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Kuno×Kunoの手仕事良品

井上泰秋さんの小代焼

井上泰秋さんの小代焼

2011年10月28日
熊本県荒尾市
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

初めての車旅

 私が熊本の小代焼(しょうだいやき)の窯を初めて訪れたのは、昭和49年(1974年)の春だった。私にとって初めての車での旅。ひとりで運転し、宮崎までフェリーで入って、小代焼の窯元がある熊本まで北上して行った。
 この窯元を訪問したいと思ったのは、その前年に催された小鹿田焼の坂本茂木さんが大賞を受賞した日本陶芸展がきっかけとなった。その展示会場で、私は「小代焼 井上泰秋(たいしゅう)」「小代焼 福田豊水(とよみず)」という2人の名前と陶器を目にした。両者とも黒っぽい地にたっぷりと白が流し掛けした器を出品。非常に激しく流し掛けた物と、おとなしく掛けた物とがあり、どちらも非常に魅力的に感じた。それで、九州の手仕事を探る旅だったのだが、まずその小代焼を訪ねてみようと思ったのだった。
 窯元を訪ねる前、熊本市内に立ち寄ったのだが、熊本城の石垣などを眺めているうちに、あっという間に一日が経ち、夜になってしまった。出発前に窯の住所を確認してこなかったので、地図を開き、「小代」の地名を探すが見つからない。しかし、よく目を凝らすと「小岱山(しょうだいさん)」という文字が目に入ってきた。おそらく、その山の近くに窯元があるのだろうと推測し、そこまでの道を探ると、海沿いのルートがあることがわかった。
 その途中、地図の上で河内町という温泉地を見つけ、細い道を山越えして、まずこの町に向かった。ところがこの町には旅館などが無かった。さらにその先の玉名という温泉街には旅館はあるものの、かなり夜遅かったため、泊まることはできない。しかし、街の中に温泉の銭湯を見つけたので、その前に車を停め、車内で寝た。

 翌朝、銭湯に入ろうとやって来たおじいさんやおばあさんに小代焼のことを聞くが誰も知らないと首を振る。そこで近くの郵便局で尋ねると、数軒、窯元があるという。そして井上泰秋さんの窯は「ふもと窯」という窯で、ここから数キロ、小岱山の方へ行った所だと教えてくれた。

ふもと窯を訪ねる

 ふもと窯に着いたのは午前10時頃だった。素朴な外観の窯には煙突が立っていた。当時の私には煙突の存在が重油で焼く窯を意味するとは見抜けず、小さな窯だなぁ、というのが第一印象だった。
 玄関を開けると、いきなり製品を陳列する場となっていた。これが小代焼かと製品を眺めていたら奥様が出てこられて「どちらから来ましたか?」と聞いてきた。「実は東京から来て、もうすぐ鎌倉で店を出そうとしていて、その仕入れのために九州に来たんです」と私は答えた。
「あなたは民藝店の方ですね、主人は今、熊本市の陶芸教室で教えるために出かけています。すぐ電話をしますから待っていてください」と奥さん。その時の私には仕入れる資金が心許なかったため帰ろうとすると、井上泰秋さんが昼ぐらいに戻るから、ぜひそこで待っていてほしいと言っているとのことだった。
 待っている間、私は製品や、それがつくられている工程を見ていた。この窯には私と同じくらいの歳で20代前半の福田さんという職人が電動ロクロを使い仕事をしていた。その頃の私は蹴りロクロか手回しロクロでないといけないと思い込んでいたので、電動ロクロで仕事するんですねと余計な一言をつぶやくと、福田さんはとても気を悪くして、「何が悪いか!」と怒った。
 そのうちに井上さんが戻って来て「あんた昼は食べたかね?」と聞いてきた。とても人懐っこくて、声も甲高く、気さくな大柄な方で、私は好感を持った。
「もちろん食べていないです」と答えると、今、カツ丼を取るから一緒に食べませんかと井上さん。カツ丼に目がない私は嬉しくなってしまって、こんないい人がいるんだなぁと思った。ご馳走になったカツ丼の味のことは、すっかり忘れたけれど、小代焼の歴史や自分の作風についての話を聞くことができた。

井上泰秋さん(写真/副島秀雄)

動物にもやさしい井上泰秋さん。うり坊が子供みたいになついて飼い主のよう(写真/副島秀雄)

外村吉之介先生の教え

 井上さんは中学を出て、京都のある陶芸家の所に弟子入りした。その方は日展系の有名な作家で、自分の意には合わないので故郷に帰ってきた。とはいえ、焼き物をするしか道は無かったので、熊本の水前寺公園に建軍小代(けんぐんしょうだい)という小代焼のひとつの流派があって、その窯に修行に入ることになった。その窯もまた茶陶づくりの窯場だった。
 そこにちょうど民藝運動の外村吉之介先生が現れた。外村先生は熊本市竜田町(たったまち)の公園の中に古い蔵を移築して国際民藝館をつくろうと尽力。少しでも若くて民藝に興味をもつ人を増やそうとしていた。 
 建軍小代は茶陶だから、本来は外村先生が来るような窯ではなかったけれど、そこにいた井上青年を見つけて「君はもっと健康的な焼き物をつくりなさい」と諭した。健康的な焼き物とは何か質問すると「とにかく自分の所に来なさい」と外村先生は答えたという。
 ということで、熊本に民藝館をつくる準備段階の宿舎を井上さんは訪ねて行ったそうだ。それで、外村先生と話しているうちに、まさに目からウロコで、これぞ自分が生きていく道を示してもらえたと感じた。そして自分がずっと疑問を感じていたことに答えをもらえて嬉しくなったのだそうだ。
 やはり、自分は日常の暮らしの中で役立つような陶器類をつくっていきたいし、それをつくって有名になるのではなくて、一人の職人として生きていきたいと願っていたので、それを説いてくれた外村先生を非常に尊敬した。以来、外村イズムの中に埋没してきたのだという。
 それから何年かして外村先生が熊本に民藝館をつくり、若い人が呼ばれては勉強会をした。井上さんも懸命に勉強して民藝が大好きになってきて、物をつくる喜びだけでなく、物を選ぶ喜びも知ったし、さまざまな暮らしにそういった物を取り入れていくことも教わった。こんなに楽しいことはなかったそうだ。
 そのうち井上さんは外村先生から「独立して健康的な焼き物をつくりなさい」と言われた。熊本周辺には外村先生をサポートするお金持ちの人がいたのだろう。そういう方々との支援を受けて、現在の場所に井上さんは窯をつくった。そして、つくった物は熊本民藝館をはじめ、熊本に当時できつつあった民藝店やそこからの紹介で販売してなんとかやってこられたのだという。
 今や弟子までとるようになって、安定まではしていないけれど、つくった物はなんとかさばけるようになったと話す井上さんは私にこう言った。
「あなたも外村先生に会った方がいいし、民藝館に行かれて物を見たりした方がいい。あなたのような若い人はこれから頑張ってもらいたい」と。
 私は日本陶芸展で井上さんと福田さんの製品を目にしたことで、この地を訪ねて来たのだと話し、この後、福田さんの窯に行ってみたいと伝えた。
 井上さんによれば、福田さんは商売人で、焼き物屋ではなく民藝店の店主だという。行けばわかるといわれ、地図を書いていただいた。
 そうして井上さんの窯を出たのは午後3時頃になった。大牟田市にある福田さんの店に向かう途中に三井三池炭坑の横を通ったのだが、ここが例の炭坑か、もっと若い時に来てみたかったなぁと感無量の気持ちに浸った。

ふもと窯作業場(写真/副島秀雄)

古小代コレクション

 福田さんを訪ねたら確かに彼は民藝店を営んでいた。日本陶芸展に出品した焼き物のことを聞くと、「実は自分は素人で、小鹿田焼の坂本茂木さんの影響で最近、焼き物づくりを始めた。すると私の焼き物を外村吉之介さんが見て、熊本城にある古小代の大鉢がとてもよいから似たような物をつくりなさいと言われ、取り組んだ」と福田さん。その焼き物は一ヶ月かけて制作し、電気窯で焼いて日本陶芸展に出品したら入賞してしまった。だから自分はこれを機会に陶芸家になろうと思っているのだと福田さんは言っていた。
 福田さんは民藝店を開きながら年の半分はビアガーデンを営み、経済的にはゆとりがあった。夫婦とも好きな骨董をよく買い、コレクションされていた。私は福田さんの家族と非常に親しくなり、九州に行くときは福田さんたちと会うのが楽しみになっていった。そして福田さんの弟子のようになり、骨董屋を回る時も一緒についていくようになったのだった。
 福田さんは骨董全体が好きなのだが、小代焼の窯元になろうとしているからとくに古小代の焼き物をたくさん集めるようになった。当時、玉名温泉の駅前にあった骨董屋はよい物が入ると、福田さんに電話してきた。そして福田さんが買わないと次に井上さんに電話していたようだ。まず福田さんに高く買わせようとしていたのだが、福田さんは交渉して適正な価格で入手。そうして福田さんがどんどん骨董品を買うものだから、井上さんも古い物を漁り、両人が競うように古小代の焼き物を求めていった。
 その噂を聞きつけた周辺の骨董屋たちがおもしろい物が入ると、二人に見せに行った。こうして、たちまち二人は古小代の逸品を手に入れることができたのだった。私はいつも福田さんと骨董屋を回っていたものだから、福田さんの物の選び方を見て学んで、だんだんと自分も成長していったのである。

井上さんの窯の2階に展示される古小代の焼き物(写真/源野勝義)

このような角瓶は古小代にあった物で、そのつくりを井上さん自身でアレンジした。
鉄分が非常に強く焼けていて、その上から海鼠釉が文様になっている様子がとてもきれいだ。
縁のかたちがしっかりしていることが特徴で、よく古い物を見て、再現した物であることがわかる

黄小代と青小代

 私はその頃、一年に5回くらいは車で九州に行っていた。そのたびに必ず福田さんの家に泊まり、井上泰秋さんの家にも一泊した。井上さんは人柄が温和であまり自己主張をしないこともあって熊本の人には受けが良くて、どんどんお客さんが増えていった。
 それに彼はたたき上げの職人だったから、つくる物すべてに骨格があった。私が訪ねると、そういったしっかりした物を選ばせてもらった。当時、井上さんは重油の窯で焚いていたため、窯の中で硫化水素が発生して掛けた釉薬が硫黄化され黄ばんでいた。
 その焼き上がりを見た福田さんは電気窯で焚いていた。福田さんは研究家で化学的なことをとても追究するので、小鹿田に行って窯の勉強をずいぶんとした。そして還元をかける(無酸素状態にした)方が焼きのおもしろさが出ると気づいた。古い小代焼を見ると黄色い物は少なく、飴色がかった物が多い。とくに南関町(なんかんまち)に窯があった時には南関小代の焼き物は青っぽく、俗にいう海鼠(なまこ)がかった色合いに焼き上がっていた。

昭和50年頃に井上さんがつくった湯呑みで、まだ窯が重油で焼いていた時の物。
重油は石油製品なので窯の中で温度が高まると硫化水素が発生して、それが小代焼の基礎の藁釉と融合すると、
このような茶色っぽくなった独特の黄色みがかった色に転じる。
この色を「黄小代(きなしょうだい)」と呼んだ。
昭和51年頃に登り窯をつくってからは、もうこの焼き上がりは出なくなった

始まりは茶陶

 ここで、小代焼の歴史を振り返ってみる。この窯は細川公が文禄慶長年の時に朝鮮出兵して向こうから陶工を連れてきたことから始まる。細川公は当時、北九州の小倉城の城主で、関ヶ原の合戦の時、徳川方に付いて功績を得て、肥後の殿様になる。その地に朝鮮から連れてきた陶工に焼き物をつくらせた。その際、細川家はお茶が好きな大名のため盛んに茶陶を焼かせたのだった。この陶工たちは北朝鮮系の人と思われる。というのは、北朝鮮には会寧(かいねい)という焼き物があり、小代焼と同じく釉薬に藁灰(わらばい)系の釉薬を使っていたからだ。
その藁灰だが、稲全体の藁を使った通常のものと、稲の実の外皮(籾殻)を使う籾殻灰の2つがある。後者の籾殻灰を掛けて焼くと火に強くて溶けず、白がたっぷり残る。小代のあたりで採れる土は1230〜1250℃くらいの焼成温度では焼けず、1300℃近い高温度焼成をする。その場合、白化粧(有色素地表面上に白色陶土を薄く掛けて白く見せること)しても、化粧土が高温に耐えられず消えてしまうから、化粧土を掛けることはしない。
そして、通常の藁灰の釉薬を掛けるだけでは白色が出ない。そこで小代焼では藁灰の釉薬を掛けて、さらにその上から籾殻灰の釉薬を二重掛けしている。これにより焼き物が白濁した感じとなるのだ。この釉薬の掛け方と、独特の焼き上がりが小代焼の特徴なのである。
高温度焼成のために焼き上がると硬くて割れにくくなるし、鉄分を多く含んでいるため、窯の中の置く場所によっては火の作用で赤くなったり、黒くなる。
化粧土を掛けなければ土分が黒みがち、赤みがちになるので食器として使うには向かない。基本的には茶陶に向いた焼き物となるのだ。
ところが茶陶をつくるだけでは生計が立たないから、周辺の人たちが使うための大きな容器づくりも始まる。これは小鹿田焼でも小石原焼でも同じ。九州の地方民窯のひとつの方向だ。また小代焼の窯周辺は農業も漁業も盛んな所だから、肥だめや水を入れたり、魚を入れたりする大物の焼き物もたくさんつくった。おまけにこの地域は焼酎と日本酒の両方をつくる文化があるため、酒を入れるための雲助という容器もたくさん手がけた。

一度、藁釉を掛け、その上から糠釉を全体に覆った物で、雪が積もったような白く品のいい焼き上がり。

小代焼にしては珍しく力強い流し掛けではなく、白掛けだけでもこのような美しい柔らかさが出る物もある

自由奔放な流し掛け

 籾殻灰の釉薬は全体に掛けると、重たくなって土が壊れるため、上から模様のような掛け方をする。また、焼き上がると藁灰は暴れてどんなふうになるかわからない。その暴れて釉薬が飛び散ったりするところから逆におもしろさが生じるのだ。
 日本民藝館には有名な茶壺がある。耳が3つ付いて口の締まったかたちをした壺。これには鷺(サギ)が飛んでいるかのごとき釉薬が掛かっている。鷺の絵を真似しようとしたわけではなく、たまたま釉薬を掛けたら、そうなってしまったというだけのこと。意識、無意識の状態を越えて、てらいのない自由奔放な釉薬の掛け方によって、また、火の作用によって生じた物。
 このような偶然から、小代焼にはおもしろい物がたくさんできるわけだ。しかし、この手法で小物づくりをするとなると、化粧掛けにより柔らかな雰囲気を出す必要が生じるのだが、それはこの焼き物では難しい。そのため、熊本県の一エリアでいえば、とても有名な窯なのだけれども、全国的にみると売れにくいし、使いにくい。ただ、その物のよさを感じることはできる。民藝の神髄を知っている人には非常に好まれるのだ。とはいえ、この窯にどういうふうに関わるかは非常に難しいものがあるのである。
 私は福田さんからさまざまな意見を聞くうちに、小代焼の釉薬の掛け方の自由奔放性を日本の陶芸家は随分真似しているのではないか、あるいは日本の内地の窯でもそれをうまく利用しているのではないかと思うようになった。
 九州からお茶だけではなくて、茶陶や大物の容器が日本各地に運ばれていって、釉薬の掛け方がおもしろいなということになる。この掛け方の影響を強く受けているのが東北の焼き物であろう。瀬戸内海航路を発して北陸経由で東北地方に入っていく焼き物を見ると、ほとんどが鉄分の強い分厚い土の上に藁薬がドバッと掛かっている。しかし、それは小代焼のように自由奔放に掛かっていなくて、ただ、無造作に掛けてある。ドバッと掛けた所に籾殻灰の釉薬が重ねて掛けられ、その流れ具合に非常に美しいものが生じ、さらに焼成時、還元炎で焼くと海鼠色になり、酸化炎で焼かれると焼き物全体が白みを帯びる。

これぞ小代焼という柄杓の流し掛けを自由気ままに流しているかのように見せるが、
ひとつの約束事の中でこの流し掛けができあがっている。
焼成によって偶然の釉薬の変化が出たり、流し掛けが見え隠れしたりする

井上さんは片口に非常に骨格のある仕事ぶりがみられる。これは昭和55〜56年頃に私が購入して気に入っている物。
切り立ったかたちがいかにも小代焼らしい強さをもっている。
また、釉薬の白のなだれがほどよくなり、酸化された赤みを帯び、全体に引き締まって、
これぞ小代の優品であるという存在感のある仕事だ

濱田庄司も真似る?

 井上泰秋さんの釉薬の掛け方を見ると、約束事をきちんと守っていることがわかった。たとえば大皿はともかく、直径が30センチくらいまでの皿や鉢だと、左手にしっかりと携えて、まず全体に藁灰を掛ける。藁灰は鼠色がかった釉薬だが、焼くと消えてしまうため、次にこの釉薬が掛かった物を左手にしっかりと携えながら柄杓(ひしゃく)で籾殻の灰を流し掛ける。その際の柄杓を持つ側の腕は規則的な動きをして振り掛けている。
 これが濱田庄司先生の釉薬の掛け方に似ているものだから、もしかしたら真似したのだろうかと福田さんに問うと、濱田先生はおそらく小代焼の流し掛けの極意をつかんで自分の柄杓掛け手法として転化したのではないかという。
 濱田先生は柄杓の中に小さな穴を空けておいて、そこからボタボタと釉薬がこぼれるようにして、自然の作用であるかのように見せていた。この工夫からも濱田先生は巧妙でありながらも、素朴さを出せる大変なつくり手であることがわかる。しかし、これは濱田先生が個人作家であるから可能なことで、小代焼のつくり手はそんなことはできずに、ただ昔ながらのやり方で仕事するだけだ。井上さんは職人のためにそうしたリズミカルな流れができる。 
 そういうわけで、彼の釉薬の掛け方を見ていると、やはり濱田先生の手法はこういったものから生まれたんだなぁ、と思う。
 井上さんに、もうすこし大胆に流し掛けをやってみてとか時々私が横から口を出すと「じゃぁ、あんたやってみな」ということになった。それで私自身で流し掛けしてみて、その物が窯出しされてくるのを見ようと窯に行くと見つからない。「あれは、すぐに売れた」と井上さん。「やっぱり素人が釉薬を掛けた方がけっこうおもしろい物ができるんだな」と笑っていた。

 私は3回流し掛けをしたのだが、自分が焼き上がりを確認する前に、すべて売れてしまった。

小代焼特有の糠釉を柄杓でぐるぐると奔放に流し掛けた物。
つくりがしっかりした皿づくりと相まって、素朴ながらも工藝的なよさがにじみ出ている

登り窯をつくる

 福田さんが小代焼を興した時、最初は見様見真似だったが、1年、2年経ってくるとあちこちの陶芸展に出すたびに入選したりする。すると福田さんはビアガーデンが成功して経済的に豊かだったこともあり、小岱山のふもとに登り窯をつくることになった。ちょうどその頃、私は福田さんの家に寝泊まりしていたものだから窯づくりを手伝ったりしていた。
 井上さんはこの登り窯の初窯を見に来たのだがショックを受けていた。井上さんは昔ながらの訓練された熟達した陶工であり、つくり手としては小代焼を代表する人になっているのにも関わらず、後からきた、しかもアマチュアである福田さんが登り窯をつくってしまった。自分の窯は重油で焚いていてみっともないと、井上さんは焦って現在の登り窯をつくったのだった。
 その時も外村先生やその他の民藝の方々との付き合いもあって半端な窯はつくりたくなくて、かなり大きな借金をして大工房を構えた。古材を使ったり、古いタンスやらを入れてしっかりとした土台を持った工房だった。同時に販売所も設け、そこで焼いた物を直接販売するようにした。
 その販売所の上に参考館を配置し、買い漁った、たくさんの古小代の優品を参考品として展示。その参考品を見せながら自分の製品も見せていく。現在、山陰の窯元がやっているこの手法は、井上さんがパイオニアなのであった。

 

井上さんの登り窯(写真/副島秀雄)

釉薬の力、火の力

 そうして井上さんの窯は経済的に広がっていくようになった頃、鈴木繁男先生と一緒に九州を回った帰りに、小代焼の窯場に寄った。
 まず福田さんの瑞穂窯を訪ねた。福田さんは民藝の宗教哲学的な部分とか、規則性、約束性を追究する方だから、彼の窯にいる職人たちは考え方が窮屈だった。一方、井上さんの窯の弟子たちはただ親方の井上さんがやっているように真似て小物づくりに励んでいた。
 次に井上さんの窯へ鈴木先生を連れて行くと「こんな物がどうしてそんなに売れるのかな?」と首をかしげ、2階に上がって古小代の展示を見た時に唸った。

 「小代というのは化け物みたいな窯だな。濱田からもよく聞いている。熊本城にある古小代焼の大鉢は日本で最高の焼き物だと。小代焼の極意はよくわかった」と言われた。
 井上さんが鈴木先生にいろいろと質問した中に、どういったかたちでこれから仕事をしていったらよいか、仕事の方向性への問いがあった。すると鈴木先生はスパッと答えた。
 「君ね、小代焼なんて、こんなやさしい仕事は無いよ。素人でもできる。日曜陶芸教室でもこんな陶器はいくらでもできる。だからこれに奢っちゃいけないよ。これで上手くなったとか、これで良い物ができると思ったら大間違いだ。これは君の力ではない。火の力だ。釉薬の力だ。自然の力だ。君がつくったのではなくて、自然の力によってつくられた物だ。だからこんなのは昨日今日始めた奴でもできるんだ。だけれども、それが怖いんだ。そこに怖さがある。工藝の本質的な怖さがここにある」と言い、さらに続けた。
 「井上さん、いいか、あなたはどれだけ物が売れようが、どれだけ仕事がはかどろうかは知らない。しかし、骨格のある仕事だけはしなさい。基本形や造形というものが大切なんだ。その造形の上に何を施すかが大切。うっかりすると、素人がつくった物にこの釉薬を掛けると、要するに薄い藁灰をぶっかけて、その上に濃い籾殻灰を自由奔放に柄杓掛けしたら濱田と同じだよ。それで焼き上がりがよくて火が強くて鉄分の作用で膨れたりしたら、とってもおもしろい物ができる。工藝の美を生じさせる。これは君でなくてもできる物かもしれない。しかし、工藝の本質はつくっていく物の骨格なんだ。その骨格を君はきちんと守っていく。職人として、あるいは陶工として、きちんと基礎というものがいつまでも続く限りは絶対安心だ。だから、奢ってはいけないよ」と言われた。
 鈴木先生は「いやぁ、さっきの窯(福田さんの窯)に行ったけど、あんな素人でもあんなへたくその奴でも釉薬をうまく掛ければ日本民藝館の柳宗理さんが気に入っちゃうじゃないか」と皮肉を口にした。
 昭和53年(1978年)に宗理さんが日本民藝館の館長になって、日本民藝館展の審査員長として審査をした時、井上さんが出品した、藁釉薬が白く濃く残った大皿が日本民藝館展賞を受賞した。藁釉薬が白く残るということは焼成温度が低いことを意味する。つまり、この大皿は釉薬を掛けて、高温度で焼成したのではなくて、白く見せるための処置をしたのだ。

 その本来の小代焼ではない真っ白な大皿を見て「雪の降ったような美しい白だ」と宗理さんは言った。その館長としての第一声を、鈴木先生は横で聞いて、「そんな雪が降ったような白が小代焼のおもしろさだなんて言うなんて、目がないなぁ」とはっきりと言った。「小代とはそんな所に良さがあるのではない。まだまだだな、宗理さんは・・・」と。その言葉を聞いて、私は小代に興味を持った。

6寸の深鉢で、日常雑器なのだが、同じように釉薬を掛けても窯の場所によって色の変化が著しく違う。
同じ物でないかのように見えてしまう。その典型例

熟練の陶工、真の民藝人

 熟達した工人である井上さんは、下積みにより経験を重ね、頂点を目指す強い気持ちを保ち続け、また、人とのつながりを広げ、今や熊本の伝統工藝の第一人者になった。それは彼の努力の賜だし、訓練度の度合いが半端ではなかったということ。
 ちなみに、井上さんが中学を出て陶工の訓練に入った所が河井寛次郎窯の隣の森野嘉光さんの窯だった。森野さんは日展系の現代美術の大御所で、河井寛次郎の共同窯で河井と一緒に仕事していたのだそうだ。そのため、井上さんは弟子として河井の共同窯で窯詰め(焼成ようとする器物を窯に詰めること)をすることになるのだが、その時に、弟子として共に作業していたのが森山雅夫さん(この連載記事Vol.15を参照)であり、椋木英三(むくのきえいぞう)さん。また、大御所の陶芸家で磁器の上田恒次さんもおられた。石飛勝久さん(上田さんと石飛さんについては、この連載記事Vol.47参照)もそこにいた。ということは、今の民藝の老陶工である昭和15〜17年生まれの4人ほどが河井寛次郎窯で一緒に弟子として働いたということ。これは偶然なのだが、おもしろい。
 その後、私は井上さんと懇意に付き合いながら、つかず離れずみたいな状態に。井上さんは外村先生の始めた民藝協会を大事にされる方だから、熊本の民藝協会の方々と一緒に行動するし、協会を中心とする働きをしていった。
 一方、福田さんは早くして亡くなられたが、テクニシャンで能力が非常に高い方だったし、商売にも長け、民藝に上手に入った人だった。
 比べて、井上さんは民藝人そのものだったと思う。伝統の窯を復興させて、現代的な意味での小代焼を再興した大きな功績者であろう。
 それに、井上さんがさまざまなメディアに出ることで、小代焼をかなり宣伝することができたし、熊本の伝統工藝を広める大きな原動力となった。
 現在、熊本の民藝館の館長となっているのは単なる売名行為ではなくて、外村先生の意思を受け継ぎたいからだ。
 こういう志を高くもつ方が民藝の古い職人の中に稀にいる。彼は県内では陶芸作家とみなされているけれど、私たちから見れば、優れた陶工であり、また優れたつくり手であるといいたい。

重ね合わせの「伏せ合わせ」で焼く物で、縁の釉薬を抜いた物。その上から釉薬を掛けた。
焼き物どうしをかぶせて焼くものだから中で蒸された状態となり、釉薬が定着して、かえっておもしろみを生じた物。
つくりその物も骨格があって、しっかりとしていてつくり(ロクロ成形技術)の上手さがにじみ出ている

伝統と物の良さを伝える

 彼は人を育て、今は代替わりして息子さんが父親の仕事をきちんと引き継ぐ前に、好きなことをやりたいとスリップウエアをつくり、けっこう有名になっている。いろいろなものに挑戦するという意味ではいいのだろうけれども、私は快くは思っていない。スリップウエアを日本でやるとすれば、本場イギリスのように、比較的低温度で焼いて化粧土を上手に使いこなすべきだし、そこに良さがある。それを小代焼の高温度で焼くのは愚の骨頂だ。
 息子さんが父親と違うのは訓練度が弱いということと、現代を意識しすぎて、いちばん大事な根っこのエネルギーが欠けている。そういうことを私たちが若い彼に伝えなくてはならない。お父さんの進んできた道の良さをきちんと正確に伝えながら、小代焼の良さを守ってもらいたいと思う。
 それに小代焼のよさは鈴木先生が言ったように、人の力を越した自然の作用によって生まれるもの。それを体現できるかどうかが大切だ。そういう意味ではこの窯は、同じ九州でも、小鹿田、小石原、あるいは龍門司とはまったく違う重要さをもつと思う。
 また、北朝鮮系の伝統を受け継いできている窯だが、食べていくためには茶陶とつながらなければならない制約がある。これは苦しいだろう。限定された範囲内で食器として使うのは難しいけれど、その物の良さを私たちが伝えていけばきっと民藝の本質を知る人がきっとこれからも増えていくと思う。
 そういう人たちが食器の一部に小代焼を使ってもらえれば、きっと役に立つと思う。高温度で焼いているので割れにくいし、強いからだ。

 個人の窯でありながら、陶土を自分たちで掘り、また釉薬も自分たちで調合し、自分たちで焼いて、すべて登り窯で焚いているということは尊い仕事だと思う。民藝の本筋を個人のつくり手が目指し、守っている。これには本当に頭が下がる想いがするのである。

展示場で打ち合わせする井上泰秋さんと私(写真/源野勝義)

小代焼ではこういう型起こしの物もたまに見かける。これも古小代の角皿を写して今風につくった物。
流し掛けの特色があることによって全体に引き締まった物になる