど、非常に健やかです。みなさんにもそんな思いで見ていただくと、うれしいです。

久野:僕が出西へ来て間もないころは、ちょうど出雲の民藝館をつくってる最中でした。だから出西へ行くといろんなかたの出入りがありました。大工さんが来たり、民藝館に寄付するようなかたも来ていらっしゃいました。そのときたまたま僕がいて、車にかごをつんでいたら、多々納さんはばっと僕のことを指して、「あの若い人は日本の優れた手仕事を集めるたいへんな人で、今にきっとこの民藝館にふさわしい人になるだろう」とおっしゃった。それにうまくだまされて(笑)、こんなに長くやってるわけです。


多々納:いやいや(笑)。それはまさにそうでした。かつて日本の工芸店は、みんな足で歩いておられました。「東京たくみ」にしても、上野さんというかたがおられてたえず日本中を歩いて民藝品を発掘して蒐集しておられました。それが本来の民藝運動の普及にたずさわる人の根本的な姿勢なんだけど、残念ながら今、お手紙や電話だけで注文をして送ってきたものを商うということがほとんどです。効率としてはそれがいいんでしょうけど、津々浦々をそれこそ、かまぼこのありようまで見るほどの思いで、足でかせぐ人はやっぱりどうしてもちがう。もし工藝店をなさる方がいるとしましたら、やっぱり久野様式は原点ですね。久野様式を守られるといいと思う。

(多々納邸の座敷にて)

● 出雲民藝館特別展「篭と笊展」最終日 多々納弘光さんから久野恵一さんへ

 今日は何ももの言わないつもりでまいりましたけれども、すごく感動いたしましたので、ひと言だけおしゃべりさせてもらいます。
 4月26日、久野さんのたくさんの荷物をここへ展示いたしました。そのとき私はあそこにあります胡桃(くるみ)の方形のかごにはじめてめぐり会いまして、なんと力強いたくましいかたちだろうと、正直驚きました。さらに、これは牛や馬の飼葉を入れるための容器としてできたものを改良したものだということを聞きまして、もう一つ驚き感動いたしました。
 私たちの民藝の上での大先達であり生涯の恩師でございます河井寛次郎の『いのちの窓』の一章のなかに、「追えば逃げる美、追わねば追う美」というすばらしい言葉がございます。
 まさにわれわれはすでにもう知恵の実を食べましたから、何としても美しいものをつくりたいという思いからは離れられません。しかし、その美しいものをつくりたいという心がどうかするとたくさんの病をともなってしまいます。
 ところが胡桃の皮で牛や馬の飼葉桶をつくろうとする人々にとって、それをどこかの展覧会に出して、その芸術性を褒めてもらおうとするような思いはみじんもございません。しかしそういう仕事にどうしてこうもたくましい美しさが宿るのだろうと思いましたら、正直、ふるいつくほど感動いたしました。

 私はこれを自分の書斎において、書類入れにして、日々お師匠さまとして接したいと思います。
 工藝の大原則を日々身近に、言葉を超えて教えてくださるお師匠さまのような存在として、もうわずかな命だろうと思いますが、日々仰ぎ、ともにありたいと正直そう思っております。
 さて、久野さんとのおつきあいはおそらくもう40年になるかと思います。この人は武蔵野美術大学時代、宮本常一先生に教えを受けて、旅人の心で旅をして、そこで驚いたものを掘り下げていくという宮本先生の民俗学の手法を、生涯一貫して実践してき続けました。
 そして今や少なくとも日本の編み組の仕事に関しては、その守り手として最高の存在となりました。今日も、この人のいわば40年を経巡っての体験からにじみ出るずっしりとしたお話で、たいした成長をされたなと思っておりました。
 40年前、九州からかごをいっぱい積んだバンを運転して来られたころは、彼は宿なんかに泊まらずに、私の家で一緒にごろ寝をいたしました。そのころのことを思いおこしながら、今や日本の貴重な手仕事の守手としてこの人が存在されることをほんとに感動いたしました。久野さんありがとう。ほんとうにありがとう。

(出雲民藝館にて)