手仕事フォーラム〜手仕事の品をとり入れた生活の素晴らしさを

ホーム>連載・手仕事レポート>Kuno×Kunoの手仕事良品>出西窯 後編「陰山善市さんの役割」

Kuno×Kunoの手仕事良品

出西窯 後編「陰山善市さんの役割」

出西窯 後編「陰山善市さんの役割」

2011年7月24日
島根県出雲
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:中尾広道、今野昭彦、川崎正子

出雲への旅

 今年6月3日〜5日、手仕事フォーラムの有志を募り、『出雲観光の旅』をおこなった(「観光」というタイトルにした理由は会報誌「SILTA」16号で説明している。ご一読願いたい)。折しも4月26日〜6月5日まで出雲民藝館では私が集めた日本中のカゴとザルを展示する催しが開かれた。その最終日に開催された私の記念講演会を聞いてもらいがてら、工房を訪ね、出雲の民藝的手仕事がなぜ盛んであるのか知ってもらいたくて企画した旅だった。
 出雲で手仕事に関わる人たちは日本各地の手仕事とはスタンスがそれぞれ違う。手仕事の背景にある出雲の風土に影響された気質が手仕事を守ってきたのだ。参加者には、そのことを実際に肌で感じてもらいたかったのだ。
 手仕事を含めて出雲において民藝の大きな活動がなされたひとつの理由には出西窯の創設者のひとりである多々納弘光さんの存在なくしては語れない。再三、この記事に登場する鈴木繁男先生や池田三四郎先生とはまた別のところに多々納弘光さんという方がいて、近年の10数年間は互いに距離を置いていたものの、40年近いおつきあいの中で、私の民藝活動の中で大きな影響を与えている。実際、昭和の末から平成にかけての現代民藝運動は多々納弘光さんと私が引っ張って来たのではないかと思っているのだ。

多々納弘光さんと私
手仕事フォーラム「出雲観光の旅」で、出西窯を訪ねる

 この連載記事の第50回にて出西窯の前編として陰山善市さんの仕事を紹介した。丸紋土瓶という、かつての出西窯を代表する製品を唯一つくれるのが陰山さんであり、同時に彼が出西窯の古い伝統を引き継いでいる人であることを述べた。今回の後編では、その後の陰山さんについて話しつつ、私と出西窯との関係を最初から話していきたいと思う。

陰山善市さん、出西窯にて

ゼロからの創作

 陰山さんは仕事好きで、真の職人気質を持っている方だ。しかも、伝統が無い、新たな窯から自分自身で伝統をつくっていくという大きな役割を果たしてきた。これは大変な功労だと思う。伝統的な窯の継承とは、そこで生まれ育った人が現代的なものに転化しつつ、技術や代々そこで生まれてきた造形を守っていくのが一般的なやり方。ところが出西窯のように、戦後まもなく、焼き物の「や」も知らない青年たちによって始められた窯がまったく何も無いところから新たに創作活動を展開していけたことは非常に希有なことだ。この窯を立ち上げた5人よりやや遅れて入ってきたのが陰山さんと本多考市さんであり、この2名の職人的な仕事がこの出西窯をずっと支えてきたことも事実だ。その中で丸紋土瓶をはじめとした出西窯の顔のようなもの、つまりはこの窯の伝統そのものをつくってきたのが陰山さんだった。

出西窯の丸紋土瓶

優れた職人仕事は健在

 約10数年前、出西窯をつくった当初の5人の方々が引退した。さらに本多さんも重たい病を煩い、仕事ができなくなった。結局、出西窯の最初から仕事をしてきたのは陰山さんただ一人になってしまった。そして、陰山さんも退職する歳になり、いったんは引退したのだが、やはり彼が手がけてきた袋物すなわち土瓶、急須などをつくる技をなかなか他の若い職人は習得できずにいるがために、出西窯の将来が危ぶまれている。
 しかし、そんな事情もあったし、陰山さんのつくるものは販売力があるものだから完全に身を引くわけにはいかなくなった。
それで今も嘱託としてロクロをひいている。ただ前のように徹底した職人ではなくて、いわば職人の技を継承しながら仕事に取り組んでいる。
 そうした状況下で自分のやりたいことを合間につくるのだが、私が訪ねるたびにそれを見せて感想を求められる。彼からすれば、新しい仕事に取り組んだつもりなのだろうが、私から見れば、新しいことに取り組んでいるのではなくて、出西窯の伝統的な造形が多少変わるだけで、私の眼では従来製品と比べても違和感のない物ばかりなのだ。改めて、優れた職人としての、彼の存在意義は大いにあると思った次第である。

丸紋土瓶のかたちについて話し合う陰山さんと私

柳デザインの製品

 今後の出西窯の方向は、彼がつくる物をどう継承していくかがポイントとなっていくだろう。出西窯は平成に入ってから2世の若者に代が変わって、彼らの実践活動によって制作する物が大きく変わっていった。ちょうどその頃は日本民藝館館長の柳宗理さんの影響力が肥大化して、柳さんのデザイン的な仕事に取り組むことで出西窯は全国に名を広めていくことになる。柳デザインを忠実に起こし、今の生活に合わせるという意味合いの物を中心につくっていくことで今や日本の中でも実用的な物を生産する「現代民窯」として1、2を争う窯になった。
 ただし、私はそうしてつくられてくる物は化学的な作用を利用した物もあり、あるいはかたちそのものもあまりにも現代に合わせたために薄っぺらさが目立ち、力の無い仕事が見えてくる。
ところが世間はそういった物の方がわかりやすく、それを若者たちが好むという方向になっていっている。それによってつくった物がよく売れるようになるし、販売が促進するため、それがむしろ正しいがごとく道が進んできた。
 しかし、私が手仕事フォーラムで努力して伝えているように、そういうことが良い悪いではなくて、第一に地域を表すものを具体的につくる物に反映させていく仕事であるか、第二に技をきちんと継承していける物か、第三に使うという「用」のための造形がきちんとくみ取られているか、この3点は健全な民藝の仕事かどうかを判断する上で非常に大事なポイントだと思う。

物が見えていない

 昨今、出版されてくる雑誌や書籍の中に「民芸品」と謳った物が随分掲載されているけれど、「民藝」の大事な要素をまったく考慮していないというか、そういうことすら気づかないつくり手と「作品」ばかりが目に余るようになってきた。また、それを平気で取り上げてしまう老舗の民藝店、ギャラリー、工藝店店主も多い。

 本来、民藝が培ってきた眼識力、見識力がまったく無くなった世の中になりつつある。これは大きな問題だ。とくに柳宗悦によって活動が始まり、柳宗悦の眼というものを信じてつくり続けている人たちと、それを携えて広めてきた人たちが当初の気構え、気質を喪失して、今の物の中に入り込んでしまい、本来の重要な役割を忘れてしまっている。ある意味では物が見えないという人たちが民藝界の中心になってきていること。しかも私たち民藝の立場の人の中にそういう人たちが非常に増えてきている。この現況がきちんとした仕事を見られず、世の中の流れに迎合してしまうことにつながっているのだ。

新たな関わり

 しかし、そうしたそういう状況の中でも、出西窯の役割はあると思う。それは良い意味でも悪い意味でも、この窯がつくっていく物の影響力は大きいのだと感じるのだ。私は出西窯が時代に合わせて世に送り出している物を否定的に捉えているのではない。しかし、今つくっている物に、出西窯が長年築き上げてきたスタイルや伝統を反映させるような製品をこれから提案していきたい。
 これから私は出西窯とともに民藝の道を歩んでいくことになると思うが、この窯には長い間、お世話になり、私の当初は出西窯とともに制作に関わってきたこともあった。
 しかし、多々納弘光さんと疎遠になった平成10年から約15年の空白の間に、世の中が変わり、創設当初の人たちもいなくなり、新たな人たちが加わり、新たな人たちの制作方向になっていく。また、 その新たな方向の製品を使う人たちも変わり、そういう物が正しいとメディアが取り上げることによって社会がどんどん変わっていく。
 こうした新たな物に生命を注入して、以前を忘れてしまうのではなくて、当初の仕事がいかに大事だったかということを、もう一度きちんと反映させた物をこれから制作していってもらいたいなと考えている。

導き手に期待

 そのためには陰山さんのような、過去を知っている人にもう一踏ん張りしてもらい、彼に過去の物にもう一度取り組んで欲しい。彼にはそういった姿勢を通じて、今の若いつくり手に示唆する、あるいは導き手になってもらうことを願う。これが彼に課せられた、ひとつの課題だと私は思う。そして、それを十分にできる力を持っているのが陰山さんであろう。 
 陰山さんが過去の優れた仕事ぶりを再び、今の仕事にもう一度取り込み、現在の窯の若い人たちがつくり、成功している新たな物に上手に組み入れていく。こうして出西窯らしい、たくましく健康的で、素朴な民藝の良さを広めていってもらわなければいけない。そのために私もこの窯に力を注いでいきたい。
 陰山さんの存在なくしては、本来、出西窯は無かったはずなのに、影を薄めず、彼が優れた職人としての存在価値があるということを、現在つくっている人たちが今一度、認識していく。それが、出西窯のこれからの新たな仕事の方向を左右することになるだろうし、私もその方向づけに参加していこうと思っている。