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Kuno×Kunoの手仕事良品

森山ロクロ工作所の茶たく

森山ロクロ工作所の茶たく

2011年8月22日
島根県出雲
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 私は木工の仕事とはやや縁が薄いように思われているかもしれない。それは私たちの目指す方向に関わってきているつくり手がきわめて少ないということも理由のひとつにある。先日、手仕事フォーラムのメンバーと出雲を旅したとき、久しぶりに森山ロクロ工作所を訪ね、その数少ないつくり手の一人である森山 登君と話しているうちに、やはりこの人のことも今のうちに記しておかないといけないと思った。まずは、森山ロクロ工作所の仕事についての解説を始める前に、木工そのものに対しての私の興味についてお話してみたい。

どこも同じ

 私は、もやい工藝発足時に日本各地の民藝店を訪ね歩いて、そこに置いてある物を見ると木工製品より焼きものの方が造形的、色彩的なものを含めて感じるものが多いし、またカゴのような素朴で生々しい物にはおもしろさを感じた。
 店に置いてある漆器物の木工品、家具類はだいたいが拭き漆、あるいは朱と黒の漆を塗った物ばかりが目立っていた。どこでも同じパターンで、だいたい8寸ぐらいから尺4〜5寸くらいまでの各寸刻みの盆や茶たくを扱っていた。
 それらは決まった生産地の卸問屋が出荷してくる物だから、どこも同じ品揃えだったのだ。生産地は木曽や会津、秋田の川連(かわづら)など。それから漆を塗った物ならば輪島の物も見かけるくらい。そんなわけで、自分はあまり木工には関心を持てないでいたのだった。

出西窯の茶たく

 その頃、出雲の出西窯に顔を出すと、お茶を出してくれた。その際に必ず湯呑み茶碗が茶たくが載っている。それはいかにも民藝的な漆の仕事で、分厚くケヤキの木目がしっかりした物。これがどっしりとした民藝の器と合うのだ。その茶たくを眼にしてから、私は漆の仕事に対しての見方が変わってきた。しかし、こういった物を手がけなければという気持ちがあっても、あまり気が進まなかった。ところが出西窯を訪ねるたびにこの茶たくを見かけるものだから、そのうちにこの茶たくはどこでつくっているのか尋ねると、近くの出雲市内の森山ロクロ工作所でつくっているということだった。
 こうして出西窯に森山ロクロを紹介されて、私は初めて木工に関わっていくことになる。とはいえ、もやい工藝にどこの店にもあるような物を置いても仕方がないし、森山ロクロの定番製品も全国の店にだいたい卸していることだろうからと、なかなか具体的には動き始めなかった。ただ、木工においても自分でも物の提案をしていきたいという気持ちもずいぶんあるし、焼きものも当時は山陰方面の窯元には自分の提案した物をずいぶんつくってもらっていたから何か関わってみたいとは思っていた。

森山ロクロ工作所の工房 
写真:平林みか

日本民藝館の台所にて

 そんな矢先のこと、私はよく出かけていた日本民藝館で、ある茶たくと出合うことになる。当時の日本民藝館にあった台所では、館の職員たちが午前10時と午後3時に集まってお茶を飲んだ。そこで使われていた茶たくが眼に入った。縁が幅広くて中が窪み、茶碗の高台径がすっぽりと程よく黒い漆が塗られた茶たく。私がじっと見入っていたら、職員の田中洋子さん(現・擁子さん。当時40歳代)が「これに興味ありますか?」と聞いてきた。「とてもいいですね」と私(当時は20歳代)が答えると、「これがいいと感じることは眼がなかなか育ってきた証拠ですよ」と田中さん。
 この茶たくは柳宗悦先生が愛用していた茶たくで、柳家ではなく、民藝館の台所でみんなに使わせていた。しかも来客があると、この茶たくに濱田先生の湯呑み茶碗を載せて出したりしたとのこと。
「この茶たくは、どうやってつくらせたのですか?」と質問を続けると、
「これは京都の東寺で毎月21日におこなわれる弘法市(弘法さんとも称される骨董市)で柳先生が戦前に見つけた物で、10数客あって、使い心地がいいから未だにみんなで使っていて、とてもよい物ですよ」と田中さん。
 技法そのものは教えてもらえなかったけれど、朱と黒の染め分けのバランスもいいし、木目が出ていて、とてもいいものだな、こんな物を私も欲しいなと思っていた。

弘法さんへ

 37〜38年前の当時、私は盛んに骨董市へ出かけていた。柳宗悦先生は昭和10年くらいに京都に居たときに、この弘法市でさまざまな日本の民藝品に出合う。そういういきさつから民藝関係者にとってこの骨董市は特別な想いを持って臨んでいた。今では掘り出し物や美しい物は手に入らないけれど、当時の私はとりあえず行ってみたいと思った。
 そして民藝館で茶たくに魅せられた2週間後に、私は弘法市に立ち、大変な数の出品物の中で民藝館の茶たくとまったく同じ物と出合うことになる。
「わぁー」と私は興奮した。たった4客しか無く、1枚は500円くらいの値段。民藝館で使われている物と同じ物が手に入り、私は感激してしまった。
 私はこの4客を東京に持ち帰り、すぐに民藝館に行って田中さんに見せると驚き、手を叩いて喜んでくれた。ちょうどその時、民藝館の職員で佐々木潤一さん(大山崎山荘美術館を創設された方)がいて、「まだこんな物が手に入るんだね」と驚いて「久野君、よく見つけたね」とお褒めの言葉をいただき、とても嬉しかった。
  私は新作をつくり出していかないといけない立場だし、よい物があったらまた復刻させて広めたいなと思っていたので、この茶たくを誰かにつくってもらえないかと考えた。まだ漆そのものに対しては素人だから、塗りのことはよくわからない。とにかくこの茶たくと同じかたち、同じ寸法の物をつくってもらうと。それに前後して森山ロクロの存在を知ったばかりなので、森山ロクロに依頼してもみようかなと思ったのは、それから数年後のことだった。

 発注に際して、弘法市で出合った茶たくと民藝館の茶たくの大きさを比較したら、前者の径が4寸2分(12.6cm)、後者はやや広くて径が4寸4分(13.2cm)。やはり一回りほど大きく、大らか。縁の反りもいいし、柳先生の選ぶ物は素晴らしいと改めて感心。それでも似たような物を手に入れたということは私にとっては大きな励みとなった。

民藝館職員が使っていた茶たくと同じ物。弘法市で偶然出合えた

復刻にとりかかる

 各地でさまざまな物をつくってもらう方向の仕事をしているうちに機が熟し、森山ロクロでこの茶たくをいよいよ手がけて復刻してもらおうと考え、今度は見学ではなくて、改めてお願いに訪ねた。この時に紹介してくれたのが出西窯の多々納弘光さんで、「若い久野さんという方が頑張っておられるので、ぜひ協力してあげなさい」と電話をしていただいていた。そこで初めて森山ロクロとの付き合いが始まる。昭和52年(1977年)くらいのことだったと思う。
 仕事場には7〜8人のつくり手がいて、忙しそうに働いていた。当時の工房では森山 登さんはそれほど前に出てきていなくて、古い職人たちと経営権をもつ長女の婿が対応してくれた。見本を見せると金額の見積もりと何枚からつくれるか、また、これと同じ物はつくれるが、漆塗りはこの工房ではできず、白木地しかできない。どこか他で塗って欲しいと言われた。
 では、木地だけつくってもらい、どこかで塗ればいいかなと思い、10枚くらいから頼めないか打診した。すると「10枚だけ注文というのはないだろう。最低でも100枚は頼まないと」とのこと。木地の値段は当時で1枚680円くらいだった。100枚となると6万8000円。たいした金額ではないのだが、当時の私は5万円以上の仕入れ金額はなかなか大変だったし、しかもすぐには売れず、ストックしておかないといけないとなると苦しかった。そこでなんとかと相談すると「60枚くらいなら勘弁してあげる」と言ってくれた。

木地屋と塗り師

 制作の約束をとりつけた後、その方は車を運転して出西窯まで送ってくれた。彼はそのまま窯に上がりこんで窯の発起人のひとり、陰山千代吉さんと話をしていた。陰山さんは多々納弘光さんの片腕で、ロクロが非常に上手で、この窯のピッチャーのかたちの原型をつくった人。このピッチャーに多々納弘光さんがハンドルを付けて出荷していた。発起人の5人は出西窯の仕事だけでは生活が厳しく、それぞれがアルバイトをしていた。陰山さんは鳥取の民藝プロデューサー吉田璋也さんの勧めもあって、拭き漆をする作業を手がけていて森山ロクロでつくった木地に拭き漆をかけるというアルバイトをしていたことをその時に知り、初めて木工木地屋と漆屋の塗師屋との関係がよくわかった。

 そのことを影山千代吉さんに聞いたところ、吉田璋也さんは『鳥取方面ではケヤキの茶たくを安くつくれる人がもういない。森山ロクロは仕事ぶりがよいし、職人も多いからと頼んだものの、漆を塗る人がいない。白木地だけ鳥取に持ってきても、県内ではすでに漆屋は値段が高くて一般日用品の茶たくにはとても応じられない状況だった』そんなことで安く仕上げる方法、これは私もよくとる手段なのだが、知り合いで器用な人にやってみないかと話しを持ちかけてやってもらっていたとのことだった。

拭き漆も始める

 そんなことで森山ロクロは当初、吉田璋也さんから注文がくると、白木地だけつくっていたのだが、塗る金額を考えると、自分の所で手がければ利益がより高いと考えたのだろう。やがて自己流で拭き漆を始めた。その時はすでに日本の国内産の漆はほとんど採れなかったし、仮に採れても非常に高い値段だった。すでにその頃に中国から安い漆も入ってきていた。
 拭き漆は、まず木地を粉末状にしたものと土と漆を混ぜた「砥(と)の粉(こ)」を下地にして目を止める(木地が漆を吸いこみ過ぎないようにする)。その上から漆をかけるのだが、一度だけでは駄目で、拭いては染みこませ、乾いたら再び染みこませるのを3度ほどおこなう。多い場合、7度くらいかけることもある。色の具合は何度かけても変わらないが、耐久性は多くかけた方が高まるのだが、何度塗ったかは見た目にはわからないので漆屋の人柄を信用するしかない。

光原社に相談

 自前で拭き漆も始めた森山ロクロに例の茶たくの再現制作を依頼するにあたり、朱や黒の色をどのように塗ればいいのかわからなかった。それで光原社に相談すると、漆塗りは得意だから工房で塗ってもらえることになった。その漆の金額の交渉をすると、やはり拭き漆と違って、朱漆や黒漆を塗るのは手間もかかるし、値段も違ってきた。1枚あたりの値段がかなり高いのだ。木地代の約2倍はする。1枚あたり仕入れ価格で2000〜3000円になり、それを売るとなると結構な値段になってしまう。まず売れないだろうというのが実感だった。
 それでも取り組まないといけないと思ってしばらくしたら森山ロクロから頼んだ物が出来上がり、送られてきた。その間に光原社と交渉して何とか助けてくれないかと、当時は専務(現・社長)の及川隆二さんに頼んだ。彼とは友人関係になっていたし、非常に私のことを助けてくれていたものだから、かなり利益を落として安く請け負ってくれた。
 漆塗りを担当したのは佐藤竹治(たけじ)さん。彼からはこの塗り方が目はじきという技法であることを教えていただいた。目はじきは、一度拭き漆と同様に軽く目止めを施し、木地固め、摺り漆をした後、刷毛で上塗りをする。使いこんでいくうちに木の美しい目が出てくるような塗り方だと教わった。

佐藤竹治さん 写真:久野恵一

右は森山ロクロで木地を挽いてもらい、盛岡の光原社で漆を塗ってもらった茶たく。
塗り師は佐藤竹治さん。目はじき塗りという技法によるもの。
左はで弘法市でみつけた古作。使いこんでいることもあるが、やや黒ずんだ風情がある。右はやや彩度が高い。
鈴木繁男さんにこの茶たくでお茶を出したら「ほう、君はいい物を持っているじゃないか」と驚かれた。
得意になって、アイデアの元となった骨董の茶たくを見せると、鈴木さんは「君、これは茶たくではないよ。
これは京都の料理屋で流行った物で、茶碗蒸しの受け台だった物だよ」と教わった

日本民藝館展に毎年、出品

 その後、森山ロクロには光原社の塗りと同じように漆を施してほしいと頼んだが、出来上がりは違ってきた。盛岡の朱漆の塗り方とは成分が異なるということ。それから現在の方が漆の質がとてもよくなっていることもある。ともかく、こういった物が出来てきて喜んだものの、なかなか売れにくい。それでも、日本民藝館展に出品すると、審査員の方々が好意的にこういった雑器類を見てくれ、すぐに入選したり、一般に広めてもいいのではと推薦してくれた。それで館展には茶たくを出すことにしたのだった。
 同じ物が繰り返しつくられて同じ状態であるということを見せてもいい、毎年同じ物が出品されてもいいというのが、当時の館展のあり方だった。
 毎年、同じような物が同じようなつくり手が手がけていれば、それは健康的な日用品がいつでも出来ている。つまり民藝は健在ということ。それを見るのが館展のあり方で、健康性を見ていくひとつの尺度の立場が館展だった。
 現在のように、思いつきや、ちょっと他人と違う物をとか、極めつけの物を出して競うだとか、あるいは買った物をそのまま民藝店が出品するような内容ではない。かつての審査員の鈴木繁男さんや岡村吉右衛門さんたちはそういうスタンスをもって館展に臨まれていた。

 森山ロクロと付き合うようになって、日本民藝館展にも出品をしていくうちに茶たくの要望も出てきた。それで店にも拭き漆の茶たくを置かなくてはと、森山ロクロを目指して相談に行った。この工房が手がける物はいかにも民藝風の物が多かった。茶たくというのは10枚、20枚つくるのではなく、大量に何100枚といっぺんにつくる。その中に木目がいい物もあるし、漆がとてもきれいに発色する物がまぎれている。そのあたりが茶たくのおもしろさだ。

森山ロクロが大量につくった物の中に、このように木目や漆の発色が美しい物が紛れている。
茶たくの径は4寸3分くらい。普通の湯呑みを載せても見栄えがする。

森山 登君と出会う

 私としてはもうひとつ工夫した茶たくが欲しいと思っていたところ、森山ロクロを訪ねると、当時30歳そこそこの若い青年だった森山 登君(昭和29年生まれ)が工房から唐突に出てきて応対してくれた。
 ちょうどそのくらいから森山ロクロも含めて民藝品が少しずつ売れなくなってきて、職人たちも老齢化が進んで、人を補充しないまま、1人2人と消えていくうちに減ってしまった。今は家族的な労働で自分と姉と、姉のご主人と父など5〜6人でこの工房を続けているのだと言う。
 森山 登君の父はずっとこの地で木工の仕事をしてきたわけではなく、はじめは出身地である広島県宮島でロクロ職人になったという。そこで修行しているうちに戦争が始まり、徴用されて戻ってきて、宮島で元の仕事に就いたのだが、たまたま出雲の方で木工関係の工場をつくる必要が出てきて、その技術者の指導というかたちで、宮島の木工ロクロ職人が出張することになって、父が出雲へと派遣された。そこで仕事が必要になってきたので出雲に住んでしまって宮島で習った木工の仕事を始めたのだそうだ。
 その昭和30年のはじめか終わり前頃から全国的に民藝品、工藝品が売れる時代となり、さまざまな注文が入る。その噂を聞きつけた各地の民藝店、とくに鳥取の吉田璋也さんが鳥取の方ではいい木工屋が高くなって買えなくなったから注文をするようになった。「鳥取たくみ」を通じて、各地の民藝店に卸しもしたし、またどこでつくっているのか探ってくる人もいるため、直接森山ロクロに卸してもらう店も出てきた。さらに出西窯でも盛んに、このような茶たくを使うものだから、出西窯からの紹介で物も売れるようになる。
 その最盛期に森山 登君は18歳で、この仕事に入って訓練しながら手伝っていた。それで4〜5年経つと、腕のあるロクロ職人になれたのだそうだ。当時はただ挽くだけの白木地の仕事をしていたのだけれど、ある時から拭き漆を施すようになる。技法的にはさほど難しくないから自前の木地に自前の拭き漆を施して販売することが続き、民藝店からの注文が多くて収入もよかったという。

 ところが彼が青年として私の前に出てきた時には販売が滞ってくるようになる。年輩の職人には辞めてもらったりしながら縮小して仕事だけは守っていこうという気持ちになっていた。30歳台の森山君が中心になってやっていこうというタイミングだったのである。

外村吉之介デザイン

 そんな彼に「何か新しい方向の物を」と相談すると、森山君は今まで眼にしたことのないデザインの茶たくを見せてくれた。一般的な漆の茶たくは縁がきちんとできていない。それは水切りを配慮してのことだと思うが、その茶たくは焼きものの皿のごとく縁がきちんとあるかたちをしていた。これはなかなかいいじゃないかと聞くと、外村吉之介さんがデザインした物と森山君。「これと同じ物を」と外村さんが見本を持ってきて、その見本通りにつくったという。
 しかし、私の眼から見ると弱い感じがした。もう少しかたちそのものをしっかりした方がいいのではと考え、縁の幅を大きく、がっちりとした、より力強くたくましいデザインを提案したのだった。そしてこの製品についてはすべて柾目ではなく、板目で木地をとって欲しいと注文した。このデザインならば、板目の目が活き活きとして、上に置く物が映える気がしたからだ。

森山 登さん
写真:後藤薫、中尾広道

右は外村吉之介さんがデザインした茶たく。左は私がそれを改良したもの。縁の幅を広くし、木地は板目に。寸法は同じ

外村デザインと私の改良デザインの茶たくそれぞれに湯呑みを置いてみた

特別注文に応じる技術の高さ

 森山 登君は素直で、仕事ぶりも自分を出そうとか、有名になろうという気持ちはまったくない。淡々と注文を受けたものをつくっていくという制作態度でずっときていて、現在57歳。30歳後半からは出雲民藝協会に属する同世代の多くのつくり手ともに出雲民藝館を盛り立てながら仕事をしている。
 そんな彼に私もいろいろな注文をしながらつくってきた中に、特別注文をした物もあった。昭和56年(1981年)頃、彼に思い切って再現してもらったのは富山県砺波(となみ)の骨董店で見つけた尺1寸5分の盆。これは昔ながらの盆に作為を付けた物であろう。当時、富山民藝館の館長だった安川慶一さんがデザインした物と思われるが、なかなかよい盆なのだ。
 この盆を再現したくて、森山君に挽いてもらった。塗りは光原社に依頼。そうして骨董の盆と同じように制作してもらったのである。この盆も日本民藝館展に出し、評判がよかったが、値段的には難しく、それほど売れたわけではない。しかし、使いやすい盆で、線描きを独楽のように少し入れてある。これによって上に載せる物が滑らないし、持ち運びの際もグリップ性が高まる。また縁が中に食いこんでいるため非常に持ちやすくもなる。縁の方は塗りつぶしているが、中側の黒は目はじきに。たとえば、こんな物も挽けるくらい森山君はロクロ仕事が上手な人なのだ。
 この時は私も思いきって注文書を出して新たな展開をしたものだった。ところが、経済状態が悪くなり、もやい工藝もそこまで対応できなくなり、この仕事もできなくなってしまった。その間、中に独楽の文様を線描きした茶たくをつくってもらったりもした。

富山県砺波の骨董店で見つけた盆を再現

独楽の文様を線描きした茶たく。これも森山ロクロに発注し、塗りは光原社に依頼

これも私のオリジナルデザインの茶たく

美の認識の相違

 茶たくは日用品ゆえ、頻繁に使ってもいい物のはず。ところが15〜16年ほど前から特定の人の見方なのだが、漆そのものが使っているうちに剥げてしまうとか、漆は使うのに面倒だとかいう風潮が高まり、漆の堅牢性を誇るのが、漆の仕事ではまるで当然であるかのような流れができてきた。
 それによって漆に対しての物の見方が変わってきた。漆の物は高価で、高価な物だから、しっかり漆を塗った物の方がよいとされた。
 私たちが手がけているように、日常的に使いこまれた味をよしとしつつ、その美しさを堪能するのではなくて、最初から塗りつぶしたよう塗り固めて、いつまで経っても剥げずに同じような塗りの物がいいというような考えが、民藝の中でも当たり前になってしまったのだ。
 それは審査する人の方向でもあるのだが、頑なな物の見方しかできない人が美しさの認識、あるいは見識が相違してくると、そういうことになるのだ。
 こうして、だんだんと民藝の漆器への見方が変わってきてしまった。たとえば漆器は基本的に下地をつくる木地師がいなくてはならない。ところが今、木地師は名前が残らず無名に。下地の上から塗る塗り師だけが作家になって有名になっていく状況に私は疑問を感じてきた。しかも、日本民藝館までも最近はそういう方向にいきつつある。

使い込んだ物の美

 ところが、民藝館に所蔵されている漆器はみんな使いこんだ美しい物ばかり。それらは塗り固めた物ではなくて、使うことを前提にして、簡素に塗られている。ロクロ成形は電動ではなく、手動のため、むしろ趣きがある。当然、今の物よりも雑なものだけれども、そこには人間のぬくもりを感じる。ところが現在の漆器業界の方向は、手のぬくもりがあまり感じられなくて、どれほど使っても漆が剥げないような状態。手仕事の活き活きとしたものを失ってしまっているのだ。
 当然、きちんと漆を塗った漆器には、民藝の陶器のようなザラザラした物に載せたら傷ついてよくないという考えも出てくる。私はこうした状況を少し元に戻すべきではないかと思う。
 木地師が大らかにつくった物を使いこんでいくうちに味が出していくということ。それが美しさを帯びてくることも当然ある。  
 湿気やカビ対策に漆を簡素に塗れば、使いこむことで剥げてしまうけれど、剥げたら塗り師に頼んで塗り直してもらう。それを繰り返していけばいい。
 能登半島の輪島近くにある合鹿椀(ごうろくわん)はまさにその典型的な物のよさがある。こういう物のよさ、味をもう一度考えていかないと漆器も木工品も駄目になる。漆器が売れなくなれば、その下地をつくる木地屋も生きていけなくなる。このことが大きな問題であろう。
 そういう意味ではまだまだ、森山君のような木工木地師は若い(といっても、いい歳になってはいるが)つくり手が、そして私たちももう一踏ん張りして漆器に対しての認識を変えていくような方法をたどらないと日本の漆器文化は本当に駄目になる。

 漆製品は高額であることが当たり前となり、買ってもらうためには制作する人が名前を前面に出して作家性を帯びたものになっていく。そのことによって無名性で、大量に安くつくって長持ちして使ってもらいたいという人たちから離れていくことになってしまう。

右手前の拭き漆の茶たくを20年ほど使いこむと、茶渋が浸透して左手前のような色になる。
味が出てきてよいではないか? 奥が漆を塗っていない白木の茶たく。いずれも森山ロクロ製

椀類があまり無いと、いろいろな人に言われた。
椀類を木どりするだけの材料は値段がかなり高いので買えず、なかなか椀の仕事ができない。
発注するには、ある程度ロットを抱えないといけないので、つくりにくいのだそうだ。
私たちが注文するにしても何10という数を頼まないと椀ができない。
私も椀を頼もうと思ったけれど、数が必要なので諦めた。
森山ロクロに椀がつくれるかどうか尋ねたら、出雲市の隣にある松江に石村英一さんが八雲塗りの過飾な物に疑問を感じて
単色の塗りを手がけ、しかも目はじきが大好きな塗り師がいるとのこと。
石村さんは合鹿椀のかたちが好きで、この椀を縮めたようなかたちで椀を制作しているという。
その椀の木地を森山ロクロにつくらせたのがこれ。石村さんの工房に木地を納めて塗ってもらった。
かたちもいいし、目はじきの目が出てくるのがとても好きなので、これを私の家では正月用の雑煮椀にしている。
また、お客さんが来た時にもこれを出す

地道な仕事をサポート

 森山君には、漆をかけなくても白木地で済む物もあるからと、そういった物も心がけていき、少しでも値段を安くしていった方が販売につながると伝えた。安くする必要はないという人はいるし、もちろん安くする必要もないとも思うけれど、それではご飯が食べられない。生計が成り立たせるためには、森山君は一生懸命、漆を固く塗ってつくらないといけない。だが、そういう仕事をしている人は溢れている。口が上手で、パフォーマンスに長けていれば作家になれる。その作家としての立場を有効に使っていけばこういう仕事も可能だろう。 
 しかし、森山君のような昔気質の職人で、喋ることも苦手で人柄がいい人はそんなパフォーマンスもできないので、こういうような地道な仕事をするしかないのだ。
 地道な仕事に取り組んでいけるようにするためにはユーザーも育て、ユーザーに正しく使い方を教え、使うことの喜びを感じてもらわないと前に進まない。その助言、手伝いをするのが私たちの仕事だ。手仕事フォーラムとしても、私自身もそうなのだが、こういった木工の限られた資源の中で、しかも安価な物を広めていくためには、互いにつくり手も、販売店も我慢しなくてはいけない。  
 そうして、こういう気持ちのいい仕事を広めていけたらと考えている。