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Kuno×Kunoの手仕事良品

清水俊彦さんの丹波焼

清水俊彦さんの丹波焼

2011年12月31日
兵庫県篠山市今田町上立杭
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

清水俊彦さんの仕事ぶりについては、以前この連載記事の第51回・生田和孝さん編でも触れた。清水さんは生田さんの最初の弟子で、弟子から職人となり、生田さんの仕事そのものを受け継いで今まで仕事をしてきた。丹波立杭の伝統を受け継いでいるただ一人のつくり手だと私は思っている。

都の影響

 丹波焼はご存じの通り日本六古窯のひとつ。平安時代から民衆のための容器をつくってきた窯だ。もともとは穴窯(あながま)という原始的な構造をもつ窯から始まって今に続いてきた。非常に辺鄙な辺境地帯に窯がありながらも、3つの都、京都、摂津(大阪)、播磨(神戸)に近いという立地条件があった。それゆえに都の洒落た雅な文化に影響されながら地域の民衆容器を手がけていた窯だったのである。
 日常で使う容器を主体につくってきたところへ都からの茶の湯文化や美術陶藝と関わり、とくに桃山時代からの文化の影響によって、つくる物の中にどこか洒落たものが出てきた。

2011年初冬、鎌倉の海辺にて催された「もやい工藝」創設40周年の祝賀会に招待した清水俊彦さん。
喜んで出席してくれた。清水さんとは私がこの仕事に入った頃からの長い付き合いだ

穴窯

 中世の丹波焼は創業以来桃山時代末期にいたって山麓に登り窯が築かれるようになるまで、約400年の長きにわたって穴窯時代が続いた。
 穴窯は多くの窯の型式の中で最も古い型の窯。山腹の傾斜地に溝を掘り込んで石や粘土で固め、天井を築いて土をかぶせるという極めて簡単な構造の窯だ。    
 穴窯による焼成には約半月とかなり長い日数を要し、また、焼成室が1室のため、1回の焼成量は限られたものだった。入口から火をかけると火炎放射器で火が伸びていく直炎式の窯で、俗に「蛇窯」とも呼ばれた。
 直炎式という構造上、酸化炎で焼くことはできない。ゆっくり火をくべていると火が死んでしまう。強烈に火をつけないといけないからどうしても無酸素状態の還元炎で焼かれることになった。
 しかしながら空気もどんどん抜けるため、場所によっては酸化炎ともなる。この酸化と還元の炎が入り交じる焼成の状態を俗に中性炎とも呼ぶ。つまり、丹波焼は中性炎の窯だったのである。その窯が伝統的に今まで続いてきているのである。

生田和孝さんは得意にしていた面取りやしのぎの技術を清水さんが受け継いだ湯呑みや皿。
やはり清水さんは場慣れをしているということで、てらいのない良さがかたちに現れている

化粧掛けの工夫

 丹波焼の窯で長らく登り窯が採用されず、穴窯で焼かれてきた理由はさまざまだと思うけれど、大きな焼き物が製品の中心だったということだろう。
 桃山時代からの茶の湯の文化が進み、さらに江戸時代には民衆の容器として小皿とか徳利などの小物製品が必要となっていく。とくに一升徳利、あるいは醤油徳利といった徳利類が求められた。
 しかし、丹波の陶土は鉄分がとても強く、焼くと焼き締まり、鉄のように硬くなる性質をもつ。他の徳利とぶつかると割れてしまうほど強靱な力があるのだ。かといって中性炎で焼くと色がよく出ないため暗い雰囲気や鉄色の焼き物となる。そこで工夫が始まり、陶土の上に化粧掛けをするようになったのだ。
 こうして化粧掛けした物が幕末期からずいぶん出てきたのである。化粧掛けした上にもう一度土を投げかけると「墨流し」となり、模様として残る。
 また、ロウソクのかたちをした徳利や、白化粧した上に絵付けをした焼き物などいろいろな物が出てきた。こういった物はやはり都の文化が重なってから生まれたのであり、とくに江戸幕末期の丹波の焼き物は品種が多く、その時代を反映するような美しい物がたくさん生まれた。
 現在ではまったくつくれない物に「赤土泥(あかどべい)」がある。これは陶土の上に釉薬ではない鉄化粧をして焼いた物。緋色に焼けて、それがとても美しい。こういった今は珍重される物も含めてさまざまな物が出来上がった。

さまざまに流し掛けしたロウソク徳利。左は地肌にそのまま化粧掛けして透明釉を掛けた。右は鉄化粧した上に鉄釉を掛けた物

白化粧した上に鉄釉を掛けた徳利

かたちにこだわる

ただ、丹波焼は九州、西日本のように釉薬を彩色するようなものは出てこなくて、だいたい白と黒と土色の世界なのだ。また、飴釉を施しても鉄分が強いためにやや黒っぽい飴黒色となる。このような地味ながら深みのある物がずいぶんできた。しかし、こうした物はぱっと見が派手でないために、つくり手たちはかたちを重んじた。そのため造形的に優れた物がたくさん生まれてきて、それが日本民藝館に所蔵されていたり、丹波の古陶館で収集されている。

これは海鼠釉の片口小鉢。生地に藁灰を掛けて、縁の部分だけ鉄分を引いている。それで釉薬を掛けるとこの海鼠色となる

白化粧した片口小鉢

民藝か、作家か

 明治、大正、昭和へと時代が推移していくと、日本人が暮らしに使う物が瀬戸物や唐津物に変わる。つまり磁器に変わっていった。
 丹波の焼き物はどうしても土が黒っぽいし、化粧掛けによって重たくなるという特質があるために一般的には売れない。それで硫酸瓶や油瓶に用途が限られていく。なぜかというと、焼くと半磁器のような硬質な物になるため、陶器でありながら酸にも塩分にも強い特質があるからだ。ただし、非常に重たい。
 昭和の戦後になると、丹波の窯がかつての勢いのある物を残したいという人たちが出てきた。ほとんどが民藝の人たちで、今の時代に合わせた丹波焼をつくりたいという気持ちになったのだろう。
 それで河井寛次郎先生が釉薬をよく研究し、奥田康博さんを活用して昭和30年くらいから丹波に新たな展開が始まった(この記事の第54回「奥田康博さんから教わったこと」を参照)。民藝雑器類を焼く窯へと変貌していくのである。
 今の状況をみると民藝というものが丹波と関わったことで、丹波の現在をつくったといっても過言ではないだろうか。
 しかし、中には芸術的なものを求める人もいて、昔に戻って穴窯で焼いたような焼き締めの物をつくる作家も生まれてきた。丹波近くの大阪、京都、神戸にはギャラリーもたくさんある。そのため、今では丹波焼のつくり手の多くがそういうギャラリーで展覧会をして、個人を売りながら生計を立てているのが実情だ。ただ、極めつけの優れた作家がなかなか出てこないのが不思議である。

生田さんが得意とする物を再現してもらった。蓋のつまみは指で押さえてつくったかたち。
清水さんが生田さんの窯でずっと修行していたからできる物

生田和孝さんのもとへ

 生田和孝さんは河井寛次郎先生から命じられて昔、丹波にあった古窯の釜屋(かまや)という地で昔ながらの丹波の窯をつくって河井先生から薫陶を受けた物をつくっていた。生田さんは雑器類を含めて独特の作品も手がけていたが、その時はまだ弟子はいなくて、雑用をする人がいなかったために清水俊彦さんのお父さんが丹波立杭の昔ながらの人だったため呼ばれて給料をもらいながら働いていた。
 ところがお父さんが急死されて、中学から進学しようとしていた清水さんは、生田さんの窯で働くようになったのだそうだ。生田さんは不憫に想いながら、いずれは清水さんが窯元にならないといけないと考え、職人の道をたどりなさいと弟子にして修行させたのだという。
 生田さんは人情が厚い人のため、清水さんが若い時から給料を与えて食べられるようにして、そばでずっと使ったのである。

てらいの無い湯呑みのかたち。左には胴紐がある

丹波唯一の職人

 清水さんが生田さんから独立したのは35年くらい前のこと。その頃はまだ丹波立杭には民藝的な雑器類をつくる窯がずいぶんあったのだが、だんだんそういう窯が少なくなっていき、お土産的な、あまり好ましくない焼き物をつくる窯も目立ってきた。あるいは作家の道を歩く人も多い。
 司馬遼太郎の「丹波紀行」のなかに丹波焼きについて端的におもしろいことを記述していた。「職人的な建前をみせながら、本音は民藝風的な物をつくることで生計を立てている」と。民藝的な物の中でも否定的な物が出てくらい丹波は一時期、汚辱にまみれていた。
 だが、清水さんは生田さんの教えを守りながら、生田さんが懸命に生み出した優れた雑器類をそのまま受け継ぎコツコツとつくってきた。それでもご時世には逆らえず、彼自身も作家活動的なこともされている。ただし、彼は職人から上がってきたため技術的にもかなりこなれている。そういう意味では、清水さんがつくる物は作品というより製品なのだ。

 また、彼は三尺くらいの大皿も挽ける。もちろん高台を二重高台にするなどの仕組みをつくるのだけれど、大皿をつくれて、しかもそれを登り窯で焼くという、丹波では珍しいつくり手といえる。今やいつの間にか清水さんだけが登り窯で雑器類を焼く窯元になってしまったのだ。

これはマグカップだけれども、なかなかこういう調子の物は無い

ビアジョッキ

危うい伝統

 そんな清水さんも今や70歳そこそこの年齢に。このあいだまで丹波焼の理事長をされてリーダー格だったが、現在は身を引いて仕事をしている。昔ながらの丹波の白と黒の世界を展開し、師匠の生田和孝さんにならって薪の窯にこだわりながらずっと仕事を続けてきた清水さん。だが、薪の窯は効率が悪く、販売を考えるとうまくいかないので現在はガス窯も併用している。また、丹波伝統の直炎式の窯で、上がりの調子が鈍かったり、不安定だった薪の窯についても改良を加えた。美濃の瀬戸の窯方式を導入して、登り窯に直炎式の窯を合体したような変形の窯を自分で考え、その窯で焼き物づくりをしている。
 しかし、今後の行き末を考えていくと、息子さんに託さないといけないのだが、息子さんは京都芸大を出て現代陶芸作家の弟子になったため、むしろ作家の方向を目指している。このままでいくと丹波の伝統ある仕事は無くなってしまう可能性が非常に強い。残したい日本の手仕事のひとつが消えていくのかもしれない。だいたい陶芸の場合、なんとか残るものなのだが、丹波焼は失せてしまうかもしれない。
 先日、丹波焼の約50軒の窯元の製品、作品が展示される陶芸会館を見て回った。その中に清水さんと同じような物をつくっている人もいるのだが、技術的にも造形的にもやはり清水さんが抜群であることがわかる。よって取り上げるとしたら清水さんの窯しかないのである。
 丹波篠山(ささやま)の方には民藝派の作家やその弟子たちもいて、民藝的な物をつくっている窯もあるのだが、技術的に非常に幼い。その作家を標榜する人も陶土に信楽土をずいぶん入れているため、何か風情が無いのである。
 それでも民藝派作家として確固たる生き方をしているものだから、民藝的な人たちの支援を受けて、かなりのし上がってきている。
 しかし、私たちから見れば、ロクロの仕事を含めて技術的に非常に甘い。また使う陶土が安易である。そのことから好意的には思えないのである。しかもその弟子たちのほとんどが先生に似たようなものだから、これは否定的に見ないといけない。
 丹波焼は組合になっていて陶土も組合で調達。昔から「四つ辻」という場所から採れる陶土を使っている。だが、この土だけでは挽きにくいため、信楽粘土も混ぜる。だいたい3割くらい入れてある。昔の日本民藝館の人に聞いた時、濱田庄司先生が、地元の土を7割用いていれば地元産の物として認められるとおっしゃられたという。そのため清水さんの場合も、つくりやすくするための信楽土を入れても、その割合が3割程度ならば丹波立杭の焼き物としていってもいいだろう。
 清水さんは一時期、生田さんから受け継いだ流れから離れたような物もつくっていて私は危惧感を持って、再び生田さんがつくったような物をつくってほしいと25年くらい前から清水さんに生田さんの物をそのままつくってほしいと頼んだ。そして生田さんが得意な面取りの湯呑みとか、しのぎとかそういった物をまたどんどんつくってもらえるようになった。
 当時は生田さんの物真似をした窯元はたくさんあり、ガス窯で焼くからあまりよくなかったが、さすが清水さんは本家本元。生田さんに近い勢いのある仕事の物ができてきた。

 ただ残念なのはけっこうな年齢になってしまったけれど、彼の後を継げる人が今いないということ。私たちがもう一度、清水さんのやってきた仕事を今のうちに広げていかないといけない。何かつなげていけるようなことをしなくてはと思っている。

これは生田さんもつくらなかった物で江戸末期にあった海老徳利。
普通、民陶系の徳利は縁づくりをきちんとして、
しっかりとした焼き物をつくるのが基本だが、
この海老徳利は京都の影響なのか、
どちらかというと柔らかい、洒落たかたちになっている。
そのかたちは昔の勢いのあるかたちとは少し違うのだけど、非常に上手だと思う

海老を描いたぐい呑み。丹波にあった古い物を再現した

海老徳利の絵付けをする清水さん

海老の目を入れる作業