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Kuno×Kunoの手仕事良品

津嘉山寛喜さんの竹細工

津嘉山寛喜さんの竹細工

2012年3月7日
沖縄県沖縄市八重島
語り手:久野恵一 / 聞き手:久野康宏 / 写真:久野康宏

無くならない手仕事文化

 沖縄本島でも竹細工を生業とする人は津嘉山寛喜(つかやまかんき)さんのみになってしまったようだ。しかし、日本各地の状況と同様に、もう竹細工職人はこの人しかいないと思うと、どこかに他の職人が潜んでいる場合もある。それがいつも意外なところから出てくるので私も困惑することが多い。
 津嘉山さん自身が「私しかいないですよ」と言うので、沖縄も彼1人なのかと認識していたのだけれど、先日、大宜味村(おおぎみそん)の道の駅に寄ったら青々とした竹細工バーキーやティールが売られていたりした。ということは、他にもつくり手が存在しているのである。ただそれらのつくりそのものは、あまり上手ではなかった。
 こうしたことをみると、沖縄もそうだが、人知れず竹細工の職人がいて、生業にはしていなくても注文を受ければ、まだつくることができるということなのだ。手仕事の文化はまったくゼロになったかと思うとそうでもなく、どこからともなく仕事をする人が出てくる場合もあるのだ。これがいまだに日本の手仕事が続いている理由のひとつなのかもしれない。
 40数年前に宮本常一先生から日本の手仕事のうち竹細工がいちばん最初に消えるだろうと言われ、私の先輩の工藤員功さんが宮本先生に命じられて日本国中を歩いて竹細工を集めたことがあった。それからしばらくしてから私がこの仕事に携わって、工藤さんの足跡をたどりつつ、また別の次元でものを見ていくと、まだまだずいぶん竹細工の仕事が残っていた。 
 しかし、産地が減ってきていることは確かで、産地が消えるとつくり手がほとんどいなくなるのを現場で見てきていた。しかし、まだどこかからつくり手が出てくることもあったのも事実なのである。

 この仕事に入って10年ほど経った頃、竹細工が日本国中から消えてしまいますよという話もその当時の方々から聞いた。しかしまだ歩くと各県に1人とか、あちこちに1人とかいて、さらにその1人しかいないのかなと思うと、その人が他の下請けに頼んでいたということもあった。だからといって安住しているわけではなくて、いよいよ消えてしまうのでないかという危機感をもって今回の話をしたいと思う。

沖縄市にある工房「北谷竹細工」にて編組品づくりに打ち込む津嘉山寛喜さん。
津嘉山さんは1949年沖縄県北谷(ちゃたん)町の
明治以降三代にわたる琉球竹細工の家で生まれる(撮影/高梨武晃)

ティールとバァキー

沖縄のカゴ類の特徴は品種が多種のわたらず単純であることが挙げられる。沖縄の竹細工は大きく2種類に分かれる。カゴとザルである。カゴとは立体的な物。ザルは平面的な物。沖縄ではカゴのことを「ティール」と呼ぶ。またザルのことを「バァキー」と呼ぶ。その他に特殊なものとしてご飯を入れるカゴがあり、これは「イージャーキー」「イーバァラー」とか呼んだりする。また、芭蕉布の仕事場に行くと、細かい仕事の物があって、それは「ウーバァラー」とか「ウージャーキー」と呼ぶ。
 しかし、そうした特殊な物を除くと、同じかたちで大中小豆とかのサイズ違いが存在するだけである。
 特筆すべき物はバァキーである。これは沖縄をはじめ南方では頻繁に使われる物。カゴもザルも地面に触れると底が腐りやすいことから、普通は底に脚が付くのだが、バァキーをはじめ沖縄のカゴ、ザルは底に脚が無い物がほとんどなのだ。カゴ、ザルを頭に載せて使う風土性があるためだろう。
 バァキーは大きな物から小さな物まであるのだが、ひとつのかたちを農業用や漁業用など多様な用途に用いるのを「アラバァキー」と呼ぶ。
 また「ユナバァキー」というおもしろい物もある。ユナとは「88」という意味。沖縄はとても高齢者が多い県であり、88歳を越えるとお祝いがある。88歳になることを「ユナ」といい、お祝いとしてバァキーにさまざまな農作物を入れて家に届けるという習慣があるのだ。進物を入れるためカゴの目が細かくて、つくりがとても緻密。しっかりしたかたちでありながら「アラバァキー」とは使用目的が違う。「ユナバァキー」には大きな物から小さな物まであるのだが、大家族の場合は大きな物でしっかりとした迫力ある造形物である。
 「アラバァキー」は、つくりが荒く、頻繁に使う物だから粗っぽい。沖縄には窯出し道具としてこの「アラバァキー」を使っている窯場がまだある。

 また、ティールは壺のようなかたちをしていて「耳」が4つある。なぜ耳が4つあるのかと思い、そのかたちをじっくり見ていくと、焼き物の油甕「アンダガーミー」につながるかたちであるとわかった。

これが沖縄のバァキー(つくり手は津嘉山さんではない)

ウーバーラーを手に持つ津嘉山さん(撮影/後藤薫)

ウーバーラー(撮影/川崎正子)

ティール(撮影/高梨武晃)

少種多様

なぜティールがそんなかたちになったのかを考えてみると、沖縄には長い時間をかけて培われた伝統様式が少ないということが理由として思い浮かぶ。また、日本各地では山あり谷ありで文化が交錯するなかで地域性を守っていこうと、同じ用途のカゴやザルであっても地域によっては名前やつくりが異なることがある。他の地域とは違う物をつくろうという気概があるのだ。
 ところが沖縄は島自体が平たいため、すべてが単調なのだ。そのため、カゴやザルのかたちを見ると、地域でつくりあげた造形力というのではなく、何かを写して、それを使いやすい物にしていっている。これは沖縄のやちむん(焼き物)にも共通すること。そういう意味では多種多様というより、少ない種類で多様に使うという手仕事の方向なのだと思う。
 ティールの造形を見てみよう。これは首があって下の方が壺のようにすぼんでいる。まさにそれはアンダガーミーのかたちをなぞったものだ。また、4つある耳は紐を通して腰に付けたり、吊したりするためのもの。上から吊す時には4つの耳があった方がいいのだが、腰に下げる時には3つで十分。それでも4つの耳があるのは、吊り下げる使い途の方が多かったからというのではなくて、アンダガーミーのかたちを真似たからそうなったのではないかと思う。
 アンダガーミーには4つ耳が付いている。これは豚の脂(ラード)を入れて下から火で炙って溶かすための容器で、4つの耳に紐を通して天井から吊して下から炙る。そのかたちをそのままカゴに転用したのだろう。それを証拠に、沖縄には農作物の種を田畑に蒔くときに使う「タネムニディール」という小さなカゴがあるのだが、これも耳は2〜3つあれば十分なのに、やはり4つの耳が付いているのだ。
 こういうカゴの造形を見ると、深く使う道具のことについてあまり考えずに済んでしまう、琉球に住んできた人々の俗に言う大らかさとかずぼらさがそのまま民具の生活道具にもつながっているといえるのである。

手仕事フォーラムの学習会で沖縄のカゴ、ザルを説明する。
手に持つのがバァキー。手前にあるのがアンダガーミー

宇宙船みたいなカゴ

 沖縄の竹細工は素材として蓬莱竹(ほうらいちく)あるいはリュウキュウチクとも呼ぶ竹や布袋竹(ほていちく)を使う。これらの竹は編んだ時にあまり太くヘゴ(竹ヒゴ)を取れないので、巻いていくとゴツゴツした感じになる。これが真竹とは違うところである。そんな竹の素材の質感が竹細工のかたちに影響して竹の中から優しさを感じられないのが沖縄の一般的な竹細工だ。
 しかし、「ジンディール」という独特のかたちのカゴがあって、宇宙船のように胴がとても張って丸みを帯びたかたちをしている。これは極めて優美なかたちだ。ジンディールは今では使われなくなったけれども、沖縄の活気ある市場では、かつてこのカゴにお金を入れて上から吊していた。
 写真家の坂本万七さんが撮った戦前の沖縄の市場の写真には、竹細工製品がを並べられている風景がある。その竹細工の中には、多数の鹿児島・南薩地方でつくられた物が見て取れる。かなり細工が細かいものが多く、そういった物は早い段階から薩摩より入ってきていたようだ。もちろん南薩の物を真似て沖縄でもつくられたのだろうが、どうしても沖縄では真似できない竹の質の違いがある。   
 たとえばご飯入れやなどのカゴの縁を巻こうとしても、沖縄には巻く素材が無かった。沖縄には原生林があっても森林が台風や風の強さによって大木が育たないのである。そうなると木の下に蔓などが生えにくく、縁を巻く素材が入手できないのである。それゆえに沖縄の竹細工の縁にはたいてい針金が巻いているのだ。針金が使われるようになるのは明治時代以降だから、そんな古い伝統は無かったということになる。

ジンディール

ジンディールのつくり方

沖縄と熊本のつながり

 私は沖縄を旅するたびに、竹細工という文化、ひいてはこの国がいつから興り、どこから伝わってきたものなのかと考えをめぐらせてしまう。
 沖縄の地名をみると、苗字と地名が同じ所が多数ある。そこは、はるか昔にその地に漂着した人たちが集落を形成した場所なのだろう。南の島から来た人もいるし、中国の南方や台湾、朝鮮半島、フィリピンなど南洋から漂着、あるいは大和から逃げてきた人が小さな集落をつくりながら自分たちの字(あざ)を守っていった。しかし人口が増えれば水が必要となる。沖縄は降雨の率は高いけれど、高い山が無いから水を貯めるほどの井戸や水量があるわけではない。それで水を求めて戦いになったり、融合したりした。そうして争う人々を沖縄南東部の知念村佐敷(さしき)にいた尚氏(しょうし)の先祖が統率しながら勢力を伸ばし豪族になっていき、やがて統一していった。
 九州・熊本の水俣の近くに同じ、佐敷という地名の所がある。熊本の佐敷の近くは邪馬台国があったなどといわれる伝説的な所。おそらく古代の小さな国家があったのだと思う。それが大和朝廷に追い出されるかたちで統一されていく中で、佐敷の人たちが島伝いに沖縄へ逃げたのではないかという説もあるのだ。 
 それで沖縄にも同じ地名が存在するのかもしれない。時間をかければ日本列島から沖縄までは島伝いに海上ルートで行くことはできる。薩摩半島や大隅半島の先端から南方海上を目視する(遠くを見る)と、屋久島があり、種子島がある。種子島にたどり着けば、今度はトカラ列島が見えてきて、その先に奄美大島がある。奄美大島からは徳之島が見え、さらに沖永良部島があり、その向こうに与論島がある。そこまで行けば沖縄本島の辺土(へど)岬が見える。この岬から島を南下すれば、のちに沖縄の佐敷となる南部に着くというわけだ。
 沖縄の佐敷には小谷(おこく)という集落があり、かつては竹細工の産地だった。いつから竹細工が盛んだったかは歴史的には何も証明されていない。かなり昔からそこで竹細工が頻繁につくられていた。昭和40年頃までは沖縄本島の竹細工の中心だった。

 そして熊本の佐敷地方もまた竹細工の産地なのだ。こちらもいつ頃から竹細工の生産地だったかはわかっていない。とくに八代と水俣の間の日奈久(ひなぐ)周辺は相当数の竹細工職人がいたのである。

心配と安心

 25〜30年前、津嘉山さんが北谷村で暮らしていた頃、他にも南部の佐敷にも3人ほど竹細工のつくり手がいた。また、佐敷出身で那覇郊外において制作している人も2人いて、金武(きん)町と今帰仁(なきじん)にもそれぞれつくり手が1人いた。つまり本島には5〜6人の竹細工のつくり手が存在するという情報を耳にしていた。
 その時、つくり手たちに会いに行ければよかったのだが、なかなか時間がなかった。ただ、津嘉山さんだけが私より歳が若く、しかもしっかりとした仕事をしているので、付き合うのは、この人だけでもいいだろうと今まできてしまったのである。
 竹細工だけで生計をたてていくのは大変なことなのだが、その後、津嘉山さんは沖縄市に移って大きな工房を設け、立派な家を建てたりした。沖縄には「ゆいまーる」という、友人や親戚関係が互いを経済的に助け合う精神があるので、そういうことができたのではないかと思う。
 現在、沖縄本島では津嘉山さんしか竹細工職人がいないといわれているが、前述したとおり、先日、大宜味村の道の駅に寄ったら別のつくり手がいることもわかった。その時に聞いた話だと那覇市の郊外につくっているおじいさんがまだ2人ほどいるとのことだった。しかし、その時、私は訪ねられなくて本当かどうかはまだわからない。
 沖縄本島以外の離島、宮古島や石垣島には細々ながら、まだ竹細工をつくる人が何人かいる。しかし、基本的には昔ながらの竹細工を生業としているのは津嘉山さんのみだ。彼はまだまだ若いからいい仕事をされるとは思うが、彼のつくる竹細工が沖縄の県物産としてメディアなどから取り上げられ、普通の職人ではなくて作家的な扱いをする傾向がこのところみられる。
 私が推薦しているということもあるのだろうが、知名度が広がっている上、沖縄では竹の教室を開いたり、子供たちに教えたりと社会奉仕的なことも大好きな人だから、本業の仕事をきちんとやっていけるのか心配ではある。
 また学歴もある人なので、仕事の合理化を考える力を彼は備えている。竹細工の仕事は通常、へゴ取りから始めるのだけれども、へゴ取りの過程で竹を割る機械や簡単にヘゴ取りをする道具を導入してみたりしている。日本では東北地方の笹竹系で用いる、ヘゴを薄くつくる道具を導入したのだ。

 もちろん、そうすることで制作上の経済的な効率が上がるのはいいことだけれども、安易に導入していくと仕事そのものにもいつかは影響されてしまうという危惧感を持っている。とはいえ、沖縄の土着のたくましい生き方をしている人だし、このままでは終わらないし、この仕事を続けていくことは確実だろう。この人の仕事を通じて沖縄の編組品という物は命脈を保っているというところに沖縄のおもしろさがある。しかも都会のど真ん中で竹細工をしているのはユニークなことだと思う。

 

この赤ちゃんを入れる大きなカゴは、たぶん日本本州のカゴを真似てつくったんだと思う

地産地消

 沖縄の抱える問題は承知のように、普天間も含めてさまざまなのだが、沖縄の多くの人はそれを受け入れざるを得ないということをわかってはいる。ただ、それに対する私たちの認識の甘さ、欠落ぶりが沖縄の人たちの反発を買っていると同時に、根っこには明治12年の琉球処分に対する怨念が未だにある。沖縄は中国のものでも日本のものでもない。強いていえば中国に近い方がいいという気質の所なのだが、やはりひとつの王国だったということ。その自負心や尊厳を著しく傷つけてしまったところに沖縄問題があると思う。
 沖縄はあらゆる国々の文化を導入して工芸文化をつくり上げた。その手仕事は非常に優れた沖縄の財産であるということを忘れてはいけないと思う。
 今、沖縄のやちむんが各地で評判を呼んでいるのも、沖縄の人が沖縄でつくられた物を自分たちで使っている姿を見せたからだと思う。
 また、沖縄料理店が日本各地でどんどんできてきているけれども、ほとんどの店が沖縄のやちむんを使う。そういうふうに地元でできた物を使っていくということが広がったということは大きな力だと思う。これは誇るべきものであって、竹細工も単につくり手だけを持ち上げるのではなくて、津嘉山さんの仕事の大事さを私たちが伝えることによって沖縄の人たちが、骨格のある仕事を自分たちの暮らしに利用していこうという動機になればいいと思う。

 津嘉山さんの仕事を最初に取り上げたのは新聞社ではなく私であり、日本民藝館展には20年以上前から津嘉山さんの竹細工を出品してきた。手仕事日本展では沖縄を代表するカゴとして、その当時は他にもつくり手はいたけれども、津嘉山さんの若々しい仕事ぶりを出してきたし、本でも紹介してきた。それがいつの間にか、沖縄の中でも彼が確固たる仕事人として認められてきた大きな理由にもなったのだと思う。

これはご飯入れ。わざと脚を付けた物と思われる

ご飯入れの応用編。
編み方のテクニックでこういうのもあるのだと見せたかったのだろう