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Kuno×Kunoの手仕事良品

横田屋窯 知花 實さんのやちむん

横田屋窯 知花 實さんのやちむん

2011年9月25日
沖縄県読谷村
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 沖縄の焼き物「やちむん」の良品について、この連載記事で今まで紹介してきたつくり手は北窯の松田共司君、宮城正享君、恩納村の照屋佳信さん、荒焼(あらやちー)の新垣栄用さん。この人たちは特徴的な仕事をするし、人間もおもしろいし、題材としては取り扱いやすく、付き合いも長い。彼らとは話しやすいということもあったし、制作上においてもかなり私のアドバイスを聞いてくれた。
 また、この4人とはさまざまな意味で状況が相違するやちむんづくりの知花 實(みのる)さんがいる。しかし、どういうわけか今までに知花さんについての話は出てこなかった。
 その大きな理由は、まず彼が独立して窯を構えて日が浅いということがある。それから一人で仕事をしているため窯出しが年に1度、よくて2年に3度ぐらいのペースということも挙げられる。品物の量も製品のバリエーションも少ないものだから記事に取り上げにくかったのだ。

金城次郎さんの摸倣が主流

 沖縄では若いつくり手、作家を含め、やちむんづくりの方向のほとんどが金城次郎さんを意識しているといってもいい。北窯の松田米司、共司兄弟も次郎さんを目標に仕事をしているし、製品も次郎さんが過去につくったものを模倣しながら自身のスタイルにしている。
 個人作家が焼き物を摸倣してつくるのはナンセンスなのだが、摸倣を上手にアレンジして工夫していけば、またおもしろさが生まれる。ところが沖縄の人たちは丸きりそのまま摸倣する。それでいけないのかというと決してそうではなく、摸倣したところで次郎さんと同じ物ができるわけではない。それは土質とか釉薬の問題、焼きの調子もあるのだが、それ以上に次郎さんという人の、沸き上がってくるようなエネルギッシュな力の違いがある。土着のエネルギーを生み出したような棟方志功みたいな力。次郎さんは沖縄の中で生まれた類い希な無意識な芸術家だった。そういう人がつくる物を真似ても同じ物にはならない。
 しかし、次郎さんが切り開いた文様、技法を取り込みながら、今のやちむんに再現していったり、次郎さん的でありながら次郎さんの製品とは異なる物がたくさん出てきてもいる。そして、それが現在のやちむんの概ねをかたちづくっているともいえよう。

登り窯がやちむんの伝統を継ぐ

 上焼の中で大きな影響力を持っていたのは、小橋川永昌(こはしがわえいしょう)さんが代々営んできた仁王窯(におうがま)。しかし、永昌さんは亡くなり、仁王窯の正統性を継ぐ人もほとんどいなくなってしまった。この窯は赤絵を中心とする仕事をしていた。
 仁王窯と双璧なのが、新垣栄三郎さん系の赤絵。こちらは息子の新垣 勲(いさお)さんが赤絵を描きながら昔ながらの壺屋の仕事を継いでいる。ただし、壺屋は登り窯が焚けない状況になっているのと、ガス窯を多用することで出来上がってくる製品が活き活きとした力強さを失っている。沖縄の土質は火が暴れるような薪の窯でないと対応できないのだ。
 そういうことで、ほとんどのつくり手が登り窯の仕事が可能で、壺屋の仕事の魅力を表せる環境の読谷へと移るのは当たり前のことだった。薪で焚く仕事こそが沖縄の伝統をそのまま受け継いでいるといってもいいのだ。
 とくに北窯の松田兄弟、宮城君は次郎さんが懸命につくってきたものをそれぞれが継ぎ、また注文する側も次郎さんのかつての手仕事の良さを表すような製品を望む。それくらい次郎さんの文様と技法は沖縄の土質に合っていて、しかも焼き上がりの美しさの中には活き活きとしたものが見えてくる。これこそがやちむんの魅力であり、それゆえに北窯は日本国中で最も人気が高い窯場として君臨しているといってもいいと思う。

北窯の登り窯(写真/堀澤三香)

北窯の松田共司さん(写真/堀澤三香)

北窯のやちむん(写真/堀澤三香)

やちむんの里

 北窯があるのは、読谷村の「やちむんの里」と呼ばれる場所。読谷で焼き物を焼いている、やちむんの里周辺はもともと弾薬庫などの米軍用地を読谷村が払い下げた。そして、当時の山内村長さんは工藝村的なものの構想を描いて、薪を焚けない壺屋からまず金城次郎さんを読谷に呼び寄せた。
 その際も次郎さん一人ではなく、共同窯でやちむんを焚くことを条件にして払い下げている。さらに払い下げた土地を譲渡し、読谷山焼という名で大嶺實清(おおみねじっせい)、山田真萬(しんまん)という今のやちむんの骨格をつくった人たちの窯が出来た。そこのお弟子さんたちが開いたのが北窯なのだが、広大な赤土の地域で、昔は「ユンタンジャー」と呼ばれた独特の山だった。
 米軍用地ということで荒れ地だった山にはいつの間にか沖縄の気候により樹木がどんどん茂り大きな森になった。その森を切り開いたようなかたちで窯元が点在している。

やちむんの里の森の中にある北窯(写真/堀澤三香)

濃厚な緑に囲まれた工房で作業中の宮城さん
(写真/堀澤三香)

家族だけで登り窯をつくる

 知花さんは北窯の松田兄弟たちと同じように大嶺實清さんの窯で修行された。互いに読谷村出身で、歳も同じで小学校、中学校も同じだったらしい。もともとは北窯との縁で独立するという話もあったようだ。しかし、結局は一人で仕事をしていたが、なかなか経済的には厳しく、某泡盛メーカーの器づくりをしていたそうだ。知花さんが手がけたそのやちむんは、沖縄では高級なお酒の販売方法として中に泡盛を入れ、セットで販売されたという。知花さんはそうした甕(かめ)づくりの仕事で生計を立てていたらしい。その時はまだ窯を持っていなかったので、1個つくっていくらという賃引きの仕事で、つくっては依頼された泡盛工場の方で焼いてもらっていた。
 そうして徐々に自分たちも窯を開くために少しずつお金を貯め、準備をしていた。沖縄ではかなり長いサイクルでその準備をする。通常は窯づくりの職人を入れて、「手元(てもと)」といって、本人を含め手伝う人たちがどれくらい集まるかによって登り窯がつくれるのだが、知花さんは家族だけ、奥さんと息子さん2人を手元にしながらゆっくりと窯をつくっていった。
 その過程で、知花さんの友人である松田共司君から「こんな人がいますので紹介しますよ」と北窯のすぐ隣の森の中で工房を設けたばかりの知花さんに引き合わせてもらえた。10数年前のことであった。

森の中の知花さんの工房(写真/堀澤三香)

美しい白化粧土

 知花さんは物静かな人という第一印象だった。沖縄人らしくないような静寂感を窯の中で感じた。黙々と賃引きの仕事をしていたのだが、ふと見ると、その中に非常に美しい白土の湯呑みがあった。「この化粧土はきれいですね」と言うと、化粧土は恩納村の安富祖(アフソー)で採ってきたものと知花さん。松田共司君も安富祖から採っていた。化粧土は非常に限られた資源なのだ。
 胎土に用いる赤い土の上に白化粧土を薄く掛けるのだけれど、その赤土と白土との相反が化粧土の白をきれいに引き立たせる。白の濁りが無ければ無いほど美しいのだ。かつての壺屋はそういう美しい白土を焼いた。還元炎で焼けばグレーがかるけれど、それなりにきれいだ。酸化炎で焼けば、やわらかくとても美しい白が出る。そんな良品を日本民藝館の蔵品や沖縄県立博物館や骨董店で見かける。しかし、ある時期から焼き方を含めて釉薬の調子も違うようになる。今のやちむんがどんなに良いといっても昔の物にかなわないところは、そのような点にあった。
 私は知花さんの白土の湯呑みにはとても惹かれ、こんな湯呑みが欲しいと伝えると、窯が稼働すれば、こういう物をつくりますからと知花さん。そのことが頭にあって、当時の沖縄での焼き物の仕入れ先は北窯の2軒の他、知り合ったばかりの照屋佳信さん、そして山田真萬さんの窯の計4軒。その次を考えた時に全く異質の柔らかさをもった知花さんの仕事の物がどうしても欲しかった。  
 そのため出会いから5年くらい経って知花さんの窯が完成し、独立するまでの間、「もやい工藝」スタッフの堀澤が北窯の窯出しに出かけた時には必ず、知花さんの所へ顔を出させ、彼の家族と会わせて意思疎通することで友達関係をつくれた。知花さんも窯が完成したら真っ先に「もやい工藝」の方に物を出しますし、ぜひ観に来てくださいと、とんとん拍子に話が進んでいった。
 いよいよ独立する知花さんにはどういう物を見本として提供すればいいのかなと考えた時、やはり美しさとても惹かれた白化粧土に主眼を置いて骨董屋や古美術店を回って知花さん向きの焼き物がないかと探した。
 すると、ちょうど細長い三彩点打ちの湯呑みを見つけた。これはそれほど古い物ではなく、おそらく壺屋で登り窯の時代、復帰前後くらいにつくられた物だった。本土向けの民藝品のような湯呑みなのだけれど、とても化粧土の白が美しくて、これだったら知花さんの化粧土にも対応できるかなと彼のもとへ持って行き、窯出しの時、これをつくってくださいと渡した。知花さんも制作上の意欲を持っていたものだから嬉しいと取り組み始めた。

優しく微笑む知花さん(写真/堀澤三香)

ゆいまーる

 話しは窯づくりに戻るが、沖縄にはどこにも「ゆいまーる」という精神があり、共同作業をおこなう。手伝うのが当たり前になっていて、誰かが思いきったことをすると、いつの間にか誰かが手伝いに来る。周辺の知り合いとか、知り合いの知り合いの、また知り合いといった具合に輪が広がっていく。まったく面識の無い人が手伝いに来る。そういう沖縄ならではの人のつながりにより、知花さんが窯をつくった時も彼の家族プラス、見知らない人たちがずいぶん手伝いに来たのだった。とくに隣にある北窯の松田兄弟は幼い頃からの友達ということもあって手伝いに来たし、そこのお弟子さんたちが入れ替わり立ち替わり来て手助けした。非常に傾斜がきつくて、大きくゆったりとした窯。昔の壺屋のような粗造りの窯ではなくて、かといって北窯のような本土にあるような連房式の、しっかりとした大窯でもない。手づくりで、いかにも知花さんの良さが現れているような登り窯だった。

琉球古典の細描き

 窯があっても、中に入れる物があって初めて焼き物が成立するので、「もやい工藝」からは何を注文しようかという話をしたこともあった。その時、知花さんは自分の好きな物、やりたい方向の物をつくっていた。そして、いよいよ最初の窯出しが近くなった時、たまたま私は知花さんを訪ね、彼の絵付けを眼にして、ハッと思った。「あれ、この人の方向は次郎さんではなくて、もっと琉球古典の焼き物を目指しているのではないか」と感じた。知花さんの個人史を尋ねてみると、古典文学に強い関心をもち、琉球大学で学んだ過去を話してくれた。ある時代の琉球文化の良さを自分で関わってみたいと思ったのだそうだ。彼は焼き物づくりの仕事に入った時、他の人たちの多くが昭和の金城次郎さんの仕事に憧れて仕事をしているのに反して、むしろ自分は原点である沖縄本来のものに取り組んでみたいと考えたのだとか。
 金城次郎さんは太描きの絵付けを大胆にこなしていった。ところが、琉球古典、江戸期から明治にかけては、細い筆を用いて非常にていねいに描いていた。これは有田の古伊万里の染め付け磁器の影響を色濃く受けての仕事であろう。そういった物が本来のかつての沖縄のやちむんだった。その中から大胆な物も出てくる。その大胆な物に次郎さんは美を見出して次郎的なものをつくりだした。今はそちらの方が主流だけれども、知花さんは琉球古典の細描きで精緻に、ゆっくりと描いていくことに力点を置いているのだ。

三彩打ちの皿。金城次郎さんや北窯の大胆さはなくて、かなり柔和な雰囲気

古琉球、参考となった19cマカイ

初窯で抱いた期待

 訪問時にはまだ焼き上がってはいなかったのだが、あの化粧掛けの白に文様を描いたらどんなに美しいかなと期待を抱いた。そうこうしているうちに初窯が焚かれて、その頃の知花さんはまだ取引先がほとんど無かったので、焼かれた物が一気に「もやい工藝」へ送られてきた。
 その初窯の製品には昔の物を忠実に再現しようという意識が強くあって、その中に琉球古典の細描きの物があったのだが、私が予想とは仕上がりがやや違ったものだった。化粧土が北窯と同様、少し粒が粗くてグレーがかった感じだった。酸化炎で焼かれた物もそれほど白の発色が優れなかった。私の思い描いた物とは少しはずれて残念だったが、仕事の方向性をきちんと持った人であることはよくわかった。
 また、つくりの中には北窯の人がつくらないような、細かい仕事の物もずいぶんあった。全体的には北窯とは相違するような沖縄のやちむんが明快に見えるのだ。これはとても私にとっては良いことだと思った。別に強く意識しなくても沖縄のつくり手はそれぞれが持っている方向性に進んでいけばおのずと個性が生ずるもの。北窯の物を観ても、同じような文様でも、松田兄弟のどちらがつくった物なのかわかる。それはロクロでのつくりと、文様の描き方の違いから観て取れる。だが、そういった差異とははるかに異なる、沖縄のやちむんの姿を知花さんが目指していることがよくわかった。全体にロクロは薄づくりであり、柔らかい感じの物が多い。これが知花さんの製品の特徴だった。

知花さんが私のアドバイスにより手がけた三彩打ちの湯呑み。もっと白化粧がきれいだったら・・・と残念に感じた

ベロ藍が収まるやちむん

 初窯製品の中には、呉須(染め付けに用いる鉱物質の顔料。酸化コバルトを主成分として鉄・マンガン・ニッケルなどを含み、還元炎により藍青色や紫青色に発色)を用いた物もあった。呉須の用い方には呉須釉にしたものだと濃紺系の色になる。また顔料として用いる藍になるとコバルトを絵付けして釉薬を掛けるから藍の発色が非常に強くなって違うものとなる。この藍の強い色は藍の原料となるものが明治になってドイツから染料がずいぶん入ってくるようになってから生まれた。そして、とくに瀬戸を中心に「ベロ藍」(ベルリンブルーのなまり)という名前で藍の色がきつい色が流行った。
 最近はそうでもないのだが、30年前はマスコミを含めて、ずいぶん日本の文化人の間で型による絵付け印判手(いんばんて)を施した焼き物がコバルトの導入によってもてはやされたことがあった。それは私たちの眼から観れば何か嫌味な物で、趣味が良くないなと感じた。ところが沖縄の柔らかな焼き物の中に印判手を展開すると藍が以外と収まるのだ。派手すぎる色でもきつさを感じない。収まってしまうのだ。そういう意味でも沖縄の焼き物の中にベロ藍が入った物は好感を持てる。
 そんな呉須による唐草文様を筆で柔らかく細く描いていくというのが知花さんの独特のやり方だった。この手法により制作する物に渡名喜瓶(となきびん)というお墓の前に立てる古典的な酒瓶がある。これがなかなかしっかりとした瓶で、知花さんの初窯で出てきた時は非常に嬉しかった。古い沖縄の良さを今の物の中に忠実に映し、それを自分のものとして会得していた。
 この瓶は保存しておこうと私の手元に残しておいたが、連載記事「今の物、昔の物」を担当している横山さんに欲しいというので譲った。

 

昔のベロ藍的な藍で唐草を走り描きした物。右は草呉須。唐草文様は明治期のパターン

初窯の渡名喜瓶(写真/横山正夫)

知花さんの初窯・細描きが冴える(写真/久野恵一)

草呉須が上手

 初窯製品には草呉須製品もあった。このことが私をとても喜ばせた。草呉須はコバルトの中に緑釉(酸化第二銅)を混ぜることで独特の薄緑のきれいな色を出したもの。この色は一時期ずいぶん多用されたし、金城次郎さんもこの色で大胆な絵付けをしていた。しかし、ある時から誰もつくらなくなったし、このごろは壺屋、読谷の窯に行っても草呉須の釉薬をつくる人を見かけないのだ。何か顔料の制作上の難しさが起因しているのだろうか。
 ところが知花さんはこの草呉須の色を非常に上手に出せる人なのだ。ただ、時々はとても悪い場合もあるので、きっと草呉須は調合の仕方によってはうまくいけばとてもきれいだが、うまくいかないことも多いのだろうと思った。
 草呉須でたとえば皿、鉢、ご飯茶碗(マカイ)に描くと沖縄らしい柔らかさと強さみたいなものが表出する。これはやはり知花さんの独特の物なのだ。

草呉須、唐草文様の皿

飯碗。藍と飴色の文様は菊唐草。右端は明治期の商家の文様

静かで、強い人

 知花さん自身はあまり世間に訴えて出て行ったり騒々しいことを避けている方だし、個人的にもゆっくり仕事をしていきたいという人のため、職人的でありながらも、かなり強く個人的な考えも持っている。かといってそれを嫌味に出してえばったり、自分を出して陶芸界に打ってでるというタイプでは全然ない。あくまでも沖縄らしい、家族を守りながら、彼が住んでいる森の中の環境を大事にしながらゆっくりとしたペースで仕事をしている。いわば、沖縄では極めて珍しいタイプのつくり手なのだ。
 知花さんのような琉球の古典をふまえながら、やちむんの良さを少しずつ静かに出していこうという仕事もある一方、北窯のように次郎さんの模様を取り込みつつ大胆な沖縄の明るさを出していく焼き物もある。また、照屋佳信さんのように沖縄そのものを表せる実力を持った人の手仕事もある。この3つの方向の仕事の流れを守っていくのは非常に大事なことだと思う。

 知花さんも年齢は松田共司君と同じくらいだから、あと何10年も仕事をするのではないと思うけれど、家族の誰かが後を継ぐかもしれないし、こういう仕事を継続することが、琉球のひとつの文化を守っていくことにつながっていくと私は確信している。

この湯呑みは私の好きな物。草呉須と藍のなでしこ文様

左は二彩掛け五寸皿。用途は広い