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Kuno×Kunoの手仕事良品

猪俣謙二さんの龍門司焼

猪俣謙二さんの龍門司焼

2012年1月31日
鹿児島県姶良市加治木町
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

 龍門司焼については現・龍門司焼企業組合理事長である川原史郎の軌跡を通じて、この連載記事で2回にわたって紹介してきた(第9回、第10回)。しかし、川原は理事長職の忙しさから焼き物の数をつくれなくなり、技術も落ちてきた。ここ10数年間は龍門司焼の仕事のレベルもかなり落ちてきてしまった。そのために私は去年からこの窯を再興、復興させようとして関わってきた。
 龍門司焼は企業組合になっているのだが、日本の窯元でこの形式をとっているのは出西窯と龍門司焼だけ。戦後にできたもので、いわばソ連のコルホーズのような民間の共同体である。つくり手である職人たちがそれぞれ株を持って合同で均等な形式をとっていく。しかし、当初の組合の一員だった職人たちもほとんどいなくなって、今は川原史郎の家系、家族的な窯になっている。

誠実な普通の職人

 この窯は一人だけがつくって、それ以外の人が雑用するのではなくて、共同作業で、他にもつくり手がいる。ロクロ仕事は川原史郎の他、長男の川原竜平、次男の川原昇平の3人に猪俣謙二君がおこなう。
 猪俣君は今50歳台になったばかりで、川原史郎の甥にあたる人(川原史郎のおじさんの息子)。ロクロ師としては30年以上のキャリアをもち、性格が穏やかで、欲が全然ない。ひとつのノルマをきちんとこなしていこうという非常に誠実な人間だ。社会の流れをあまり気にするのではなく、普通に当たり前に生きて、仕事として、職業として龍門司焼の窯に入り、従業員としてコツコツやってきた。
 このようなタイプのつくり手は日本中を探しても今はあまり見かけなくなってきた。しかし、かつては猪俣君のような職人ばかりだった。その多くの人のなかに技術的に優れたつくり手がいたし、芸術的に優れたセンスを持っている無名の職人が非常に優れた美しさをもつ物をつくりあげてきた。そして、それが民藝というかたちで残ってきたのである。
 そうした優れた物を生み出せる場合もあるが、たいていは見過ごしてしまうような普通の物をただつくっていく人たち。猪俣さんはかつてたくさん存在していたそのような人の一人だが、今では珍しい希少な人となっている。
 なぜ珍しいかというと、今はそういう意識で仕事を取り組んでいるつくり手はほとんどいないからだ。たいていは自我を出したり、自分を中心に考えて仕事をして、あわよくばその仕事を世間で認めてもらおうという方向だ。そうでないと経済的に難しいし、自分自身の社会的立場も獲得できない。これは人間の生き方としては当たり前のものだ。

龍門司焼の骨格

 また、代々仕事を受け継いできてやって行かざるを得ない人もいる。生業として取り組み、伝統のなかで生きていく人。そういう限られた人たちだけがいる職場、しかも伝統的な窯場に、まったく伝統と関係のないところから入り、職人として仕事をしつつ自己形成をしている猪俣さん。自分のつくった物を世に出していこうとか、自分のつくった物が社会でどう見えるかとかは無関心だ。かといって、それによって人間関係をつくって社会的な地位を獲得しょうという欲もまったくない。ただ普通に一介の男、普通のお父さんとして子供を育て、やがて定年になれば消えていくという人である。
 ここ20〜30年の間に変わってしまった職人形態のなかで、いまだに昔ながらの形態をとっていこうという稀有なつくり手なのだ。しかし、この窯場の製品づくりでは今やこの猪俣君抜きにして龍門司焼は語れないだろうと私は思う。川原史郎がつくれる数が少なくなってきていること。川原竜平君は職人として育ってきているが、まだ30歳台。まだまだ一流の仕事人の域までいっていない。昇平君はまだつくる物が評価の対象外。そういうことで猪俣君が中心にいるということは、龍門司焼の骨格を彼がつくっているといっても過言ではない。

猪俣謙二さん(撮影/久野恵一)

窯に入所

 猪俣君が窯に入所したときのことも私はよく知っている。川原史郎がまだいわゆる普通の職人として仕事をしていた当時の龍門司焼は、まだ高齢のつくり手が多かった。川原史郎は自己の製品づくりというよりも、窯の製品づくりに没頭していた。それでも伊勢神楽焼の奥田康博さん(この連載の第54回を参照)の所で3〜4年修行してきたこともあって、けっこう早くて上手な仕事ができた。私はそんな川原史郎に龍門司焼の再興を願ってさまざまな注文を出した。
 そうして川原史郎が熱心に仕事に取り組んでいるときに、猪俣君は入所してきたのである。猪俣君の父親は字(あざ)茶碗屋集落(龍門司焼がある地域)の猪俣安雄さん。川原史郎の本家と親戚筋にあたる人だ。もともとは焼き物をやっていた猪俣家の安雄さんがまず龍門司焼に入所して従業員として働いた。安雄さんは若いときからロクロ仕事をしていなかったため雑用専門の仕事、つまりは土づくり、陶土づくり、薪割り、荷造り、運搬などの仕事をしていた。安雄さんには息子も何人もいたのだけれど、そのうちの謙二君を窯に入れてロクロ師として育てたいという希望を持ったのだろう。川原家とのつながりがあったので後に謙二君が入所してきた。20歳くらいのときだったと思う。
 入所前に、謙二君はおそらく窯業訓練学校に2年くらいは基礎的な訓練はしてきたのだと思う。たまたまそのときにはロクロ師が少しづつ減って、ロクロ台が1台余っていた。それが川原史郎の隣の席で、年齢も近いこともあり、見様見真似でロクロ師の仕事をするようになった。私は、川原史郎の仕事を横で見ながら、覚えながら仕事をしていた姿が印象に残っている。

骨董屋めぐり

 私は年に最低でも3回、多いときは5回くらい龍門司窯を訪ねるのだが、そのたびに川原を連れ出して骨董屋めぐりをした。龍門司焼の古い焼き物を手に入れては川原につくらせたり、あるいは川原と一緒に手仕事の製作地を回ったり、ある時は今でこそ一人前になった竜平君の面倒を見たりした。龍門司焼に行くとずいぶんと川原家に逗留していたので、そんな深いつきあいをするようになった。
 しかし、他の年輩の方は寡黙な人が多いので、あまり話をすることはなかったし、川原に近い年齢の人は私を敬遠したかったこともあって、自然と猪俣君と言葉を交わすようになった。川原に制作を依頼しながら、あれこれと指示していたら、横で猪俣君が何も言わずに耳を傾けている。彼の方からしゃべることはいっさい無いおとなしい人なのだ。ただ、何となく目つきは羨望の眼をしていると感じた。その様子から今は窯の製品づくりをしているこの人も、きっと何か特徴ある仕事をしたいのかなと察知した。
 ある時、私は骨董屋で龍門芳工という江戸時代後期の鉢を手に入れた。これはその時代、龍門司焼を代表するような名工で、汁椀型の小鉢である。外側が反ってやわらかなかたちをしている。このかたちの物を原寸大で川原に制作依頼していたのだが、その原寸大の物を出来上がり寸法にしてみたくなって、猪俣君にこれを見本にしてつくってくれないかと言った。
 というのは龍門司焼というのは成形したときより、焼き上がりのときに25%縮む。1/4も縮むのである。そのため、かなり大きな物をつくっているつもりの物が原寸大だとすると、それよりも25%くらい大きな物を挽かないといけない。その仕事が猪俣君に向いているのではと思い、お願いしてみたのだ。
 川原は嫌な顔をしたが、「お前がつくる時間がないのなら謙二君につくってもらったらどうか?」と説得した。
 猪俣君はわりと忠実に見本通りにつくってきた。仕事はていねいだし、その物を忠実につくろうという職人的な生き方をしている。これがきっかけに話が進みやすくなり注文しやすくなった。そして、川原史郎と鹿児島市内の骨董屋を回って龍門司焼の古い物や苗代川焼の古作を選んできては龍門司焼に置き換えるようなことを始めたのだった。

 川原史郎には、龍門司焼の優品の古作を選んでつくってもらっていた。そして猪俣君には苗代川焼の古作をつくってもらおうかということになった。

猪俣君が制作した芳工鉢の大小

苗代川焼の古作をなぞる

 苗代川焼はご存じのように、「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手の美術的陶芸品と 「黒もん」と呼ばれる庶民用の雑器とに分かれる。文禄・慶長の役(1592年〜1598年)により朝鮮から連れてこられた、陶技をもった人たちによりつくられた窯なので、日本では珍しいくらい朝鮮の技法、形態を維持したまま江戸時代から続いてきた。
 今は状況が変わって、そのようなやり方は無いのだが、つい40〜50年前まではそういった物が雑器として大量生産されていたのである。そんな苗代川焼の物が鹿児島の骨董屋では二束三文の値段で売られている。その中から目に留まった、かたちのよい物を集め、猪俣君に渡して再現してもらうことになった。
 今の苗代川焼では現実にそういう物をつくれないし、昔ながらの技法を用いることができない。つくり手も作品的な物を売り出している。
 陶土の質、釉薬がまったく違い化粧掛けした明るい、いわば沖縄のやちむんの明るさの原点のような龍門司焼に、苗代川焼の黒もんの素朴すぎるものを適用するのはどうかと思う人はいたかもしれない。ただ、苗代川焼の古作のよさを龍門司焼でまた違った色調でつくることをやってみるのもいいかもしれないと考え、着手したのだった。
 まず最初に始めたのが、蕎麦がき碗という碗。今でこそ蕎麦は蕎麦猪口で切って食べるのだが、そばを切るのは江戸時代の末からのことで、それまでは蕎麦は団子にして(蕎麦がき)生醤油をぶっかけて食べるものだった。この蕎麦がきの容器として苗代川焼では蕎麦がき碗という高台が無くて、台形のかたちをした器を焼いていた。それは「伏せ合わせ」といって、ハマグリのように縁を重ね合わせて大量に焼いていた。
 そうした大量生産品のなかにとても風情ある物があって、そのかたちをなぞり、白化粧して、白掛けのなんともない物、または黒だけにしてみるとか、あるいは縁を切った部分に鉄釉を巻いてみたりした。その結果、かたちは苗代川焼だけども、龍門司焼独特の物をつくることに成功したのだった。

苗代川の陶工達が庶民向けにつくられる日常容器は黒釉を用いた粗陶器で黒物(くろもん)と呼ばれていた。
その黒物の中に、江戸期につくられた蓋付きの長壷で、火薬の原料となる硝酸を入れた焔焼壷(えんしょうつぼ)があった。
その素直で力強いかたちを猪俣君に再現してもらった

再現・焔焼壷の小さいサイズ

これが古い焔焼壷(撮影/久野恵一)

古作の蕎麦がき碗(撮影/久野恵一)

再現した蕎麦がき碗

日本陶芸展に入選

 その次に伏せ合わせの皿を試作してみた。柳宗理さんが鳥取・牛ノ戸焼中井窯につくらせ、大流行した染め分けの皿は苗代川焼の伏せ合わせの皿が原型なのだけれども、私はその伏せ合わせの部分に釉薬を掛けて大中小のサイズで猪俣君に制作してもらった物を思い切って日本陶芸展に出してあげた。すると当時はまだ民藝関係者の審査員がいた実用陶器部門で入選してしまったのである。鹿児島からの入選は珍しいことだった。

 しかし、猪俣は入選したからといって何とも思わない。私は日本民藝館展にも猪俣君への特別注文品も出品すると、そのほとんどが入選するようになった。12〜13年前には彼の出品製品がトータルでとてもよいと奨励賞をとったこともあった。それで初めて東京に出て来て、私の家に宿泊して日本民藝館へ行って、賞状を受け取った時、非常に嬉しかったのだろう。言葉にはしなかったが、表情が物語っていた。

日本陶芸展に入選した伏せ合わせの皿。縁にストライプで青釉を巻いた

伏せ合わせの原型の皿を化粧掛けした。黒い方が原型

昔ながらの職人の意義

 猪俣君はとても素直であると同時に、昔ながらの職人で、個性を出そうという気がまったく無い。それから言われたことを忠実にこなしていこうという姿勢がある。だから、こちらが黙っていたら悪くなってしまう。注文への提案がなければ、その通りにつくってしまうから、あまり魅力ないものになってしまう。しかし、ちゃんと目を光らせて彼の仕事ぶりを見ていけば、いいつくり手として生涯を終えるのではないかと思う。
 かつての日本には誠実につくった物を言われ通りに製品として出して食べていく職人がたくさんいた。つくり手というのは世に出て、人の前に出て何か芸術的なセンスを光らせていくのが当たり前のように思っている今の時代において、普通につくって、普通に人の物に適用するような物、価格も状況に合った物をつくっていく。いい物ができたから高くするのではなくて、そういう物が当たり前として淡々と生きて行くような人。こういうつくり手が今は少なくなってきた。
 だからこそ、猪俣君の一生が終わったときに生きていてよかった、この仕事をしてよかったなという思いを強く思ってもらえるようなことに私は関わっていきたいと願うのである。
 彼のような職人のつくった物が実は日本の文化を支えてきた。鹿児島県の伝統的な手仕事をきちんと守り伝えているのは、こういう人だったことを広く知らせて、こういう人たちに自分がしてきたことの意味合いと、これからの人が勇気をもってこの仕事に入り込む道筋をつける上で、猪俣君は生き方のお手本となる人間ではないだろうか。

カラカラのかたちから取った醤油差し

苗代川焼の茶家(チャカ)からかたちをとった土瓶。脚がしっかりしている

明治時代のそばどんぶりのかたちを利用してつくったどんぶり